図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

五蘊の結び

2012-11-26 15:18:34 | 日記


般若心経では観音様は一切を五蘊の集まりであるとしています。
色即是空 空即是色 想いも行いも認識も二つの結びのあらわれ。
空の理法を地上で波のように羅し(経糸を絡ませて織り目が網のように広げ)
蜜のように味わってほしい。
そんなイメージをパステルで描きました。
神社のご神体の石に刻まれている直弧紋
円盤の中にいくつかの直弧紋が構成され立体的に結ばれているものもあります。
その直弧紋の真ん中の空間に空の理法を感じました。
仏法も神道も同じものをあらわしているように感じます。


日月神示では別な表現で
五十黙示録 第03巻 星座の巻
第一帖

 この巻「星座の巻」。偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ、天に星のある如く地には塩があるのであるぞ、シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのであるぞ。天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ。

第十七帖

 土のまんぢうと申してあろう、土が食べられると申してあろう、土から人民を生んだと申してあろう、ウシトラコンジンの肉体は日本の土ざと知らしてあろう、土に生きよと申してあろう、地は血(智)であるぞ、素盞鳴命様であるぞ、その土が生長して果ての果てに皮をぬぐ、それが地変であるぞ。


第二十三帖

 二二の二の五つの今あけて、よろづゐんねん出づる時来ぬ。天の理が地に現はれる時が岩戸あけぞ、日本の国が甘露台ぢゃ

天の星と大地は同じもの
大地から人は生まれたもの
それは、天の理を地にあらわすため

ひふみ神示は大地に天の理をまことをとおしてあらわしてほしい
と語りかけているように感じます。
それは大地に上に 般若の智慧を波羅蜜て五蘊をあらわすことのように思います。

般若心経は中ほどより内容が変化します。
最後の一行が一番ご利益を生むように書かれていることが多いように思いますが、
私は前半のほうに魅かれます。
霊感をお持ちの方が、
般若心経には貶められた中国の僧の恨みが籠められていると
書かれています。
日本の社会で般若心経がはたしていることを客観的に評価した言葉なのか疑問に
思っています。
霊的視点より内在神を説く方が、野田さんに義のあるかのように書いています。
日本の神の義、アメリカの圧力から霊的にバランスをとろうとして努力しているような内容です。
しかし、3.11の大地の響きから何かうみだしたのでしょうか?
己ではなく人を育てる想いがあるのでしょうか?
橋下さんにはスサノオの繋がりがあるとされますが、領土という物欲をあおる人間を頭とすることが破壊と創造を司る人の選択でしょうか?

目にみえぬ世界のことは
そのプロセスから何が生まれるか
そういう視点が大切と感じます。



ひふみ神示 第22巻 青葉の巻 / (ア火八の キ) 第十七帖

 悪く云ふとめぐりつくるのぢゃ。
今度の建替へは人間智恵の建替へとは大分違ふ大層ざぞ、
日の神ばかりでは世は持ちては行かれんなり、
月の神ばかりでもならず、
そこで月の神、日の神が御一体となりなされて「ミロク」様となりなされるなり、
日月の神と現はれなさるなり。
「みろく」様が日月の大神様なり、
日月の大神様が「みろく」の大神様なり、
千(チ)の御先祖様 九二の御先祖様と御一体となりなされて
大日月の大神様と現はれなさるなり、
旧九月八日からは大日月の大神様とおろがみまつれよ。

今は、出雲大社では神在祭がとりおこなわれ
日本の神々が出雲に一つに集う時

五三体の大神様 五三体の大神様、天之日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、地(クニ)の日月の大神様、世の元からの生神様、百々(もも)の神様

日月神示に書かれる、一すじのま九十を十四て九れ(ひとすじのまことをとおしてくれ)
とは大儀を言うのではなく、
何が実行できたかということで判断すること。
唯一の神や大儀を言葉にしていても
命の循環する道筋でなければ洗濯される
今の選択が命の洗濯となってくるように感じます。
日月神示を解読しても
口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)がなければ
掃除身魂結構とはならぬのでしょう。


小悪魔が好きな方もおりますが
魔とはひとすじの神の結びからそれた存在
病気のようにバランスを崩した状態
まことの神の力をあらはす代となれるば
掃除される存在なのでしょう。
ただ善悪は相対的な感情から生まれるもの
破壊と創造を司る神の視点からどのように映るのでしょうか
自らの身の回りの選択の因果がすぐにあらわれる時期のようです
旧暦9月8日を過ぎ冬至を迎える期間
カムナガラとはどのようなものか思い巡らす季節かもしれません


善悪は難しいもの、ヒンドゥ教に伝わるマハーバーラタの最後に
神の道に尽くしたパーンダヴァ兄弟が地獄に落ち
宿敵のドゥリヨーダナが天国で暮らす
それが神の最後の試練として用意されています。

色々な可能性を心の底に問うてみたいですね。
コメント (2)
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 全ては○△□で

2012-11-12 14:56:44 | 日記


ヒンドゥー教では、三神一体(トリムルティ)とされています。
ブラフマー:宇宙の創造を司る神
ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神

キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上では世界で第3番目の宗教ですが、世界3大宗教といわれるのは、ヒンドゥ教ではなくキリスト教、イスラム教、仏教です。
信仰される地域がインドや東南アジアの限定的なため世界宗教とはされていません。
ヒンドゥー教などの多神教は、その国の神を重んじます。
その土地の神様は、世界宗教とされる宗教では、邪教となりやすいのでしょう。
世界宗教は人間の文明である権力とともにその土地の神と人を支配する発想に使わていると思いませんか。
法華経曼荼羅に天照大神の記名があるのは、仏教の中では異質なことのようです。
9割がヒンドゥ教であるバリヒンドゥでは土地の神が息づいています。
日本では、インド仏教にはない祖霊信仰が神道とは気づかれずに息づいています。
目に見えぬ魂の弥栄からは、会う人、住む土地の神に自然の理法があるのでしょう。
現代の思考は、人間の文明だけの視点で、神からいただいた魂の弥栄、産まれ出でた環境、土地の神、魂の輪廻転生を忘れた循環しない概念のように感じます。
そんな循環しないカリユガの時代にヒンドゥ教は一つへの循環した神の視点の世界を産みつづけているように思います。
ベーダの編纂することにより高貴なる(アーリア)人が、モヘンジョダロやハラッパの衰退したインドでバラモンとして受け入れられましたが、時代とともに神の儀式が形骸化して仏教やジャイナ教が生まれてきたようです。
そのような中からバラモン教からヒンドゥー教に変わっていきます。
ヒンドゥー教では、神話的叙事詩マハバーラタ、ラーマーヤナに魂のつながりや輪廻転生やダルマに基づく生き方が生き生きと画がかれています。
神とともに空とぶ乗り物や火を吹く武器で戦っていた古代の記憶が描かれています。
インドの神と共に生きた古代の生活を大切にし、ベーダとして伝承していたので世界でただ一つ有史以前の生き方が残されたのでしょう。
インドの古代の4つのユガの思想では、カリユガの時代、人間の文明によって人々が神から遠ざけられるとされています。
ただ紀元前2世紀から2世紀ころにベーダを編纂してつくられたマヌ法典では、カリユガの期間が43万2000年とされています。
ですが、現代のインドでは、ドヴァーパラ・ユガの始まりに近いというリシも現れています。
インドにおける時間の概念は、「インド的な循環的時間、無限時間の中での巨大な循環周期なのである。現代人が一般的に持っている直線的無限時間の観念は、西欧近代においてはじめて成立したものであるが、それがユダヤ教に起源する終末へ向かう有限の直線的時間の観念を無限へと展開したものであるとするなら、「無限」の観念の導入という点では、インドこそが世界思想史上はじめて時間の無限性の観念を一般化したと言えるかもしれない。」
ということを書いている方がいます。
私は432の長い時間を象徴した表現のように感じます。

人間の文明によって神から遠ざけられぬためには、
故郷を大切にして、産土神を大切にし、大いなるゆう一つの存在への感性を磨くこと
と日本的に解釈してもいいかなと思っています。

時間というと、マヤの長老がマヤ暦は12月で終わるのではなく新たな時代に移行するのだと、終末ではなく循環することが話題になっていますね。
やはりドヴァーパラ・ユガなのでしょうか。



In DeepさんのBLOGに天の川銀河の中央から超巨大なフレアの放出の確認されたことが紹介されています。




2011年に NASA のフェルミ線望遠鏡の観測により明らかとなった天の川銀河の中心の構造。中心から巨大なエネルギー(X線とガンマ線など)の泡が周辺宇宙に広がっています。記事「私たちの銀河系の中心から噴出する「強大なエネルギー」の存在を NASA が発表。

In DeepさんのBLOGなかでは古代マヤの宇宙観を紹介しています。
古代マヤでは、銀河中心はフナブ・クー(Hunab Ku)とよばれていた。フナブ・クーは、数あるマヤの神々の中の最高神である。それは地球や太陽を含むさまざまな惑星を形成したいわば「母の子宮」としての宇宙神であるのみならず、意識進化のパルスを送っている大本にあるものだとも考えた。

現代の時間の概念、宇宙の概念より古代の概念のほうが真理・神理に近いのかもしれません。

この画像を見て日本書紀に書かれている天地開闢のイメージを連想しました。




「昔、天地は未だ分かれず、陰陽も分かれていなかった。混沌としている状態は鶏の卵のようで、ほのかに芽生えを含んでいた。その明るく清んだ物はたなびいて天となり、重く濁ったものは固まって地となった」
陰と陽を緑と黄色に表現しましたが、天の川の中心より産まれる中心から巨大なエネルギー(X線とガンマ線など)の泡は陰と陽の気と同質のものを感じます。

銀河も星も大地も人も全てひとつの命の現れ。

その目に見えぬ神の心に思い巡らすことが、まことの道


ひふみ神示 第30巻 冬の巻に次のように書かれています。
第一帖

 宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点 誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。
 神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。
 又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。
 総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。このことよくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。霊は言ぞ。この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。
 死んでも物質界とつながりなくならん。生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それはまだまだ未熟な事ぞ。
 死後に於ても、現実界に自分がある。それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。自分の衣は自分の外側であるぞ。自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。切りはなすこと出来ん。
 自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ。
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