図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

天地自然の大きなめぐみに感謝する福杓子祭

2012-02-19 17:44:38 | 日記


旧暦1月28日にあたる今日
八雲山のふもとに鎮座する素鵞社(そがのやしろ)にて
福杓子祭が祀られる
ご祭神は素戔嗚尊

ムから光が産み出されるならば
古代には神事は夜に行われていた
日月神示は宗教ではなく
日 月 命 の存在の証

内奥の自分は、神につながっている
故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく
自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである
其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある

天地(てんち)不二、神人合一
天(あめ)は地(つち)なり、地(つち)は天(あめ)なり
不二(ふじ)なり、アメツチなり、神は人なり
人は神なり、一体なり、神人なり
神と人との大和合、現、幽、神
一体大和楽の光の国実現を以って教旨とせよ。
 
 弥栄実践
 祓実践
 祀り実践

大宇宙の弥栄生成化育は寸時も休むことなく進められてゐる
人としては其の刹那々々に弥栄を思ひ、弥栄を実践して行く
宇宙の総てはま九十となってゐる
どんな世界でも、悉く中心に統一せられてゐる

そんなことを想いながら散歩してましたら
八雲立つと歌いたくなるような雲に太陽が溶け込んだ画像が撮れました






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 日 月 人の結び

2012-02-07 13:44:58 | 日記

一二三神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの キ)は地震の日は二の日である。
二の世は、次の世、月の世であると伝えているように感じます。
出居清太郎氏は「 原子で始まり原子で終わる 」と言葉にしていたそうです。
昭和の時代の身近な原子力発電から始まり、人の生活に無縁のように考えている太陽の原子反応が変化を生み出す。
お天道様は恵みをもたらす天照大神を象徴しているのであれば、
姿を隠した天御中主大神は太陽エネルギーの元の原子反応。
その太陽エネルギーが電磁波を生み地球の地震活動を活発にする。
地震と太陽電磁波は人の思いの変化を生み、天の響を伝え思いを変えていく。

古事記の伝承では宇宙森羅万象は神の想いで原子が生まれ原子の結びで太陽が生まれ地球が生まれそこに神が隠れていると伝えているようです。
森羅万象は、天御中主大神から始まる神代七代に結ばれている。
そうであれば、太陽の活動が激しくなると、地球の火山活動は激しくなり、人の想いも遺伝子も変化が起こる。

「 原子で始まり原子で終わる 」とは
命と物質の結びに気づく世に変化する。
イザナミにささやいた菊理媛(ククリヒメ)は次の世(月の世)で括り(菊理)直しをささやいていたのでは?

地震の巻 / (二曰んの キ)  第一帖 (三七八)
われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。
太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。
常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。
目にみえぬ世界からすれば、過去、現在、未来という時間ではなく生成発展の変化があるだけ、只存在するものが生れに生れつつある。
それは、生死を結び、善も思わず真も考えず美も思わない。
只回りの存在のために生れゆき弥栄えゆくのである。
善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。
何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。
生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。
存在は生命であり、生れつつあるもの、そのものである。
何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。
必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。
また、総てのものの本体は、ムなるが故に永遠に存在する。
地上人は、生前に生きた結びが地上に生き、地上に向って進みゆく。
また、地上人は、死後に生き、死後の結びに向って進みゆく。
しかし、その総ては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。
善でもなく、悪でもなく、只生れつつあるのみ。
命に空間はない。
それは、その内にある情動によって定まり、その理によって一定せる方位もない。
また時間もなく只情動の変化があるのみである。
地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。
ただ肉体を衣とした物質を得たときのみ命の法則が変わり真善美偽悪醜とぶつかることになる。
創造されたものならば、永遠性はあり得ない。
宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。
その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。
只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。
存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。
それはま九十の神であり、七る十なるが故である。
ま九十は大歓喜の本体であり、七る十はその用である。
それは、善でもなく悪でもない。
真でもなく偽でもない。
美でもなく醜でもない。
また愛でもなく憎でもない。
しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。
善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。
これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りてとどまるところを知らない。
それは、神そのものが絶えず、命を産み原子を産み星を作り生長し、歓喜しつつあるがためである。
さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜であり命の親である。
命の親の歓喜を内的にうけ入れる神は無数にあり、これを天津神と云う。
命の親の歓喜を外的にうけ入れる神も無数にあ り、これを国津神と云う。
この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる神と、その世界が存在する。
これによって、二つの世界が円通し、常に弥栄するのである。
地上人と魂との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。
それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の霊人がいて、常にその円通をはかっている。

太陽活動が地球に及ぼす影響は現代になってようやく判明してきつつある状況です。
天地が原子から徐々に産まれていく過程を古事記の伝承のなかに暗示する内容があることは、古代そのような概念が有ったからなのか?明日の満月に聞いてみますか。
コメント (4)
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