図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

目に見えないものの力

2017-03-19 18:13:19 | 日記



春日大社宮司 葉室頼昭氏 目にみえないものの力 を読んで印象に残った事


私は子供の頃から、家の伝統という目に見えない存在を感じ、いつも不思議に思っていました。 私の家は、平安時代から朝廷の神事、とくに神社と調停を取り持つ仕事を行ってきた公家の家ですが、明治になり公家の制度がなくなり、朝廷の神事とは関係なくなったのに、その不思議な伝統というものが続きました。

神職ではないのに私の曽祖父は奈良の談山神社の宮司になり、祖父は生粋の陸軍の軍人であったのにこれまた晩年には金毘羅宮の宮司になり、また父は銀行員であったのにこれまた晩年には京都の下賀茂神社の宮司になりました。

そして当時医者であった私は、まさか私が神職になるとは考えいいなかったのに、なぜか春日大社の宮司に就任することになったのです。

本人を除くこれらの人々はいずれも婿養子として、葉室家に入ってこられた方の様で、遺伝ではないのに、この家に養子に来ると、「家の伝統の力」という運命に従っていると言う。





平安時代、朝廷のとがを引き受け処刑された先祖がいるとも書かれています。




守ったものは、守られる



そんな自然の理を感じます。





震災の心で日本のスピリットから素粒子論まで結ぶ展開は


古事記には、ビッグバン以前の0の場を含む宇宙論を伝えている

葉室頼昭氏の言葉から連想したものです。

  
著書の中で

私が長年かかって、神道に見られる日本人の先祖が伝えてきた宇宙の仕組みを知り、真実の人生を伝えてきた先祖たちの素晴らしい智慧や伝統をお話しているのに、今の人はこれえを理解しただけで解釈し、なんら日常生活に反映されないということは、まことに悲しむべきことであります。

と十年以上の講話の体験から書かれています。

戦後のアメリカから入った教育において頭で理屈を解釈しようとするが、日本の剣道、柔道、茶道、華道、衣紋道などは、「いのち」の感性を毎日の生活の中で実践することだ。




その長い歴史を持つ天皇の道を生きようとする言葉が

象徴としてのお務めの言葉と感じます。


職人が務めの質にこだわるようにスメル(統める)道にこだわった言葉


目に見えぬ統める力を産むには、たゆまぬ日々の努力が求められる


職務を軽減しては、統める力が失われると考える


国作りの伝統がなぜ皇室という形で続いてきたのか?


慰霊の旅などは行っていただかなくてもいい最たるものという意見もあるようですが


他国であれ自国であれ魂を尊ぶから連綿と繋がる歴史





葉室頼昭氏 目にみえないものの力 を紹介している文化財復元センター
http://fukugen.info/wordpress/


確かに「伝統」というものも、目に見えないものですが、わたしは「文化」というものも同じだと思う。

私の心の中には、いつの間にか「文化とは人の精神的な営み」という答えがあった。

そう、「精神的」なんですよ。

そうすると「文化財」とはなにか?という話になってくるのですが・・・・

私の答えは「文化財とは、それを形にしたもの」あるいは「それを記したもの」という価値観が、いつの間にかあった。




少し横道にそれるのだが、当社で復元した「法輪寺・虚空蔵菩薩像」を、ある東文研の研究者に見ていただいた時に「この色はどこから解ったのか?」と聞かれた。

現在は「蛍光X線分析装置」を補助金で買いましたが、当時はありませんでした。
こちらが「残った色から判断した」と言いましたら、ひとこと「分析すらしていないものは復元とは言えない」と、切り捨てられたことがあった。

この手の分析機器はとても高価で、国の予算でこれらの機器を買える人にとっては「すら」なのでしょうが、我々民間の企業にとっては「なんてとても」というものなのですが、しかし、その高価な分析機器でいったい「何」が解るのか?
判るのは使われた「絵の具の成分」だけである。

彼らにとっては、そういう「物質」にしか価値を見出さないのか、あるサイトで昔、研究者が絵の具の分析をしたら「どこどこ産」のトルマリンが検出された。
そこのトルマリンを使っているということは、「当時」それが日本に入ってきていたということが確認できたと、あたかも鬼の首を取ったような話でした。

文化財の価値って、絵の具の成分ですか?
私には違うとしか思えない。

なぜそれを描いたか?「作者のおもい」こそ、「精神的」なものだと私は思う。


そのはなしと、葉室頼昭さんの言われていることは、相通じると思う。


私もこの仕事は、「可視域」では朽ち果てたり、黒ずんだりして見えなくなったものでも、「可視域外」つまり「目には見えない」赤外線や紫外線を使うと、そこに残っているものがあると言うことを使って、「制作当時の姿」を、現在に甦らせるものです。
しかし「目に見えないもの」はそういう「かたち」の在るものだけではなく、そこには「先人」つまり、それを残した人の存在があり、「何故」それを残したのか?
その「思い」こそ、残すべきものだと思います 。
そしてその「思い」は、実は「物質」にも宿っています。
そしてその先人が存在したから、現在のわれわれは「在る」のだと言うことを、私達は忘れてはならないと思いますし、そしてそれが本来その文化財の本当の価値だと「内なる存在」は教えてくれました。
先人とは、個人的に言えば、「先祖」であり、社会的に言えば「組織の創始者やその意思を受け継いできた人たち」を差します。
そして、我々がその「先人」の残したものを、次の世代に繋がない限り、また我々の残したものも、次の世代に引き継がれないということです。
      
つまりそれらは先人からの「預かり」ものなのです。
 預かった者はそれを次の世代に受け渡す「義務」があります。






明日は昼と夜のバランスの取れる春分の日







目に見えぬ伝統と目に見える今の結びが産まれると良いですね















コメント (10)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする