魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第二巻~第一話 「懸命に儒学は孔孟を追う」】 其の2

2017-04-05 15:29:14 | 魂魄の宰相の連載

三、道を継ぐ総て被る

  王安石が江上で道を悟った後には、文学に偏り、儒道については余り熱心では無くなるように成ったのだが、生涯を通して正当な学者としての姿勢を崩さ無かったのだ。
 王安石は、韓愈の正当な儒学伝道の説に接して受け入れたのだが、自分為りの理解も加えたのだ。 彼は《送孫正之序》ではっきりと「孟、韓の思いを心にする」と表して、後に、亦《性論》の中で「孔子を子思が、子思を辿って孟子が儒学の正統を生み出した」と言っている。
 彼は親しい友人の曾鞏の主張していた当時比較的に流行していた孟、荀、楊、韓の儒学の正当な伝道者だと言うことに不完全ながらも賛成したのだが、「孟子に値する力量は無い」として、荀子には孟子を受け継ぐ資格が無いと思っていたのだ。四人に対する評価の上で、王安石は孟子に対しては全面的に評価し、荀子に対しては粗全面的に否定し、楊雄に対して守る立場を増しており、九割方肯定したと言えるが、韓愈に対しては貶す面もあり、多く見積もって七割方しか評価していなかったようだ。王安石は自分を儒学者と思っていた時までは良かったが、問題なのは自らを孔孟の継承者気取りでいたことが必然的に引き起すのは、「異なる学問に如何成る様に対応するか」という問題が存在することであったのだ。
 韓愈は儒家思想に対しての深い研究が全く無いのにも拘らず、如何して後世においても重んじられるのかということへの答えは、彼が儒学の復興に多大な尽力を為し、そのことが先ず士大夫である儒学者を発奮させ、[運命]と[儒運と国運との関係への関心を持つこと]に興味を引き起こしたことにあるのだ。
 韓愈は儒学の真髄を巧く表現出来切れ無かったので、仏教に真っ向から戦う勇気が出無くて、結局遠回しに非難することしか出来ず、最期まで論争することを避けるしか無かったのだ。 彼は儒学がどんなに優れているところがあるかと説明することが出来ずに、徒、単に仏教を非難することによってのみ彼が儒学者として如何に傑出した才能と見識を備えていたかを表そうとした。分かり易い譬え話をすると、「ある人は自分の身長を高くすることが出来無いので、他の人を穴の中に放り込み、或は甚だしきに至っては背の高い人の頭を切り落としてまで自分の背を高く見せようとする」ということになろう。 と謂うことで、韓愈は焦って人に彼を理解させようとした為に、仏陀に傾倒する勢力に対し武力を使うが如きやり方で排斥しようとしたことが屡あったのだ。 其の為、それが災いして益々彼をして偏屈で狭量な態度に密封して仕舞ったのだ。 韓愈が「仏陀に力は無い」と横暴に排斥しょうとした為、時に不満が起きるに留まらず、甚だしきに至っては、親しい友人の柳宗元と劉禹錫などの批判をも受け、皇帝まで彼に対し「お前は乱暴過ぎる!」と怒らせて仕舞ったので、彼のやり方は身を結ぶどころか実質的な効果を生みだすことは全く無かったのだ。
 韓愈の弟子の李一(字は習之)は暫らくして別の方法で仏陀の教えを盗んで自分のものにして仕舞い、儒家の言葉を使って仏教の筋道を表現した。 このようにして儒家を以ってしても[生命の学]を在らしめて、或いは、自分為りの形而上学を持つようになった。このような方法は実は比較的に優れていたのだが、李の学問が翼を広げて飛んでいるが如きに世に広まっていくのが余りに明らかだった為に、仏教界は却って彼の著作を仏陀の経本に採り入れたりもし、彼本人はといえば儒と仏教との境目を省みることも無く、仏教の教えに心酔していた。薬山の厳格な筈の紫玉の高僧などが道について彼に問うたりすることもあったのだ。然し結果としては、儒仏が共に助け合っただけに過ぎず儒学の作用を特に振興することに至ら無かったのだ。
 仏教の最も盛んな唐代で、韓愈の師弟の努力は殆ど焼け石に水で、何の足しにもなら無かった。仏陀を排斥しようとする声は微かで、忽仏教の更に盛大な波に溺れさせられて仕舞った。宋初に至って、孫復、石介、欧陽修などの人材は再び古に返って仏陀の経説を復活させようとした。南宋葉夢は《避暑録話》巻上で謂う:

 石介道と欧文忠は名を相連ねて、その年の科挙の第一甲の最終合格者と成った。諸儒学者が言う国の基本とは、厳格に行の作法を会得したならば厳しく人に伝え、「人には親切で正直に接し、故郷を明かにして謹んで己れを反省しなければ為らない」と言うものである。  

 孫明自ら再版した《春秋發微》で、少しばかり自分の意見を発した。 「師の教えを守って、仏陀の古の経説を除いて経を唱え始め、何を天下に為す!」。

 文忠は初め未だ意見を持って無かったが、その在るべき様を力説して理を支えたので、直、孫明が一緒に協力して、韓が除いて通ったものを同時に覆したのだ。仏法が肩を並べて興ったことを儒学者が自覚していることと関係があるという結論になった。然し、最初の宋儒は徳行をもち親切で正直であることで知られていたが、学術の上に目立って役立つ程のものでは無く、単に先儒を敬うことだけを守ることを伝承され続けたのみで、少しでも新しいことに挑戦する勇気も無く、その上経文を解釈し筋道を立てて体得したことも無かった。
 孫復(字明復)は次の様に説明した。漸く、ほんの緒とだけ自分なりの解釈を持ち、躊躇わず章節と句読点を使って経文を理解し易く書き換えた。儒家は専ら伝承を忠実に伝えることから大義を創り出すことを重視し、儒学が産まれた時から継承して来たものを単純に盛り立てることから一歩前進する為に新しい考えも取り入れ、自らの意思で古人が固く守って来たものと縁を切り、儒学が最早一時代を自覚した復興の時期に入ったことを表明したのだ。儒家は現状に満足し無いで、懸命に向上心を持もつように成ったので、再び勢力圏を区別する問題が沸き起こった; 儒学は重要な理を立て始めたが、このことで同じく理を立ててから久しい仏法との対立が激しくなって来た。
 宋は五代からの政治の構造的弱さから、四方の少数民族が華に進入するに任せていたが、民族同士が激突する時代に入ったので、夷狄の夏を論じるところによって「新しい解決の方法があったのだ」と言われている。仏教が外来の文化の為、仏教は儒家に決定的な攻撃材料を提供したことに成って仕舞ったのだ。孫復作《儒辱》に因ると、釈迦と老子を等しく並び立て儒を三番目に置くことには儒家にとっては大きい恥辱であるので、楊、墨子は除いて孟子を、距申、韓も除いて揚雄を、仏と老を排して韓愈を褒め称えようと、「僅か三人が、世に秀で夷狄を制す」とすることで将に学派の争いを夷狄の家との争いに摩り替えたのだ。
 学理の争いを民族の争いにして、然も一番の古脳(馬鹿馬鹿しいこと)は仏陀、老子、韓、揚、墨子を皆狄の列に繰り入れて、儒学で夷狄を退治させようと、勝敗の審判を立てて、何が何でも其の他の学派の廃滅を宣告したのと等しく、夷狄を相手にする必勝法を訓示するものとすることで、これが変えてはいけ無い価値の基準と成って仕舞ったのだ。こうした事は、一段と民族意識を有効に利用する為の危うく狡賢くて強引な遣り方であるにも拘らず、更に、石介は歴史をでっち上げて、《中国論》を書いて、仏法が西から来たことを強調した後に、更に「‘耳’と言う龍眉名が‘各’という中国人に成り済まし、私達の中国に入って易を習ってやりたい放題為したのだか、易は中国の教えで、亦易は中国の風俗其のものである」と、意外にも老子様までも胡人にするなんて、本当に今まで聞いたことが無い。でも、このように民族の意識を誇張することに頼って儒家の地位を高める方法は儒家の徒が弱体で力が無いので実が挙がらず、勢力を嵩にして人を虐める心根だけが一層暴露され、嫌気がさされたのだ。
 孫復、石介の輩は仏陀に反対する人の中においても決して韓愈の新説を上回ることも無く、言行の上で単に更に捻くれて行き過ぎていたものが多かったのだ。特に石介は、一方で《怪説》、《中国論》などのへんてこな文章を書く変人であった。彼が書いたそれらの書の四章は余すところ無く異端の説を排撃し、一方でまた旧時府立の学校の書庫に収められていた釈迦と老子の肖像画などを取り去るような露骨な行為を実行した韓愈のことを「その人の人と為りは、書は人の心に火を点け、住む家は粗末な佇まい」と誉め称えたりしたりして、石介が高位に登ることも出来無かったのは当然で、仏教を権力によって五回に亘って難しい局面に晒し、最高学府の中でも頻繁に何かと差し出口を挟み、直ぐ人を詰る癖も止まず、そんなことを散々やって仕舞って、悪口雑言を止める様に誹られるようになったのだ。
 欧陽修は本排仏に関心が無かったが、石介に目一杯煽られて、仕方無く、然し比較的温和で賢明な態度を変え無い儘に仏教に反対し始めた。彼は《本論》二編を書いて、仏教は人の性の情理に背き家庭の情誼を散逸させると提示し、散り散りになった親子兄弟の関係などを指摘し、更には、人民が財を浪費する弊害についても言及したが、併し、それが「善を為すという説」もあるので、故に、「其の書が人々の心に火を点け」ても、庶民は示し合せてもとに戻って仕舞い、単純に「其の住まいは粗末な佇まい」と言うだけでは意味が無く、思想の問題は思想に依って解決するしか無く、只、尭や舜などの古聖の教えを重用し、「人民全がここに楽しみや面白みを味わうように仕向け」、更に「おかれた境遇には限界は無い」ので、ただ人を先王の道に帰せば、自然と仏教は衰亡して行くのだ。欧陽修は武器への批判が武力の批判に取って代わることが出来無いことを意識して、仏教は「基本があって勝つことが出来る」と在る様に理論の問題は暴力によって解決することが出来様も無く、この点は韓愈、石介などより資質が優れていたが、併し、彼の先王の道で仏教の考えに打ち勝つかどうかは単なる当て推量であって、「恐らく両聖人も大いに正しいとは看做されない」と判断するに至り、結局は欧陽修の方法も儒家としての失敗ということになったのだ。
 仏法が隆盛を極め始めた丁度其の時、道教と関連して文語文の復興の運動があった。少し前に創始された道教と文語文の関係は先に述べた。韓愈は仏教の色合いを排斥する意思を以って文語文を提唱し、駢体の文に反対して散文を提唱したのであるが、駢体は表面だけ見たところ仏教と少しも関係が無い様に見えるが、然し平仄と音律、対句の齊梁の時代の駢体の文が事実上仏教に本源があるとして注目されるのだ。梵語は平仄と音律に対しての注文が煩かったので、多くの経典は本来優美な文学作品に近いのだ。経典では普通は長い(散文)と勇ましい頌(韻文、詩)の形式を含んで、先に長い行で述べて、それから更に詩の形式で再び述べているのが巧みで、全く「三度」泣かせの見事さで経を上げるのだ。一部の経典全体の韻文は、極めて華美で、東晋の僧慧遠は、そのことを「丸で天楽を感じるように仕組まれているようだ」と量って、更にそれが「音調は単純乍優れた音楽会での旋律を聞く様で、全く自然に大衆受けする」と賛美し、その難度と芸術としての評価は非常に高いのだ。経典は俗世間の文学に対して迚も大きく影響し、中国の声調に四声(発声の抑揚)に取り入れられて凡そ印度の平仄と音律が仏教と共に潜んで人為的に齎されたとされたものなので、そのため駢体の文と仏教の韻文は源が完全に一致するのだ。其処で、秦から前漢に流行った散文を提唱し、駢体の文に反対するだけの単なる文学運動に留まらず、その中には思想を解放して復古に改めるように仕向ける寓話を入れて、仏教の力を削ぐことを目論んだのだ。
 例えば宋の文語文の運動の代表としての人物である柳開、穆修、尹洙、欧陽修などは大部分が仏教の排斥者で、今日、当時の文書を見ると、確かに道教の風が偲ばれるのだ。石介が大学で授業を担当した時には、彼の思想は奇怪そのものであり悪口雑言で嘲り、時代遅れで、辺鄙で、危なっかしく、見たことも無い一種独特の下品さを漂わせた文章を掲げ、全く別格な彼一流の下卑た文体を提供していたのだ。
 一時期学生達は相競って(号?)を「大学文体」と真似た。大学の文体は文語文の素朴で実直な処は無く、また駢文の優雅で華麗なことに厭きて、完全に駢体の文に対抗するものになっていたのだが、一本調子且つ散漫で下品なところばかりが目立ち、その為決して賛美されることは全く無かったのだ。その後、文語文を守る為、作家の欧陽修の名代として貢が教授することになって、この危機を避ける為に大学の文体を退け、漸くこの不良な風紀を是正したのだ。
 文語文の運動の指導者である欧陽修は、更に首領の役割として再興させたのだ。彼は儒学を振興させはしたが、仏教を廃絶するまでに至らなかったのは、仏教にも得るべきものがあると考えていたからだ; 文語文を提唱することに力を入れたが、にも拘らず駢体を完全には捨て切れず、駢文も使い方次第で有用であるとしたのだ。彼は「偶々対となった文であっても、思わず導入して仕舞うのは仕方なく、過ちとは限らない」、「形式に依って文章の是非を決めてはなら無い」と主張して、これは全くの正論なのだが、徒、仏教には依然として一定の偏見に持っていたので、彼はこのような基本的な考えを思想の面までに広げる迄に至ら無かったのだ。
 王安石は努めて自らを通して学を治めることにしていたのだが、欧陽修に対しては非常に尊敬の念を持っていた。若い頃の王安石の親しい友人であった欧公の弟子の曾鞏が「先生(欧陽修)は私を理解出来無い人ではない」と言ったが、その後文公に抜擢されことから、終生文公に対して弟子の礼を執ったのだが、政敵は彼らの関係に対して根も葉もない中傷で挑発したのだ。王安石が「このようなことを道理として是非を為す原則にしてすべての分野に広げる」と云ったことが、文公の精神の継承と其の発揚に驚くべき影響を与えた。 
 王安石が理屈が通るかに依って良し悪しを為したのは、仏教についての偏見が決して多くは無かったのだと考えられるのだ。儒家の立場を考慮して、仏教に対して一寸ばかり批判すべき立場であったのだが、手許の資料に「彼が以前から仏教に対して持っていた態度である」と記されていることは、隠すべくも無い。王安石には《杭州修広師法喜堂》一詩があって「始めて勇気を持って時世の弊害を救おうと改めて思い起こすと、厳然と立ちはだかる風習を見るに就け苦難に満ちる思いに為ったのだ。丰肥えた馬が引く佳麗な車に乗った豪商が、自発的に多くを憂えることは少ない。数々の事情があって進退を決めたのだが、其のことの賢愚を軽はずみに分けるべきではない」という文を解釈すると、彼の若い時、当時在った弊害に勇気を持って救ったと言い、隠居するしか無いのかとの思いが強く現われ出ていて、強大な力を持っていた時ばかり夢見て世の中を渡って行こうとすると人生の矛盾を一層感じて仕舞い、あのような佳麗な車を引く太った馬に乗るという如何でも良い望みが叶って得意げに為っている豪商の輩が、本当に得意げであることを心配するので、それよりも目を覚まして進退を儒学や仏教の道に求める方が余程理に叶い、良く考えもせず賢愚に分けるような軽率な行動をしてはいけ無いので、実は全詩を見渡すと、出所進退を真剣に考えるのが賢明であるということを言っているのであろう。然し、先ず王安石の晩年の心理状態に頓着し無いで、其の年には仏教徒の意見には賛成し難いことが確かにあったのだと詩のみから窺えるが、彼が公然と仏教の経説を批判したのかどうかとなると、依然として知る由が無い。
 或いは又、《送潮州呂使君》一詩で仏教が人倫にあわず、正道に反するという反仏に対する韓愈の煮え切ら無いことへの批評だと表現する一方で、此れも又、一つの見方として納得できるところもあったのだ。その詩の総ては次の通りである: 韓君に日の当る場所を取り去られても、死んでも傍に居ると嘆き悲しんだ。呂は陽を取り剥がされても、笑い飛ばしたのだ。趙子に進んで応じて、詩書で互いに意見を述べ合った。 無理に鰐を移す必要は無かったと、民も疑い怪しんだ。大顛のような高い資質の人こそ人を動かせ得る。拝礼を為さずとも、人倫道義を外してはなら無いのだ。同じ志向を持つ朋輩として、異性との婚姻に繋げるのだ。恩義はただ厚く、言葉で尽し切れ無いのだが。
 この詩が何時作られたのかは分から無いが、その意味するところの一つ目として遠くに流された友達を慰め励まし、二つ目は韓愈を批判することにあったのだ。韓愈は遠く潮州に流されて、何ともいえない悲しみに暮れたとするは、全く垢抜けのし無い舌足らずのものの言い様であって、大儒の証である「仁愛の心がある者は悩むこと無し」という風格を失うものであるのだ; 亦《移鰐魚文》の中で、奇異な神秘や奇妙に力を持つ言葉を多用するのは神の教えを冒涜することになるとしたのだ; 更に大顛禅師に拝礼し、説得を試みたのだが、驚いたことに如何して潮州に流されて来たかを忘れて仕舞い、はからずも、「生まれ持っての素養が志に依って生まれた素養を鍛える」と言うものでは無いことを顕かにしたのだ。要するに、韓愈は学術と大儒に向うあらゆる教養を修養したが、醇儒の学の標準に届くことすら限界があったので、この様に厳しい批判に遭ったのだ。然し、こんな中でも友人を励ます思いがあったのかも知れないが、呂使君は遠島を笑い飛ばした。人目も憚らず、書について互いに討論することが出来る趙子が近くに居たので寂しいということは無かったのだが、王安石は更に彼に韓愈のように簡単に自分を変節することかが無いようにして下さいと励ましたのは、二人が同じ志向を持つ友達であるとの含みがあったからなのだ。
 韓愈に対する王安石の批評は益々当を得るようになった。その真意は、韓愈が断固として仏教を否定する意思を示さず態度がふらふらして徹底して無いことを非難したのに留まらず、彼は醇儒で無いと迄も非難するものであって、韓愈は自ら神秘主義の影響からも抜け出すことも出来ず、学術としての筋道を立てて仏教と真っ向から勝負をすることも無かったので、実際、便利で単純であった仏教に一敗地を舐め、儒家は辱めを受け、仏門の後塵を配して仕舞い、儒家としての誇りを無くして仕舞ったことにあったのだ。
 胡宏が、「道徳の本体に実際に会うと、軌道修正せざるを得ず、尭舜の道に入ることは出来無い」と王安石が仏様のことを批判したとしたが、実は胡宏自ら出た言葉であり、余り信用出来るものでは無いのだが、然し「道徳の本体に実際に会う」と王安石が言ったのは、粗確かであろう。
 王安石は儒家の儒学伝道の正統の継承者を気取るが、然し、彼は単なる狭く偏屈な見識の無い読書人では無く、却って心を開く真儒であった。彼は友達と一緒になって互いに切磋琢磨したお蔭で、儒学の復興を実現することが出来、仏教徒と何時も真っ向から対抗出来る新しい儒学の体系を作り上げた。彼は、この目標を本当に実現するには、異なる学を排除するのでは無く、吸収出来るものは採り入れ、開放的な態度を示し、広い心で全てに対応しなければならないと考えて、『泰山は土を培うことを譲らず、大海は細粒を拒まず』と為し、もっと守って越について立ち後れることを密封しようと、単に異端を排斥するに頼っていては、自らが見事になることはあり得無いということが明らかになって来るという境地に到達していたのだ。
 淮南籤判を担当していた時、王安石が書いた《淮南襍説》があって、自分の独特な主義主張を練り上げ始めた。 《淮南襍説》が発表されると、孟子は再認識されるようになり、王安石は何とも高い名声を獲得したのだ。それ以後も、彼は不断に書を読み続け、研究を重ね、最終的には学識が広く深い新しい学問(新学)の体系を作り上げて行ったのだ。



四、仏陀は損害を齎さ無い

 昔から、仏教への攻撃の方法は三つ在る: 一つは、中華の夷化であり、仏陀が外国人であり、仏教が中国に伝来したことで中華の夷化が起こり、中国古来の慣わしを夷狄のものに変えて仕舞うことである; 二つ目は人倫の道徳を駄目にすることで、仏教は父子君臣を認めず、夫妻の間の道徳も無くて、全て平等とするので人倫から離れる; 三番目は利益の争いで、仏教は金盗り主義の事業のようで、節度が無くて浪費を奨め、老若男女問わず争って寄付するように勧誘するので国に争いが起こり、利益を貪るものとした。
 宋では儒が仏教を攻撃したのだが、儒から離れる者は七割にも達してはい無かったのだ。攻撃する者から前に述べた者を除くと、思想家李覯は凝固まった反仏派で、李覯や胡適等の多くの学者は王安石の思想の先駆者として一先ず認めるべき者達だが、併し、仏教に対する態度の上で二人は全く別の見解を持っていたのだ。李覯作《富国策十首》は、古からのものを壊しているものが国家の財政を困窮させている重要な原因とした。
 王安石は仏教について完全な認識の下に理解しており、彼は私的所有を賛同し無い者だけが出家するのであって、出家するのは信者の極一部だけなので、仏教が国家や社会に対して大きな危害を加える存在に為るだろうなどとは思って無かったのだ。多くの人は、若し仏教が盛んになれば父子の別も無く、夫妻の別も無いことを招き兼ないので、それによって人類が絶滅すると思っていたのだ。実はこの推論は[信じる者は全て出家する]という全く有得ない前提の上で考えられたものであり、事実として過去仏教が国教として国家で認められていた時代すら、このいらぬ心配の問題が現れたことが無かったのだ。仏教徒は出家する僧と尼がいて、家にいる男女もいて四つの立場の人が寄り合って一組の大衆と成るものであって、仏教では「誰でも洩れ無く出家しろ」とは主張してはいなかったのだ。欲求は人の本性なので、出家する人はいつも少数であり、人類の人口増加に対して効き目の在る脅しをする事は出来っこ無かったのだ。王安石は確実に認識していたので、彼はこのことが仏教の致命的な弱点とは決して思って無かったのだ。
 王安石の時代仏教は何度も沙汰を経ていて、既に政権にとっての脅威では無かったのだ。神宗の好機には、皇帝は仏教を厚遇したことに依って、僧と尼は目覚しく増えたのだ。 《宋会要・道放》に拠ると、天禧の五年(1021)の時に僧侶は四十万人近く、僧侶と尼とを合わせて僧徒は六十万数人に達して宋の歴史の中でも最多に成ったが、併し、此れと北斉の僧徒の二百万人とは比較になら無い程絶対数に欠けていたので、出家する人口が総人口に占める割合は未だ未だ小さかった。
 天禧五年後期になると、僧徒が多くなり過ぎて、統治者は政治への弊害を感じ始め、厳しく統制し始めたので、僧と尼の数は見る見る減少し、仁宗景祐元年(1034)に至ると僧人数は385,522人、尼の48,742人、慶暦の二年(1042)僧348,108人、尼の48,417人、神宗の煕寧元年(1068)の僧227,610人、尼34,037人、煕寧十年(1077)僧202,872人、尼29,692人となった。煕寧十年になると、全国の僧と尼の数は真宗の時期のたった半分に等しくなり、巨大な人口との割合を考えると、僧と尼との総人口に対する割合は迚も小さかったのだ。僧と尼の数を制限し、亦、国家が厳密に統制したので、そのことで十分に朝廷に対する脅威となら無いようにした目的は果たせたのだが、その統制は排仏論者の意見を訊いて、露骨に弾圧するばかりで、仏教というものを良く調べて研究することは無かったのだ。
 仏教は政府の財政上それ程負担を掛けていた訳では無く、宋の財政が逼迫した主な原因の一つに仏教が数えられていたとしても、財政難の最大の原因は余計な兵と政府内の閑職にあったのだ。その中にあって「軍隊の維持する費、天下で十」(張載語)とすると急激に膨張した官僚主義的な軍隊の兵員が少なく見積もっても七、八占めていて、財政の逼迫の一大要因であったのだ。仏教の寺院の財産は比較的に富裕であり、財政上国家に負担させることは無く、却って国家財政を支えることもあった。過去何度も寺院の経済が厄介なものと評価されていたのだが、実は寺院の経済も国民経済の重要な構成部分の一つであって、国家の経済全体を考えると、国家が繁栄する為には役に立つことこそあれ害と成ることは無かったのだ。
 寺院は徭役税を免除されていたので、極論として寺院は経済特区であると言え無いことも無く、元々出家したく無い多くの人にとっては一本の度牒が「一人の僧籍を送り出す」ことに繋がるということになり、寺院は特権に頼って事業(寺院の金儲けの)を運用する手段として度牒を上手に利用していたのだ。従って、度牒を売ることは政府に特権を維持させる手段となっていたのだ。度牒を売って政府の収入源とし、水害・干害や戦争に遭うと、何時も政府は度牒を売って差し迫って必要な資金を調達したので、度牒は丸で公債のような機能を持ったと謂えるのだ。王安石はその後法律(制度)を変えて青田法を法制化し、その法律を実施する上での一大要因として度牒からの所得を得る為に常平と銭本金を売り出した。国を成り立たせる為の無くてはならない一つの手段として国家財政を潤わす度牒を発給するのだが、この手段を実施するのに重要な要因が政府の財政を潤す寺院の力があったのだ。度牒が国家財政の重要な支えとなる情況下で寺院の経済効果が増すと、仏教が国家の財政に口を出し兼ねないと危惧することは、そんなに可笑しいことであろうか?
 仏教徒は生産活動に積極的で無いという非難が沸き起こった。 宋の時代には禅宗に代わる宗派の目覚しい興隆があり、そのことに因って禅宗が沢山の反省の下に《百丈清規》を作り上げ、誰もが必ず労働に参加しなければならないことを定め、丸一日無行断食した後に、労働に参加することを全ての出家の義務にして、殆ど全ての出家は生産活動に参加したのだ。寺院は自力で生活することを実現しただけでは無くて、更に世の中に大量の生産物を齎し、社会全体に貢献をしたのだ。
 王安石は学者だったが、彼は客観的にものを観ることが出来、「そこ災いは仏陀に在らざる」の結論に達した。王安石は「仏教を夷狄」だとするような浅薄な論調に納得することは無く、そんな意見を鼻であしらった。併し、自分なりに批判することも忘れ無かった。王安石は「通儒」と号され、その学問に対する姿勢が大きく称賛を受けたと同時に、彼の文学の才気も又普遍的な賛美を得た。嘉祐三年(1058)の十月に始まって、王安石が長期に亘り地方官の暮らしを経験しをした後、六年に入って中央の役人として働くことに成ったが、嘉祐八年(1063)母が亡くなった。京官として駐在の期間、彼は一時期、名賢い、例えば欧陽修、司馬光などと互いに唱和して、後年に残る詩を多く残した。その中でも《明妃曲》の二首は彼が始めて首都で就任した時の作品で、反響は迚も大きく世に広く永く語り伝えられた。
明妃の曲の二首
その一として

明妃が始めて漢の宮殿を出でし時、春風に下げた鬢先が泪で濡れる。
顔色無く影を顧みて行きつ、戻りつ、未だ君は思い留まらず。
戻って来て絵画の技量を怪しみ、一度たりとも生涯気に入ること無し。
思い描いた通りになら無い儘、其の侭じっと我慢して面影を残す。
心が去って最早戻ら無いことを知って、漢宮の衣服を尽くすは哀れ。
声を張り上げて南のことをと思っても、ただ年毎に鴻雁が飛ぶばかり。
召人が伝える万里の知らせ、幸い氈城を互いに思い起こすこと無し。
君主の至籍の長男筋の人がお嬌さんを閉じ込め、人生南北に失意なし。
その二として
明妃は初めて胡児に嫁がされ、氈の車の百両全て胡が姫に。
惟何処にも情欲の言葉を一つ無くと、琵琶の心を伝えてと己を知る。
黄金は守って春風の手を動かして、胡酒を勧めて鴻が飛ぶのを見送る。
漢の宮の侍女はひそかに涙を流して、沙上を行く人は振り返る。
漢は自ら恩を浅くし胡の恩を深くし、人生は相知り合うことに楽しみがあるのだ。
青塚の茂みに既に隠れるのを哀れんで、未だ弦が今なお残るのを悲しむ。
 これらの二首の詩の新解釈をしてみようなどという気を起こしてはいけ無い。一時は広く欧陽修、司馬光、曾鞏、劉などの全ての者達が一篇を試みたが、皆原作に及ぶことは無かったのだ。上編は悲劇の女主人公王昭君が髪型で老ける訳は無いと、漢の元帝に言う。元帝はその人(王昭君)を知ることが出来無かったのは画工の所為だとこれを咎める。この点は全く新たな解釈と言え、従来からの解釈だと、王昭君が画工に賄賂を贈ることは潔(いさぎよし)とはせず、彼女が恩顧を受けることが無いようにする為に故意に彼女が老けこんで見えるような髪型に描いたのだとした。王安石は昭君の余りの美しさの為、画工が描き切れ無かった為に、元帝が自分の宮廷の中の美人さえ見出すことが出来無かったということで、元帝の愚昧さの現われであると説明した。詩全篇を眺めて最後の一文に眼を移すと、元帝のような暗愚な君主に見初められて、その儘残ったとしても南も北も同じようなもので何も良いことは無く、長男の血筋の宮殿の中のお嬌さんのように閉じ込められて如何して良いことがあろうか?これは昭君への慰めで、同様に南北をはっきり分けて考えて仕舞う事は、本当は余り重要では無くて、肝心なのは明君に出会うかどうかであって、元帝がこのような暗愚な君主であったのならば、離れて行く方が良く、昭君も恐らくそう思ったのだとすれば、賢明な行動だったと言えるのだ。
 王安石の解釈は目新しく、また大胆で、真意は皇帝に標準を合わせたものだった。遠い近い、南だ、北だということは問題で無く、皇帝が凡庸であると未来は無いということが問題で、美人が恩顧を受けられるか、賢才は使って貰えるのかということすら重要なことでは無い。明君は政権側にあって、賢士を草深い田舎から引き離すことも出来る; 親玉が愚鈍に政治を執れば、賢者の考えも分から無い。尭舜は位高く、草木や鳥獣も恵みが渡り、言うこと無い; 桀紂は世に臨んで、乾文王に比べて遜色あり、面目も無い。
 下編の詩では見劣りのする所が後ろの方の「漢は自ら恩を浅くし胡の恩を深くし、人生は相知り合うことに楽しみがあるのだ」の一節だ。王安石に拠ると、漢の皇帝が胡の族長の恩義を浅く診るか深く診るかは全く重要で無いのであって、幸せとは心を通わす情の相悦びにあるという。彼はここでは極めて深刻に問うているのであって、即ち、不釣合いな婚姻が幸福を齎すことが出来る筈が無く、漢帝に会っていたとしても胡の處に返ろうとも、また彼らの愛がどんなに深かろうと、如何採ろうが不釣合いであることには変わり無く、又、思いを叶得るものでも無く、見え無い心の障壁は取り除きようも無く、真実の愛に恵まれ、真実の楽しい暮らしを得ることは出来無い。 と言うことは、王昭君は漢にあってはより悲劇であって、制約され、心を許せる人も無く、この情を言葉で如何に訴えようかとすると、「鴻を飛ぶことを見送るしか無くて、手を振って弦を悲しむ」。 その為昭君の悲劇は運命に翻弄された封建社会の女性の悲惨な運命の縮図で、「青塚の茂みにすでに隠れているのを哀れんで、未だ弦が今なお残っているのを悲しむ」と、そこで民衆はこの為に泣かされて、断腸の思いに駆られることになったのだ。
 この二首の詩は昭君の悲劇の本当の原因を明かにして、南と北、所在の遠近、胡漢の両族、恩の浅い深いは全く重要で無いと範疇の外に於いて、新しく見方を持って、作者の遠謀と実践による経験と知識と勇気を明らかに示した。この二首の詩は当時作者が絶大な名声を勝ち取り、後々まで世の嫉みの対象となり阿鼻雑言を招く結果となった。
 李壁は注で曰: 山谷跋公はこの詩についての批評する:「荊公作のこの編は、李翰林、王右丞らと競ったのだ。その昔、潁陰に行って王深父さんに会わなければならないと言って、一番に愛のお教えを受けたと語ると、荊公のこの詩に影響を及ぼし、庭堅は語った意味を悔いの無いよう十分に吟味したのだ。深父一人が言ったことでは無く、孔子も言っていたのだ: ‘蛮族にも君主がいて、夏と雖も及ばずとは言えない’とは‘人生は南北無ければ志を得無い’に有らざる。 庭堅は言う: ‘先生は極めて正直で温厚であれと言うこの道徳の言葉を発したのだ。然も孔子は九つの夷狄に身を置きたいと思って、君子は此処に身を置いて、何が可笑しい?王先生が未だに失っていないことを心配するのだ’。明日、深父は舅氏の李公擇に会って言う: ‘黄生は賢明な師として、敬服する友人として選らばれても良い程だが、年端が行かず、血縁であることは以前より知っていたが、未だ海のものとも山のものとも知れ無いのだ’」。
 王回は王安石と親しい間柄であったのは、当時の人々の心の中には夷と夏(中華)を厳密に分けて理解することが無かったので、「人は南北を無くす思いを失って生きている」と夷と夏を混淆していると責め立てたが、未だ黄庭堅が少年であったので、荊公の親友であることが出来たのだ。実は、孔子も夷と夏を厳密に分けることに余り頓着が無かったのだが、極端な例として「海に浮かぶ小さな筏」と思っていた程で、夷狄の居所がどれ程恐ろしいところだとは全く思っていず、更に、夷も夏に変得る自信すら持っていたのだ。孔子が夷夏を差別した訳は、文化と道徳的の発達と後進の度合いからだと言い、有徳の者あれば、夷も夏になるのだとして; 有徳の者無ければ、夏とて夷であると断定するほどで、内地の人は全く辺境の地理に明るく無かった。後世には益々保守に固執した腐れ儒者が、夷が夏に変るとしては為らぬと、甚だしきに至っては善悪の是非の標準とまでして仕舞ったのだ。 黄庭堅は最後に王回を説得して、同じく王回に荊公を理解させた。
 若し、王回が、友が単に誤解しただけだと言っていたならば、後世の道家の流れからは、「否、王回の全く悪意の中傷であった」と問い詰られていたことだろう。 更に、範沖が李壁の解釈を診て、高宗に言った: 「詩の中でどのような意味を言葉に込めたのかじっくり検証したので安石の心情を読めましたが、然し、それを人に言う勇気はなかなか出ません。然も、たとえ詩人の多くが《明妃の曲》をどのように創ろうとも、貞操観念をも無視されて理も何も無く捕虜にされたことに、尽きることが無い恨みを想って、読む者に悲愴感を生んで感傷的にさせるというところは変えようがありません。安石は《明妃の曲》で言う: ‘漢は自ら恩を浅くし胡の恩を深くし、人生は相知り合うことに楽しみがあるのだ’を、漢の恩は浅いから深く恩を売る為に捕虜にするとするならば、劉豫は罪を免れる。今の背の君のお父上は恩を売って盗人を宥めると解せば、全て安石の意に添うのです。これは天下人が悪かったという意に落ち着きます。孟子ならばこう言う: ‘非常に乱暴で、禽獣にも等しい’のだと。 胡に捕虜で恩を売ったのに君父を忘れて、如何して禽獣に在らず?」
 このような範沖に対し「罪名は、腹黒い魂胆を招聘して卑劣な遣り口」と即断して仕舞うのは早計で、彼にはこの詩の真意が分から無かったのか、彼が惚けているだけなのだろう。本来の意味を『恩の浅い』や『恩が深い』などとは、全く言うだけの値うちが無い」と理解するか、そうで無く、人は利在る者に利を求めてついて行くものか。 母親に母乳を求めるように!
 王回らは誤解に依ってではあるが「範沖は悪意で誹謗した」と誹ったが、併し、彼らにも一点だけ正しいことがあった。詰り、「決して夷と夏を分けることを重んじ無い」ことが、「臣の君に対する愚直なまでの忠誠心は、君と臣とを分けることを強調して無い」ということを「王安石の意」と捉えたことである。
 王安石は理の是非を判断するならば、合理性を唯一の基準にして、真っ向からその他の基準に反対した。この考えは時人を越えたものというだけでは無くて、永遠に難しく最も大切な言葉を示唆したのである。その為、王安石は断固として夷と夏との是非をいう古臭く狭い論調に反対して、仏教が外来の文化故に理も無いと極論を言うことにも反対したのだ。
 同じ時代の人と比較して、王安石のこの思想は非常に先駆的なものであった。 /*当時の思想家であった李覯(りあ)もが仏陀が言った「人を愛すべきである」という説を認め、仏教を全く否定してはい無かったが、にも拘らず偏狭な民族意識が頭を持ち上げ、「仮にやむを得ないとしても、その学識は古くて、田舎の者にも及ばない」と言ったのだが、彼が田舎者でも仏教徒に勝ると思っていたのでは無く、仏教は外来の文化に過ぎないとの彼の本音が出たのだ。曾鞏も又似たようなことを主張していて、出来無い相談とは分かっていたが、仏教徒は改宗して老子を学ぶほうが良いと言ったのだ。此のように理の是非を判断し無い儘、徒に夷と夏の違いを保持せずに、固定化してことを後れさせたことが、[後世で道教の信者と為り、仏教徒を抑圧するだけの横暴な方法論の道士の先駆者であり、今日においても尚国粋主義精神を植付ける先駆者]と為った宋徽宗に影響を与えたのだ。宋徽宗が道を信奉したので国が滅び、余りに多い瑞祥(吉兆)は意外にもすべて国が滅びる前兆になるのだ。清朝政府は鎖国するのが日毎後れ、遂には国都の城門に鍵をかけて居住することが出来無くなって仕舞ったのだ。今日でも未だに多くの人が国粋主義の旗幟を高く差し上げることがあって、極端な輩は愛国主義の票札を貼り付けて、実際には売り渡して仕舞ったのにも拘らず依然として千数年前の夷と狄を防ぐこと、詰り外の世界を常に疑って、恐れて、何時も思い切って開放することを恐れていては、個性も失くして仕舞い兼ね無い。実は全く酷い仕打ちを受けたことがあり、越に立ち向かうが人の邪魔が入って後れたことから、時既に遅くなり酷い目に遭って仕舞ったことを教訓として、如何しても武力を持って対処しなければ駄目だとするのだ。然し、そのことが遂には日毎衰亡して仕舞うことになり兼ねない。
 王安石のこのような先導的思想は友の年代を説得することが出来無かったが、その後神宗という良き理解者を探し当てて、或いは彼の思考の聡明さが英明で尚且つ勇ましい神宗を感化したのかもしれない。 《資治通鑑長編》は二百三十三巻の中で煕寧五年(1072)の五月の王安石と神宗の一段の対話を記載する:「… …臣は仏陀の本を見て、筋が通っていることもあるが、理を捻じ曲げているところが多いので、双方の違いは遠く、そのことはまるで割り符を合わすようであります」と安石が言う。
神宗が言う: 「仏陀は西域人であって言語も相違しているが、理を如何捉えておるのか?」
安石は言う:「愚臣は思います:野合は理、鬼神と意見が合うことが無く、変わるところ無いのです」。
神宗が言う: 「確かのようだ」。
 王安石は、「仏陀の本の六経の真理は一つだけで二つと無く、地域が異なっても異なるものでは無いと記しています。これは孔子の『性相近、習相遠』の思想、人間性は皆同じであるから、その理は失ってはいけ無くて、仏陀は夷狄だが、人に変わり無いのです」と言った。 神宗は王安石の言う説明と分析に対して完全に賛同して、禅宗の慣用語を借りた言葉として、「理が唯一つの思想と結んではいけ無い」となぞって言った。王安石は「外国の聖人から言い出され無くとも、合理的でありさえすれば、譬え鬼神の異なった種類が出ようとも直してはいけません」として、更に駄目を押したのだ。
 王安石は、外国である夏の違うところは人倫の道を駄目にするところであり、財利の争は全く反仏の理由を構成して無いと思っていたのであり、その為に、彼は異なる学の類の話をすることはあったが、公然と一度も仏教に反対したことは無いのであって、このことは醇儒を自任する学者の中では迚も特殊な存在であったのだ。
 嘉祐四年(1059)夏、王安石は熟考の上周到に準備して、意気揚々と万言の《上仁宗皇帝言事書》を献上して、国を治める方策を自分哉に主張し政治の仕組みを顕わにした。彼は当時存在した「内なる主要な問題の処理が未だに放置された儘で、他にも夷狄の問題等が山積しているが、その上財政も逼迫しており、風俗も乱れて・・・・・」と危機感を感じていたのだ。「これらの諸々の問題を齎す『最も重要な原因が人材不足』にあり、そして二番目に薄給にあって、家族を十分に養うことが出来無かったので、官吏は本来清廉潔白で無ければ為らないと思う恥を知る心が日毎亡くなり、結果として汚職が盛んに行われるように為らざるを得なくなった。更には其の為に風紀は大いに乱れ、慎ましく暮すのを恥ずかしく思い奢侈を好み、また資産を溜め込もうとする気など起こさないよう管理する体制を作らねば為らない」とも提言したのだ。 要するに、彼は政治の乱れの原因として仏教を話題とする言葉は無かった。彼は仏教を決して悪い風習、財物を浪費する元凶として無かった。 このことが、李覯の書いた《富国策》に対しての鮮明な争点と為ったのだ。
 王安石は煕寧年間に政局を主宰する時、多くの新法を発表したが、これらの法令のどれを採っても仏教に関する施策に対応するものが無かった。彼は仏教を議論する時も大部分誉め言葉が多く、決して排斥しようという言葉で攻撃することも無かったのは、彼の仏教を見る目がより公平で、穏やかであったことを感じさせるのだ。
 王安石の仏教に対する対応は公正であり、措置も適当であった。仏教を排斥することも無く、同じく放任することも無かった。このような態度はあのように盲目的に仏教に反対する大先輩と友達を超越したものであったのみならず、その上更に後世においても朱などの純粋な道学家達にも優っていたのだ。 王安石の対応に依って仏教の経説にある合理的な考えをも執り入れ、却って儒家思想を発展させ盛んにさせることが出来、詰る所、仏教の地位を越えて再び儒の地位を回復し、それに拠る統治を獲得することにも成ったのだ。儒学を発展させたことに依り保守的で進取の精神を失くした者達を排斥し、排斥された者達が彼を頼っても二度と採り入れられることは無く、そうならないように辞を低くして彼に摺り寄り自分の評価を高めようとしても叶わぬ事で、そればかりか進んで開放の精神を装い、より強大な地位に返り咲こうとしても厳然と拒否したのだ。これが王安石の儒学を復興する基本的な構想と戦略の方針だった。併し、惜しむらくは、王安石のこの理屈に叶った戦略が、彼の方針を左右する構想の一面が殆ど全て仏教の福音に倣ったものであったので衆人の積極的な共鳴を獲得出来無かったのだ。その結果、彼は儒学者の間で全く孤立して仕舞ったのだが、彼は未だ若かったし、又、仏教に身を投じてまでも儒学の理想を復興することを手放したく無かったのだ。こういうことで彼は、ある種跋が悪い気持ちにならざるをなく、厳しい局面に陥り、行くも戻るも進退極まった。王安石は儒学の興隆する過程の中で折悪く一つの分水嶺に突き当たったのだ。儒学家の大部分の者達が仏教に反対であったので彼に面と向かって仏教を責めたのだ。彼らの殆どが韓愈を受け継ぐ者達だった; 安石が去った後には、道学家達の殆どが仏教から盗み取り乍も仏教に反対して、それらの多くが李翺(か)から教えを受けたのだ。仏陀に反対した者達が以前に言い送ったものは偏屈で、偏狭であった。恐らく心身に疚しさが残ったからなのか、期待した結果も出せ無かった。後期の道学家は一方では仏教の核心となる理論を横取りして、また一方では仏教が如何に良く無いものだと言って、その効果は大きかったのに、葡萄をお腹いっぱい食べておいて、逆に彼の胃腸を壊すほど葡萄の酸っぱさを大いに罵り「葡萄は自分には合は無い」と言うことは自身に忸怩たるものを感じさせ、全く誠実の一文字も無いものである。

第三巻に続く(十巻まで)


 原文が古文に近いような文体なのだが、余り意訳をせずに訳しているので、読みにくいところが間々あったとおもいますが、是非とも懲りずに、十巻まで続けて読んでいただけることを願います。

平成十八年五月二十六日

                     訳者より


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