図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

みこと 命

2013-01-26 20:25:41 | 日記

上代、神や人の呼び名の下につけた敬称

日月神示に
親と子であるからとあるように
神道では命は 
神の分け御霊とされています
古への時代
命とは 
神から産み出だされたもの

いつのまにか命は
脳波や心拍、瞳孔の目に見える状態からしか判断されぬようになってしまいました
暮らしのうえで命があるから感謝することもなく
命の尊さを生きる価値観として失ってしまったようです
いじめやテロに対応する現代の考えに
命は神からいただいた尊いものという考えがあるでしょうか

命の存在を現代の科学はとらえることができるのでしょうか
相対性理論に反する巨大な天体の存在にようやく気づくように
命の存在の巨大さに気づくときのように感じます。

うお座の時代から水瓶座のアクウェリアスの時代に移行したとされています
誕生月からは水瓶座に入りましたが
なぜ誕生月の星座の向きと時代の向きは
逆であるうお座から水瓶座なのでしょう
それは価値観の逆転を象徴しているように感じます。

神より産み出だされた天地自然の動き、大地の動き
それを天災と思うことは
価値観が逆転していないだろうか

目に見える結果からのみから生きる目的を探すこと
自己の成果を主張し争うこと
それは古への心と逆転していないだろうか
市場経済という価値観のなかで
徳をつむ価値をみつけることができるでしょうか
それは高度経済成長にはじまる
ほんの半世紀まえに加速したのでしょう

古への神殿では
天地のめぐみを神に感謝し
生かされていることに感謝していた
そうでないのであれば
天地自然のめぐみがなくなっても不思議ではない

日月神示(一二三神示)のなかに
ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。

マコトの天照大神は太陽神としてもっと異なる面があるようです。
素盞鳴命の悪は悪でないとするなら
悪の象徴とされる八岐大蛇は悪ではなく
国常立神の現われとされる八大竜が隠れたことを示しているのかも

命(みこと)は、アラフル(現生る)神

命とは現生るために産み出されたもの

にほんのことばは うみいだすことば

古への言霊のさきはふ国がささやいているようです
コメント (1)
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地震の巻は二日んの巻

2013-01-11 11:40:10 | 日記


ひふみ神示 地震の巻は日月神示では二曰んの○キと書かれています。
なぜ二曰んが地震なのかわかりにくいですが、
扶桑(二三)の巻を重ね合わせて考えますと、

五十黙示録 第01巻 扶桑の巻
第二帖
世の元、○の始めから一と現われるまでは ○を十回も百回も千回も万回も、くりかへしたのであるぞ、その時は、それはそれはでありたぞ、火と水(一と三)のドロドロ(十渦十渦)であったぞ、その中に五色五頭の竜神(渦巻く二ん)が御ハタラキなされて、つくり固めなされたのぢゃ、今の人民は竜神と申せば、すぐ横を向いて耳をふさぐなれど、マコトのことを知らせねばならん時ざから、ことわけて申してゐるのぞ。竜神とは渦巻く神(理 誠の神)であるぞ、五色の竜神とは国常立尊の御現われの一(ヒトツ)であるぞ。
 
第八帖

 平坂の 岩戸(言答)ひらけむ 音のきこゆる。

 神に怒りはないのであるぞ、天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。太神は愛にましまし、真にましまし、善にましまし、美にましまし、数にましますぞ。また総てが喜びにましますが故に怒りはないのであるぞ、若(も)し怒りが出た時は、神の座から外れて了ふのであるぞ。救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられると知らしてあろが、その東とは、東西南北の東ではないぞ、このことよく判りて下されよ。今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、ウシトラとは東北であるぞ、ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、始めの始め、終りの終りぞ、弥栄の弥栄ぞ、イシヅヱぞ。

扶桑の巻には、
竜神とは、渦巻く二ん。
救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられる。
と書かれています。
それは、
火と水(一と三)のドロドロを二になれと渦巻く竜神様、
ヒムカシとは東より日向しをあらわしている
ように感じます。
二日んの○キとは、ウシトラコンジンに向かう竜神。
天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。
地の神が怒ったのではなく、
智の神が目に見えぬ世界を示す道を示すものであると。
地震の巻、二日んの○キは、目に見えぬ世界の理を示す帖と感じます。

地震の巻 第1帖の画像を見ると太陽と太陰それを結ぶ3つの竜神さま、それと5つの竜神さまに見えます。
一番上の太陽は、はじまりに強く輝き、二番目の太陰は終わる前に強く輝く。
その二つの線を結ぶ渦巻きを三番目の線があらわしている。
三番目までが、たかあまはらを象徴し命を産み出だし、原子の元を産み出だす。
4番目からは国常立尊のあらわれである、
火と水から生まれる五色五頭の竜神のハタラキを示し、
5番目が日のハタラキを産みだし、
6番目は月のハタラキを産み出す。
4番目が日と月のハタラキを地に産みだし、
一番下の少し離れた渦巻きが、すべての無限の段階の命に地のハタラキを結んでいる。


扶桑の巻
十五帖

 百不足(モモタラズ) 八十隈手(ヤソクマデ) いまひらかんときぞ。

 天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は我(ガ)が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民少ないぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられてゐた人民たちよ、もうその時は過ぎてゐるのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地をふみしめよ、大地の気が身内に甦るぞ。

日月神示では8通りに読むことを求めています。
日月神示の解読として
数字とカナで書かれている帖から
直線と曲線で表された地震の巻をひもとくことに
8通りのヒントがあるのでは?

2013年は少しずつそんなことができるといいな。


目に見えぬ神の心にかようこそ
          
人の心のまことなりけれ
コメント (2)
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