ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

「のほほん」と生きられない人種

2024-07-01 06:29:48 | 日記

    「のほほん」と生きられない人種

 何も考えず 何もせずのんびりしている状態が「のほほん」である。

世間の喧騒にも我関知せず、ガツガツせず、いつものほほん顔で生きれる人はある面人生をやる天才なのかも知れない。

 人生にノルマなどない。

ましてや人生の帰り道にノルマなどあろうはずもない。

往路とは違う景色を楽しみながらのんびりと生きればいい。

しかし、高度成長時代に生きた人間には「のほほん」と生きること自体が結構難しい。

特別に、他人よりも優れているのでも、頑張っているわけでもない。

ぶらぶらしているだけでは「もったいない」とか「何か少しでもお役に立てればいい」とか、要らぬことを考えてしまう。

いずれも中途半端にしかならない。

しかし、そんなことでは「違う景色の見える帰り道」など遥か彼方の存在でしかないのだろう。

少しは見習った方が良いのかもしれない。

のほほん人生もいいのかも。

 

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この世で 今「一番すごい」と思うこと

2024-06-20 16:32:58 | 日記

      この世で,今「一番すごい」と思うこと

 いま、私がこの世で一番すごいいと思っていることがある。

それは、「すべてを受け入れて生きる」ということである。

今の私にとって、「すべてを受け入れて生きること」が、「一番素晴らしく、一番すごいこと」だろうと思っている。

言い換えれば今の私の憧れの生き方、と言い換えてもいいのだろうと思う。

全てを受け入れれば、全てに受け入れられる。心のままに自由に生られる。

文字通り、無為自然、泰然自若的な生き方、即ちあるがまま、なるがまま 宇宙の法のままに生きる。

正に自分が持ち合わせていないものへの憧れである。

 どんな思いや憧れでもそれは目標に向かう心のベクトルになるという。

この先どうなるのか分からない。

それでも人生の帰り道の緩やかな心の支えになれば良いと思う。

 

 

 

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空想、迷走、妄想、瞑想は四想一如?

2024-06-16 15:32:49 | 日記

    空想、迷走、妄想、瞑想、四想一如?

 空想、迷走、妄想、瞑想は人間の色々な思いや思考のパターンである。

いずれも我々人間が抱く心の動きなのだろうが、その意味合いはそれぞれ異なる。

動機なり、その時の心理状態などはかなり違うように思う。

夢みたいに果てしなく膨らむ思いや、なんの脈略もなくただひたすら駆け巡るだけのチリジリの思い、止むに已まれぬ切実な気持ちが短絡的に集約された思いであったり、そしてまた果てしない心の平穏を求める耽溺的な心など思いは様々である。

 しかし、これらはすべて我々の日常に普通に去来する思いなのかも知れない。

これらは我々の日常生活の中で、色々なパターンで現れる。

向きや現われ方は違えども、我々が意識・無意識のうちに何かを求めるという点では同じなのかも知れない。

漠然としたアッケラカンな思い、色々な思いが止めどなく無軌道に行きかう思い、せわしなく結果のみを追い求める性急な思い、自我を超えて何者かとの一体感を求める思いなどいずれも何かを追い求めるという点では、明らかに共通点がある。

「何かを追い求める」という点では、空想も迷走も妄想も瞑想のいずれも同じである。

 現代の最先端科学と言われる量子力学の世界でさえも、「万物は人間が意識したときに状態が確定する」と言っている。

要するに、この三次元世界では我々人間の思考は物質化(実現)するというのである。

 夢を実現する道は思うこと、願うことだという。

だとすれば、空想、迷走、妄想、瞑想はいずれも我々の夢を実現する手助けをしてくれるのかもしれない。

空想、迷走、妄想、瞑想は果たして同じ効果を持つのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「違う景色の見える、人生の帰り道」はどんな道

2024-06-16 08:31:13 | 日記

    「違う景色の見える、人生の帰り道」はどんな道

 久しく思い続けてきた。

人生の帰り道で見る、違う景色とは一体どんな景色なのだろうかと。

この間、ずーと心の片隅で思い続けてきたような気がする。

 生まれ変わりを否定する立場からすれば、人生は文字通りの金輪際の一度キリである。

そして、生まれ変わりを信じるとしても次はいつの時代に生まれ、どんな魂たちとどんな関わりで生きていくのかは誰もわからない。

「死は生の延長」とか「死は生の対極としてではなく、生の一部として存在する」と言われても言葉としては理解できるのだが…。

輪廻転生を信じるか否かは別にしても、とにかく今現在生きている今生は今回一回限りである。

一回限りの今生ならば、やはり帰り道は少し違う景色を見ながら帰りたいとも思うのである。

「人生では、全てが良い、死さえも」(セルバンテス)。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」(パスカル)

「すべてを受け入れれば、全てに受け入れられる、心が自由になる、自由に生きられる」この心こそ、弱い一本の葦が健やかに生き残る最強の道なのではないだろうかと思う。

全てをサラっと、素直に受け入れられてこそ周りのお景色も見えるのかも知れない。

「すべてを受け入れて生きる」これこそ、「違う景色の見える、人生の帰り道」なのではとの思いも日々深まりつつ…の今日この頃である。

 

 

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復路の私より往路のあなたへ

2024-06-01 15:10:15 | 日記

   復路の私より往路のあなたへ

 「人は大なり小なり、自分の思いどおりの人生を送る」、何となくそんな気がしている。

何をいまさら、なのかも知れない。

人生の第四コーナーを回り切った時点である。

 「たとえ明日世界が滅びようとも 私は今日リンゴの木を植える」と言った、マルチン・ルターの言葉が脳裏をよぎる。

今の私にとってはなんとなしに人生のエールにも聞こえる。

 これまでの平均的にも平凡な自分の人生を振り返っても、やはりそれ相応の流れだったような気もする。

想いの熱量 Χ 時の長さが人生の濃度=成果で、人生は、やはり良いも悪いもこれまで自分が生きてきた思いの集積なのだろう。

「人間はその思考の産物に過ぎない、目的を見つけよ、手段は後から付いてくる」とガンジーは言う。

自分が本当に好きなことは具体的に思い描くことができる、そして 思い描いたことは 現実化するという。

自分を信じる力、向こう見ずは魔法の力を生みだす才能であり、天才とはその結果だそうだ。

往路にいる君には、思いの裏に潜む自信も 向こう見ずなパワーもすべて揃っている。

 あと他に何か 成功のスキルがあるとすれ、それは「人世はすべてが 誰かの受け売り」を忘れぬこと。

 「優秀な芸術家は真似し、偉大な芸術家は盗む」、ピカソの言葉に集約されるがごとく、

芸術も科学も文学も人類のすべての文化はサラット「過去の誰かの受け売り」なのだという。

自分が心底好きなこと、憧れることなら即刻すべてをそっくりそのまま真似ればいい。

長い人類の歴史の中で培われた一番オオソドックスな成功哲学はあなたの身近に存在しているのです。

 

 

 

 

 

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