ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

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自分探しの旅は 違う景色の見える道

遺伝子組み換え食品&自由貿易&一神教

2017-08-20 19:32:13 | 日記

   遺伝子組み換え食品&自由貿易&一神教
 日本人は日常生活の中で、「神社」や「お寺」や「教会」などを何の抵抗もなく、自分なりの人生の節目に合わせ、ごく自然に使い分けている。
外国人の目から見たら無節操とも思えるような、このような思考・行動パターンや価値観を含めた、日本人の社会性は無宗教文化とみられているようである。
 これに対し、山本七平は日本人は無宗教などではなく、れっきとした「日本教」の信者だという。八百神の神を基調に仏教、儒教が日本的に融合しあい、それにキリスト教なども含めた良いとこどりの集大成が日本教なのである。
唯一絶対神の存在ではなく、大自然と共生し人間同士の調和を根柢に置く思想の集大成が日本教なのであろうと思う。
 一神教も多神教もその出発点は、信仰である。

信仰とは簡単に言えば「信じること」であり、その限りにおいては、再現性や実証性は何の意味も持たないものであろう。
「信じること」が信仰であり、それが宗教の唯一の出発点でもある。
たいていの場合、人間は自分にとって「好ましいもの」「望んでいること」を信じるという。
それはやがて、特定のものへの絶対的な信心、信仰に変わっていくのだろうと思う。
 有名銘柄を追い求める「ブランド信仰」などが、信仰を揶揄した卑近な例であろう。
昨今の日本及び世界の流れを見ていると「アメリカンスタンダード」「グローバリズム」に並び「自由貿易」なる言葉も「信仰」の域に到達したかの感がある。
世界中に「自由貿易信仰」の信者がやたらと多い。
 資本主義経済の最終到達点、つまり「新自由主義」の政治・経済手法が頂点に達し「自由市場至上主義」「グローバリズム」「自由貿易」が「最大の善」に祭り上げられ、ついに「信仰」の域にまで達したのである。
自由貿易はもともと強者(帝国)の論理である。

イギリスも産業革命以前は徹底した保護主義政策をとってきている。アメリカも覇権帝国的な力をつけるまでは、関税自主権を活用し自国の製造業を伸ばしてきた。
世界の経済発展の歴史を見ても、自由貿易が世界経済を発展させたというよりも、世界の経済発展につれて世界の貿易量が拡大したという見方が正解だろうと思う。
 「19世紀以来、自由貿易は『強者の自由主義』として、先進国が、発展途上国の門戸を開放させ、市場を抑える手段として用いられてきた(経済学者西川潤)」という主張もある。
 人類の文明の発達とともに、世界的な情報空間の創設や民族間、国家間の生活空間の相対的な接近により、それぞれの価値観や生活習慣など文明や文化の同質化が進行するのは、ごく自然の流れである。
しかし、それは悠久な人類の歴史の流れの中で、人類がごく自然な生活空間を維持しつつ、時間をかけてごく自然な流れで進行されるべきものである。
昨今に見られるような「今だけ、カネだけ、自分だけ」の新自由主義の強欲な拝金主義的なイデオロギーと、そのシステムの流れで行われるべきことでは断じてないはずである。
 自分以外の他人や地域社会や地球環境が如何なる被害を被ろうが、何の関係もない。
如何に「短期間に効率よく利潤を生みだし、資本を蓄積できるか」のみが、新自由主義の唯一の価値基準であり判断基準なのである。
ましてや従業員や地域社会や国民の生活や健康、人間の幸せなど一顧だにしない。
それらは全てが、新自由主義の価値観の対極に存在するものでしかないのだから。 
 その結果が、現在の世界の1%の階層の人間(グローバル資本)が世界の99%の人間を支配(経済的)し、結果全世界に格差と貧困と地球環境の破壊をもたらしているといわれる。
 自由貿易もグローバリズムも市場原理主義も具体的に「何が悪いのか」?である。
新自由主義の根本理念は、「資本の最大効率的な運用」この一点に尽きる。そのため、ありとあらゆる手段を用いて、我々「人間とその社会生活の全てを市場に包摂」させようと躍起になっている。
手段など選ばない、なりふり構わずこの世の中の全てを「商品化」すべくを画策している。
本来は商品化してはいけない、人間の労働力や地球環境資源などを手始めに商品化した。
昨今の自由貿易やTPPの狙いは、工業製品、農業製品やその他の従来の古典的な商品の関税自由化が本来の目的ではないといわれる。
世界の関税率はもう既に、かなり低くなっている。すでに低くなった関税を多少引き下げてもグローバル企業の利益目的は殆んど達成できないはずである。
関税差益なんかその気になれば、為替操作などで一気に吹っ飛ぶといわれる。
 今や世界のグローバル企業が狙っているのは、関税以外つまり非関税障壁の分野の撤廃・開放でしかない。
我々の生活に直結する食料、医療、保険、はもちろん教育、知的財産権、国際会計基準、銀行の自己資本比率、独占禁止法などのあらゆる国内規制、安全規制、環境規制など一国の社会の在り方はもちろん、国内法さえもが非関税障壁の撤廃対象にしている。
もっとはっきり言えば人間の社会生活の全てが「グローバル市場の商品化」の対象品目になってしまうのである。
 自由貿易は一経済協定というがその自由化の対象が、人間社会の全てを包摂してしまう以上、その影響は人間の社会生活の全てに及んでしまう。
しかも、それが一旦批准されてしまえば、国際法となり一国の国内法を凌駕してしまうのである。
 本来、規制とは国家権力や一部商業資本の行き過ぎた活動から、地域社会や国民の基本的な生活権を守るために設定された規制である。
勿論、それが時代にそぐわなくなったものは改正されるべきである。しかし、その改正の視点が国民生活視点ではなく、企業やグローバル資本の視点からの規制緩和、改革が推し進められてきたのが、あの小泉ミーハー内閣以来の規制緩和や改革の内容である。
米国やグローバル企業の市場開放の為の規制緩和、改革を日本国民はもろ手を挙げて喜んで賛成してきたのである。
 国民の選挙の洗礼も受けない、国家の高級官僚たちが秘密裏に推し進めるのがTPPなどの貿易自由化の実態である。国民にあらかじめ全容がわかると都合が悪いからである。
 いまアメリカでは遺伝子組み換え作物が、その「法的な表示義務」さえ全くないままに野放しにされ急成長している。
全てが、自由と民主主義と自己責任の新自由主義のルールの下で行われている。
勿論一部は日本市場にもすでに入っているが、行政は国民が理解できないと思われるような説明しかしていないといわれる。

そして、国民もその理由さえ考えようともしないのが現状かもしれない。
 大豆、トウモロコシ(米国)、ナタネ(オーストラリア)などがよく知られているが、日本の表示義務は大甘だといわれる。表示義務の全くない米国から言われて輸入するのだから、当然かもしれないが、EUなどは多国籍企業が諦めるほどに、遺伝子組み換え作物の表示義務には厳しいといわれる。
 遺伝子組み換えには二種類があるという。その一つが「農薬耐性遺伝子組み換え」で除草剤を撒いても枯れない作物に遺伝子を組み替えたものである。
二番目が「害虫抗生遺伝子組み換え」である。これも害虫駆除剤を撒いても作物は枯れないので両方とも農薬の使用節減になるとのうたい文句である。
しかし、現実には雑草も病害虫もさるもので、どんどんその除草剤や害虫駆除剤に耐性ができ更に新たな農薬の散布が不可欠になっているとのことである。
 人間や動物が食べる農産物に、除草剤や害虫駆除剤を散布し人間を農薬漬けにしてまで効率を上げようとするこの根性こそ、新自由主義のグローバリズムの真骨頂なのであろう。
 新自由主義、グローバリズム、自由貿易信仰の根底には、自然や人間を含む他者との共生の感覚・感性は全く無いようである。
彼らが向き合う相手とは、自らを選民に指定した一神教の神様しかいないのだろうか。
 現に恐ろしきは、「他者のない文化」が支える遺伝子組み換え食品の氾濫や、その効率的な販路の確保に血道を上げる自由貿易信仰の闊歩である。 






 

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