9月24日の玉川上水から小川分水への分水口の紹介が中途半端だったので
補足しておきます。
歴史と経緯は下の看板を
分水口は小さなトンネルになっていて、暗がりの真ん中の
明るいところが玉川上水と繋がっているところ。
シャッター速度2秒で撮っています。ぶれが顕著ですが、
ストロボを発光させたものより、雰囲気が伝わるのでこのま
ま掲載。
小川橋側から見ると、小川分水(新堀用水)が右手、玉川上水は左手を流れている。
9月24日の玉川上水から小川分水への分水口の紹介が中途半端だったので
補足しておきます。
歴史と経緯は下の看板を
分水口は小さなトンネルになっていて、暗がりの真ん中の
明るいところが玉川上水と繋がっているところ。
シャッター速度2秒で撮っています。ぶれが顕著ですが、
ストロボを発光させたものより、雰囲気が伝わるのでこのま
ま掲載。
小川橋側から見ると、小川分水(新堀用水)が右手、玉川上水は左手を流れている。
枕崎からの帰途、知覧の特攻平和記念館に寄った。
8月に知覧の親戚を駆け足で訪れて以来、気になっていたのだ。
町並みはしっとりとして落ち着き、石灯籠の続く道路が美しい。
特攻平和記念館の入り口脇に立つ銅像「とこしえに」
記念館への道。 その脇にいろいろな碑がある。
韓国人の特攻隊員11柱を弔う碑
記念館の中は、特攻隊員の遺書や遺影そして当時の戦闘機などの展示だ。
私は、いくつかの遺書や辞世の句を読んで、涙がでてとまらなかった。
ほとんどが、潔い、そしてひとえに国を護るためという心境を文章にしている。
彼らが肉親や愛する人を思えばこそ、どんなに悩みや想いがあったとしても
喜んで特攻に行くことを伝えなければと思ったのではないだろうか。
戦争は残忍だ。 彼らを安直に美化するのは危険だと感じる。 彼らもこの
戦争で殺し殺された多くの犠牲者なのだから。
当時の兵舎を復元したもので、半地下構造。
記念館脇の護国神社の参道から
鹿児島の枕崎に行ってきた。 施設暮らしが続く叔母さんの見舞いと用件のためで、
ゆっくりと写真をとる時間は無かったので、車からちょっとだけ降りて撮ったものです。
昼ごろ、開門岳をバックに。 叔母さんがいる老人介護福祉施設が右手に見えている。
用件を終え、枕崎から坊津への途中にある耳取峠から開門岳を見た風景。
右手の岬の先に、地元で”立神”と呼ぶ岩がそそり立っている。
小川橋から玉川上水を遡上。 百mほどで小川分水の取水口。右手が上水、左手が新堀用水。
今日は体調不良でここまで。 また、明日から土曜日まで九州に行くためお休みします。
犬達の出番が少ないので、ここらで主役をチラリ。
レナのアップ
レナとキラの喧嘩体操の紹介を
開始前の平和なキラレナ
上と下で噛み合い(もちろん甘噛み)
大体、30秒ほどでお開き
その後の休息。
野火止用水の名前の由来などが、途中の表示板に書かれてあった。
それを写真に撮ろうかとも思ったが、なんとなく気が進まず撮って
いない。 で、新座市のサイトにちょうどよいものがありましたの
で引用させていただきます。
■野火止用水の歴史
徳川家康が江戸城へ入府後50年程たち、江戸の人口増による上水の不足がおこり、1653年(承応2)幕府は多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許しました。
総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いました。
難工事になり、信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、1654年(承応3)完成しました。
信綱は、その功績により関東ローム層の乾燥した台地のため、生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許され、1655年(承応4)に野火止用水を開催しました。←開催は開削の間違いでは(筆者注)
工事担当を安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。
現在の東京都小平市から掘りおこし、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約24キロメートルにも及ぶ用水路です。
用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
川越の商人榎本弥左衛門が書いた「萬之覚」によると工事開始は2月10日で、その40日後の3月20日には野火止に水が流れてきたと記されています。
用水の分水割合は、玉川上水7割、野火止用水3割といわれ、主として飲料水や生活用水に使われました。
ということで、地名が由来のようです。今の新座市の中心部。
松平伊豆守の功績を讃えて「伊豆殿堀」ともいわれるとか。
写真は本流の始まる地点に咲いていた青い花。