子どもの頃(1950年頃)、巨大なB―29が、我が家の軒先をかすめるほど超低空で飛行していた記憶がある。物心ついたかつかない頃の記憶だから、かなりデフォルメされていると思うが、巨大な銀色の機影は空を覆うようだった。
あるとき、ふと記憶を確認したくなって家のものに聞いてみたところ、たしかにそんな感じに見えたとのことだった。
わたしの住む藤沢は、米軍厚木基地の進入路になっている。今なら低空での進入など許されないが、当時はまだ占領下。騒音など無視して飛んでいたのだろう。
湘南海岸の町藤沢は、意外にも航空機と縁が深い町である。戦前から戦後の一時期には、引地川沿いの高台に飛行場もあった。
昭和34年9月、その
「藤沢飛行場」に黒い偵察機といわれたロッキードU―2が不時着し、大騒ぎになったことがあった。Uー2といえばソ連の領空侵犯して査察活動を行い、ミサイルで撃墜された有名なスパイ機である。折りしも六十年安保の前年ということもあって、テレビや新聞でもかなり騒がれた。
そんな物騒な飛行機ばかりではなく、飛行場から飛び立った軽飛行機やヘリコプターの姿もよく見かけた。
藤沢にかつて飛行場があったことはもはや忘れられようとしている。しかしわたしにとってこの飛行場の存在は大きかった。家から近いこともあって、子供のころには格好の遊び場になっていた。
丘陵を登っていくと、海に向かって突き出すように伸びる滑走路と格納庫が目に入る。運がよければヘリコプターや、軽飛行機の飛行を見ることができた。さらに運がよければ、グライダーの離陸も見ることができた。
大学のグライダー部のお兄さんが、滑走路の端に停まったグライダーの座席に乗り込むと、それを黒塗りの外車が引っ張って走り出す。興奮して見つめるわたしたちの前をものすごいスピードで走りぬけたかと思うと、そのまま相模湾に向かって飛び出していった。
そのころ子供たちの間に、パイロットのおじさんと仲よくなれば、飛行機に乗せてもらえるという噂があった。実際に乗ったと言いはる子供もあらわれた。
ただ、子どものころから引っ込み思案だったわたしは、そのような幸運は最初からあきらめていたが。
藤沢飛行場で一番興奮した出来事は、はじめて双発機を見た時だった。いつもは単発の軽飛行機ばかりだったが、その日はなぜか、大きく、たのもしい機体が滑走路に翼を休めていた。たぶんビーチクラフトの双発機だったと思うから、軽飛行機の部類のはずだが、わたしには羽田を飛ぶ旅客機のように見えた。
双発機を見たのは、あとにも先にもこの一度だけだった。
滑走路に機影のないことも多かったが、そんな時には格納庫を覗くという楽しみがあった。扉は開いていることが多く、大人の目をかすめて潜り込むことはむずかしくなかった。
広い庫内に数機の軽飛行機と透明な卵型の風防のヘリコプターが並んでいた。金属製の機体はまぶしく、操縦席の計器や操縦駻を飽きずに眺めたものだった。ちょっとしたイタズラもしたが、今思い出して、事故につながるような悪さをしなくて本当によかったと思う。
飛行場の楽しみは滑走路の外にも広がっていた。周囲には戦時中に掘られた防空壕が多かったからである。蝋燭を手に仲間とよく探検ごっこをした。たいていは行き止まりだったが、ある時、気がついたら、前方に光が見え、山の裏側に抜けていた。
急に山間の風景が開け、小さな工場を眼下にした時には、別世界につれていかれたような不思議な気分になった。
飛行場の影響かやがて航空少年になり、将来は航空機の設計者になろうと思ったが、結局、挫折した。
飛行場がなくなり、跡地に工場ができると聞いたのはたしか、中学校時代のことだった。そのあたりの記憶をたしかめようと、図書館で飛行場について調べたことがある。
藤沢飛行場ができたのは、戦時中の昭和19年。海軍航空隊がゴルフ場跡地を徴用して訓練用の飛行場を建設したのがはじめである。戦後は進駐軍に接収されたが、その後返還され、民間の航空会社が相模湾の遊覧飛行を行ったり。大学のグライダー部が練習に使ったりした。自家用飛行機の操縦免許証の講習にも使われたそうだ。
ただ、このあたりは適当な資料がみつからず、詳しいことはわからなかった。
そういえば中学校のころUFOに興味をもって、テレパシーでUFOを呼ぶ会に参加したことがある。会場は藤沢飛行場の滑走路跡だった。結局、UFOは出現しなかったが、遺棄された滑走路はなにか神秘的で、UFOが降りてきても不思議ではないように思えたものだった。
あの日の夢の飛行機たちは、今どこを飛んでいるのだろうか。