手と目とあたま

まずは手を動かすこと。そして、目でよく見る。頭を使って考えるのはそのあとだ。重要なのは、順序とバランス。

侘寂(わびさび)

2010-06-19 | 日記
美濃のアーティストインレジデンスにいたとき、南アフリカのアンニャが
日本ぽい少しさびれた景色や物を目にすると、よく「Oh!WABI-SABI!」と言っていたっけ。

わびさび。

言葉としてだけ知っているけれど、本質的な感覚としてよくわからないなぁと思っていたもの。
そのことがようやく、この前茶人と話していた時わかった。

「わび」とは。
物がなんにもないことの侘しさ。

「さび」とは。
本来そこにいるべき人がいないことの寂しさ。

ということなんだよ本当は、
と、言っていた。

その言葉を、例えば雨の夜なんかに思い出すと染み入るようによくわかる。


端正な日本庭園は、あくまでわびさびという「美学」なのであって、
その本質は、実は孤独で惨めったらしいものなのかもしれなかった。

かっこよく見えるものの実情は、かっこよくない。
本当の美をはらんでいるのは、美しくないものだ。

その真理をここにも見る。

畑と茶会とわたし

2010-06-14 | 日記
毎月第二土曜日曜は、赤目自然塾の畑で勉強会なので、二月から毎月参加している。
参加者はいつも150人くらい、20代30代40代がほとんどで、
みんなそれぞれに人生に思うところあって畑や田んぼを始めた面白くて優しい人たちだ。

そして最近は友達や顔見知りも増えてきて嬉しい。
田舎暮らしや畑作業はある意味とても孤独なので、似た考えの人たちと毎月ここで会えるのはとても心強い。

今月は子カブと小松菜を収穫、大豆とゴマを植え、田んぼの苗床の草引きをしてきた。
自然農の田植えは一般的な田植えよりも大分遅い。

自然農においては「雑草」「害虫」という考え方をしない。
けれども春から夏にかけての草の伸び方、虫たちの元気さには目を見張るものがあり、
彼らの生命力のまっすぐさ、「生きたい」という理由のない意志がとてもうらやましく感じられた。
畑から学ぶことのなんという多さ。

そしてこんなに過酷(に思える)な環境で豊かに実ってくれた野菜たちのいとおしいこと。


今回、とても面白い人と出会う。
彼は茶人で、トラックの荷台に茶室(!)を積んでどこでも茶会ができる。

赤目の勉強会の翌日に偶然畑の駐車場で出会い、
「君たちに出会えて嬉しいから」とお茶をたててくれた。

即席とは思えない完璧な茶道具で、即席の「野だて」。
やわらかい日差し、ちょうどいい風、音という音は鳥の声のみというシチュエーションは完璧で、
まるでお茶をたててもらう約束をしてここに来たかのようだった。

話はあちこちへ飛び、あらゆる深さで語られる。
その中心にはいつも「茶」という一本の塔がある。

こういった空間、人との関係性を作り出せる「茶の湯」というものの可能性について知る。



あまりにも完璧な瞬間というのを、私は写真に撮ることができない。
カメラを向けることができない。いつもいつも。

この全体を、偶然ではない偶然を、語られては宙に浮かび消えてゆく言葉たちを、
意識に広がるお茶の香り、感じている日差し、テーブルを横切るアリでさえも
切り取ることができるなら、撮るかもしれない。
あるいは、それでも撮らないのかもしれない。

完璧な瞬間の経験というのは、感覚の印象としてのみ、記憶に残るべきじゃないかと思うから。

WWOOFインターナショナル

2010-06-05 | 日記








この農場では今、日本語がとても上手なシアトルから来た女の子と、
ボストン出身・ニューヨーク在住、ファッションデザイン勉強中の男の子と一緒。

WWOOFで旅行を始めてからというもの、色んな国の人たちと一緒に暮らすことにかなり慣れた。
ただし、そうなってくると、以前一緒だったウーファーの名前が頭の中でまざってくる。
私は実は「レイチェル」と呼ぶ前にいつも「フローリアン..じゃなくて」と頭の中で変換しているし、
「エイデン、じゃなかった、エリック!こっち!」とか言ってしまう。

英語に関しても、完璧な文法よりも意味が伝わること優先なので、
「えっ、それってsame place?」とか「Really?ほんとうかー?」とか、
微妙に日本語がまざる。そしてその方がニュアンスは伝わっているような気がする。


それにしても。
ニューヨークでファッションを学んでいる男の子が、京都の農場で農作業しているなんて不思議。
あれこれ聞いてみると、ニューヨークって東京と似ている。
彼はお酒が大好きで、休日はいつも「Rest and drink」だと言うので「いいねー!」と笑う。
そうだよねー、都会の1番の楽しみはお酒かもねー、と思う。

夜の外出と昼間のお酒が楽しいこと。
お茶をする場所がたくさんあること。
私にとっての「東京の価値」はその二点で、
その他は?と聞かれるといきなり「公園?」や「土手かなぁ」という回答になる。

そしてうっすらと、あぁ私はもう街には住まないかもなぁと思った。


「国」というもの。国が持つ背景。その人が生まれて育った場所。「○○人」という言い方。
私はアメリカに対して・アメリカと日本に対して、不条理なものをいつも感じているけれど、
個人対個人として出会い話し合う私たちに、国と国との関係性は一切持ち込まれない。
かといって批判的な思いは顕在で、なんだかとても複雑な気持ちになる。


晴れ続きでとても嬉しい今日この頃。きれいな川にしかいない美しいトンボがゆらゆらと飛び交っている。


このあと東京に行く彼に「どこへ行けばいいと思いますか?」と聞かれ、
うーん下北沢かなぁと答えておいた。
まだ住んでいたら案内してあげたいところ。