手と目とあたま

まずは手を動かすこと。そして、目でよく見る。頭を使って考えるのはそのあとだ。重要なのは、順序とバランス。

春まぢか。

2012-02-23 | 日記
ウグイスの初鳴きを聞いたのは、もう10日も前のことだ。
いろんな鳥のさえずりが毎朝聞こえるけれど、
いつだって朝イチで鳴き出すのはウグイスだということが最近わかって、
ますますウグイスへの親しみは増すばかり。


おととい、はっきりと分かった。
文書で示されたように、写真を突きつけられたように、
くっきりと。それは、
「私は何かを意図したり、何かを目的としては、絵が描けない」
という事実だ。

今までもそう思いながら、自分でも何を描いているのか分からない絵を描き続けてきたけれど、
もしかしたらそれは自分の勝手な思い込みで、
もっと別のやり方で、別の条件でも描けるんじゃないの?
と思ったりもして、ここ数ヶ月、行きつ戻りつ試しては様子を見ていた。

そしてここに来て、回答が出て、つまり私は
「自分でも何を描いているのか分からない」というこのことを、
軽く見過ぎていたのだと思う。
まともに考えれば、正体のわからないものを描くことに大量の時間を何ら疑問なく投じるなんてことは、
大半の人はしない。
でも私が10年以上やってきたことはまさにそれで、要するにその行為の「意味」は、
私の計り知れないところにあるようだ。
それは計り知れない所にあって、そして私自身はそれを知る必要はない。

意味も価値も、なくていいや。
たまに誰かがやってきて、描き上がったものに意味や価値を見いだしてくれたりもするけれど、
そんなことは誰かにまかせよう。

世界の終わり

2012-02-10 | 日記



「今日で世界が終るかもしれない」
と思いながら、
特にここのところ、強く自分に言い聞かせるように思いながら、
生きている。

震災からもうすぐ一年。
原発の有様は毎日綱渡りのような現状なのに、
マスコミはそのことを全く報道しなくなってきている。

未だに大気中に海に、放射性物質をジャンジャン流し続けているのに、
みんなそのことを忘れ始めている。

忘却と、慣れ。

この性質は人の備えた知恵だと思っていたけれど、
どんな長所もその裏返しとセットになっていることを思い出さなければならない。

この長所の反対側にあるもの。
それは、

無視と思考停止。


なんて恐ろしいことだろう。

そうこうしているうちに、被爆が日常化しようとしている。



明日、世界が終るのだとしても、私は種を蒔くだろう。

放っておかれても、人知れず芽を出していた植え残りのニンニクを、
お守りのように机の上に置いている。

印象。2012年。

2012-01-30 | 日記



2012年になった途端、身の回りで大小様々な出来事が起こり、
非常に慌ただしい日々でした。
これは私個人に限らず、世の中全体的にこんな様子で進むんじゃないか、と思ったり。
いい事も悪い事も複合的に起こりながら、巨大な川のように流れだけは止まらない、
というのが2012年に対して私が抱いたイメージ。

そんな予感の中、さしあたってやっておくべきことは、
流れによくしなりながらも折れず、足下はしっかりと踏ん張って
何が起こっても動じないよう、精神と体を鍛えておく、
というシンプルないつもの心がけに他ならない。

「精神を鍛え、心は穏やかに保ち、全てを楽しめる健やかな魂を持つ」
というのは一生かけて取り組む課題だなぁと思います。
出来事が起こるのは、止められないものね。


そんな寒い寒い毎日の中、野菜が美味しいのはひっそりしたご褒美のようで、
しみじみ楽しくいただいています。
家の畑の野菜は無農薬・無肥料。野菜が自ら頑張って育った結果、
すごく甘かったり身が詰まってたり、彼らのその努力の跡が、なんともいとおしい。

「野菜を育てる」と言うけれど。
正確には「野菜が育つのを手助けする」だけだよなぁと思う。
一粒の種を発芽させたのは私ではないし、その芽から一本の人参を作ったのも私ではないし、
そう考えると私が出来ることなんて本当にごくわずか。

また春がきて、種をまくときは「よろしくお願いしまーす」と心の中で言いながら蒔こう。

「わからない」ということ

2011-12-16 | 日記
「どうもあの人は絵を描く人らしい」という噂が町で広まり、
高齢者学級の講師を引き受けることになって、昨日がその初日だった。

20人ほどの生徒さん(みなさん60歳以上)と来年の干支・龍の絵を描いたのだけれど、
終ってからしみじみ、「私は絵が『描けない』状況が全くわからないんだな」と思った。

子供の頃からまず絵を描くことが好きで、たくさん描くからどんどん上手くなって、
その繰り返しで大人になったので、
「どう描いていいのかわからない」「何を描けばいいのかわからない」
という人の「わからない」が私にはわからないのだ。
描き出しをためらったことはないし、目の前の白い紙はいつだって明るくひらけた未来のように感じる。


描くことができないのは、「恐れ」から来るんじゃないか、と想像してみる。
上手く描けなかったらどうしよう、はみだしたらどうしよう、線がまがったらどうしよう、
という「恐れ」。
そこを抜け出すには、どんどん描くしかないんだけれど、
それを伝えて習得してもらうのは、なかなか難しい。


最初から持っているが故に、持たない人の気持ちがわからない、持たない人の存在を理解できない、
という類いの「わからない」は世界中どんな場面にもあって、
それはある種の暴力になり得るんじゃないか。
持っているという自覚すらない人の振る舞いは、持たない人にとっては時に傲慢な脅威にうつる。




想像することだと思う。
とにかく、想像すること。

想像力を深めるのは、他者への興味と優しさだ。

目的とか目標とか。

2011-12-13 | 日記
「今年の目標」とか、「来年の課題」とか、
「◯◯になるのが人生の目的」「年収はいつまでにこれくらい欲しい」
「いくつまでに何をして、いくつまでには何になっていたい」とか。

そういう具体的な「何か」という目標設定が、私は昔からできない。
具体的、というのは、達成する数字であったり、目に見える達成のこと。
私が掲げる目標や目的はいつも、抽象的で漠然としていて、
けれど自分の中ではくっきりと確信している、
それなのに「私の目標はこうです」と簡単に言えるようなものではないので、
いつもなんだか明言しきれなくて、モヤモヤとした気持ちになったりしてきた。



「先にお金を借りて、負い目を背負って家を建てるのは『男の身売り』だ」

これは「鉄の家」の考案者である建築家・川合健二の発言。
「男の身売り」という表現がとても恐ろしく、ずっと頭に残っていたのだけれど、
茂木健一郎の本の中に出てくるこの一節を読んで、ストンと腑に落ちた。

「自分の人生を何らかの目的で規定するのは、人生を質入れするのと同じ」。

何が起こるかわからない状況にどんどん自分を置いて、その偶有性を楽しむことこそ人生の本質、
みたいな話の中で出て来る表現なのだけれど、
そんなふうに本来どうとでも変わり得る人生をあらかじめ縛りつけてしまうこと、
つまり川合健二の言う「男の身売り」と同じ意味だ。


それでなんとなく、どうして自分が今まで明確な目標を持たずに来たか、わかったような気がした。

「明日はどうなるかわからない」
この状況を楽しめる心を持つこと。
逆に、それを楽しめる心を持たないと、これからの世の中は辛くなる一方なんじゃないか、と思う。


明日はわからない。来年もわからない。10年後だってわからない。
でも、今の、今日のこの幸福は確かで、それを毎日積み重ねてゆく。だけ。