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雑感録

福岡なるぼどフシギ発見~その14~ 武功の神様は商売上手? 日宋貿易で栄えた八幡宮

 
カミカゼ吹いて敵国降伏
ツワモノどもが夢の跡


筥崎宮(国指定重要文化財)
921年(平安時代中期)~

こんばんは。
ひっさしぶりのミステリーハンターはワシ、イワサキ太郎じゃ。
ワシゃあ商売で日本一になることに決めたけんど、平安時代の終わり頃からも商いで賑わった時代があったんじゃ。
ちゅうてもの、才覚と力量さえあれば身分に関係なく力を発揮できたワシらんころとは違うて、このころの商いは荘園を持った力のある人が牛耳っとったらしい。
商いの主な相手は中国や朝鮮。
中国では907年に唐が滅亡。
五代十国の争乱の時代から抜け出したのが、じゃった。
宋は北の遼や金に脅かされて安定した国家ではなかったけんど、東南アジアやインド、ペルシャなどと交易を行なって稼いでいたようじゃのお。
朝鮮では高句麗から派生した高麗(こうらい)が新羅、百済を倒し、936年に半島を統一。
渤海(ぼっかい)は925年に遼によって滅ぼされとるきに。

さて、肝心の博多の方はちゅ~と、先述の通り鴻臚館を通じた官営貿易は平安末期(11世紀ごろ)には民間貿易にとって代わられて、港は荒津から平清盛が改修した袖湊(そでのみなと)の方に移っちょる。
もちろん、清盛が袖湊を整備したんは日宋貿易でがっぽし儲けるためやが、博多湾沿いに荘園をもっちゅう寺や神社も貿易を奨励。
商魂たくましい中国人は日本に移り住んで、博多や西新、箱崎などに大唐房(だいとうぼう=大唐街)と呼ばれるチャイナタウンちゅうか、日中混合の商業エリアを形成しとったそうじゃ。
そん中の箱崎の大唐房が筥崎宮の門前町。
つまり筥崎宮もこの頃がっぽし儲けよった貿易スポンサーの一つやったっちゅうことや。
この頃で言えば、太宰府天満宮(当時安楽寺)宗像大社なんかも貿易を奨励していたようじゃが、実は裏には都の有力寺社がおって、筥崎宮の場合は同じ八幡フランチャイズの石清水(いわしみず)八幡宮がついとったっちゅう話や。
それにしても、インチキ土佐弁もちっくと疲れるきに、ここいらでやめとくでや。

そういう訳で筥崎宮
公式ホームページによると、筥崎八幡宮ともいい、前述の石清水八幡宮や大分の宇佐八幡宮とともに日本三大八幡宮とされています(日本以外に八幡宮はないと思うけど)。
神功皇后が宇美で生んだ応神天皇を祀っていて、一説では創建は921年。
八幡タロスの神託を受けた醍醐天皇が「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ=天子の直筆)を下賜され社殿を建立し、923年に飯塚・篠栗あたりの大分(だいぶ)宮を移してきたということらしいですね。
ご神木の筥松は、応神天皇が生まれた時の胞衣(胎盤など)を筥に入れて納めた印に植えられた松とのこと。
アビスパ福岡、ソフトバンクホークス、bjリーグのライジング福岡、ラグビートップリーグのコカコーラ・ウエスト レッドスパークスなど地元スポーツチームが毎年優勝祈願に訪れる。ご神木・筥松の玉垣には各チームの巨大絵馬(?)が掛けられている。


日宋貿易時代のことは前述の通りですが、1274年(鎌倉時代中期)の第一次元寇(文永の役)の際は東の激戦地となり、社殿は焼失。
戦後復興の際には亀山上皇も「敵国降伏」の宸筆を納め、1281年の第二次元寇(弘安の役)では防塁による備えや暴風雨の助けもあって、元軍を都市部に上げることなく撤退させたため、カミカゼ神話が出来上がったのです。
武功の神様・八幡タロスも面目躍如といったところでしょうか。
その後も建武の新政後に九州に逃れた足利尊氏が再挙兵の際に戦勝祈願に訪れたり、豊後(大分)の大友氏と博多の覇権を争った大内氏から手厚い庇護を受けたり、太閤秀吉が九州征伐後の博多復興の際に本陣を置いたりしていますが、詳しくはまた別項で紹介しましょう。
CMの後は例によって現地からお伝えします。

チャラチャチャ~
<CM>


筥崎宮の参道は博多湾のお潮井浜から国道3号を越えて本殿へと一直線に延びています。
でも、どういう訳かお潮井浜のところは門が閉まっていて入れません。
中で散歩している人もいるようですが、どこから入ったのでしょう?


博多祇園山笠の「お汐井とり」の場所にもなっているお潮井浜(山笠ってのはホントにいろんな寺社が関わってるなあ)。周辺は埋め立てられて埠頭になっているのだが、さすがにここだけは潰す訳にはいかなかったようだ。
国道3号沿いにある巨大な鳥居。

社殿は何度も戦火に焼け、その度に復興していますが、現在の主な建物は博多に関わった名だたる武将が武将が建てたもので、どれも国の重要文化財に指定されている。


唐津街道沿いの境内入口にある一の鳥居は1609年(江戸時代初期)に福岡藩初代藩主・黒田長政が建てたもの。その横にある石碑を見ると…何と「筑前一の宮」とあるではないか! 「一の宮」ってのは一つという訳ではないのね。

堂々たる威容の楼門は1594年(安土桃山時代後期)に小早川隆景(九州征伐後に秀吉に筑前・筑後・肥前を与えられた毛利元就の三男)が建てたもの。「敵国降伏」の扁額(?)は亀山上皇の宸筆を拡大コピーしたものだとか。普通の神社は拝殿前でお参りするものだが、筥崎宮は楼門から中には入れないので、楼門に置かれた賽銭箱の前でお参りしなければならない。(追記:正月やさつき大祭、放生会の際には回廊の内側をお参りすることができる)
本殿および拝殿は大内義隆(下克上で陶晴賢(すえのはるかた)に滅ぼされた大内家最後の当主)が建立。写真(下)では分かりにくいが、本殿右隅には秀吉が博多復興のために筥崎宮に滞陣した際、随行した千利休が奉納したという石燈籠がある(これも国の重要文化財)。


2011.6.4追記
お宮にお願いして本殿横の利休の石燈籠を撮影させていただいた。燈籠の内側に観応元年(1350)の銘があるといわれていたが、福岡県西方沖地震で燈籠が倒れてしまった際に、神社の人も初めて確認できたそう。


筥崎宮のお潮井。筥崎宮としては年に2度、春と秋にお潮井とりの行事を行なっているそうな。


八幡様のパワースポット」(筥崎宮談)湧出石(わきでいし)。触れると運が湧き出るらしいが、肝心の石はどこにあるのかしらんと思ったら、地面からほんの少しだけ顔を出していた。国に一大事がある時に地上に現れるそうなので、今はたいして大事ではないということかな。
蒙古軍船碇石(いかりいし)。博多港から引き揚げられたものだそうだが、この手の碇石は櫛田神社ほか福岡にはあちらこちらにある。


なんと元寇は歌にまでなっていた! 明治時代に陸軍軍楽隊で作られた唱歌「元寇」を記念する石碑と、何やらよく分からんがカミカゼの碑。元寇の勝利は神国ニッポン、カミカゼ思想を生み、後に日本を無謀な戦争に導いたなんてよく言われるが、軍部のイカれた連中ならともかく、昭和の世に本当に真に受ける人がどんだけいたんだろう。


ちなみに東公園にある亀山上皇の銅像の原型となった木造が近年筥崎宮に寄贈され、現在その奉安殿を境内に建築中とのこと。
今年中には完成、公開される予定だそうです。
ちゅうこって、今週はおしまいじゃ。
ほんならの!

こちらです。原型とはいえ(原型だから?)かなり精巧ですごい迫力!


追記
境内のあじさい苑は6月のあじさい祭りの期間中だけ開放される(入園料一般300円、障害者250円)。
昨日行ったときはまだ4~5分咲き。
見頃は6月中旬だと。
あじさいの種類は100種類くらいあるらしく、丸くないコーン状のあじさいなんかも。やっぱカンカン照りではあじさいは風情がないなあ。

また、参道途中には神苑花庭園があって、冬ボタンほか季節季節の花が植えられる(入園料は季節(花)によって変動)

筥崎宮
 大きな地図で見る

福岡市東区箱崎1-22-1
駐車場:有料あり
http://www.hakozakigu.or.jp

寄り道スポット
●花山

筥崎宮参道横に出る、コブクロなど珍しいネタもある焼鳥やラーメンが人気の名物屋台。
普通の屋台の数倍の規模で、屋台なのに座敷もあり!?
当然のことながら、屋台なので夕方以降しかやってない。

つづく

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コメント一覧

taul_nakataney
そういえば、3号線沿いの巨大鳥居はてっきょされてしまいましたねえ。
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