*とき:4月30日 (金)19:00~21:00
*参加人数: 27名(ネット中継での参加者含む)
*吉野川市山川町 さくら 診療所デイケア室
*講演者 古家 聖子さん (TICO カンボジア事務所 保健医療専門家)
* テーマ:国際協力初心者のカンボジア体験記
山口大学医学部卒業後、兵庫民医連所属の病院にて勤務。その後保健医療専門家としてカンボジア事業に参加した古家専門家。学生時代には国際協力になんて全く興味の無かった古家専門家が親戚の反対を押し切ってカンボジア行きを決めるまで、カンボジアでの事業、そして彼女が帰国後に考える医療従事者としての国際協力への貢献など、ざっくばらんにお話し頂きました。
【カンボジアに行く決意】
学生時代は途上国や国際協力には全く興味が無かったという古家専門家。旅行に行くのもヨーロッパやアメリカのような"キレイ"な国が好きだったそうです。そんな中、ひょんなことから知人に勧められて行ったネパール旅行が彼女の思わぬ転機になります。彼女曰く"ネパールで出会った満面の笑みで小銭をせびってくる子ども達を見て、”何だこれは!なんかおもろいな!”と新鮮な感動を覚えた"そう。この旅行ではお金をぼったくられたり、泣くほど悔しい思いもしたそうですが、ここで出会った子どもたちの笑顔がとにかく心に残ったそうです。
その後縁あってTICOのことを伝え聞き、カンボジア事業への参加を考えるようになる古家専門家ですが、親戚からは、"若い娘が1人でそんなところに行くなんて!"と猛反対を受けます。また、日本の臨床の世界では技術が毎日進歩しているため、同僚の医師からは相当キャリアの心配をされたそうです。周りの反対を受けて、カンボジア行きを考え直そうかと思っていた彼女は一冊の本を開きます。それは途上国で医療協力活動を行なうNGO、ジャパンハートの吉岡代表が書いた「飛べない鳥たちへ」という本でした。その中の"やるかやらないか。私に言わせれば、答えは至ってシンプルだ。私はやる。あなた方はやらない。大切なのは決心すること。やる、と決心すること。"という言葉に後押しされ、古家専門家はカンボジアでの国際協力活動を"やる"ことに決めるのです。
【カンボジアでの生活】
日本を離れ、カンボジアでの生活を始めた古家専門家ですが、首都プノンペンでの生活は日本とさほど変わりません。カンボジアではみなさんお米を主食として食べていますし、お湯のシャワーも出ます。外資ですが、大型スーパーマーケットがあり買い物には不自由しません。中国の影響を受けて外食産業も発達しています。
ただ、街を歩くと極端に年配の方の数が少ないことに気づくそうです。70年代に知識層を大量虐殺したポルポト政権の爪痕を感じます。
【カンボジア事業】
TICOのカンボジアでの事業はカンボジアの低所得者の方々が医療にかかりやすいセーフティーネットを作るというコンセプトが軸になっています。実際の活動内容としては、救急医療のガイドラインの制作、医療活動に参加してくれる医療者の募集、医療者研修など、古家専門家に求められたのはカンボジアの救急医療今後自立していくためのノウハウの移転やリーダーの育成だったようです。
啓蒙活動用のTシャツ:救急の電話番号が書いてあります。
しかし古家専門家はカンボジアへ行くまで、プレホスピタルと呼ばれる患者を病院へ運ぶまでの医療活動には一切関わったことが無かったそうです。現場での"何でも知っている日本人の専門家"というイメージと、自分の知識や経験とのギャップを感じることも多かったそうです。
【カンボジアで学んだこと】
古家専門家がカンボジアで学んだのは、"カンボジアの生活や国づくりの主役はカンボジア人であり、自分はあくまでも黒子である"ということ。医療専門家として活躍するにはまだまだ勉強することがたくさんあるが、自分はあくまで医師として患者に関わっていきたいと思うようになったそうです。"世界人口に対して医療者数が決して多いとは言えない現在、医療者という職業を選んだ使命を背負って国際協力に貢献していきたい。いずれカンボジアに戻る日のために、医師としても、国際協力をする者としても成長したい。"と話して下さいました。
【質疑応答】
地カレ参加者の方からは
"カンボジアから帰ってきた後の家族の反応は?"
"一市民が日常的に国際協力に貢献する方法は?"
"カンボジアの医療が日本の医療よりも優れていると思う点は?"
などいろいろな質問が古家専門家にぶつけられました。
古家専門家の回答が気になる方は下のリンクをクリック!↓
*講演を視聴する*
文責:事務局 (田)
*参加人数: 27名(ネット中継での参加者含む)
*吉野川市山川町 さくら 診療所デイケア室
*講演者 古家 聖子さん (TICO カンボジア事務所 保健医療専門家)
* テーマ:国際協力初心者のカンボジア体験記
山口大学医学部卒業後、兵庫民医連所属の病院にて勤務。その後保健医療専門家としてカンボジア事業に参加した古家専門家。学生時代には国際協力になんて全く興味の無かった古家専門家が親戚の反対を押し切ってカンボジア行きを決めるまで、カンボジアでの事業、そして彼女が帰国後に考える医療従事者としての国際協力への貢献など、ざっくばらんにお話し頂きました。
【カンボジアに行く決意】
学生時代は途上国や国際協力には全く興味が無かったという古家専門家。旅行に行くのもヨーロッパやアメリカのような"キレイ"な国が好きだったそうです。そんな中、ひょんなことから知人に勧められて行ったネパール旅行が彼女の思わぬ転機になります。彼女曰く"ネパールで出会った満面の笑みで小銭をせびってくる子ども達を見て、”何だこれは!なんかおもろいな!”と新鮮な感動を覚えた"そう。この旅行ではお金をぼったくられたり、泣くほど悔しい思いもしたそうですが、ここで出会った子どもたちの笑顔がとにかく心に残ったそうです。
その後縁あってTICOのことを伝え聞き、カンボジア事業への参加を考えるようになる古家専門家ですが、親戚からは、"若い娘が1人でそんなところに行くなんて!"と猛反対を受けます。また、日本の臨床の世界では技術が毎日進歩しているため、同僚の医師からは相当キャリアの心配をされたそうです。周りの反対を受けて、カンボジア行きを考え直そうかと思っていた彼女は一冊の本を開きます。それは途上国で医療協力活動を行なうNGO、ジャパンハートの吉岡代表が書いた「飛べない鳥たちへ」という本でした。その中の"やるかやらないか。私に言わせれば、答えは至ってシンプルだ。私はやる。あなた方はやらない。大切なのは決心すること。やる、と決心すること。"という言葉に後押しされ、古家専門家はカンボジアでの国際協力活動を"やる"ことに決めるのです。
【カンボジアでの生活】
日本を離れ、カンボジアでの生活を始めた古家専門家ですが、首都プノンペンでの生活は日本とさほど変わりません。カンボジアではみなさんお米を主食として食べていますし、お湯のシャワーも出ます。外資ですが、大型スーパーマーケットがあり買い物には不自由しません。中国の影響を受けて外食産業も発達しています。
ただ、街を歩くと極端に年配の方の数が少ないことに気づくそうです。70年代に知識層を大量虐殺したポルポト政権の爪痕を感じます。
【カンボジア事業】
TICOのカンボジアでの事業はカンボジアの低所得者の方々が医療にかかりやすいセーフティーネットを作るというコンセプトが軸になっています。実際の活動内容としては、救急医療のガイドラインの制作、医療活動に参加してくれる医療者の募集、医療者研修など、古家専門家に求められたのはカンボジアの救急医療今後自立していくためのノウハウの移転やリーダーの育成だったようです。
啓蒙活動用のTシャツ:救急の電話番号が書いてあります。
しかし古家専門家はカンボジアへ行くまで、プレホスピタルと呼ばれる患者を病院へ運ぶまでの医療活動には一切関わったことが無かったそうです。現場での"何でも知っている日本人の専門家"というイメージと、自分の知識や経験とのギャップを感じることも多かったそうです。
【カンボジアで学んだこと】
古家専門家がカンボジアで学んだのは、"カンボジアの生活や国づくりの主役はカンボジア人であり、自分はあくまでも黒子である"ということ。医療専門家として活躍するにはまだまだ勉強することがたくさんあるが、自分はあくまで医師として患者に関わっていきたいと思うようになったそうです。"世界人口に対して医療者数が決して多いとは言えない現在、医療者という職業を選んだ使命を背負って国際協力に貢献していきたい。いずれカンボジアに戻る日のために、医師としても、国際協力をする者としても成長したい。"と話して下さいました。
【質疑応答】
地カレ参加者の方からは
"カンボジアから帰ってきた後の家族の反応は?"
"一市民が日常的に国際協力に貢献する方法は?"
"カンボジアの医療が日本の医療よりも優れていると思う点は?"
などいろいろな質問が古家専門家にぶつけられました。
古家専門家の回答が気になる方は下のリンクをクリック!↓
*講演を視聴する*
文責:事務局 (田)