カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

越畑フレンドパーク まつばら

2011年12月17日 | 京都
「甘味蕎麦。」

蕎麦切りは、しゃり、と音がするのではないかと思う、それ程に、凍る寸前ででもあるかのような冷たさで、しかも極細である。
つなぎのない蕎麦をできるだけしなやかに、美しく見せ、尚且つ、ぼそぼそと千切れてしまわないようにするための苦心が、そこに見て取れるような気はする。
だがしかし、冷た過ぎる状態の蕎麦というのは、当然のこと香りは立たず、その味わい、そして風味よりも、あえて食感、そして見栄えが優先されている、そのように、思える。

そして、そのほのかな風味を、それでも味わわんがために、つゆの風味は極限まで、淡く、淡く、故に、深い褐色の色合いとの違和感は拭えず、結局、物足りなさを感じた挙げ句、意外にも、精進料理張りに野菜ばかり、そんな天麩羅に添えられていた塩で、主役の蕎麦切りをも戴いてしまった。

上質であることは間違いないけれども、見方によっては上品過ぎる、蕎麦を打つ側にとっても、食べる側にとっても、非常に難しい選択、葛藤が、そこにはあったように思う。
だがそれでも、その選択肢を選び抜いた意図というものも、そこにはやはりある。
何も考えられていない、ただ駄目な面だけが目立つ蕎麦というのでは決してなく、やはりこの蕎麦の有り様というのは、それなりに、その種の蕎麦としては、一角であるとも思う。

ただ、蕎麦づくしの本格的な蕎麦屋では、よくあることなのではあるが、蕎麦独特の風味を最も醸し出し、漂わせている存在、それというのが、結果、蕎麦茶であるというのは、その風味自体は勿論嬉しいのではあるが、蕎麦切りそのものの存在意義に関して、いつも、少々不甲斐ないような、そして同時に、気の毒なような気もしてしまうというのは、気まずいながらも正直なところではある。

そしてしかし、この蕎麦づくしのお品書きの中で、実は特筆に値すると思えたもの、それはまさに意外なことに、蕎麦プリンと命名された代物であった。
実際に戴いたところ、これはもう、プリンという範疇の代物ではない、立派なオリジナリティを持った、一角のスイーツといっても過言ではない風味、そして舌触りである。
一般的な何かに似ていれば、その食べ物は、何かのようであったと言えるのではあろうが、それは微妙に何にも似ていない。
所謂プリンでは決してなく、勿論のこと、蕎麦でもない。

その原料が何であるのか明かさずに、そのプリンと称するものを世界的な品評会にでも出せば、それが何なのかは判明せずとも、おそらく何某かの賞なりを獲ってしまうことだろう。
一般的なプリンの原材料と、蕎麦の実で作られたのであろうこのスイーツには、和菓子であるとか洋菓子であるとか、そういうカテゴリーを超えた、立派な、個性ある美味しさがある。

そしてさらには、此処には、蕎麦搔きで出来た善哉なる甘味まで、存在するという。
次回訪問の折には、主役の蕎麦切りを措いてでも、是非その料理、食さねばなるまい。

越畑フレンドパーク まつばらそば(蕎麦) / 京都市右京区その他)
昼総合点★★★★ 4.0



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