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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~番外編~ 糟屋評のお役所跡

 
先日新聞に載ってた糟屋評のお役所跡の現地説明会に行ってきた。
“評”(“こおり”と読むらしい)ってのは、大宝律令(701年)以前の地域区分みたいなもんで、後の“郡”にあたるもの。
京都・妙心寺の鐘(観世音寺の鐘(無銘)の弟鐘と考えられる)の銘に「糟屋評のお役人の舂米連広国(つきしねのむらじひろくに)っていう人が造らせたんだよ」って書いてあって、その「糟屋評のお役所」の実在が証明されたってことになるらしい。

このお役所の東側からは同時代の正倉(倉庫)群の跡が見つかっていて、さらにその東側にはこれらの遺跡より100年ぐらい前のものだけど、鶴見塚古墳という80m規模の大きな前方後円墳がある。
この古墳は筑紫君磐井の息子・葛子の墓だという言い伝えがあるそうな。
葛子といえば、磐井の乱で親父殿が敗れた際に、連座を逃れるために糟屋屯倉(かすやのミヤケ)をヤマト王権に献上したといわれているので、糟屋屯倉がどこにあったのかは不明だけど、もしかしたらこの遺跡の下に屯倉の跡が埋まってるのかも。

さらに、ミヤケといえば那津官家(なのつのみやけ)。
鶴見塚古墳は、那津官家跡と考えられる比恵遺跡の近くにある東光寺剣塚古墳(那津官家の関係者の墓と考えられる)と時代・規模ともほぼ同じだそうなので、位置関係などを照らし合わせれば、もしかしたら那津官家の政庁の場所など、謎を解くヒントにもなるかもしれない。

九大の農場から見つかった糟屋官衙遺跡群 阿恵(あえ)遺跡。場所は須恵川と多々良川の間の平野部で、近くを大宰府と都を結ぶ官道が通っているらしい。今なら空港も近い。今回の調査は遺跡の範囲を調べるためのものだそうで、西側はまだ調査できない桑畑や道路があるので未調査だそう。
遺跡の平面図(説明会資料より)

広い穴が掘立柱を建てるために掘られた穴で、左下の丸いのが実際の柱の跡。
こっちは柱の跡の断面を調べたのか?
政庁跡からの出土品。出てきた土器によって、遺跡の時代を推定するらしい。


こちらはよくある復元品。役所ではこういうのを使ってお仕事をしていたんですねって。
桑畑の向こうに正倉跡や鶴見塚古墳があるらしい。
今日の福岡のWBGT(暑さ指数)予報値が9時~12時で28度(厳重警戒)。説明の途中でへたばった少年たち(息子と友だち)は日陰でゲームなんかしてやがる。


鶴見塚古墳にも寄ってみようと思ったけど、暑くて歩くのは辛そうだったので、帰りに車で探してみたら、史跡として整備されてないようで見つからず。
でも、どうも前方後円墳としての原型は留めてないみたいなので、まあ、いっか。

 大きな地図で見る<.a>


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「糟屋評」の役所跡確認 粕屋市でコの字形遺構見つかる
2014/07/15付 西日本新聞朝刊

福岡県粕屋町教育委員会は14日、同町阿恵の九州大付属農場内にある糟屋官衙(かんが)遺跡群・阿恵遺跡から、700年前後に一帯を統治した「糟屋評(かすやのこおり)」の役所跡とみられる建物群の遺構が見つかったと発表した。京都市・妙心寺に残る飛鳥時代の鐘に「糟屋評」の文字が確認されていたが、その実在を示す発掘史料はこれまでなかった。町教委によると評の役所遺構は全国でも数例しかなく、「当時の地方支配の実態を推測する上で極めて重要」としている。
律令制では地方の行政区画として「郡」が用いられたが、701年の大宝律令以前は「評」と呼ばれていたとされる。糟屋評は現在の粕屋郡一帯を治め、698年鋳造とされる妙心寺の鐘(国宝)には、「糟屋評(かすやのこおりの)造舂米連廣國(みやつこつきしねのむらじひろくに)」という長官の名が記されている。
遺構は、長屋状の建物(幅4.2メートル)5棟の柱跡が南北約55メートル、東西55メートル以上にわたって「コ」の字形に並んでおり、当時としては大型の建造物とみられる。柱跡から出土した須恵器の破片が7世紀後半から8世紀の特徴を持つことや、ほかの役所跡と同じ構造から、評の役所跡である可能性が高いという。約130メートル東側では、昨年度の調査で倉庫群(計6棟)の遺構も見つかった。町教委は税として集めた米を保管する高床式倉庫だったとみている。

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