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雑感録

福岡なるほどフシギ発見~おまけ7~ 祝!糸島市長誕生記念? 糸島の山城2編

 
怡土城跡(国指定史跡)
768年(奈良時代)

雷山神籠石(国指定史跡)
7世紀頃(飛鳥時代)

去る2月14日は、前原市、志摩町、二丈町が合併して糸島市になって初の市長選挙の日。
それを記念して(って関係ないけど)、今回は糸島市(旧前原市)から。

大宰府の守りのために大野城(おおのき)という朝鮮式山城が築かれたのは先述の通り。
それからおよそ100年後、福岡市と糸島市の境にある高祖(たかす)山に築かれた中国式山城怡土城(いとじょう)である。
この山城については『続日本紀』に具体的な記録が残っていて、遣唐使として2回も唐に留学した吉備真備(きびのまきび)というダジャレのような名前の人(日本史の教科書にも出てきましたね)が大宰府のお偉いさんだった756年に築城に着手。
途中、担当者が代わったりしながら12年かけて完成したらしい。
どこがどう中国式なのか、何をもって朝鮮式というのかはさっぱり分からないのだが、大野城は百済人が指揮したので朝鮮式、怡土城は唐留学帰りの吉備真備が造ったから中国式ということだろうか。
755年に唐で起こった「安禄山(あんろくざん)の乱」(楊貴妃によって骨抜きになった玄宗皇帝の治世で起きた大規模な反乱)の余波や、当時緊張関係が高まっていた新羅の侵攻に備えて築かれたものだそうで、博多湾西部や玄界灘に睨みをきかせていたのだろう。
それにしても、伊都国隆盛のころならともかく、大宰府防衛が目的なのであれば、糸島のあたりには監視所くらいでいいのではないかという気がするのだが、日向峠を抜けて二丈大野城線あるいは小笠木峠を通って水城の内側に入ろうという敵に備えたのかもしれない。

城の概要としては、高祖山の麓を半周するように高さ10m程度の土塁が巡らされ、尾根にはいくつかの望楼が設けられていたそうな。
北西側の尾根では、自然遊歩道に沿って5つの望楼跡を見ることができる。

ただの土手にみえるけれど、たぶん麓に造られた土塁の一部。ここに説明板が立っているからそうなんだと思う。土塁の外側には濠が設けられていたらしい。

看板にあった恰土城の想定図。


望楼跡を巡る探訪路の入口。駐車場がないのが辛い。遊歩道を登っていちばん下の第五望楼跡まではおよそ100mほど。

第五望楼の跡。この礎石の上に物見櫓でも立っていたのだろう。説明板によると2階建ての瓦葺きの建物があったと考えられているそうだ。かつてはここから玄界灘を見渡せたのかもしれないが、今は森に囲まれて何も見えない。ここからさらに登っていくと、第四望楼、第三、第二…とあるのだが、キカイのカラダでもあることだし、今日はこれくらいにしといたろか(なんと脆弱な機械であることよ)。

柱をはめ込んだような四角いくぼみがある礎石。他の礎石にはそんなくぼみはないが、どういう使われ方をしたのだろう。


コスモスの季節に撮った怡土城(と思われる高須山の尾根)。


恰土城は、たぶん実際の戦闘には使われることなく平安時代には廃城となったが、戦国時代にこのあたりを支配した原田氏が居城(高祖城)を造る際に城跡をちゃっかり拝借しちゃったそうである。

さて、糸島の山奥、雷山には神籠石(こうごいし)という不思議な名前の遺跡があるのだが、実はこれも山城ではないかと考えられている。
Yahoo!百科事典によると「その名称は福岡県久留米市高良山(こうらさん)の中腹付近に、全山の約3分の1を取り巻くように長方形の切石列が巡ることからおこり、のち類似の遺構をも称することになった。」とあるのだが、ちっとも説明になっていない。
結局のところ、神籠石というのは北部九州から瀬戸内沿岸にかけて点在する、山の一部を囲むように並ぶ切石の列で、日本書紀、続日本紀に記載がなく遺構でしか存在の確認できないものを指すらしい。
そういわれてもやっぱり何のことだかさっぱりなのだが、とにかく雷山の神籠石は、標高400~500mぐらいのところにある不動池という貯水池を囲むように組まれた列石群で、川と交差するところには水門が設けてある。
説明板によると、7世紀頃(ということは白村江の戦いや大野城築城と比較的近い時期?)に対朝鮮政策の一環として、あるいは斉明天皇の滞在した朝倉宮や、大宰府の防衛のために造られたとの説が有力、とある。
しかし、こんな人里離れた山奥にある城が、本当に役に立つのだろうか?
それこそ“籠る”にはいいかもしれないが、攻めて出るにはあまりに奥地過ぎる。
見張り台という考え方もあるが、地形的に谷間にあるので、そこまで見晴らしが良いという訳でもなさそうなのだけど。

神籠石は雷山神社の先、白糸方面に向かう道の途中を右に入った林道の先にあるが、特に案内板は出ていないので行き過ぎないよう注意。左手に一帯のイラストマップがあるT字路を右に入る。林道はほとんどがダートで道幅もせまいので、健常者のみなさんは徒歩で入った方がよろしかろう。

不動池。近代に造られた農業用の貯水池だと思う。

説明板にあった雷山神籠石の想定図。冷静に(?)見ると、男にとっては神々しいあるものに見えないこともない(だから神籠石?)。

不動池の下流にある北水門跡。しっかりした造りだけど、思ったよりちゃちいではないか。

北水門を外側(下流側)から見る。前言撤回、なかなか規模のものだ。しかし、こんな水門では流木なんかですぐ詰まってしまいそうな気もするが、何か昔の人の知恵でもあるのだろうか。北水門から続く列石。これまたちゃちな造り、ひと跨ぎではないかと思ったら、この上に土塁が造られていたらしい。しかし、こんな山奥の急峻な場所をそこまで固める必要があったんかいな?

水門の脇には「筒城神社跡」の石碑と鳥居がある。神社のことはよく分からんが、筒城は神籠石を利用して造った原田氏の支城らしい。原田氏はリサイクル精神旺盛というかちゃっかりしていたというか、とにかく廃物利用が得意だったようだ。ちなみにこの石碑と鳥居の間は北水門の上にあたり、幅3~4mはあろうかという感じで、やっぱりそこそこの規模ではある。

不動池の上流に戻って南水門を探すが…。流れの底に妙に平らな石があるが、これがその跡だろうか? 他にそれらしいものは見つけられなかったんだけどなあ。


追記
井上悦史によると、神籠石は7世紀ごろに“つくろわれた”という記述はあるが、“つくられた”とは書いてないので、実際に造られたのは3世紀頃ではないかとの考えで、九州・山口のみに存在する神籠石は日本の都・邪馬臺国の防衛施設ではないかとのこと。

怡土城跡
大きな地図で見る
福岡県糸島市高来寺・大門・高祖
見学自由
駐車場:なし

雷山神籠石
大きな地図で見る
福岡県糸島市雷山・飯原
見学自由
駐車場:なし

関連スポット
伊都国歴史博物館(おまけ2)


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