ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

結婚披露宴に見る子育てへの思い

2013-04-29 02:04:07 | 日記
結婚披露宴に見る子育てへの思い 
 学生時代からの古い友人の御息子の結婚式に招待された。沖縄本島の中部に住む友

人なので披露宴も当然本島中部のうるま市の会場である。自宅の知念からは約60キロの距

離でウチナー感覚ではかなりの遠距離である。酒抜きの3時間の宴席はとても耐えられない

のでいつものとうり女房に送迎を頼んだ。友人のMを那覇インターで拾い三名でおしゃべり

をしながら披露宴会場に着いたが開場には30分以上も時間があった。

会場にも近くにも喫茶店がないし、30分程度の中途半端な時間なので仕方なく近くのスー

パーで缶酎ハイを買いスーパーの駐車場で白髪交じりの礼服姿の男二人で缶パイしていた

ら向かいに大きならリサイクル店の看板が目に入りその店で館酎ハイを飲みながら20分ほ

ど過ごした後、披露宴会場へ戻った。

いい年した二人の男が礼服姿で缶酎ハイを飲みながら会場へ戻る、これまでに経験したこと

もなく、日常ありえそうもない現実の体験でもあった。さすがド酒飲み根性、我ながらご立

派と言うしかない。

 大昔同業に携わった経験があるが披露宴の趣向がかなり進化、進歩している、映像による

演出が素晴らしい。素人芸は相変わらず沖縄ならではの円熟味、凄味がある。全体的に印象

に残ったのは新郎、新婦のセンスが披露宴全体に感じられた点である。披露宴の3時間コー

スは沖縄の定番コースだが余興の数がかなり少なく招待客へのメッセージを込めた映像が新

郎、新婦のオリジナリティーを感じさせ心憎いばかりの演出が印象的だった。

圧巻は閉めの新郎の挨拶である、ホントに普段着の新郎の姿がそのまま全開で見えた、動ぜ

ず、臆せず、奇をてらわず、自分の全ての思いを淡々と語っていた。感謝の言葉、自分の職

場での抱負、沖縄の未来への思いを入れ過ぎず、奇をてらわず淡々と語っていた。

大げさに言えば謝辞と言うより新郎の思いを込めた演説に近い爽やかな弁舌であった。

我が友人K夫妻は実にいい子育てをしたものだとつくづく感心した。

 3時間の待ち時間を含めて送迎をしてくれた女房に感謝しつつ、改めて友人K の子育てをを

見直した帰りの車中はほろ酔いの楽しい帰路になった。
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人生はチョイス

2013-04-29 00:18:50 | 日記
 人生は選択である、生きるも死ぬも、友を選ぶも学校、職場を選ぶのも配偶者を選ぶのも全

ては自分の意志、判断で方向を決めていく。もちろん人生の日常全てが自分の思いどうりにな

るとは限らないが、成るか成らぬかは別にして最後に判断、決断するのは自分自身である。

そして、大概はその選択の方向へと人生の行方は向くようになっている。

 「裁定を下すなかれ、己の道を選ぶべし」これは私自身の人生指標の一つである。人生の全

てにおいて絶対的な真理は存在しない、あるいはもし存在するとしてもその真理を常に人間が

確実に見極めることは究極の至難の業だと思う。これが正しい、あれが正しい、彼奴は間違え

ているといっても所詮はそれは自分個人の判断にすぎない、自分の持つごく限られた情報に基

づいた自分の価値観による判断にすぎない、場合によっては好き嫌いの極端な感情が裁定の基

準の全てになったりする。

いずれにしてもこの現世が「万物流転」を繰り返す「無常」と「相対」の世界であるならばこ

の相対の世界に絶対は存在し得ないだろう。あの織田信長もこの世に「『絶対』は絶対に存在

しない」といい、「絶対」の否定をしてはいけない「絶対否定」宣言をしたという話もある。

 先日ネットのトピックスに「輸血拒否で患者死亡」の記事があった。数年前の話だが宗教団

体、エホバの証人の女性患者が急性硬膜下血腫の手術中に本人の家族が輸出を断り結果、エホ

バ信者である患者が死亡したとのことであった。

私は明確な宗教信者でもないし、ましてやエホバの教えなどほぼ知る由もないので分からない

が、この場合は自らの宗教の教えに従い人生の選択をしたということなのだろうと思う。

輸血を受けるか拒否するかの判断を迫られたとき、本人及びその家族が自ら進んで積極的に死

を選んだとは思えない。恐らく生死を考える前に自らの宗教人としての生き方を選択したのだ

と思う、その結果が死に繋がったのだろうと思うのだが。

 この問題は信教の自由と生命の尊厳の観点からの社会問題としての二側面があると思うがや

はりこれも一概に裁定を下すのは難しい問題かもしれない。私自身はこの問題に深入りするほ

どの情報も知恵も哲学的な知性も持ち合わせてはい。只いえることは人間にとって人生は全て

が選択であり、人生の中でどのような選択をするかがその人の生き様なのだろうと思う。

 あらためて思う、人生はやはりチョイス、すべては自分の選択次第なのだと。
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日米安保、今の沖縄の視点

2013-04-28 10:21:52 | 日記
日米安保、今の沖縄の視点
 今日は4・28、東京では祝賀会、沖縄では抗議集会が開催される、この対立矛盾の構図は

まさに現在の日本の象徴である。1952年サンフランシスコ講和条約で日本がGHQの軍事支配

から脱却し主権を回復した日であり、同時に沖縄が銃剣とブルドウザーで土地を取り上げられ

戦後60年以上も米軍基地の重圧に苦しむ歴史がスタートした屈辱の記念日でもある。

 対外的には中国、韓国との尖閣、竹島の領有権問題、北朝鮮の核、ミサイル問題、国内的に

は遅々として進ま東日本大震災からの復興や原子力発電の問題、普天間基地の辺野古移転問題

、はたまた憲法9条の問題と政治も社会も正に混沌の時代である。

しかし、戦後物質的に豊かになったはずの日本で、大半の人間が自分の生活つまり生きるため

にキュキュで経済的にも精神的にもゆとりがなく、これらの問題に一応の理解は示すが実質無

関心というのが現状であろう。

 自国の核心的利益のためには何でもやる中国、自らの王朝を守るためには何をしでかすかわ

からぬ北朝鮮の脅威を肌で感じつつも多くの日本人は「何か事があればアメリカが日本を守っ

てくれる」と暗黙の内に信じきっているところがある。或いは信じられないまでも、そう思い

たいと自分に言い聞かせ自分の思考を深入りさせないようにしているふしがある。

その根拠は日米安保条約の存在である、それが証拠に殆んどの日本人が日米安保条約は絶対必

要だと思っている。世界に冠たる平和憲法を持ち軍隊ではない自衛隊という戦力を保持し、世

界平和を希求しその実現を精神的にも軍事的にもただひたすら米国の核の傘に依存し続ける日

本人。その日本人が信仰にも近い形で頼る米国軍隊とその核の抑止力、だから先日のジュネー

ブでの核の拡散防止条約の再検討会議で核の不使用声明への賛同拒否となったのだろう。だけ

どこの事実は単に現在の自民党政府だけの発想だけでなく日本国民の大方の意志だとしたらそ

れこそえも言われぬ不気味さを感じる。

 結論は簡単である、日本の平和のために米軍の軍事基地と核が抑止力となる、従って沖縄に

集中する米軍基地は絶対に必要で、その基地の存在を担保する日米安保条約と日米地位協定は

不可欠の条件である。この日米安保は覇権的な米国の安全保障の観点からも必要なのでよほど

のことがない限り米国政府も日本政府も日米安保も日米地位協定も堅持する、そのためには普

天間基地の移転(危険除去)は辺野古しかありえないのである。

となると沖縄の選択肢は反安保、基地撤去の選択しかなくなる。これは必然的に反安保、基地

撤去、を求める戦いへと進展しその反安保、反基地の戦いは反米への道へ繋がってい行くしか

ないのだろと思う。
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核不使用声明への賛同拒否

2013-04-26 10:56:17 | 日記
核不使用声明への賛同拒否
 日本はジュネーブで開催中の核拡散防止条約再検討部会の準備委員会で、70カ国以上の賛

同を集めた「核兵器の人道的影響に関する共同声明」への賛同を見送った。要するに世界的

な核の拡散と核の不使用を宣言し、国際的な「核なき世界」を目指そうという核拡散防止条

約に賛同できないということである。

理由は「如何なる状況下でも核が使用されてはならないとの趣旨に賛同すれば米国の「核の

傘」の庇護を受けられない」即ち日本の国策の否定につながるとのことである。

 最初わが耳を疑った、なんと浅はか、愚かな自己中的発想、自国の目先の不安に目がくら

み慌てふためき、哀れにも自らは全く手も汚さず、身体も張らず只ひたすら米国の核の傘の

中で自らの安全のみを考える。

核・放射能兵器は非人道性極まりない究極の破壊力を持ち人類をも滅亡に導く悪魔の兵器で

ある。唯一の被爆国日本がその核拡散及防止び核の廃絶に向けた世界の潮流に背を向け自国

の安全のみを米国の核の抑止力で担保しようとする日本政府と日本国民。

 この問題は直接の国家安全保障の問題であり、政治の問題、日本の国の在り方、我々日本

人の生き方の問題でもある。今回のこの問題が日本の安全保障、抑止力の問題、日米安保を

国民が今一度は真剣に考える契機になればいいと思うのだが。
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最高検及び検察組織に良識はあるのか

2013-04-25 09:30:31 | 日記
最高検及び検察組織に良識はあるのか
 元民主党代表で生活の党の小沢一郎代表が無罪となった陸山会事件をめぐる虚偽操作報

告書問題を起こした田代政弘元検事が「不起訴不当」となった。東京第一検察審査会の議決

書には文言だけは検察を厳しく批判する内容だが結論は「不起訴不当」。不起訴不当とは起

訴できないと言うことである、通常の感覚からして検察官が証拠隠滅どころか証拠改ざん・

捏造事件を起こしても起訴されない、誠に持って信じがたい事実である。

 この判断は直接的には東京第一検察審査会の議決である、しかし実態は検察組織の問題で

あり、日本の検察の正義の在り方を疑う。組織保護のためやむにやまれず致し方なくとった

検察組織の日常の在り方なのだろうか。

一般的な日本語感覚からすれば「不起訴不当」は起訴しないのは不当、つまり、当然起訴

すべき「起訴相当」ということになる。あえてわけのわからぬ法律用語の裏には検察当局の

作為に満ちた恣意が闇のごとく介在する余地を意図的に残したとの勘繰りさえ起こる。

 前の大阪地検特捜部の証拠改ざん・隠ぺい事件を見ていると、あらかじめ捜査幹部がスト

ーリーを作成しそのストーリーに従ってあらゆる捜査が進行すといわれる。途中で別の事実

が判明してもよほどのことがない限り上司の作成したストーリーからの逸脱は許されない雰

囲気の内容である。最初から最後まで起訴ありきで、そのストーリーどうりに早く起訴し有

罪を勝ち得た検察官が評価され上層部に登用される。これでは全く民間のビジネスマンの成

果主義そのものである。

一般社会でのビジネスマンの成果競争同様のことが検察組織で日常化されているとすれば、

思い上がり、勘違いも甚だしい、職権によって犯罪を捜査し社会秩序を維持して行く役割だ

が、そこには常に通常のビジネスマンが扱う「もの」とは明らかに違う「人間の人格」が絡

み多くの人間の一生がかかてくることで、明らかに通常のビジネス感覚は排除されなければ

ならない。しかるに、あらかじめ意図されたストーリーで捜査起訴されその成果が一般社会

と同じビジネス評価の対象になる。商品獲得競争、獲物の狙い撃ちになりかねない、狙われ

た人間はそれこそまったものではない。全ては検察の恣意次第とは恐ろしい実態。

 ぼかし、隠ぺいで問題を先送りし乗り切る、一つの問題を越えれば必ず次の問題が待って

いるのが人生の常である。「水は低きに流れ、人は易きにつく」、悪しき流れはどこかで断

ち切る必要がある。本当の意味の組織保持のためにも、しかし、自浄能力はあまり期待でき

ぬが、さりとてマスコミ含め世間の風もさほど期待できない、この検察権力の分厚い壁の向

こうの闇はどうにもならぬものだろうか。


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