歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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(校正中)『定家十体』考 21号版下

2024-09-21 20:00:00 | 月鞠の会
本稿は、辰巳泰子の個人誌「月鞠」21号に掲載される予定です。
21号は、年内発行を予定しております。
この稿のほかに第6号から継続している百首歌がございます。21号は、昭和クロニクルとしての「アイアン・ボトム・サウンド」を掲載。
また、随時エッセイとして、「松木靖夫さん。そして境涯詠のことなど」を掲載。
ご寄稿では、石川実(サンタ)さんの「現代説話集」の掲載があります。
小誌は、創刊号から第5号まで、個人誌でした。第6号から20号までを結社誌(主宰誌)として、ご寄稿の一部の方に実作指導を施すなどさせていただきました。
そしてこの21号(もしくは22号)から、再び個人誌になります。
ご寄稿の皆さんとの関係性を緩やかなものにするために、このようにいたします。

ひきつづきよろしくお願い申し上げます。


………………………………………………



一 はじめに

『定家十体』について一考します。
この著作物は、定家による作なのかどうか疑義が根強いそうで、視野に入れるのをためらっていたのですが、『毎月抄』を読んでいて、このうち「鬼拉の体」について述べるくだりに定家の熱意が感じられ、興味が持たれました。それにしても、「鬼を拉ぐ」とは物騒なネーミングで、和歌の体として異様に感じられたことでした。

和歌における十体とは秀歌の体であり、分類された体は、いずれも美意識のありようでなければなりません。

「鬼を拉ぐ」体の美とは?
『定家十体』には、どのような歌が、収められているのだろう……?

『定家十体』の先行作品に、壬生忠岑による『和歌体十種』があります。壬生忠岑は『古今和歌集』撰者の一人。この忠岑十体に、「鬼拉の体」のような、物々しい名前の体はありません。

しかし室町時代になると、芸能の美のあり方の一つに「鬼」の項目が加わります。世阿弥は能楽を学ぶ者に他の芸能を習うことを禁じる一方で、「歌道は風月延年のかざりなれば、尤もこれを用ふべし」としています。すなわち、能楽以外の芸能で、和歌だけは学び習うのがよいとし、「物学条々」自体にも、九品十体の趣があります。そして「物学条々」において、鬼の演技のあり方を指導しているのです。
『定家十体』は、世阿弥の「物学条々」に先行します。定家の書いた『毎月抄』もまた、初心者への指導書として先行します。
そこで私は、世阿弥の「鬼」の美意識には、定家が「鬼拉の体」において表現しようとした美的概念が、反映されているのかもしれないと考えました。


  〈まづ、本意は強く恐ろしかるべし。強きと恐ろしきはおもしろき心には変はれり。〉〈ただ鬼のおもしろからむたしなみ、巌に花の咲かんがごとし。〉


世阿弥は、鬼の本意は、強く恐ろしいことだといいます。そして、恐ろしいことと趣のあることは、全く重ならないといいます。真実の鬼を、あまりにそのものらしく演じたら、恐ろしいために趣がなくなる。しかし、本意の恐ろしさを演じながらも趣があるとしたら、それは、巌に花の咲くような、滅多にないことだろうと。

この言に、定家の美意識が吸収されているとしたら、定家は、いかなる美意識をもって、「鬼を拉ぐ」体を考え出したのでしょうか。



二 『毎月抄』の十体構想

『日本歌学大系』の『定家十体』と、その例歌数を掲げれば、次のようになります。

「幽玄様」…五八首。「長高様」…二一首。「有心様」…四一首。
「事可然様」…二六首。「麗様」…二四首。
「見様」…十二首。「面白様」…三一首。「濃様」…二九首。
「有一節様」…二六首。「拉鬼様」…十二首。


定家は、『毎月抄』で、次のように述べています。


A 〈もとの姿と申し候は、勘へ申し候ひし十躰の中の幽玄躰・事可然(ことしかるべき)躰・麗(うるはしき)躰・有心(うしん)体、これらの四つにて候べし。〉〈ただ素直にやさしき姿をまづ自在にあそばししたためて後は、長高(たけたかき)躰・見(みる)躰・面白(おもしろき)躰・有一節(ひとふしある)躰・濃(こまやかなる)躰などやうの躰はいとやすき事にて候。鬼拉(きらつ)の躰ぞたやすくまなびおほせ難う候なる。それも練磨の後はなどかよまれ侍らざらむ。〉〈先哲のくれぐれ書き置きける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞ見え侍るめる。げにいかに恐ろしき物なれども、歌によみつれば優に聞きなさるるたぐひぞ侍る。〉

大意…「幽玄体」「事可然体」「有心体」「麗体」が基本の様式。これらを体得してから長高体・見体・面白体・有一節体・濃体などその他の様式を詠むのはたやすい。「鬼拉の体」だけは習得が困難だが、基本ができていれば、詠めないことはない。偉大な先人のいうように、和歌は優美にしみじみとした味わいに詠むべきものであろう。どんなに恐ろしいものでも、歌に詠めば優美に聞こえてくるということはある。


B 〈さても、この十躰の中に、いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。きはめて思ひ得難う候。〉〈また、恋・述懐などやうの題を得ては、ひとへにただ有心の躰をのみよむべしとおぼえて候。この躰ならでは宜しからぬ事にて候べきか。〉

大意…「有心体」以上に、和歌の本質である体は存在しない。この体は、とても体得しがたい。また、恋や述懐のような題では、ただひたすら有心の体として詠むのがよい。この体でなければよろしくないといってもいい。


C 〈さても、この有心躰は余の九躰にわたりて侍るべし。その故は、幽玄も心あるべし、長高にもまた侍るべし。残りの躰にもまたかくの如し。げにげにいづれの躰にも、実に心なき歌はわろきにて候。今この十躰の中に有心躰とて列ね出だし侍るは、余躰の歌の心有るにては候はず。一向有心の躰のみさきとしてよめるばかりを、選び出だして侍るなり。いづれの躰にても、ただ有心の躰を存ずべきにて候。〉

大意…この有心体は他の九体にも及んでいる。幽玄体にも心がなければならないし、長高体にも心がなければならない。残りの体もまた、そうである。まったくどの体でも、心のない歌はよくない。この十体に、有心体として並べてあるものは、他の九体の、どの体にも属さないからで、ひたすら心があるばかりに詠んだ歌を選び出したのである。どの体でも、有心でなければならない。


D 〈さきに記し申しにし十躰をば、人の趣を見て授くべきにて候。器量も器ならぬもうけたるその躰侍るべし。或いは幽玄の躰をうけたらむ人に鬼拉の躰をよめと教へ、また長高様得たる輩に濃体をよめと教へむ事はなにかよかるべき。〉

大意…これまでに述べた十体は、その歌人の素質をみて指導するのがよい。器量のある人もない人も、自分に見合った体がある。幽玄の体を得意とする人に鬼拉の体を詠めと教えたり、長高体を得意とする人に濃体を詠めといったりするのは、よい指導であるはずもない。


『毎月抄』のこれらの記述から、『定家十体』が本人の手で構想されたことは、間違いがないでしょう。定家は、どのような意味において、「鬼を拉ぐ」としたのでしょう。
文章Aの後半は、「鬼拉の体」を中心とした文脈を形成しており、「恐ろしき物」とは、その題材をいうと見当をつけられます。そして、恐ろしいものを「優美なさまに詠んだ歌」が「鬼拉の体」の成功作であろうことにも見当がつけられます。加えて文章Dでは、「鬼拉の体」が「幽玄の体」と対比されていることから、この二者は、その意味合いが真逆であるととらえることができます。すなわち、「幽玄の体」をとらえることが、「鬼拉の体」をとらえる手がかりとなりそうです。
定家は、文章Bで〈さても、この十躰の中に、いづれも有心躰に過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず。〉と述べ、有心体に、和歌の究極の本質を見ています。そして文章Cでは〈さても、この有心躰は余の九躰にわたりて侍るべし。〉と述べ、ここから『定家十体』のそれぞれの体は、べたっと同じ次元に並べられているのではなく、序列ないしグループ分けされていることがわかります。私は、「有心」という大きな集合のなかに、すっぽりと、それぞれの体の集合があると考えることで得心がいきました。つまり、有心という大きな集合があって、そのなかに、秀歌である他の九つの体のそれぞれの集合が、含まれるのです。そして、秀歌でありながら他の九つのどの体にもあてはまらない、すなわち「有心でしかない」の歌を、十体分類上での「有心体」としていると、私は考えました。



三 異様の体

まず、『定家十体』上で、「拉鬼様」「鬼拉の体」とされた歌に、どのような共通点があるのかを見ていきましょう。
『定家十体』の「拉鬼様」12首を、便宜上、作者ごとに並び替えたものが以下です。さらに、『新古今和歌集』入集歌に★印、原歌を含め『万葉集』入集歌に☆を付けました。


・天神御歌(菅原道真)
★ながれ木とたつ白波とやく塩といづれかからきわたつみのそこ

『新古今和歌集』では「雑歌下」に入集。「ながれ木」と「白波」は海水に浮かんでいるもの、「やく塩」は浦にあるもの。そのどれが塩からいかといって、どれも、「わたつみのそこ」に沈んではいません。つまり、道理が立ちません。
宇多天皇の時代、唐の国情が思わしくないため、菅原道真の案によって遣唐使が廃止されました。その後、醍醐天皇の時代に逆臣の汚名をきて道真は失脚、左遷。道真は大宰府という異郷で孤独のうちに絶命しました。道真の死後まもなく、醍醐天皇は、日本で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』を編むよう紀貫之らに下命し、道真の歌は、二首しか入集しませんでした。道真は、和歌も漢詩もその才能は当代一流でした。それが、非業の死を遂げたあとにまで、『古今和歌集』にことごとく落とされたのです。それからというもの、都にさまざまの怪異・天変地異が発生しました。これらを鎮めるために、朝廷は、道真を、天神として祀るようになりました。
この歌は、道真が、配流の地での自らの苦境を詠んだとされています。道真は、道理の立たないまでに、ありえない苦しみを味わっていたのでしょう。自分はどん底に沈められているのだと、ネガティブな感情の極限が映しだされて、恐ろしい感じがします。


★あしびきのこなたかなたに道はあれど都へいざといふ人ぞなき

『新古今和歌集』では「雑歌下」に入集。「あしびきのこなたかなた」とは、山の中のけものみちでしょう。そのどの道も、都へとはつながらない。さあ京へ帰りましょうと、手を差し伸べてくれる人がいないのですから。樹海を独り徘徊するような精神世界を描いて、この歌も、ネガティブな感情の極限を詠んでいます。


・大伴家持
★☆唐人(からひと)の舟をうかべて遊ぶてふ今日ぞわがせこ花かづらせよ

曲水の宴を詠む歌。『新古今和歌集』では「春歌下」に入集。原歌は『万葉集』の「からひともいかだ浮かべて遊ぶといふ今日ぞわがせこ花かづらせよ」。もとは万葉歌ですから、「から人」のニュアンスは、文化と技術をもたらす優秀な外国人。万葉の時代の人々は、外国人を、宮廷生活の身近に感じていたでしょう。しかしながら、国風文化の時代を経て新古今の時代の人々に、このような情景は現実のものではありませんでした。つまり、この歌が選ばれるのは、おおらかだった万葉の時代への憧憬が本意でしょう。「恐ろしき物」は、どこにも見当たらないといえます。


・聖武天皇御製
立田河もみぢみだれてながるめりわたらば錦なかやたえなむ

『古今和歌集』の「秋歌下」に「よみ人しらず」として、平城天皇の御製である可能性を示しつつ入集。御神渡りを想起させます。定家が、『古今和歌集』で秋歌に入れてあるものをわざわざ拉鬼様に入れたのは、『古今和歌集』への抵抗でしょうか。あるいは、秋歌とされていることへの抵抗でしょうか。この歌に、神霊による何らかの奇蹟が詠みこまれていると見てとったのであれば、定家のいう「拉鬼」には、超常的、超自然的なニュアンスがこめられていたかもしれません。


★☆妹に恋ひ和歌の松原見わたせば潮干の潟にたづ鳴きわたる

『新古今和歌集』では「羇旅歌」に入集。旅の途中で、妻が恋しくなって和歌の松原を見わたせば、鶴(作者の妻)も夫(作者)を待つのか、恋しい恋しいと、鳴きながら浦を渡っていくというのです。妻を「妹」と呼ぶのはいかにも万葉歌。「わかのまつばら」に先行作品〈わが背子をあが松原よ見わたせば海人乙女ども玉藻刈る見ゆ〉(『万葉集』三野石守)が重ねられ、「吾(ここでは妻に成り代わっていうのでしょう)が待つ」の「わが」という濁音を追加してくるからです。濁音の多さも万葉歌ならでは。


・後京極(藤原良経)
★濡れてほす玉串の葉の露霜に天照る光幾代へぬらむ

『新古今和歌集』では「賀歌」に入集。「玉串の葉(たまぐしのは)」は「櫛の歯(くしのは)」を隠しています。「玉串の葉」も隠し置かれた「櫛の歯」も「天照る光」も、強力な霊的浄化の象徴であり、この浄化力によって「賀歌」に分類されているのでしょう。であればなおさら、「鬼を拉ぐ」などという血なまぐささと相容れません。定家はなぜ、美的概念を示す体の一つに、このような血なまぐさいネーミングをおこなったのでしょうか。


・慈円
明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半のしぐれよよはの涙よ

夜が明けたら、比べてみよう。夜のあいだ、冬の冷たい雨に濡れて紅葉を深めた木の葉と、私の血の涙に濡れていた袖とを。どちらがより赤く染まってるだろう。この歌が「鬼を拉ぐ」のは、「血の涙」が詠まれているからでしょうか。それだけなら恋の歌の多くが鬼を拉ぐことになってしまうでしょう。この歌の型破りなところは、ふつう上の句で「木の葉→露」と叙景し、下の句で「袖→涙」と抒情するのに、上の句で「木の葉」「袖」と濡らされるものをまとめ、下の句で「しぐれ」「涙」と濡らすものをまとめているところです。こうした言葉の繰り出し方は、破戒的です。歌の意味ではなく型破りの構成に、定家は、「鬼を拉ぐ」ものを見たのでしょうか。


・よみ人知らず
★☆神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に

『新古今和歌集』では「羇旅歌」に入集。原歌は『万葉集』。夫の旅寝を妻が案じています。伊勢の国では荒々しく吹く神風が、浜の荻をぼきぼきと折って、夫に寝所を用意するでしょう。でも、そんな強い風の吹く浜辺で、愛する人が安らいで眠れているとは、とうてい思われない。「神風」「荒き」といった言葉に「恐ろしき物」が見えますが、主題は「神風」ではなく、夫の旅寝を案じる妻の繊細さでしょう。そこへ「神風」のような、とびきり強そうな言葉を織りこんだことを、『新古今和歌集』、また『定家十体』では、それを一つの工夫とみて評価したということでしょうか。


・神祇伯顕仲
★かもめゐる藤江の浦の沖つ洲に夜舟いさよふ月のさやけさ

『新古今和歌集』では「雑歌上」に入集。十六夜の月のでる時間帯ですから、すっかり暗いはず。ですので、「かもめゐる」は、沖の中州にかもめのねぐらがあるという意味で、かもめをこの目に見ているわけではないのです。しかし、このように初句に置かれることで、その白い形象が、まず脳裡に浮かびあがります。十六夜の月に照らされ、きらきら輝く海面と、かろうじて目視できる遠くの釣り舟と。あえて冒頭に「かもめゐる」と形容することで、現実の光景と、真っ白なかもめの飛翔する絵が二重にクロスします。この幻想的な光景に、「恐ろしき物」を見たというのでしょうか。


・藤原家隆朝臣
★思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風

『新古今和歌集』では「恋歌四」に入集。「かねごと」は約束事。すさまじい山風がきのうまでの雲を跡形もなく吹き散らし、過ぎ去っていきました。山風とは台風ですから、最大級に強く恐ろしい風。去ったあとは、そこかしこに爪痕を残します。それとおなじように、心に深い傷を負わされて、恋が終わっていきました。恋の終わりは、恨みに恨んで、血の涙を流し、身を揉むようにうたうものです。それなのにふっきれて、爽やかですらあります。未練をも取り払ってしまう「山風」のはげしさに、「鬼を拉ぐ」強さを見たということでしょうか。この山風は、はかないものをかき消してしまう非情さよりも、解放感や嵐のあとの蒼天の爽やかさが際立って、印象的です。
この歌は、『毎月抄』文章Aにある〈先哲のくれぐれ書き置きける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞ見え侍るめる。げにいかに恐ろしき物なれども、歌によみつれば優に聞きなさるるたぐひぞ侍る。〉の記述に、合致します。

・能因法師
★ねやの上に片枝さしおほひそともなる葉びろ柏にあられ降るなり

『新古今和歌集』では「冬歌」に入集。寝所を覆うように片枝を差し出し、外にも柏の広い葉が張り出している。その葉をめがけるように、氷雨が音を立てて降ります。寝所にいるのですから、夜でしょうし、あられですから氷の粒で、葉にあられの当たる音が寝つこうとするところを責め立てている気がします。でもそれは、拉鬼様と思って味わおうとするからかもしれません。作者の意図としては、音のおもしろく聴こえる景物を、誇張してあるだけではないでしょうか。「さしおほひ」「そともなる」「葉びろ」と、樹形をおどろおどろしげにわざわざいうところが、誇張なのです。誇張表現のおもしろさは、また別の体になるのではないかという気がしてきます。


・宮内卿
★片枝さすをふの浦なし初秋になりもならずも風ぞ身にしむ

『新古今和歌集』では「夏歌」に入集。「なりもならずも」は、民謡「東歌」を踏まえます。「をふの浦」の梨の実が、成ったか成らなかったかは知らないが、海辺の風が身にしみる。夏はもう終わってしまうのだな……と、耳に聴こえる感じはさらりとしていますが、べとべとした冷たい潮風に吹きつけられて、夏から一足飛びに、海辺の冬の厳しいことが予感されるのでした。民謡の素朴さと実直な生活感が、意図的に万葉調ですが、この歌も、鬼を拉ぐ強さを、どこにも見出すことができません。

このように、「拉鬼様」の例歌は、万葉調だったり、言葉の繰り出し方において破戒的であったり、意味や、惹起する感覚刺激において、恐ろしさ、強さ、はげしさ、すさまじさがあったり、あるいは恐ろしいものなど含まれもしない歌だったりしました。
一言でいって、これらの歌に一貫した美意識があるといえない状態です。
定家は、『毎月抄』に述べたように、とても恐ろしいものでも、歌にすることで自然と優美に聞こえる歌を、念頭においたはずです。
それなのに、この統一感のなさは、どうしたわけでしょう。
なぜ定家は、この体に、「鬼を拉ぐ」などという血なまぐさいネーミングをしたでしょうか。

私たちが物事の分類を試みるときには、まずそのものがたくさんありすぎて、整理することが目的でしょう。そのとき、共通点のあるものをまとめるのが、分類という行為です。
入れ物を並べ、内容にあったラベルを意識します。それから、入れ物に対して内容物が多くなりすぎるとき、さらに分けたり、少なくなりすぎるとき、まとめたり、バランスを考え配分します。そして、バランスを考えるうちに、そのものについてもよく吟味しますから、分類の概念もまた、ブラッシュアップされていくのです。
「有心体」を例にとりましょう。『定家十体』では、「有心」であることはすべての秀歌に共通するとし、「有心」を一つ上の階層に掲げました。そのうえで、他の九体のどれにも属さない、ひたすら心があるばかりの歌を「有心体」というのだと述べるところに、分類の概念を吟味にかけたことがうかがえます。
その一方で、「鬼拉の体」はどうでしょう。初めに歌ありきではなく、初めに入れ物とその名前ありきの感が拭えません。
『毎月抄』文章Aの〈先哲のくれぐれ書き置きける物にも、やさしく物あはれによむべき事とぞ見え侍るめる。げにいかに恐ろしき物なれども、歌によみつれば優に聞きなさるるたぐひぞ侍る。〉の記述によれば、定家は、ただ恐ろしいばかりのものが歌にすると優美に聞こえる、そういう歌を格納しようと思っていたはずでした。
すると、やはり、家隆〈思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風〉が、手がかりになってきます。定家は、この歌を、他の歌の叙情のあり方と一つにはまとめられないと思い、この一首を取り立てて、中心とした入れ物をこしらえようとしたのではないか。それなのに、異様な名前の入れ物を用意したばかりに、統一感をなくしていったのではないでしょうか。
そして、誂えた入れ物のネーミングの物々しさに、ある種の自己顕示欲を見てしまうのは、私だけでしょうか。



四 『幽玄様』の問題点

『定家十体』の、その他の体は、どうでしょうか。「鬼拉の体」のような不統一感、ネーミングの不自然さなどがあったりしないでしょうか。
ここでは、藤平春男氏の校注訳(『毎月抄』『新編日本古典文学全集』小学館)をもとにしています。さらに、他の体の意味合いについて、同書における藤平春男氏の校注を引用します。

・幽玄体…〈俊成の用い方とほぼ同じで余情美の一様相で、崇高への志向性を持つ優美の特殊相〉。
・事可然体…〈意味内容がなるほどと思われるようなものであること。意味的説述性の確かさの感じられる詠風〉。
・麗体…〈一首の表現上の均斉感・調和感の目立つ詠風。整った表現〉。
・有心体…〈深い歌境への沈潜の感じられる詠風〉。
・長高体…〈声調の緊張を保った流麗感が強く感じられる詠風〉。
・見体…〈視覚的な描写性の目立つ詠風〉。
・面白体…〈題に基づく場面構成(趣向)が知性的に巧みに行われている詠風〉。
・有一節体…〈着想の珍しさの目立つ詠風〉。
・濃体…〈複雑な修辞技巧によって情趣美を濃厚ならしめている詠風〉。


『毎月抄』で、基本の体に挙げられたのは、「幽玄体」「事可然体」「麗体」「有心体」の四つです。
藤平氏の校注を、現代短歌の実作になぞらえると、「事可然体」とは、意味において明確な叙述のさまを示す体でしょう。
「麗体」が示しているのは、表現上の欠点がなくそれなりに趣のあるさまでしょうか。
「有心体」は、やはり「心がある」体。
現代人は、これら三つを価値観として共有できそうです。
基本の四つの体のうち、これら三つの体と違って、現代人に、それを美ととらえきることが難しいのは、「幽玄体」の「崇高への志向性」でしょうか。
「幽玄」の美は、あくまでも、物質の滅びを前提としています。平安中期以降、仏教的無常観に裏打ちされた美的概念として、滅びるものの美、はかないものの美を「幽玄」というようになりました。定家の父俊成は、そのものの消えたあとに残る情感、余韻を「余情」として、価値を見出しました。定家はさらに、無常のうちの一瞬の輝きを「妖艶」としました。
現代人は、換金価値こそ価値と考えており、いわば物質至上主義です。滅びの美など、現代人の価値観と真逆のところにあるでしょう。
そのようにして現代人の価値観と異なる、『定家十体』の「幽玄様」にある歌が、どのような歌であるかを特徴づけて示したいのですが、次のような理由により、この体もまた、何者かによって加筆を受けたのではないかとの疑義を持たざるを得ないのです。

まず、他の体に比べて歌数が多すぎること。
加えて、定家本人の選とするには、作者名の分布に疑問が持たれること。

「幽玄様」は美的価値の基本であり、定家自身、この体に思い入れをもっています。
「幽玄様」に入った最多は、俊成女の5首で、次点は4首。内訳は、柿本人麻呂と藤原秀能。父俊成2首、家隆3首、式子内親王3首、西行3首。ここが不自然なのです。人麻呂は偉大な先人であり、多く入っていても不思議はありませんが、秀能は、後鳥羽院の近従として知られた歌人です。後鳥羽院は定家より18歳若く、秀能はさらに若く後鳥羽院より4歳年下です。院と秀能は、単に主従というだけでなく、世代的にも深く共感を寄せ合ったでしょう。
それに比べ、後鳥羽院と定家との蜜月は、決して長くはありませんでした。『新古今和歌集』の完成をみる頃には、竟宴の開催をめぐって温度差がすでにあり、やがて、歌そのもののことでも互いの考えが行き違うようになりました。定家は、ついに後鳥羽院から勅勘を受け、蟄居中に承久の乱が勃発、その頃の定家は、『後撰和歌集』定本(子々孫々に残すための書写本)を作成していました。『定家明月記私抄』(堀田善衛著 ちくま学芸文庫)によると、定家は、その奥書で承久の乱を指し、「紅旗征戎吾事ニ非ズ」(『白氏文集』)を引用しています。『明月記』の治承4年にも、源平の争乱を背景に「紅旗征戎吾事ニ非ズ」を引用しており、戦争とはよほど距離を置きたかったのでしょう。
そのうえ定家は、家意識、身内意識の強い人です。院近従であるうえ承久の乱とも関係する秀能の歌を、自分の身内よりも多く取り挙げる理由がありません。さらにいえば、後鳥羽院その人の歌が『定家十体』に入っていません。それなのに、近従の歌がこのように多いのは、不自然すぎます。
『定家十体』は、承久の乱の以前に定家本人によって構想された。成立は、乱と相前後する。これらのことは、確かでしょう。しかしそのすべての歌が、定家本人の選であると考えにくいのは、「幽玄様」が最たるものです。
いずれにせよ、『定家十体』に挙げられた歌のなかから、定家本人によって挙げられた可能性の高い歌を、探し出さなければなりません。



五 『定家十体』の検証

定家本人によって、『定家十体』構想の所期に挙げられた可能性の高い歌を、いかにして、探し出せばよいのでしょうか。
『定家十体』にひもづけて書かれた『毎月抄』とほぼ同時期の、別の著作物で、定家本人が秀歌として認めていた歌であれば、構想所期の『定家十体』にも、積極的に採り入れていた可能性が高いのではないでしょうか。

㋐ 『定家十体』と『近代秀歌』の異同を見る。
定家本人が『定家十体』に明確に触れているのは、『毎月抄』においてです。『毎月抄』は、宛所などに不明点があるものの、1219年7月2日に書かれたことがわかっています。であれば、定家が『毎月抄』で示している「十体」の価値観とは、『毎月抄』の頃か、もしくはその以前の秀歌例に示した価値観でしょう。すると『近代秀歌』(1221年頃に成立。原形本は1209年とされる。承久の乱は1221年。)が、『毎月抄』の頃か、もしくはその以前の秀歌例にあたります。

㋑ 『定家十体』と「小倉百人一首」との異同を見る。
定家の編んだ秀歌例には、『近代秀歌』のほか、承久の乱後の成立とされ梶井宮尊快親王へ献進するために書かれた『詠歌大概』などがあります。『詠歌大概』については、〈『近代秀歌』の前半を占める和歌史批判の論が欠けており、定家の開拓、「者的な主体的志向が影をひそめている点は看過できないであろう。〉(藤平氏による同書解題)という見方があるため、定家一人の好みでしがらみなく選ばれている、晩年の「小倉百人一首」との重なりをみていくのがよさそうです。『定家十体』の歌でまず『近代秀歌』と重なる歌、「小倉百人一首」と重なる歌、手がかりが不足するようなら『詠歌大概』にも選ばれている歌であれば、『定家十体』に後から継ぎ足された歌であったとしても、本人の手による継ぎ足しである可能性をみることができ、定家の主体性が維持されるからです。

では、『定家十体』のそれぞれの体について、『近代秀歌』にある歌(○)と『小倉百人一首』にある歌(●)、晩年の秀歌選である『詠歌大概』にあるもの(▼)を以下に掲げます。『近代秀歌』については、「八代集選抄」、及び原形本「付録」を併せた九二首を照合に用いました。

・( )内の算用数字は全体の歌数。「幽玄様」は全五八首ということ。
・○…『近代秀歌』にあるもの。
・●…「小倉百人一首」にあるもの。
・▼…『詠歌大概』にあるもの。

幽玄様(58)
●わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ  元良親王
○思ひ川たえず流るる水の泡のうたかた人にあはで消えめや  伊勢
○●有明のつれなく見えしわかれよりあかつきばかり憂きものはなし  壬生忠岑
○●秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ  天智天皇御歌
○さを鹿のつまどふ山の岡辺なるわさ田はからじ霜はおくとも  人麻呂
○わくらばにとふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答えよ  在原行平
○●今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいづるかな  素性
○●花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  小野小町
○つつめどもかくれぬものは夏草の身よりあまれる思ひなりけり  よみ人しらず

長高様(21)
●このたびはぬさもとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに  天神御歌
○かづらきや高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てややみなむ  顕輔

有心体(41)
●玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする  式子内親王
○●ながらへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞいまはこひしき  清輔

事可然様(26)
○すみわびて身をかくすべき山里にあまりくまなき夜半の月かな  俊成
○▼あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風たちぬ宮城野の原  西行(新古今・秋上)
○▼かぎりあれば今日ぬぎすてつ藤衣はてなきものは涙なりけり  道信
○▼あけばまた越ゆべき山の嶺なれや空行く月のすゑの白雲  藤原家隆(新古今・羇旅)

麗様(24)
○うづら鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮れ  源俊頼
(→『近代秀歌』では最も年代の早い原形本で、「幽玄の面影かすかにさびしきさまなり。」とある。)
○●立ちわかれいなばの山の峯におふる松としきかば今帰り来む  在原行平
○さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫  よみ人知らず
●君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ  仁和御門御歌

見様(12)
●村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ  寂蓮

面白様(31)
○●憂かりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを  源俊頼

濃様(29)
○●月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど  大江千里
●わたのはら八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよ海人の釣り船  小野篁

有一節様(26)
○立ちかへりまたも来てみむ松島やをじまのとまや波にあらすな  藤原俊成
●瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもすゑにあはむとぞ思ふ  崇徳院


拉鬼様(12)
○思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風  藤原家隆


ここからわかることは、『定家十体』は、肝心の『近代秀歌』と、驚くほど重ならないということ。
価値観や嗜好は人にひもづき、短期的な変化で変動しにくいものです。秀歌選が、純粋に文学的な動機で、同じ一人の作者のもとで編まれていたのであれば、だいたい近い年代にある秀歌選とも、よく重なるはずなのです。
重なる歌の少なさを考えると、『定家十体』の全体像は、定家以外の誰かが後年に継ぎ足した可能性がやはり、浮上してきます。
そして、少ないながらも、『毎月抄』で定家が各体について触れるときには、「○」が付いた歌、すなわち『近代秀歌』と重なる歌が念頭にあった可能性が高いと見てよく、つまり、「○」が付いた歌は、定家自身による十体分類を受けた可能性が高いということです。
拉鬼様(鬼拉の体)についていえば、『毎月抄』の美意識と合致する「思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風」の一首が、『近代秀歌』の選と重なるため「○」を付けられます。定家本人の選によるものでしょう。定家が、『定家十体』に「拉鬼様」にまず格納したのは、やはり、この歌ではないでしょうか。



六 「鬼を拉ぐ」というネーミングの背景

ここでは定家が、古人の十体考の先行作品からかけ離れて、「鬼拉の体」という異様のネーミングを着想した背景を考察します。

①超自然への親和性
久保田淳氏は、『新古今歌人の研究』(東京大学出版会)のなかで、〈おそらく、かれが最初に経験した歌合らしい歌合として、我々はやはりこの別雷社歌合を挙げねばならないであろう。〉として、次のように記します。
賀茂別雷社歌合は一一七八年、定家が十七歳のときでした。定家は、次のような歌を詠んでいます。

   霞
神山の春のかすみやひとしらにあはれをかくるしるしなるらむ

   述懐
ふかからぬ汀にあとをかきとめてみたらし川を憑むばかりぞ

奉納歌合ですから、神様をたたえる歌を、誰でも詠みますが、定家はここで「神様が、ひそかに(自分に、あるいは自家に)なさけをかけてくださるに違いない」と詠んでいるのです。「霞」の題ですと「賀茂社頭に霞を配することによって神威を高めようという意図に留ま」るのが一般的であったなか、定家一人、神様のご内心にまで踏みこんで具体的な期待を表出していることに、久保田氏は着目し、次のように述べました。

  〈述懐の歌が賀茂の神慮を憑む心をうたっているのは、奉納歌合の性質上当然であろう。けれども、霞の歌においても「神山の春の霞」と見て、神の庇護を期待する心を表白していることに、我々は注目してよいと考える。〉〈のびのびと単純な叙景歌としてこの題を消化しそうな十七歳の青年である定家だけが、『ひとしらにあはれをかくる』と詠んでいるのである。〉

それから、一二〇〇年。定家が三九歳のときです。
定家は、『正治二年院初度百首』なる百首歌詠進の選に漏れました。その際、家の日記(『明月記』七月二六日)に怒りをぶつけ、八月一日、北野天満宮に起請。天満宮といえば天神社、菅原道真を祀る社です。そこへ「祈願申事」がありました。その後、俊成から後鳥羽院へと丹念になされた『仮名奏状』なる嘆願があって、九日には定家の望みがかなうこととなりますが、定家は、十三日、重ねて北野天満宮に参詣。「自歌一巻」を奉納し、久保田氏の訓読をもとにすると「先日参詣、心中の祈願已に以て満足、仍りて重ねて詠進する所なり」というのです。(『藤原俊成 中世和歌の先導者』久保田淳著 吉川弘文館)
ここで氏は、〈一日参詣した時、起請したのは、やはり百首作者に加えられるようにとの祈りであったと知られる〉としています。「起請」とは、単にお祈りするのではなく、起請文を書いて誓いを立てることで、その誓いを破ったときは神罰を覚悟するというものです。
また、同書年表には、定家が一二〇三年三月、七日に『新古今和歌集』の撰歌奏進を指示され二九日に北野天満宮に参詣し、撰歌のことを祈念していたことが記されています。
定家が、神を身近に感じ、自分の味方をしてくれるものと信じていたことがうかがい知れます。
とはいえ、定家だけではなく、この時代、和歌を神社に奉納する行為は、誰の手によっても非常に頻繁になされていました。『古今和歌集』序にも、スサノオノミコトの詠まれた「八雲立つ出雲八重垣妻こめに八重垣つくるその八重垣を」を和歌の起源としていますから、和歌は、仏教伝来の以前から、日本古来の神々と結びつくものと考えられてきました。

写本学の提唱者・藤本孝一氏は、「国宝『明月記』と藤原定家の世界」の「第九章 本地垂迹説からの独立と古今伝授」において、古代から中世にかけての神道と仏教との関係を概括し、次のように述べます。

  〈一般的な神道理解は、アニミズム(animism)といわれる山や川などの自然や自然現象に霊が宿るという原始宗教的な要素が強い。神道は、自然界に八百万の神が居り、その神が暴れると災害等が起きると考え、その神を鎮めることを目的にしていると思われる。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社である。〉

ここで、心に留めておかなければならないことがあります。それは、当時の祈りの質実が、現代と違ってどうだったかということ。抗生物質もワクチンもない、電気もガスも農薬もない時代に、人々は何を祈ったでしょうか。現代とは計り知れない隔たりがあったでしょう。
『病悩と治療』(瀬戸まゆみ著 倉本一宏監修 臨川書店)が、王朝時代に処方された薬名を挙げています。内科的には、生薬やスパイスの他に柿、大豆、蓮など。外科的には、患部に溜まった悪血をヒルに吸わせるなど。三条天皇が抜歯を受けていますが、王朝時代の医療行為の最高水準とは、このようなものでした。その他には、病魔退散をひたすら祈祷するしかありませんでした。
思うようになることなぞありはしない時代、人々は、ことあるごとに神威をたたえ感謝を示しました。つまり、人々は、超自然的な存在を、現代人よりはるかに畏れ敬い、暮らしていたはずです。
そんななかで、定家は、自分が取り立てられますように、自分の家が栄えますようにといった生々しい現世利益を、和歌に託して願うのです。定家の宗教的態度は、神様は願えば叶えてくれるものだという、あまり畏まる気配のない、一方的な親しみの態度であったともいえるでしょう。
定家は、超自然に対し誰もが持つような距離感を、持たなかったのではないか。それは、一方的かもしれなくても、自己に疑問を持たずにいられる親和性です。それゆえに「鬼拉の体」なる、超自然めかした名前の体を着想したのではないかと考えます。

②ブランディング
定家が、「鬼拉の体」という異様の体を着想した背景に、ライバルであった六条藤家から線引きしたいという願望、ブランディングの野心があったのではないでしょうか。
定家は父俊成から、父に早逝された俊成は歌の師である源基俊から、和歌の手ほどきを受けています。当時、和歌のバイブルであった『古今和歌集』の解釈をどうするかが、すなわち「古今伝授」をどうするのかが、和歌の家では一大事でした。「古今伝授」とは、『古今和歌集』の解釈を、仏教的世界観からいったん切り離し、神道的に解釈し直そうとするものです。ここで大切なことは内容ではなく、「うちはこうする」という、その家なりの形式でした。定家は、神に誓う儀式として古今伝授をさらに神事化しています。源基俊から始まったとされる古今伝授は、六条藤家、そして御子左家でもおこなわれるようになります。ライバル同士の両家は、歌合の場などで、何かにつけて火花を散らしました。

藤本氏は、「国宝『明月記』と藤原定家の世界」や「本を千年伝える」において、古今伝授はまだ血縁上の一子相伝に限らなかったことを示したうえで、定家が、嫡男為家への古今伝授の際、為家に起請文を書かせたばかりでなく、為家もまた、雅有に伝授の際、起請文を書かせたことを取り上げます。そして、定家に始まる、古今伝授の際に起請文を書くというアクションが、これよりさらに後代に及ぼした影響の大きさを訴えます。
藤本氏は、定家が、和歌を神道と結びつけることによって古今伝授を、ひいては家なり自己なりをブランディングしたと述べています。

〈歌人の定家は、和歌が神との通話の言葉であったことを認識していた。鎌倉時代中期以降、定家は、伊勢神宮に対して起請文を書くことにより、『古今和歌集』の源基俊の注釈から選び、神道解釈をした切紙を用いて古今伝授を秘伝化にした歌人として認識されていたと思われる。〉(「国宝『明月記』と藤原定家の世界」)

ブランディングについて、私は、以下のように考えました。

まず、御子左家に先んじて、六条藤家が自家をブランド化していました。定家は、これに対抗したと思えるのです。
佐佐木信綱氏の『日本歌学大系』解題によると、源道済『和歌十体』の全部を、歌論書『奥義抄』(1124~1144年)は引用します。『奥義抄』の作者は、六条藤家の歌学を確立した藤原清輔です。道済の十体は、壬生忠岑の『和歌体十種』に倣います。これらのことから、六条藤家では、『和歌体十種』の系譜をテキストとして重んじたととらえられます。壬生忠岑は『古今和歌集』撰者の一人ですから、六条藤家は、自家を『古今和歌集』の系譜におくことで、和歌の家としてのブランドを確立したのです。
そして『和歌体十種』は、古歌体[古体]、神妙体[神妙]、直体[直体]、余情体[余情]、写思体[写思]、高情体[高情]、器量体[器量]、比興体[比興]、華艶体[花体]、両方体[両方]の十体をそれぞれ五首[二首]ずつ。([ ]内は道済十体)。道済十体にも忠岑十体にも、「鬼拉の体」のような、自己顕示的な名前の体は含まれません。オーソドックスです。
早くに歌学を確立した六条藤家と違って、御子左家では、俊成の父が早逝したため傾き、後ろ盾を得るのにたいへん苦労しながら、俊成がこれを立て直しました。定家は、六条藤家が『古今和歌集』の系譜であることをアピールするのを意識し、御子左家は『古今和歌集』を超越して新風であることをアピールしたのではないでしょうか。
独自の十体構想をひっさげ、名前の目立つ入れ物で、差別化を図る。「鬼を拉ぐ」という恐ろしい名前には、神でも鬼でも借りられる威力は借りてやろうという野心が、見え隠れするように思われます。


七 各体における美的定義の考察

ここでは、『定家十体』それぞれの体の美について、考察を深めようとしています。
『定家十体』の、『近代秀歌』に採られた歌、すなわち定家本人によって壮年期までに分類されたと考えられる歌(○)と、「小倉百人一首」採られた歌(●)、晩年の秀歌選である『詠歌大概』に採られた歌(▼)を以下に再掲し、見出しを①幽玄―鬼拉の対比、②長高ー濃の対比、③基本の体、④その他の体のように分けて、『毎月抄』の記述や藤平氏の校注を参照しつつ、読みを深めていきます。

①幽玄様と拉鬼様の対比軸を考える
文章Dで、幽玄の体が鬼拉の体とが対比されています。二つの体に共有しうる対比軸とは、何でありましょうか。
次のような歌は、描かれた景物の扱いにおいて、対比されうると思われます。

幽玄様
○●有明のつれなく見えしわかれよりあかつきばかり憂きものはなし  壬生忠岑(古今・恋三)
○●今こむといひしばかりに長月の有明の月をまちいづるかな  素性(古今・恋四)
○●花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  小野小町(古今・春下)

拉鬼様
○思ひいでよたがかねごとの末ならむきのふの雲のあとの山風  藤原家隆(新古今・恋四)

ここには、「幽玄」美として有明の月、花。「鬼拉」の趣に風といった自然物が描かれています。
長い雨に降られ、なすすべもなく、花は見ごろではなくなってしまいました。有明の月は、夜が明ければ、日輪の輝きにかき消されてしまいます。
幽玄美は、強いものの作用に従うほかなきものの側にあります。滅びのイシューを幽玄美として実現した体が、「幽玄体」。
これに対し、「鬼拉」に描かれた自然物である風は、強く吹くことで雲を吹き払いつつも、そのもの無常の象徴です。ですので、「鬼拉」もまた「幽玄」と同様に、滅びを含みおくのです。
つまり、これら二体の対比軸とは、両体ともに滅びを扱うことにあります。
鬼拉の体は、「滅ぼす体」。幽玄の体は、「滅ぼされる体」。
詠み手が、滅ぼす者をよく描くとき「鬼拉」の詠み手となり、滅ぼされる者をよく描くとき「幽玄」の詠み手になるということではないか。
対比軸を挟んでどちら側になるかは、個人の資質によります。
そして、すべての幽玄や鬼拉の歌が、このように対比可能だというわけではないでしょう。
次の歌も、定家が主体的に、「幽玄様」に選んだ可能性の高い歌ですが、これらの歌にかき消す作用、滅ぼす作用を与えるものが登場するわけではありません。

○思ひ川たえず流るる水の泡のうたかた人にあはで消えめや  伊勢
○●秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ  天智天皇御歌
○さを鹿のつまどふ山の岡辺なるわさ田はからじ霜はおくとも  人麻呂
○わくらばにとふ人あらば須磨の浦にもしほたれつつわぶと答えよ  在原行平
○つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり  よみ人しらず

ここにあるのは、泡といい、露といい、霜といい、病葉といい、蛍といい、特に作用を与えなくても、いずれ必ず消えてなくなってしまう存在です。そのはかなさは、生命であればなおさらです。
強い作用を与えなくても、おのずから、滅びる定めにある者たち。
「滅ぼされる」美、もしくは「滅びる」美であることが、幽玄体の重要なイシューなのです。
イシューが存在するとは、すなわち、その美のなかに、逃れがたい定めをいかに受け止めるかいう問いが存在するということです。
生命は、滅びの定めから逃れることができません。千年昔の蛍も、平安貴族も、現代人も、時空を超えて、この同じ一つの問いを、抱え持つのです。
美が、生命への問いそのものであるとき、妖艶の輝きを放つのではないでしょうか。
藤平氏が、幽玄体の美を、〈崇高への志向性を持つ優美の特殊相〉と表現するのは、それが単に事物の趣ではなく、美のなかに、普遍の問いが含まれているからなのでしょう。


② 長高様と濃様の対比軸を考える

『毎月抄』の文章Dで、長高体と濃体も、対比されています。

長高様
●このたびはぬさもとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに  天神御歌(新古今・羇旅)
○かづらきや高間の山のさくら花雲ゐのよそに見てややみなむ  顕輔(千載・春上)

濃様
○●月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど  大江千里(古今・秋上)
●わたのはら八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよ海人の釣り船  小野篁(古今・羇旅)

藤平氏の校注によると、長高様は、〈声調の緊張を保った流麗感が強く感じられる詠風〉。
濃様は、〈複雑な修辞技巧によって情趣美を濃厚ならしめている詠風〉。
この二つは、何を軸に対比されているのでしょうか。
私は次のような場面を考えました。歌舞伎を観に行きますと、席によって見えやすくなるもの、見えにくくなるものが違います。長高様はいわば、主役の演技にかぶりつき。緊張感ともに迫力満点。その一方で、囃子方の皆さんの奏でる音楽や、なにげなく置かれた小道具の意味など、舞台を支えているものが相対的に目立たなくなります。二階席や桟敷ですと、また、違ってきます。
「このたびは」の歌は、神がかりなまでに美しい紅葉が眼前に迫る光景。「かづらきや」の歌で「高間の山のさくら花」は、雲さえ突き抜ける高所に咲き、その花を遠目にちらっと見るだけで済ませることはできないというのですから、対象に迫っています。
このような長高様と違って、濃様には、環境を含めた視界の一つ一つに思いを致すところがあります。「わが身ひとつの秋にはあらねど」は、「自分一人の秋ではないけれど」の意。「わたのはら」の歌は、迫るよりはむしろ、岸から沖へと「八十島かけて」遠ざかることで、「海人の釣り船」の視界が開けてゆくさまを描きます。
長高様が、迫ることで緊張感を保つ体であるとしたら、濃様は、その緊張がほどけて、視点は後ろに退り、細部・背景までをこまやかにとらえ得る体といえそうです。
カメラのズームインが長高体。ズームアウトが濃体。対象とのあいだの距離感が、対比軸となっていそうです。
これが、長高様と濃様の対比について、思うことです。


③ 基本の体

『毎月抄』の文章Aで基本の体に挙げられたのは、「幽玄体」「事可然体」「麗体」「有心体」の四つであり、「幽玄体」以外の三つの体であれば、現代人が価値観を共有できるのではないかと前述しました。

有心様
●玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする  式子内親王(新古今・恋一)
○●ながらへばまたこの頃やしのばれむうしと見し世ぞいまはこひしき  清輔(新古今・雑下)

「有心体」とは、ただひとえに心だけがある体。『毎月抄』の文章Cに、歌はどの体も有心でなければならないが、もっぱら有心体である歌を、狭い意味での有心体として十体の項目に列ねたとあります。そのように、ここに描かれているのは、もっぱら心の世界。他の物は詠みこまれておらず、ひとえに作者の訴えのみが表出されています。そして、文章Bでも述べているとおり、恋・述懐の、ひとえに有心であるところを秀歌例として挙げています。『毎月抄』の記述と合致しています。

事可然様
○すみわびて身をかくすべき山里にあまりくまなき夜半の月かな  俊成
○▼あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風たちぬ宮城野の原  西行(新古今・秋上)
○▼かぎりあれば今日ぬぎすてつ藤衣はてなきものは涙なりけり  道信
○▼あけばまた越ゆべき山の嶺なれや空行く月のすゑの白雲  藤原家隆(新古今・羇旅)

藤平氏の校注によると、〈意味内容がなるほどと思われるようなものであること。意味的説述性の確かさの感じられる詠風〉。「すみわびて」の歌は、身を隠すべき山里なのに、隠れるところがないほど月が明るい情景。上の句と下の句とが逆接でつながります。「あはれいかに」の歌は、「いかに」は疑問を表す副詞。「かぎりあれば」の歌の「藤衣」は喪服。「あけば」の歌とともに、「ば」が、「~(した)ので」の意味。順接確定条件。辞書さえあれば辞書義のとおりに内容を受け取ってよく、不明なところがありません。
『毎月抄』の文章Aではこの体を、習得すべき基本の四つに挙げています。基本の体に挙げられるということは、まず習得すべき体として、重んじられたということです。しかしながら、事可然様は、定家の好みを表す「小倉百人一首」と全く重ならず、親王に献進の指導書『詠歌大概』と多く重なりました。和歌は、散文のように説明的になれば、最上級の美からは一段、劣るのです。そうはいっても、言語表現はやはり、意味内容の伝わるように描くことが基本ですから、定家は、まず意味の通ることを、身につけるべき基本として重んじたのでしょう。

麗様
○うづら鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮れ  源俊頼
○●立ちわかれいなばの山の峯におふる松としきかば今帰り来む  在原行平
○さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫  よみ人知らず
●君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ  仁和御門御歌

藤平氏の校注によると、〈一首の表現上の均斉感・調和感の目立つ詠風。整った表現〉。麗体とは、美しく、目立つ欠点がなく、バランスのとれた体をいうのでしょう。「うづら鳴く」の歌の「浜風」は強いものですが、夕日に照らされるススキの原を波打たせて、ススキはきらきらと輝いており、滅ぼされるものも滅ぼすものも、描いてはいません。「立ちわかれ」の歌、「さむしろに」の歌に描出された、待つ女のもとへ急ぐ男は、恋を育てようとしています。「君がため」の歌は、生命が一斉に生長しようとする春の香気にあふれます。この歌の消えゆく「雪」は主題ではなく、生命感あふれる春の引き立て役でしょう。つまり、麗体は、滅びのイシューを持たない点で、幽玄体と区別されるのでしょう。幽玄美の極致である妖艶からも、滅びのイシューを抜き去れば、麗体になるのかもしれません。


④その他の体

見様
●村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ  寂蓮(新古今・秋下)

藤平氏の校注によると、〈視覚的な描写性の目立つ詠風〉。実際、『百人一首』にも選ばれたこの歌は、視覚だけでとらえうる世界を描いています。定家は、この歌の、どこが好みだったのでしょうか。村雨があがって、乾ききらない露と霧。しっとりとした秋の夕暮れは、視覚表現だけで描写が成り立っているのに、私たちの膚身にも、まといつく霧の冷ややかさが感じられるからでしょう。定家は、感覚刺激の重層する歌を、好んだようです。

面白様
○●憂かりける人をはつせの山おろしはげしかれとは祈らぬものを  源俊頼(千載・恋二)

藤平氏の校注によると、〈題に基づく場面構成(趣向)が知性的に巧みに行われている詠風〉。「はつせの山おろし」は、ここでは冷淡な仕打ちのメタファーであり、技巧と機知に富む部分でしょう。女性からいっそう冷淡にされる男は、それだけの理由を自覚するのでしょう。なお憎からず想い合うカップルのように思われます。相手を大切に思うあまり近づくことができなくなってしまう、世の中には、そんな恋もありますが、定家は、はげしく相思うことを、好んだのかもしれません。はげしく相思いながら、機知にくるんでしまうのを、なお好んだかもしれません。

有一節様
○立ちかへりまたも来てみむ松島やをじまのとまや波にあらすな  藤原俊成(新古今・羇旅)
●瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれてもすゑにあはむとぞ思ふ  崇徳院(詞花・恋上)

藤平氏の校注によると、〈着想の珍しさの目立つ詠風〉。「立ちかへり」の歌では、「松島や雄島」は歌枕ですが、その景物のなかでも旅寝の苫屋を称揚している点が、珍しいといえます。「瀬をはやみ」の歌では、川の流れを、いったん別れた男女がまた結ばれる姿に見立てている点に、着想の珍しさがあるといえそうです。思えば、定家の、御子左家嫡男としての歌業は、いかに時代の最先端となって六条藤家に差をつけるかに焦点が合っていました。それが、着想の珍しいものについて、まず重んじるという、価値観の打ち出し方になっていくのでしょう。



八 さいごに

さいごに、定家が有心体と鬼拉の体を難しいというわけを考えます。

定家は、『毎月抄』の文章Aでは鬼拉の歌を、文章Bでは有心の歌を、詠むことが難しい体として、特に取り上げています。文章Ⅾでは、〈幽玄の躰をうけたらむ人〉や〈長高様得たる輩〉があるように、どの体も作者の得手不得手があって、それぞれに合った詠風があるとも述べています。

有心の体が難しい理由。それは、心がなければ詠めないからでしょう。
たいていの人は、心を殺して日々を送っています。たとえば『明月記』は、家の部類記でありながら、まさしく心をなくして忙殺される中流官僚の、日々の表白でもあります。つまり、有心ーー心がある、といえるコンディションを手にすることが難しいのです。
定家は、心があることに、和歌の究極の本質、あるべき姿を見ました。
「心」とは、何でしょうか。
それは、「余情」の「情」と意味を同じくする「こころ」でもあり、「こころ」を一部分とする自我でもありましょう。
今も昔も、誰もが自我を押し殺して、日々を生きています。
どんなに技術があっても、鉱山に入らなければ、鉱物は採れません。自我を取り戻す環境を、みずから手に入れなければならないのです。

鬼拉の体を詠むことが難しい理由。それは、強いものを主題にとった歌を集めようにも、統一感を得られるほどには発掘できなかったという事実に、示されているのではないでしょうか。
鬼拉の体は、練磨すれば詠めるようになると定家はいいますが、本当でしょうか。
もし、「練磨すれば詠めるようになる」というのが一貫しうる考えであったとしたら、「拉鬼様」に格納される歌に、統一感が持たれているはずです。
『毎月抄』は後代に遺されてはいるけれど、個人(誰か判然とはしないが初心者)に宛てた手紙なのです。定家は、希望を持たせたくて、勢いで、練磨次第と説いたのかもしれません。
定家は、言いました。どの体で詠むか、作者によって得手不得手があると。
この言葉が正しければ、歌を詠むという行為と、その作品の持つ味わいは、背景にある作者のコンディションや生き方――いわば、境涯によるものだということでしょう。いつ吹くともわからない山風に遭って、いかに立て直すかということも、人によって違いのあること。
やはり、歌を詠む人の、コンディションやパーソナリティー次第ではありませんか。

中古中世の詠歌は、題を設定し虚構として詠む、男は女に成り代わって詠む、などといわれてきました。しかし、実際の作品には、現代短歌や近代短歌の私性と同じものが、存在していました。その作者の実人生を背景に、作者なりの感じ方や表し方、他の誰かに代われない主体が浮き彫りにされていく世界があったのです。
境涯をそのまま題材に描くのがよいというのではありません。
虚構と見える作品の背景にも、そのように詠む人の境涯を認めうる。定家は、このように言うのでしょう。
それは、自我を持たないコンピュータに決して到達しえない世界です。
定家の実作論は、歌のなかに、主体としての「こころ」あれと、自我の存在を認め、肯定するものだったのです。



【参考文献】
『定家十体』『和歌体十種』風間書房「日本歌学大系」(編者:佐佐木信綱)
『毎月抄』小学館「新編日本古典文学全集」(校注訳:藤平春男)
『近代秀歌』小学館「新編日本古典文学全集」(校注訳:藤平春男)
『詠歌大概』小学館「新編日本古典文学全集」(校注訳:藤平春男)
『新古今歌人の研究』東京大学出版会(著者:久保田淳)
『無名抄』角川ソフィア文庫(訳注:久保田淳)
『藤原俊成 中世和歌の先導者』吉川弘文館(著者:久保田淳)
『新古今和歌集』新潮社「新潮日本古典集成」(校注:久保田淳)
『古今和歌集』新潮社「新潮日本古典集成」(校注:奥村恆哉)
「国宝『明月記』と藤原定家の世界」臨川書店(著者:藤本孝一)
『本を千年伝える』朝日新聞出版(著者:藤本孝一)
『定家明月記私抄』ちくま学芸文庫(著者:堀田善衛)
『風姿花伝』講談社学術文庫(全訳注:市村宏)
『風姿花伝』筑摩書房(校注訳:佐藤正英)
『病悩と治療』臨川書店(著者:瀬戸まゆみ 監修:倉本一宏)
「小倉百人一首」ベネッセ全訳古語辞典

※表記について、旧字体を新字体とする、句ごとの分かち書きを解消するなど、拙考のなかでの読みやすさを考えて、改めたところがあります。
※『和歌体十種』の偽作説については、定家の時代に忠岑の作と認識されていたこと、もしくは定家に忠岑作と認識されていたことを優先します。









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アイアン・ボトム・サウンドーー「月鞠」21号百首歌

2024-09-09 09:29:06 | 月鞠の会
本稿は、辰巳泰子の個人誌「月鞠」21号に掲載される予定です。
21号は、年内発行を予定しております。
また、21号は、ほかに原稿用紙にして約60枚の古典研究、「『定家十体』考」を掲載。
随時エッセイとして、「松木靖夫さん。そして境涯詠のことなど」を掲載。
ご寄稿では、石川実(サンタ)さんの「現代説話集」の掲載があります。
小誌は、創刊号から第5号まで、個人誌でした。第6号から20号までを結社誌(主宰誌)として、ご寄稿の一部の方に実作指導を施すなどさせていただきました。
そしてこの21号(もしくは22号)から、再び個人誌になります。
ご寄稿の皆さんとの関係性を緩やかなものにするために、このようにいたします。

ひきつづきよろしくお願い申し上げます。

………………………………………………………………



アイアン・ボトム・サウンド

辰巳泰子



  アムリタ

晒されて解剖実習室にいるラフランスはや破水していて

ウオトカの瓶の林立 カルテにはラフランスの体液を交換すと

ウオトカは消毒液と匂い似ん 梁見えていし廊下の記憶

逃げようとしていたひとに傷ついたラフランス去年(こぞ)の九月の味す

ウオトカの安きを提げて醸すなり不遇なおんなのごとき果実を

海底墓標三千七百隻の船 時限装置としてぞ腐蝕す

韃靼海峡を蝶は越ゆ ジャポニカ種うなぎはマリワナを目指しゆく

海溝にレプトケファルス幼生す マリンスノーを離乳食とし

身体九穴おおまがどきを吸うごとし 光(て)りつつかづくコバルト青に

死ねないでたたかう薬アムリタをあの海に流さずいてほしい
 


  
   弥勒

干さるるというにあらねど非正規の雇用の谷を閑居している

受苦でしかなきことうたう憶良かな もみづるまでの貧しさと税

いつも堤で見かけるあの子 ハクセキレイを骨のごとくに連れかえらんか

側溝に不明のこども埋めらるる しんぶんがみのインクに巻かれ

「労務者ふうの男が」という書き出しで目撃情報がつくられつ

砂場にはおもちゃと楓ふきだまる児童ゆうえん高架下の暗み

無為の日を公園で将棋さす人ら 更地に隣るホテル富士

紅旗征戎よそごとなれど踏み場なしかえでもみじの吹きつける宿

わが禄は飲めば飲むほど消えてゆく それでも弥勒待つ気にはなる

チェックアウトの手続きをして国道は見ごろしにしてやまぬ大空



   観音びらき

音階や色彩JIS そのどれでもなく 想いにあえぬ私でありぬ

シルクハットの水飲み鳥がなつかしい 鳥たるゆえん翼にあらず

かごめかごめ シルクハットと嘴の飛ぶことを知らざる熱機関

櫛おきて観音びらき 片翼に昭和時代のいくさが映る

水飲み鳥かざる店の子 左利き 何かぶつぶつ鏡文字かく

釣り銭が籠に吊られてぶらさがる公設市場の川うお屋

ダイヤモンドの針もて甦(かえ)るたたら唄 この声の人らいかにいまさん

やんばるくいな よあけのばんの国道で何に見とれた やんばるくいな

やんばるくいな よあけのばんにでて轢かれ 視えざる者ら踏む交差点

こんなふうに泣いてあなたを困らせた水琴窟の風にまぎれて



   炉の火

桐箱にかたかた鳴るは一郎の骨とぞ まこと一郎なりや

一郎にあらずと骨のかたる名はドブロホースト ウクライナびと

お隣のお宅もさきほどお買い上げ せかいへいわのための火薬庫

割れ窓の海をかづきて高架下 少年ら一つ落書に舫う

しんぶんを売らねばならず挑発を「北の脅威」と書きて、そののち

原発雇用、軍需雇用が口あけて節分まぎわ経営かたる

国民皆兵 武器と電気をつくるため 増税たえよ賦課金はらえ

日当たりの良ければ桐の木を植えし 今パネル敷くあきつしまびと

スロットのように数字の並びたり 賦課金制度ゆかしきものか

春の夜の電気使えば使うほど当たり遠のくポイント制度

かざまうら、佐井村そして六ヶ所へ 賽の目を振りつつ旅したね

さいころを振れば真赤き目はひとつ 炉の火といえば鬼めくごとし

たたなづく原野を裂きて原燃のうえ旋回す 啼くまじの鳥

残り湯は思ったよりも温かく水の比熱に手を泳がせる

あれが石油 備蓄のタンク遠巻きに光れる眺め しもきたの春

金策に万策尽きてとっておき 封を切らばや冷凍うなぎ

ジャポニカをロストラータが駆逐してアンギラ・アンギラ 売り場がわらう

春寒の電子レンジに解凍す 父の贈りてくれし鰻を

そのかみは飛び移る火でありしもの いのちをつなぐ電気をおもう

閣議決定みな死ぬるころ奉れ 二〇五〇年まぼろしの炉を



   パンデミック

猛暑日を地膚ただれていし猫とあらたまの年あけて目が遭う

鳩よけの網にかかりし鳩おりぬ 大寒波ふきさらす踊り場

暴風夜 手すりのきわに膨らみて野鳥おおむね夜目利くらしき

温血のついばみ剝いて穴あけて生きゆく手立て鋭くありぬ

ハクビシン パンデミックに殖えたりと巡査立ち去る暴風夜

トンネルに弾む落書はスプレー字 緊急事態宣言ながし

君はどうしてまともになれた からし種ひと粒にいたるまで不公平

開拓団の凍結せし子 旧満州の潰えし路地に蹴られていしは

無修正版グリム童話のなかに棲むまひる人妻とまぐわう牧師

フクロウは納屋ごと焼かれ仕立て屋は天国へ行けないというはなし



   夜祭

バセドウを病みて蟄居のなぐさめに「檸檬」それからブルーノ・シュルツ

バセドウの厳重管理あけて秋 労働者として持ち重りゆく

筋肉の自家炎症に歩けぬ日 肉桂色が持つJISコード

隆起する甲状腺のハート型 のどぶえにいますクインとキング

天命に仕えんために虫となるシュルツの父の無用ねぎらう

兵馬俑あざやけく絵付けせし人も囚われびとか ブルーノ・シュルツ

俑なれど死後には自由なる男 陵(みささぎ)はよくよく囲まれよ

片割れが片割れの死を橇に挽くロシア・ビヨンド 絵詞として

喫煙に子供は飢餓のやわらぐとネフスキイ大通り席捲さる

夜祭の射的にぎわい ここ行かば 微笑んで戦争の正義が奪う



   願い

焼肉店、斎場そしてホスピタル 三角を結ぶ異様なる近さ

斎場の案内板を置くあたり 横に列なる団塊世代

私ひとりこの世はぐれて在るごとく日暮れてのぞく通りいろいろ

水無月に沈みゆく街まつよいの黄の花立てり罪もなかりき

朝焼けの一刷毛消えておもむろに夕映えの空 八重垣の奥

むらぎものうちかさなりて雲あかし くぬぎの空へ匂うわがシャツ

磐座にいませる神をおもうなり まぐわうというぎりぎりの場所

石工なからば イシクナカラバ 古代神いまさざらむを かいなの翳り

たまぼこの道に出で立ちする祈り 女男(めお)ただ一対のくまぐましき祈り

鬼しこの草だに花のときを生く 願いを放ちたきゆうまぐれ





   縄文

お空をね月のお尻が歩いてた 捥いで置いたらお酒になった

ごろり縄目を転がしゆけばお月さん傷だらけになるまえに、交代だ

兵士らはふつうのやさしい男たち 麻薬打たれて特攻かけた

フラッシュバックの引き金は音 慰安婦と呼ばれしひとの牡丹花のごと

電子文書の処分は易し 枝垂れよ口伝 かえす潮のごとくかなしき

残んのしずく 口伝のひとの時計をば次へ次へと止めゆく神は 

おそ秋に二つの甕を仕込みつつ口結ぼほる 離せぬように

熊ざさの隈どり白し黄昏れてさやらさやらとなにかまじなう

蜜帯びてはなはだ硬しかりんの実 割ればほのぼの泣く子のおもて

まさぐれば鼓動をはらみうち湿る縄文のふところに眠れよ




   マリンスノー

サングラス越しの日差しに秋立ちてくだれる坂の此処 遮(さえ)の神

照らされて一葉の乾き丸まれりここに棲まえとほとけ仄笑む

南島にて施餓鬼ひた待つ いつかの私 マリンスノーをおなかに詰めて

重金属おびてしおかぜ みなみかぜ 磯菜つむ子ら吹かれてあるを

アイアン・ボトム・サウンドを聴き育ちけるミクロネシアのうなぎ、神さぶ

恋歌の一とはきっとあの頃ね ふりつむ雪の重りゆかんに

口とざし眠るどの子も ひっそりと銃より重く紙のあれかし

鳥どちは蒼天を摩り蒼天は容れてかなしむ ちぎれんばかり

ほとばしり砕くる水の羽ばたきよ いにしえ春の始まりは白

わかき日にまさりてぞ恋 目つむればあのゆたけくてはるかなる四時













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(未定稿)松木靖夫さん。そして境涯詠のことなど

2024-09-08 16:24:01 | 月鞠の会
お身内のかたに内容の確認を取らせていただくので、未定稿として、いったん公開します。




松木靖夫さん。そして境涯詠のことなど

辰 巳 泰 子


片付けてしまふは惜しき鰯雲   松木靖夫
(「俳句誌「あだち野」2018年アンソロジー[通巻40号])

靖夫さんの「片付けてしまふは惜しき鰯雲」の句は、地域にお住まいの方々の俳句誌「あだち野」に掲載。靖夫さんはご療養中とのことで、靖夫さんのご息女とお話ができました。

「鰯雲」は三秋の季語。空一面に広がる秋の雲。「鰯雲人に告ぐべきことならず」という、楸邨の有名な句が、先行します。
楸邨の句は、昭和十三年。日中戦争の真っ只中、言論弾圧の激化するなかで詠まれました。鰯雲は、取り立てて美しいというのでもなく、秋めいてきた時節によく現れる天文現象です。また同時に、折々「じゃこ(雑魚)」とも呼ばれる鰯の字義からとらえれば、ごくごく普通の名も無き人々のメタファー、つまり、貴族でもなければ大臣でもない、私たちのことです。ごくごく普通の名も無き人々が、その声を奪われた重苦しい時代、大空の広がる鰯雲の、なんとのびのびとしていたことでしょう。

そして、靖夫さんの「片付けてしまふは惜しき鰯雲」の句は、令和元年です。戦争が終わって、新しい時代を代表する句として、鰯雲といえばこの句「も」というふうに、文学史が更新されていても、よいのではありませんか。

靖夫さんの詠まれた鰯雲の句には、靖夫さんの世代の皆さんが築かれた、平和と生産性の時代の、自由な空気が象徴されています。
私ども、子の世代は、その恩恵に浴しました。
この句は、さらにそのうえ子々孫々に、希望のもてる未来の広がることを信じてくれています。あきらめるなと、背中を押してくれているのです。
片付けてしまうには惜しい、一つ一つの生命のつながり。
「鰯雲」のような取るに足りない存在の心地を汲みながら、天空一面に広がるきらきらしい景色とともに、このいまの眺めがさらに、未来につながることを願ってくれているのです。

松木靖夫さんは、亡き母の幼なじみ。兵庫県立篠山鳳鳴高校の同級生なので、一九三六年生まれのご学年でしょう。歌誌「かりん」の塩見匡さんのご親戚でもあり、馬場あき子さんの遠縁にあたると伺ったことがあります。
私といえば、母の三回忌を過ぎた頃、心の調子を崩しました。母にかかるもろもろに尋常でない悲しみが残り、それがいつまでも回復せずに、とうとう、母にひもづく一切を忘れようとしたのです。
そうして靖夫さんに小誌「月鞠」へご寄稿のお打診をしながら、連絡をしなくなりました。
晩年の母に、俳句の趣味を与えてくださったのは、靖夫さんなのに……。
それでも、冒頭に掲出の靖夫さんの句を、「俳句アトラス」(代表 林誠司)のウェブサイトという、亡き母にひもづかない場で見つけてしまい、そのとき、自分が本当にしなければならないことが見えてしまったのでした。

今、かつていただいた合同句集『ザクロ』(二〇一〇年)の靖夫さんの句、『ザクロ』を創刊した稲垣鷹人さんの句を再読、今の目で、あらためて拝読しています。『ザクロ』の師系は右脳俳句提唱者の品川良夜。合同句集の指導者は菊池都。靖夫さんは、『ザクロ』では千樹という俳号を用いておられました。

私が「片付けてしまふは惜しき鰯雲」の句を見て受けた衝撃の第一波は、拙ブログ連句の記にある、連衆の「どこからかたづけようか鰯雲」に着想を得られたと思われたことでした。靖夫さんは、母がお世話になったばかりではなく、私の短歌朗読会にも、よくお越しくださいました。濃やかに、お見守りをくださった日々に思いを致し、この句をウェブ上で見かけてしまってから、何としても、ご連絡を取り直したいと思うようになりました。
しかし、私が無為の日々を過ごすうちに、『ザクロ』のどなたとも、ご連絡がつかなくなっておりました。
趣味人の冊子の多くは、発行と流通にかかわるほぼ同世代の人間関係のなかで、一切が閉じられてしまう。それは、わかっていました。でも、後の世代に引き継がれるアドレスがないのは、後の世代にとっての損失であるとお考えになっていただきたいのです。
私は、これからも折に触れ、合同句集『ザクロ』のことを、書きますよ?

コンピュータがライティングを巧みにこなす時代がやってきました。お飾りでいいなら俳句も短歌も、コンピュータが合成してくれます。ゆえに、短詩形の作者に実用的な価値は全く存在しない。そういう時代になりました。
そのような状況にあるからでしょうか。
昨今、俳句にも、境涯詠が登場したと聞きます。
私はこれにも驚いています。
それは、俳句というジャンルが無くなってしまうことを意味するのではないですか。

短歌は境涯を詠み、俳句は境涯などは詠まないものだと、言われてきました。
俳句は、我がことでないかのように詠みます。そうでありながら、共感を示し、共感を誘うものが、俳句なのです。
しかし、コンピューターに、他者に共感する自我がありましょうか。コンピュータに「~が感じられます。」などと言われても、うれしくもなんともないのでは。言葉というのは、この人がいうからいい、あの人に伝えてみたい、そういう性質のものではありませんか。
そんななかで、短歌とは、叙情のための形式であり、その作法は、他者に成りかわったようでも自分の気持ちであり、誰かの気持ちなのです。短歌では、我がことのように詠むのが、作法なのです。
少し難しくいいますと、短歌は、境涯に依拠するところにその美を成立させ、俳句は境涯から切り離したところにその美を結実してきたのです。
ここで、俳句にとって、境涯を切り離すとはどういうことか。
合同句集『ザクロ』から、例句を挙げましょう。


初蝶のはや恋仲となりてをり   稲垣鷹人
花筏ひと跨ぎして蕎麦処
夕闇の包み切れざる白牡丹
原爆忌切り口赫き西瓜かな
この谷に散るほかはなしななかまど
蝋梅や如来は軽く右手挙げ
(合同句集『ザクロ』)

鷹人さんは一九二六年生まれ。ご存命であれば御年、九十八歳でしょうか。なんという華やかな作風でしょう。恋の蝶、包んでも包み切れない花のなかの花を幻想的に描き、如来仏が「よっ」と挨拶しそうに印を結ぶといいます。鷹人さんはどんなときも華麗に、足取りは軽く。そのような方だと、お作を見れば、わかります。

さてこのうち、次の二句に注目します。

原爆忌切り口赫き西瓜かな
この谷に散るほかはなしななかまど

原爆忌、西瓜もともに初秋の季語。「あかき」を「赫き」と書くのは、戦争への忿怒からでしょうか。西瓜のゆたかにほとばしる甘汁を、水がほしいといって亡くなられた方々へ捧げておられるのでしょう。季重なりせずにいられないほどの思いがおありでしょう。
ななかまどは、晩秋。七回燃やしても燃え尽きないと言われている、関東以北の木。関西には生えていません。私は、東京に移り住んで、この木を初めて見ました。散っているのは、落葉でしょう。ピラカンサによく似た実を残しますが、いっそう深いあかさの実です。そのななかまどの死に場所は、そこにしかないというのです。いいえ、樹木はどの樹木も、そこから動くことなどできないし、ただただ環境から作用を受け入れるほかありません。ななかまどの深紅は、鮮烈な覚悟の色でしょう。



山ほどの絵具使へと笑ふ山   松木靖夫
紫陽花を背に量感のある女
納得の行くまで歩き夏終る
祝福のごとくに弾けザクロの実
秋草と山あり故郷歩くべし
埋み火のごとく戦の日の記憶
(合同句集『ザクロ』)

鷹人さんの句と並べたとき、靖夫さんの句の素晴らしさが、くっきり浮かびあがります。鷹人さんの句が妖艶を描いて華やかであればあるほど、靖夫さんの句の実直さ、まことの花が浮かびあがってくるようです。
「山笑ふ」は、春。絢爛たる花の山でしょう。そこで絵具が山ほどいるぞと、靖夫さんは、クリエイターならいかに描くかと思いを巡らせます。靖夫さんは、春という季節の美よりも、その美を描きとろうとするクリエイターのことを、まず考えるのです。紫陽花を後ろにした量感のある女は、きっと、くるくると家の中をよく動き、家事をこなし、がっちりと小太りの女でありましょう。靖夫さんは、その人の実直に、まず目がいくのです。そして、華やかであることよりも、「納得が行く」ことが、大切なのです。

このうち、次の句に、境涯とは何かを見ます。俳句と、その作者の境涯とは、どのような関係性であるべきかということ。

祝福のごとくに弾けザクロの実

ザクロは仲秋。鬼子母神を思い浮かべる人が少なくないでしょう。ザクロの実がばっくりと割れているところは、本当に生きた人の肉が裂けたよう。この見た目から人肉の代わりとして鬼子母に与えられたのだろうと、私は一人合点しているのですが、靖夫さんは、その張り裂けた肉芽を、祝福の弾けたようだというのです。ここには、価値観の引き直しがあります。「鰯雲」の句の、未来を見つめる目と同じように、なんとかして、無骨にも、希望を見出してやろうとする意志を感じます。この無骨さを、もし私が「片付けてしまふは惜しき鰯雲」の句を知らなければ、「無理な」と思ったかもしれません。しかし、この句は、「片付けてしまふは惜しき鰯雲」の作者の句です。そうであるからには、無理な、とは思いません。
言葉には、この人がいうからこそ良いという面があります。それが、その作者のまことの花でありませんか。
我がことでも、我がことでないかのように、描きとるのです。それでいて、この人がいうからこそ深い、というように。

埋み火のごとく戦の日の記憶

我がことでないかのように描かれながら、鷹人さんの句、靖夫さんの句のうしろに、戦争の時代が隠れています。戦争の時代を知る人々が、歳月の奥へ奥へと隠れてしまわれるなか、私は、「あだち野」に掲載されたご本名での句を、もっと読んでみたいと思っています。未来に希望を見せてくれる作品が、きっと、あるように思われて。







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(未定稿)鬼さん考 8

2024-07-28 20:26:35 | 月鞠の会
三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)


⑷ 『今昔物語集』の鬼説話を事件簿として読む

「事件簿として読む」とは、作中事実どうしの関係を中心に、さまざまな可能性を考慮しながら読んでいくという意味です。
まず、さまざまな可能性の、典型例を挙げておきます。

△27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」。よく気をつけていたのに、菓子(果物)の入った容器(竹籠などの)を預かり、届ける途中で中身の菓子だけを盗られていたという話です。このお話は締め括りに、盗人がやったことなら少しを盗って、盗った痕があるだろう、跡形もなく丸ごと消えてしまっているからには鬼のしわざなのだ……という趣旨の文脈を成しています。しかし、注意深く読めば、どの時点のものを預かったかといえば、容器です。持ち運びをする者が、その容器のなかに菓子を容れるところを見たとまでは書かれていません。つまり、容器の中には、初めから何も入っていなかったかもしれません。
これなど、誰も盗った者などいない可能性、事件ごと捏造された可能性が高く、鬼のしわざと決めつけられていれば、私たちは、なるほどそうかと思って読むしかありません。

次に挙げる5件はどうでしょう。

△27-15「産女行南山科、値鬼逃語」。赤ん坊を見て、食べてしまいたいほど愛くるしいと感じるのはごく一般的な感じ方で、父無し子を密かに産んだ女のうしろめたさから、親切な老女を鬼と疑った可能性が高いだろうと思うのです。
△27-16「正親大夫、□(欠字)若時値鬼語」。あいびき中のカップルが、そこを廃屋と思いこまされていただけで、実際、落ちぶれ果てた貴族の棲みかだったかもしれないのです。このような場所で落ち合う二人は、道ならぬ恋でしょう。女はその後、病気になり、廃屋に棲む鬼が祟ったように暗示されていますが、女は、人目をはばかるうしろめたさから、病んでいったのかもしれないのです。
△27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」。女が、人気のない場所へ、誘われて男についていったら、なかなか戻ってこない。女は、手と足ばかりが離れてそこにある、殺された状態で発見されました。若い女の体がバラバラにされて、全部が見つからない。文字どおり、獣肉を得るようにその肉を得ることが目的で女に近づき、一部を持ち去っていても、不思議ではありません。まじないと加持祈祷で解決する、非科学の時代です。禁断の肉食祭祀が古代よりありました。若い女の人肉に薬効を期待したり呪術的な意味合いを付したりしても、なんの不思議もないでしょう。
△27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」。下級官僚が、勤務中に殺害されるという恐ろしい事件が発生しました。自分が殺害されるに至った経緯が現場に書き遺されていたとありますが、読者にその内容は明示されません。
○27-17「東人、宿川原院被取妻語」。京見物に上ってきた旅の夫婦の妻が、廃屋に寝泊まりするところ、手が伸びて来て妻を捕らえ、扉が開かなくなりました。妻は、発見されたときには外傷もなく死んでいました。鬼のしわざとされる不審死ですが、超自然現象でしょうか。
じつは、これらの5件のすべてに、人気のない不案内な場所への立ち入りが戒められています。
邪悪な鬼が超自然の鬼であるとした場合、その悪行を封じるのは神仏の験力でありましょう。そのとき教訓は、神仏をいっそう敬い恐れよと呼びかけるでしょう。しかし、これらの説話では、「人気のない場所へは立ち入るな」と、人々に、主体的で具体的な実行策をとるよう呼びかけています。防御策の呼びかけが、神秘主義に拠らないのは、これらの説話に出現した鬼が、超自然の鬼ではなく現実の人間である可能性を、『今昔物語集』の編纂者が、見ていたからでありましょう。

超自然の霊験譚として収められている説話にも、微妙なものがあります。

●17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」には、鞍馬寺に籠っていた修行僧が、女の鬼に襲われ、毘沙門天を念じ奉ると、その霊験で鬼の上に倒木、夜が明けて鬼の死を確認したと記されます。しかし、超自然の鬼の死を、確認できたりするものでしょうか。それは、確認できる死体があったということ。つまり、人間だったかもしれないのです。校注によると、本文中にある〈「此レ只ノ女ニ非ジ。鬼也メリ」ト疑ヒテ〉は、出典には無い描写。少なくとも『今昔物語集』では、近づいてきた女を鬼と疑って、先に攻撃を仕掛けたのは僧なのでした。鬼の死体は人間の女の死体であったと示唆したかったのかもしれません。

出典からの改変ということでは、次の2件も気になります。

△20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」の出典は、『日本霊異記』の中巻33縁。出典では、殺害された娘が主体となって、その「過去の怨」の報として殺害されたと説明しています。『今昔物語集』では、題名が「たからにふけりて、むすめをおにのためにくはれてくいること」となっているように、親の物欲が原因となって、その娘を殺害されるという、親が主体の因果応報として説明しています。娘にも親にも、悪根といえるほどの悪業を見出だせないからこそ、このように相違するのであって、両書とも、本説話を仏教説話と仕立てながらも、殺されるほどの因果関係を説明しきれていないのでした。この説話で超自然的に感じられるのは、財物が獣骨に変わり果てていたくだりです。しかし、翌朝まで車に乗せたままだったのだから、よく見ていなかったことがわかります。つまり、犯人は、初めから獣骨だったのを財物のように見せかけていたと、とらえることができます。

×27-7「在原業平中将女被噉鬼語」の出典は、『伊勢物語』第6段。出典では、〈鬼一口に食ひてけり。〉と表現しつつも、そのすぐ後で、女は〈二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりける〉、実在の姫君であり、その姫君が追手によって連れ戻されたことを鬼というのだと種明かしをします。『今昔物語集』でも、在原業平と題名に示すうえは、鬼の出現などなかったことは自明でありましょう。しかし『今昔物語集』では、次のような描写が付与されます。〈女ノ頭ノ限ト着タリケル衣共許(ばかり)残タリ。〉、そして人気のない不案内な場所への立ち入りを戒めるのです。こうしたあえての改変に、人気のない場所、荒れ果てた場所がどれほどに危険か、訴えているのでしょう。そのような場所での残虐な殺害事件が当時には横行していたと、思わせるふしがあります。

恐ろしい目に遭うのは、なぜかということ。非常に驚いたことやどうしようもないことを、鬼のしわざと考えようとした痕跡が、今昔では、自覚的に見られます。

そして私は、このように感じます。『今昔物語集』では、鬼と人間の境目が、とても紛らわしいと。

たとえば、鬼と老いの紛らわしさは、現代人にとっても同じようなものかもしれません。
○27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」では、兄弟が猟をしているときに、突然木の上から手が伸びてき、髻をとって引き上げようとしました。兄弟は、これを鬼のしわざと思ってその腕を射切りました。家に戻ると、足腰も立たなくなっていた老母がうめいており、なんとその鬼は老母だったのでした。老母は、腕を切られて我が子につかみかかり、まもなく亡くなります。『今昔物語集』では、あまりにも年老いると鬼になると結んでいます。
現代でも、足腰が弱っているのに突然行方がわからなくなり、とんでもない遠い場所で発見されるお年寄りの数は、無くなりません。穏やかな気性で生涯を過ごしてきた人が、年老いて、我が子につかみかかる暴力性を発揮するというのも、世間一般に聴かれる話です。そして、他人の身の上であれば、よくあることと冷ややかに見て、自分だけはなるまい、健康でありたいと、人間ですから、願ってしまいます。
この老母は、いまでいう認知症の進んだ状態であったことでしょう。
『今昔物語集』は、このような老いの姿が、特に珍しくはないことがわかっていながら、鬼と呼ばわります。老いに直面する世代の読者は、これを、他人事ではないと感受するでしょう。

鬼と人間は、ある意味での凄まじさにおいて、しばしば、逆転します。
○20-7「染殿后、為天宮、被嬈乱語」では、染殿后にはげしい愛欲心を起こした聖が、いきなり腰にしがみついて、后をレイプしようとしました。聖は投獄されてから、入滅し鬼となる決意をします。究極の修法を使うことで願いを果たそうと考えたのです。その願いはかない、聖は愛欲の鬼となって后のもとに通い、后を虜にします。
この説話の教訓は、女は法師に近づいてはいけないというものです。しかし、女から聖に近づいたという展開は、どこにもありません。なぜ、ストーリーと食い違う教訓が添えられているのでしょう。
愛欲を遂げるために聖は、段階的になってゆきます。邪魔立てするものは容赦なく呪い殺しました。その迷いのなさが直線的で、まさしく鬼の恐ろしさではありますが、男の愛欲の、純粋さということでもあるでしょう。
その一方で、染殿后の内面は、一切描かれていないのです。その前振りとして、物の怪の憑きやすさが示されます。鬼が現れ性技が始まれば、どこででも、公衆の面前であっても、スイッチを押したら歓喜に悶えて、スイッチを切ったら何事も無かったように安寧へと戻っていくのです。后に、恋の道をゆく者の慚愧はありません。投獄され、鬼となった聖でさえ、自死において慚愧を表現しているというのに、后には、それが無い。この種の切り替えが異常視されないのは、日常を保つために必要だからでしょうか。ふつうの女って、じつは鬼より凄まじいのだと思わされます。だとすれば、論を俟たずに女は入るなという禁忌の素朴さは、いたましさでもあるでしょう。


さらに、鬼と人間の紛らわしさについて、○27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」を見ていきます。
若い男たちの、勇ましいのが集まって、遊びつつ酒を飲みながら、安義橋には鬼が出るらしいぞと噂をしていました。鬼なぞいるものか、それなら俺が渡ってみせようと深くも思わず言い出して、その場で争いになり、男は、橋を渡ることになってしまいました。鬼は、橋の上で、妖艶な美女となって現れます。男は、その美女に魅かれてやみませんが、なんとかかかわらずに通り過ぎようとしたところ、美女は、恐ろしい鬼の姿になり、男は一目散に逃げました。しかし、男はすでに取り憑かれていました。その後、鬼は、男の弟に姿を化身して物忌を破らせ、男の家に入り込みました。男は、それが弟ではなく鬼と気づいて、鬼と上になり下になり、組み伏せ合います。男は妻に「枕許の太刀を取ってくれと頼みます。しかし妻の目には、その弟と男がじゃれ合っているようにしか見えず、取り合わずにいると、鬼が、男の首をふっと切り落としました。鬼は、うれしいという表情をして妻のほうを見返ります。そのとき、橋の上で追いかけてきたときの鬼の顔をしていたというのです。
教訓では、無用の争いから、勢いで橋へ向かったことを戒めています。
確かにそもそも、橋を渡ったりしなければ、鬼には遭わなかったでしょう。しかし、この鬼には、不思議があります。この鬼は、人間であり、現代でいうストーカーであったとして、なんの不思議もないのですが、男をこうまで執拗に狙う人間らしい理由が、見当たりません。唯一、男を仕留めて「うれしい」という表情をしたことを手がかりにすると、この鬼が求めたものは、支配しきることへの達成感でしょう。自分の領分である橋の上で、何もかも自分の思ったとおりに男を完全に魅了でき、自分の思ったとおりに男を奪えていたら、この執着心は、生まれなかったでしょう。いわば、男が逃げたから、鬼は、こうまでにする執着心を持ったのでしょう。
この鬼は、逃げられたことで男に執着心を持ち、その弟に化け、男を殺害し、その妻の心までを完膚なきまでに痛めつけ、男から、何もかもを奪いきったのです。
私はこの鬼が、もともと美女の姿をしていたということから、女性性のある一面について、誇張しつつ示唆しているといっていいように思います。


ここまでに、鬼とはいっても、もとは人間であった(であろう)鬼について、それぞれの説話を読みました。
そして、鬼と人間の境目の紛らわしさについても考えました。
〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。〉ーーでくわしたものが鬼であるなら、後々までただでは済まされない。
後年、世阿弥が「物まね条々」で、鬼とはとてつもなく恐ろしいものだという定義づけをしました。
『今昔物語集』の鬼には、その同時代の表現のなかの「鬼」には、その意味合いが、含まれていると見るべきでしょう。








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(未定稿)鬼さん考 7

2024-07-23 23:24:09 | 月鞠の会
三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)


⑵ 『今昔物語集』の鬼説話を分析する

『今昔物語集』(新日本古典文学大系『今昔物語集』校注:小峯和明)を読んでいて、興味深い言葉に出くわしました。平安時代末期に成立したとされる『今昔物語集』全31 巻は1000 話以上の短編を収録しますが、説話自体の収録数だけではなく、『日本説話索引』(清文堂 説話と説話文学の会編)の見出し語「鬼(おに)」に示される出典の件数においても、突出しています。
鬼説話が多いのは、分母の大きなことが第一の理由でしょうが、解説に〈中国では道教がひろまり、仏法と拮抗しあい、融合しあう長い歴史があった。日本の神仏習合と隔離の動向にも近い。道教独自の冥界や他界があった。〉〈道仏混交の要素がきわめてはっきり現れている。〉などと述べられるように、道教と混交した内容が多いことも、理由の一つでしょう。
加えて、「鬼(おに)」という言葉の表す内容が、必ずしも異界の属でなくなってきたこともまた、理由の一つに挙げられるのではないでしょうか。
本朝部の鬼説話は、総じて43話。
本朝部に記載される鬼は、冥途や異界にとどまらず、私たちの日常生活にも、突如として出現します。
そこで、この43の例話が、どういった場所、どういった具体物、どういった思想に関係しているのかを見ました。
手順としては、43例について、まず、登場する鬼と関連する具体物を調べる【予備調査】をおこないました。これは、鬼出現のきっかけをつかむためです。このとき、後述する観点①~⑨の重複を許しました。


【予備調査】
①死、葬式、冥途に関係する鬼…13件/②疫病に関係する鬼…2件/③廃屋、古寺、橋などの境界に関係する鬼…11件/④発光をともなう鬼…2件/⑤雷、蛇など水系に関係する鬼…2件/⑥百鬼夜行など集団の鬼…3件/⑦実在の人間に由来すると考えられる鬼…12件/⑧魂魄。…1件/⑨/火、火花、鍛冶に関係する鬼…3件

たとえば『日本霊異記』では、ごく現実的にとらえられるできごとでも、あくまでも神仏による霊異として事物を解釈してありました。しかし、『今昔物語集』では、怪異、霊験譚として示される話のほかに、鬼だと思いこんだものの正体を超自然と言い切れなかったり、それが日常の事物に過ぎなかったりする話が、相当数にのぼります。【予備調査】の観点⑦「実在の人間に由来すると考えられる鬼」がこれに該当し、43例中の12件で全体の27%。そのうえ、霊験譚や怪異のように印象づけがなされる例話のなかにも、人間によるしわざとして十分説明しうるストーリーが、含まれていました。

①は、本国の中国で「鬼(キ)」の語が死霊を表すものであることから、古代の日本でも冥界とのつながりが意識されていたことを受けて、観点として設けました。

②『日本霊異記』上巻第3縁では、疫病で亡くなった奴が悪霊となって寺に祟ります。それからくだって、身分の高い人や才能の優れた人物であれば怨霊となり得ると一般には考えられ、平安時代には御霊信仰といって、疫病が流行すれば祈祷をおこなっています。ここから何か出てくるかと思ったのですが、疫病に関係する鬼は、わずかに2例で、いずれも、鬼(おに)が疫病を引き起こすという直接の文脈とはなっていませんでした。病気をもたらすものの多くは「もの」、すなわち物の怪として認識されていたことを踏まえると、『今昔物語集』の編纂された頃には、「もの」と「おに」の切り分けがずっと進んでいたということでしょうか。具体例を挙げれば、20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」において、染殿后の病気は「もの」のしわざでした。その「もの」を祓う神通力のあった徳の高い聖が、自身の内面に催した后への愛欲から、極めて強力な「おに」となります。ここから、今昔の扱おうとしていた「おに」が、「もの」とは、別の次元に扱われていたことが、うかがえます。

③の廃屋、古寺、橋などは、市井の人の棲まない地場。日常と非日常の境界です。特に橋は、甚だ凶悪なる鬼の出現地であり、27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」は、渡辺綱による鬼(茨木童子)退治の原話ともされています。茨木童子は後述する酒呑童子の配下の鬼であり、この後の時代、鎌倉や室町時代に造形される鬼説話の舞台となる地や、土台となるストーリーが含まれていることを見込んで、観点に加えました。この観点は、教訓に直結しています。③にかかる11件のうち8件までに、無用の争いから鬼の出る場所へ至ったことを戒める教訓、人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める教訓が付されていることは、注目に値します。詳しくは後述しますが、何事も神仏次第との前提ではなく、人々が、主体的に行動することを前提としているからです。

④は、遺体のリンが発光するという科学的な説明を、現代ではつけられるとしても、当時としては超自然の現象であり、畏怖の対象だったことと、『抱朴子』に鬼神は光るとの記述があるため、観点として設けました。

⑤拙考で前述したように、古代より、雷や降雨に鬼説話が関係していたので、観点として設けました。ここでは滝つぼに大量の蛇、鳩槃荼鬼(くはんだき)と名乗る鬼神が登場し、谷から上がれなくなった日蔵上人を肩にかけて助けますが、加害はしません。今昔で蛇神は本朝部より震旦部に見られ、鳩槃荼鬼は、吉野山中の瀧に由来する水神でしょうか。

⑦の観点では、17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」、20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」、20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」、27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」、27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」、27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」、27-15「産女行南山科、値鬼逃語」、27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」の各話が該当します。そのようにとらえた理由を、次に述べます。

⑧の、魂魄思想については、拙考にて前述しました。

⑥⑨は、金工産業と鬼伝説が関係するという説(『鬼伝説の研究 金工史の視点から』若尾五雄著 大和書房)があるため、観点として設けました。12-28「肥後国書生、免羅刹難語」の女鬼の口から出る光は、火花を想起させます。14-42「依尊勝陀羅尼験力、遁鬼難語」、16-32「隠形男、依六角堂観音助顕身語」ではいずれも、百鬼夜行らしき鬼の集団が、火を燃やしながらガヤガヤとやってきます。特に後者では、鬼たちのかけた呪いを解く動作として、童子が姫を槌で打ち、姫はその憑き物が落ち、男は呪いが解けて、姿が見えるようになります。昔の人々は、溶鉱炉の炎や鍛冶の火花に、異界や呪術的な畏怖を感じていたのでしょうか。


【予備調査】で見当をつけたこれらのことを踏まえつつ、【思想性による分類】をおこないました。これは、鬼が、編纂者にとって、または鬼自身にとって、何を訴えるために登場するのかを見るためです。特には、霊験譚や神秘主義によるところの説話か、超自然現象に拠らない(人間のしわざとして説明のつく)説話かどうかを見るためです。このとき、後述する●○△×の印は、重複できないものとしました。


【思想性による分類】
●印…17例。仏教的な意味合いが強い鬼説話。
まず、鬼出現に際して、超自然的な現象を持つものも、無いものも含めて、仏教的な意味合いであるかどうかを見ました。仏教的な意味合いの強度は、規範意識の高さとほぼ比例すると考えたためです。
仏教の教義は、戒があるなどして規範意識が強く、国教として、古代から政治に活用されています。ですので、仏教色が強いということは、形而上事物への畏怖、信心の惹起を、どんなことよりも優先するでしょう。●印は、具体的には、種々の民間信仰の要素の濃い説話であっても、仏教との習合が意図されている場合は、仏教説話としてカウントしています。たとえば、31-27「兄弟二人、殖萱草紫菀語」の鬼は、『俊頼髄脳』(前出)を出典とし、道教の魂魄思想を体現しますが、『俊頼髄脳』では鬼の持てる感情を「あはれび」と表記したのに対し、今昔では、仏教語「慈悲」に置き換えています。このような場合、仏教との習合があると見なしました。

○印…13例。超自然現象の描出がある鬼説話。
次いで、鬼出現に際して、仏教色の薄いものでも、超自然的な現象を持つものについて○印を付けました。規範意識に裏打ちされた宗教的な畏怖を前提としなくとも、超自然現象が明確に発生しているのであれば、説話自体に、何らかの霊的畏怖を惹起する意図があると考えたからです。そして、種々の民間信仰をバックヤードに持つ説話であっても、超自然現象の発生しない場合には、出現した鬼に、何らかの実体が持たれる可能性があると考えました。

△印…6例。人為的な事件として説明ができる鬼説話。超自然現象については「認識の相違」などとして排除しうる。

×…7例。鬼のいない鬼説話。超自然現象が発生せず、鬼について言及されるが、鬼と思しき存在が登場しない。もしくは他出典の同一説話において、鬼のいない鬼説話であることが明白である。

以上のことから、●印または○印の付けられる説話中の「鬼」は、宗教的規範を示すための架空もしくは想像上の存在ととらえることができ、これらの登場する鬼説話を、「超自然の鬼説話」とすることができます。そして、その一方で、△印の説話を「実体を持つ鬼説話」、×印の説話を「鬼のいない鬼説話」と考えることが可能です。ただし、27-14「従東国人、値鬼語」については、③には該当するものの、途中から欠文しており、上記●○△×印での分類を不明としました。



【結果と着眼点】――43例の鬼説話について
以下に、43例の鬼説話を、『今昔物語集』での配列順に示したところへ、【予備調査】(①~⑨)及び【思想性による分類】(●○△×印)と突き合わせ、内容のうえで着眼した点を記しました。各話末尾の「←」以下は、新日本古典文学大系『今昔物語集』(校注:小峯和明)の脚注から、出典ないし源泉を示すものとして一部を転記しています。


●12-28「肥後国書生、免羅刹難語」③④⑨……女・巨人・目が光る。口から雷のような光を出す。鬼は、まず馬を食らい、書生は観音を念じて助かる。「妙」の一字が現れ、法華経の「妙」の一字が朽ち残って鬼から人を助けること千人に成ったという。

●14-35「極楽寺僧、誦仁王経施霊験語」②……誰の目にも留まらなかった僧の仁王経が熱病の悪鬼を払った。人の祈りは清い汚いに依らない。

●14-42「依尊勝陀羅尼験力、遁鬼難語」⑥⑨……大臣の子でいつまでも童子姿で女性のもとに通う男が、百鬼夜行にあたったが、阿闍梨が尊勝陀羅尼を書いてくれたのを衣の頸にかけていたので助かった。

●14-43「依千手陀羅尼験力、遁蛇難語」⑤……日蔵上人が、谷から上がれなくなったところを鳩槃荼鬼(くはんだき)と名乗る鬼神に助けられた。それから行くと、滝つぼに三熱の苦のある蛇が水に打たれて出たり入ったりしている。どんなに苦しいことがあるのだろうと悲しくなって蛇たちのために千手陀羅尼を誦んだ。

●15-4「薬師寺済源僧都、往生語」①……よく仏に仕えたが寺に借りた米を返していなかったので、死ぬときに地獄の使いの鬼が来た。

●15-46「長門国阿武大夫、往生兜率語」①……殺生を業としていたが持経者のおかげで蘇生し、その後善行を重ねて兜率天に往生した。

○16-32「隠形男、依六角堂観音助顕身語」⑥⑨(文中に「槌で打つ」も出てくる)……男は鬼どもの集団からつばをかけられ姿が見えなくなった。牛飼いの姿をした童が男を憑き物に苦しむ姫のところへ連れていき、姫を槌で打つ。その後、男も姫君も病気にならなかった。

●16-36「醍醐僧蓮秀、仕観音得活語」①……三途の川の奪衣婆。←法華験記・中・70

●17-6「地蔵菩薩、値火難自堂語」⑦……毘沙門天に踏まれた天邪鬼。←散逸地蔵菩薩霊験記

●17-25「養造地蔵仏師得活人語」①……病気になって死んだが仏師を養ったことが善根となり蘇生する。

●17-26「買亀放男、依地蔵助得活[語]」①……売り物の布を代価に亀を買って放生した男が、地蔵菩薩の導きにより、蘇生する。冥界で慈悲をかけた女と現世で再会を果たす。←散逸地蔵菩薩霊験記

●17-42「於但馬国古寺毘沙門、伏牛頭鬼助僧語」③←法華験記・中・57

●17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」⑦……女の形をした羅刹鬼に鞍馬寺に籠る修行僧が襲われる。毘沙門天を念じると木が倒れてきて鬼は死ぬ。翌朝、死体を確認する。←散逸鞍馬寺縁起

●17-47「生江世経、仕吉祥天女得富貴語」……吉祥天女の使いの鬼。恐ろしい姿をしているが、しゅだしゅだと呼べば答えて無限に米の湧き出る袋をくれる。

●19-28「僧蓮円、修不軽行救死母苦語①……悪行が積もって死んだ母の後生を、常不軽菩薩の行をもって弔う。母の首を袖に受けて泣く。母もまた泣く。

○20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」⑦……后についた物の怪を祈祷で落とすも后に愛欲の心をおこし、自ら命を絶ち、鬼となることで后との愛欲生活をほしいままにする。

●20-15、摂津国殺牛人依放生力従冥途還語」①……鬼神を祀るために牛を供物にしていた人が、死後の世界で牛たちによって膾にされるところ、生前に放生供養をしていたため蘇生が決まる。

○20-18「讃岐国女行冥途、其魂還付他身語」①……死神の鬼が疫病神への供物を食べる。対象者に身代わりを差し出させたが閻魔王を騙すことはできず、。身代わりはもう荼毘に付されてしまったため、対象者の体に身代わりの魂を入れての蘇生となる。←日本霊異記・中・25

●20-19「橘ノ磐島、賂使不至冥途語」①②……大安寺の寺の金を元手に交易中、死神に狙われる。寺を利する途中であることから猶予を受け、鬼を饗応する。牛食、誦経、身代わりの供出を所望され、身代わりが殺されてついに死を免れる。←日本霊異記・中・24

△20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」⑦……財を積まれて娘の結婚を許すが、初夜に娘は頭一つ、指一本を残して食われる。←日本霊異記・中・33では「過去の怨」。

○24-16「安倍晴明、随忠行習道語」⑥……天文博士で陰陽師、安倍晴明の伝記的な内容。幼い頃、陰陽師賀茂忠行に、霊鬼を見る才能を買われて教えを受け、さまざまな方術を使いこなすようになる。

○24-24「玄象琵琶、為鬼被取語」……見えないが琵琶の名器玄奘を弾く鬼。音色がどこまでもついてくる。

×27-7「在原業平中将女被噉鬼語」⑤③⑦……色好みの在原業平がやんごとなき姫君を盗み出し、荒れ果てた山荘に隠しておこうとするが、雷が鳴る。太刀を抜いて雷鳴を鎮めようとするあいだに、女はバラバラに殺害されていた。←『伊勢物語』第6段。出典では〈鬼一口に食ひてけり。〉今昔では〈女ノ頭ノ限ト着タリケル衣共許(ばかり)残タリ。〉と、出典にはないバラバラ殺人の残虐な描写が付される。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

△27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」③⑦……三人いた女の一人が男との恋の語らいに引かれていった。戻ってこないので見に行く足と手が離れたところにバラバラにされて殺されていた。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。←三代実録仁和三年八月十七日条

△27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」⑦……早朝、宮ノ司での勤務中に、血みどろになった頭と持ち物だけを残して殺されていた。△人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

△27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」⑦……菓子(果物)の入った箱の中身の菓子だけを盗られる。特に霊的な現象は起こらない。完全犯罪か。

○27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」③……橋の上に妖艶な美女となって現れ、男に取り憑き、その後、弟に姿を化身して物忌を破らせ、ついに男を殺害する。食い殺した達成感に、うれしいという表情をしたとき、橋の上にいたときの鬼の顔をしていた。無用の争いから、勢いで至ってしまったことを戒める。

(27-14「従東国人、値鬼語」③……途中から欠文につき詳細不明)

△27-15「産女行南山科、値鬼逃語」③⑦……宮仕えの若い女が父親のわからない子を妊娠し、山沿いの廃屋に産み棄てようとする。現れた老女の手引きにより、無事に出産、老女が赤ん坊を「ああ、おいしそう」というのを耳にしたため、この老女を鬼と疑い、逃げ出す。特に霊的な現象はない。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

△27-16「正親大夫、□(欠字)若時値鬼語」③⑦……正親大夫が宮仕えの女と廃屋であいびき中、廃屋に現れた女の童と女房に出ていけといわれる。この女房が廃屋に棲む鬼ととらえられる。女はその後、病気になるが、廃屋に棲みつく者との因果関係は不明。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

○27-17「東人、宿川原院被取妻語」③……伸びてきた手に妻が引き込まれて戸が開かない。斧で戸を破ると妻は、無傷のまま吸い殺されたかのように息絶えていた。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

○27-18「鬼、現板来人家殺人語」……板状の鬼。飛行し、帯刀しない侍を殺害した。

○27-19「鬼、現油瓶形殺人語」……油瓶状の鬼が踊り上がり、ある家に鍵の穴より侵入するのを藤原実資が目撃。その家の、病気になっていた娘が死んだ。

○27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」⑦……猟師の兄弟が木の上で鹿を待ち伏せていると老人の手が伸びてきたので切った。その正体は立ち居もままならぬ老母であり、片腕を切られた老母はうめいて、子らにつかみかかろうとする。痛ましく年をとりすぎると鬼になる。

○27-23「播磨国、鬼来人家被射語」①……陰陽師が鬼が家にやって来ると予言する。その出現は、〈然様ノ鬼神ハ、横様ノ非道ノ道ヲバ行カヌ也。只、直シキ道ノ道ヲ行ク也〉であるという。鬼は現れ、家の者が、「同じ死ぬならいっそ射よう」と射たら、鬼は消えた。

○27-35「有光来死人傍野猪、被殺語」①④……鬼ではなく猪だった。当時としては超自然現象にあたる遺体の発光があるが、鬼のいない鬼説話とも見られる。 〈死人ノ所ニハ必ズ鬼有リト云フニ、然カ臥シタリケム心、極テ難有シ。野猪ト思ル時ニコソ心安ケレ、其ノ前ハ、只鬼トコソ可思ケレ。〉

×27-36「於播磨国印南野、殺野猪語」①③……鬼ではなく猪だった。 〈葬送ノ所ニ必ズ鬼有ルナリ。人気のない不案内な場所への立ち入りを戒める。

×27-44「通鈴鹿山三人、入宿不知堂語」③……鬼が出ると噂の古い堂で鬼を待っていただ出てこず、狐の類が化かそうとした。〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。

×28-28「尼共、入山食茸舞語」⑦……木こりが山中で尼たちの舞うのを見て、天狗か鬼神のしわざかと思ったが、尼たちは毒きのこに当たっていた。

×28-29「中納言紀長谷雄家顕狗語」……犬が敷地内に侵入し築垣に尿するのを陰陽師に占わせる。陰陽師は、鬼が出ると予言する。しかるべき日、物忌を忘れてしまい鬼が出るはずだったが、また犬が来て、鬼は出なかった。〈実ノ鬼ニ非ネドモ、現ニ人ノ目ニ鬼ト見ユレバ、鬼トハ占ヒケル也。〉という合理化においてまとめられる。

×28-35「右近馬場殿上人種合語」⑦……種合の勝負がつかないうちに舞を出したために咎められる。舞人は捕まると思って、鬼のような舞の面を付けたまま逃げた。

×28-44「近江国篠原入墓穴男語」③⑦……廃屋で雨宿りしていた男が気配を感じ、鬼出現かと恐れたが、別の男が同じように雨宿りをしていただけだった。

●31-27「兄弟二人、殖萱草紫菀語」⑧……兄弟の親を想う心の深さに、墓の中から「我レハ汝ガ祖ノ骸ヲ守ル鬼也。」と声がし、忘れたくないと願う弟に予知能力を授ける。←『俊頼髄脳』「忘れ草かきもしみみに植ゑたれど鬼のしこ草なほおひにけり」の和歌説話が出典。


この結果を見ると、『今昔物語集』での並び順がおおむね、【思想性の分類】の●→○→△→×印のようになっていることがわかります。このことは、『今昔物語集』本朝部の鬼説話が、宗教的な規範意識の高いものから低いものへ、編纂者によって、意識的に配列されていることを表します。そして、△×印の割合の多さを考えたとき、鬼のいない鬼説話を収録することに、編纂者は、何らかの意義を見出していたことが推察されます。


⑶ 「鬼のいない鬼説話」からわかること

鬼のいない鬼説話において、『今昔物語集』の編纂者は、意外に饒舌です。たとえば、27-35「有光来死人傍野猪、被殺語」の結論部、またつづく27-36「於播磨国印南野、殺野猪語」には、次のようにあります。


  〈死人ノ所ニハ必ズ鬼有リト云フニ、然カ臥シタリケム心、極テ難有シ。野猪ト思ル時ニコソ心安ケレ、其ノ前ハ、只鬼トコソ可思ケレ。〉(27-35)
  〈葬送ノ所ニ必ズ鬼有ルナリ。〉(27-36)


どちらも鬼出現と思って対象を仕留めたら、屍肉を漁りにきた猪だったという話ですが、「死人のところに必ず鬼がいる」「葬送のところに必ず鬼がいる」という言葉に、当時の人々の見方・考え方が示されています。
おもしろいものです。人々は厄介な問題、そのものを前に、このようなまとめ方をしないし、できません。まのあたりにする恐怖するばかりでしょう。厄介な実在が手を離れたとき、その〇〇について、うわさしつつ共有しつつ、このようなものだとして、一般化が進められます。こうした一般化をプロセスに持つほど、鬼出現は、死、葬式、死後の世界に、古代からの伝統として関係していたのでしょう。そして鬼たちは、誰かが亡くなるたびに、その出現を人々に意識させていたのでしょう。
①の例、つまり死、葬式、冥途に関係する鬼の例が、突出するはずです。

27-44「通鈴鹿山三人、入宿不知堂語」も、鬼のいない鬼説話です。ここで編纂者は〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。〉と述べています。
本当の鬼であったなら、その後にもただでは済まされない。――ここに挙げた43例のうち、その「ただでは済まされない」本物の鬼のさまは、たとえば○印のついた27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」や20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」に出現する鬼の、執拗さに見てとれるでしょうか。これら2件については後述します。

いずれにせよ、鬼のいない鬼説話からわかることは、『今昔物語集』の編纂者が、「本物の鬼」とそうでない鬼がいると、考えていたということです。
では、『今昔物語集』の編纂者は、どういった鬼が「本物の鬼」で、どういった鬼が、そうでない鬼だと考えていたのでしょうか。
そこで、超自然のできごとのように見せかけて、本当は、人間のしわざではないかと思える話が、とても気になってきます。さきに「心の鬼」について触れましたが、紫式部は、世間に大流行していたエクソシストの図会を目にしながら、「祟りではなくて疑心暗鬼に駆られているだけでは?」と見抜いていました。
鬼のいない鬼説話に、厄介事が一般化されるプロセスを示されるように、人間のしわざであることを鬼のせいにしておくという、持って行きようのうちには、解決の困難な物事に直面したときの当時の人々の合理化のあり方が、示されていそうです。





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(未定稿)鬼さん考 6

2024-06-30 20:53:36 | 月鞠の会
三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)


⑴ 心の鬼

平安時代の和歌や日記には、女性の作品を中心に、「心の鬼」という言葉がしばしば使われるようになります。この言葉は連語で、小型のでも、古語辞典の見出し語にある言葉です。それなのに、仏教語辞典の見出し語には、ありません。
その辞書義は、①疑心暗鬼、②良心の呵責、あるいは通俗的な意味合いで、煩悩や迷いの意味を持たせる場合もあるようです。用例は『蜻蛉日記』(974年頃)、『一条摂政集』(992年頃)、『枕草子』(1001年頃)、『源氏物語』(1008年頃)、『紫式部集』、『浜松中納言物語』(1052年頃)などに見られます。(※成立年代は、「国史大辞典」のほか「ベネッセ全訳古語辞典」による。)
そもそも「鬼」は、死霊を意味する漢字ですから、仏教語辞典で「鬼」を引けば、その項目は必ずあります。しかし、「心の鬼」は、仏教との関係も薄いようで、「古語大辞典 コンパクト版」(小学館。編者:中田祝夫 和田利政 北原保雄)には「平安時代の物語や歌に散見する語であるが、出典は未詳。列子説符口義に「諺曰疑心暗鬼」とあり、天台軌範に「心迷生暗鬼」と関係あるか。」と記載されます。列子説符口義は、道教の書『列子』「説符」(春秋戦国時代)の注釈書で、時代は南宋。平安時代よりも後ですから、関係があるとしても、「心の鬼」の由来とまではいえません。

古語辞典の用例をヒントに、原文に当たっていきましょう。

  〈心の鬼は、もし、ここ近きところに障りありて、帰されてやあらむと思ふに、人はさりげなけれど、うちとけずこそ思ひ明かしつれ。〉(『蜻蛉日記』新潮日本古典集成)


大意 疑心暗鬼で思うことには、もし、(いま突然訪ねてきたあの人が)、ここに近い別な女に通って、何か障りがあって帰されて私のところに寄ったのかしらと思うと、あの人はしれっとしていても、私はこだわりが解けずに考えこんで朝になってしまった。

「あの人」とは通い婚の夫、兼家。夫が別な女性に心を移して、すっかり離れたかと思ったら、戻ってきたりもして、疑心暗鬼の募るさまを、「心の鬼」と表現しました。


  〈絵に、物の怪つきたる女のみにくきかたかきたるうしろに、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て
  
   亡き人にかごとをかけてわずらふもおのが心の鬼にやはあらぬ〉
    返し
   ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ〉(『紫式部集』新潮日本古典集成)


大意 絵に、物の怪のついた今の妻の醜い姿を書いた背後に、鬼の姿になった前の妻を小法師が縛っているさまを描いて、男はお経を読んで、物の怪を退散させようとしているのを見て
  今の妻についた物の怪を亡くなった前の妻のせいにして、苦しめられているというのも、結局は、自分自身の疑心暗鬼に苦しめられているということではないかしら。
   返し
  もっともです。あなたさまのお心が闇でいらっしゃるから、その鬼の姿を、しかとお認めになられるのでしょう。


死霊の祟りを信じる人が、絵に描かれています。紫式部は、その絵を指しつつ、祟られたと思いこむ人の疑心暗鬼を、心の鬼として抉り出します。この歌に付いた返しを、校注者、山本利達氏は侍女からの返しであろうと推察します。ここで、宮中の女たちが精神世界に関心を持ち、自覚的であったことに驚かされるのです。『蜻蛉日記』でも『紫式部集』でも、実人生に根ざした苦悩を生きている女人の面差しが、言葉の背後に、浮かび上がってくるようです。

『源氏物語』にも「心の鬼」が出現します。六条御息所の生霊に取り憑かれて、光源氏の正妻、葵の上の苦しむさまを描いています。


  〈里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたる気色を心の鬼にしるく見たまひて、さればよと思すもいといみじ。〉(『源氏物語』新編古典文学全集)


大意 御息所は私邸にいらっしゃるときだったので、(源氏からのやんわりお断りのお手紙を)こっそりご覧になって、その本意を、(生霊となった)心のやましさゆえにはっきりとご理解になられて、そうだろうなあとお思いになるのも、まことに情けない。

六条御息所は、光源氏の正妻、葵の上に取り憑いて苦しめ、愛人ゆえの屈辱を晴らそうとしました。しかし「心の鬼」は、怨霊ではありません。良心の呵責の意味です。
このように、「心の鬼」は、超自然現象でも霊体でもなく、日常生活における、ごく普通の人間の、ネガティブではあっても、ごく普通の思考そのものを指していたのです。
超自然現象や逸脱者を表した「おに」が、日常生活の思考そのものを指す連語に採り入れられたのは、なぜだったのでしょうか。
つまり、平安時代の人々は、何を見て、どのように、人の心のなかに鬼のひそむのを、感じるようになったのでしょうか。
「心の鬼」が、直接に仏典に由来しなくとも、仏教が日常生活に浸透していたことが、やはり、ヒントになるように思います。たとえば、次に挙げる「毘沙門天王功徳経」のなかでは、人間の悪業煩悩を、「鬼」と呼んでいます。


  〈そのときに阿難一心に掌を合わせて仏に白して言さく、なんの因縁を以て此毘沙門天王は身に金甲を被し、左の手に宝塔を捧げ、右の手に如意宝珠を取りて捧げ、左右の足下に羅刹毘闍舎鬼(らせつびしゃじゃき)を趺むや。〉

  〈仏阿難に告げてのたまわく、此毘沙門天王は、七万八千億の諸仏の護持仏法之兵の士なり。左の手に宝塔を捧ぐるは、普集功徳微妙(ふしゅうくどくびみょう)と名づく宝塔之内には八万四千の法蔵十二部経の文義を具し、然して見る者の無量の智慧を得る。右の手に如意宝珠を取りて棒ぐるは、震多摩尼珠宝(しんたまにしゅほう)と名づく飲食衣服無量の財宝を涌出す。身に金甲を被(ひ)するは、四魔之軍を除く為なり。両毘は悪業煩悩(あくごうぼんのう)を降伏せんが為に趺む所なり。 〉(「仏説毘沙門天王功徳経 : 訓点」より。国立国会図書館デジタルコレクション)


当時、観音信仰がまず広まり、京都の鞍馬寺を発祥地として、770年頃から毘沙門信仰が広まるようになりました。平安時代の半ばともなりますと、鞍馬寺は、『枕草子』にも登場する人気のお寺です。観音信仰に次いで、毘沙門信仰はポピュラーなものとなっていましたから、毘沙門天が煩悩を鬼として踏みつけている御形を見ては、煩悩は心のなかにあるなぁと、胸に手を当てるのが、参詣の人々の、自然な物の思いようではなかったでしょうか。

また、『蜻蛉日記』に先立つ頃、庚申信仰が広がり始めていました。天台宗の僧侶、浄蔵貴所による八坂庚申堂の建立は、900年代の半ば。山上憶良が挙げていた『抱朴子』に、庚申信仰の三尸について記載があります。


  〈又言身中有三尸。三尸之為物雖無形而実霊鬼神之屬也。欲使一早死。此尸當得作鬼自放縦遊行饗人祭酧。是以毎到庚申之日輙上天白司令道人所為過失。又月晦之夜竈神亦上天白人罪状。〉 (抱朴子内篇 第六微旨)


抱朴子は言います。「身中に三尸がいる。三尸に形は無いが、霊体であり鬼神の仲間である。その人を早死にさせようとして、欲望や本能をほしいままにさせる」、つまり、「身中の鬼」が、『蜻蛉日記』に先立つ頃、信仰対象として広まりつつあったのです。「身」に鬼がいるとなれば「心」にはどうかと考えの向かうのが、これもまた、自然な物の思いようではないでしょうか。

「心の鬼」は、やはり人々が、信仰生活を持つゆえに自らを内観し、先行作品に依拠せずして、おのずから醸成された言葉ではないかと、見当をつけられそうです。









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(未定稿)鬼さん考 5

2024-05-19 18:58:52 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑶ 中古の時代の死生観――和歌における自然物の感じ方

この章では、輪廻転生を教義とする仏教思想と、本来相容れないはずの魂魄の思想(本考3)が、和歌説話において共存していたこと、日本文学では、死霊ではなく生霊が、遊離魂としてはたらきかけると構想されるようになり、和歌に詠まれる愛の世界を支えるようになったことを述べます。

まず、魂魄の思想が、和歌の解釈に援用されるようになった例を挙げましょう。

『万葉集』に、次のような歌があります。現代語訳については、新編古典文学全集『俊頼髄脳』(1111-1115年の間に成立)の校注訳者、橋本不美男氏の現代語訳どおりに引用します。


  〈3076 わすれ草かきもしみみに植ゑたれど鬼のしこぐさなほおひにけり〉
現代語訳
  〈忘れ草を垣根いっぱいに植えたのだが、あの人を忘れられない。やはり忘れ草ではなく鬼の醜草がいっそう生えたのだ。〉


この歌には、後代、『俊頼髄脳』において「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事が添えられました。


  〈鬼のしこ草といへるは、むかし、人の親、子を二人もたりけり。親うせたるのち、恋ひ悲しぶこと、年をふれども忘らるることなし。兄の男、(中略)「ただにては、思ひなぐさむべきやうもなし。萱草(わすれぐさ)という草こそ、人の思ひをば忘らかすなれ」とて、萱草を、その塚のほとりに植ゑつ。〉〈この弟の男、(中略)「我は忘れ申さじ」とて、「紫苑といへる草こそ、心におぼゆることは忘れざなれ」とて、紫苑を、塚のほとりに植ゑてみければ、いよいよ忘るる事なくて、日をへてしあるきしけるを見て、塚のうちに声ありて、「我は、そこのかばねをまもる鬼なり。ねがはくはおそるる事なかれ。君をまもらむと思ふ。」と言ひければ、おそりながら聞き居りければ、「君は親に孝ある事、年月を送れども、かはる事なし。兄のぬしは、おなじく恋ひ悲しみて見えしかど、思ひ忘れ草を植ゑて、そのしるしを得たり。そこは、紫苑を植ゑて、またそのしるしを得たり。心ざしねんごろにして、あはれぶ所すくなからず。我、鬼のかたちを得たれども、物をあはれぶ心あり。また、日のうちの事を、さとる事あり。見えむ所あらば、夢をもちて示さむ」と言ひて、声やみ、またそののち、日のうちにあるべき事を、夢に見ることおこたりなし。〉(『俊頼髄脳』新編古典文学全集)


大意 鬼のしこ草のいわれというのは、こうである。昔、子を二人持った親が、亡くなった。二人とも、亡くなった親を恋い悲しみ、年月が経っても忘れることがない。兄は、忘れ草を墓のそばに植えて、悲しみを忘れようとした。弟は、「私はお忘れいたすまい」といって、「紫苑という草が、心に思うことを忘れさせない草であった」といって、紫苑を墓のそばに植えてみたところ、ますます忘れることがなくなって、毎日墓参を欠かさない。それを見て、墓の中から声がした。「私はあなたの親の屍をまもる鬼である。怖がらないでほしい。あなたを守ろうと思う。」というので、恐る恐る聞いていると、「あなたの親孝行は、年月を経ても変わらない。お兄さんも、あなたと同じように悲しんで、悲しみを忘れようとしてわすれ草を植えて、願いがかなった。あなたは、紫苑を植えて、またその願いがかなった。あなたの亡き親への思いの深さは、まことに行き届いて、少なからず心を動かされる。私は鬼の身ではあるが、物事に感動する心を持っている。それに、その日のうちに起こることを予知できる。わかることがあれば、あなたに、夢で知らせよう」といって、声はやみ、それから弟は、その日に起こることを夢に見るようになった。

ここでの鬼は、「屍をまもる鬼」。つまり、死者の霊のうち、「魄」のほうです。
本考3で述べたように、古代の中国の人々は、人が死ぬと、その霊体は魂と魄とに分離して、魂は天に昇り、魄は屍のそばに残って屍を守ると考えました。ここでの「鬼」は、まことに死者の霊というかたちで登場し、そしてこの鬼は、自分語りに「物をあわれぶ心」、物事に感動する心があるといいます。
この鬼の自分語りは、傍線部に『古今和歌集』「仮名序」の〈目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ〉のくだりを、想起させます。
『俊頼髄脳』が「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事をどこから持ってきたのか詳らかではありませんが、『俊頼髄脳』と同時代の『今昔物語集』巻31第27では、この和歌説話を出典とし、「物をあはれぶ心」を「慈悲」という仏教語に置き換えることで仏教化しています。

「魂魄」といえば、「長恨歌」に次のようなくだりがあります。
「長恨歌」は、806年、唐の詩人、白居易の作。楊貴妃が没し、白居易は、愛する女性に死なれた玄宗皇帝の悲しみを、長編の漢詩に詠みました。その一節です。


  〈
  夕殿蛍飛思悄然
  孤灯挑尽未成眠
  遅遅鐘鼓初長夜
  耿耿星河欲曙天
  鴛鴦瓦冷霜華重
  翡翠衾寒誰与共
  悠悠生死別経年
  魂魄不曾来入夢
  〉


大意
夕殿に蛍が飛ぶと、思いは悲しみに沈んでゆきます。
灯はもうこの部屋一つだけとなり、燃やしても燃やしても、まだ眠ることができずにいます。
時を告げる鐘鼓がゆっくりと響くようになった夜長の秋に、
光り輝いていた天の川は、はや、明けてゆく朝の光に、のまれようとしています。
おしどりを形どった瓦に冷たい霜がきらきらと重なり、
かわせみが描かれた寝具は、共寝するあなたがいなくて、寒いものです。
あなたが亡くなって、あの世とこの世に隔たった、はるかなお別れをして、すっかり年月が経ちました。
あなたの身も心も、まだ一度も、私の夢に入ってきてはくれません。

私はここに、『伊勢物語』45段を想起しました。
まず、『新校注 伊勢物語』(和泉書院。著者 片桐洋一、田中まき)から本文を引用し、大意を次のようにまとめました。連番は算用数字にして、歌の冒頭に付け替えています。


  〈昔、男有りけり。人のむすめのかしづく、いかで、この男に物言はむと思ひけり。うち出でむこと、かたくやありけむ、物病みになりて、死ぬべき時に、「かくこそ思ひしか」と言ひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍、高く飛び上がる。この男、見臥せりて、

  84 ゆく蛍雲のうへまで去ぬべくは秋風ふくと雁に告げこせ〉
  85 暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき〉


大意 昔、あるところに、一人の男がおりました。両親に大切に育てられた良家の娘が、その男を好きになり、片思いのまま言い出せずに思い詰めて、とうとう病気になりました。臨終の際、あの人を、私こんなに好きだったのと、誰かに話したのを両親が聞きつけ、泣きながら、男にそれを告げ知らせました。男は、我を忘れて女のもとに駆けつけますが、女は、すでに息絶えていました。そして男は、死の穢れに触れてか、女の家で、することもなく喪に服しておりました。時は六月の末日、とても暑い頃で、夜には鎮魂の音楽を奏でるのが聴こえてきます。夜が深まり、少し涼しくなって、蛍が高く飛びあがりました。男は、横になったまま飛び交う蛍を見上げて、歌を詠みました。

84 飛んでゆく蛍よ。雲の上までゆけるのだったら、地上は秋風が吹いて涼しくなったよ、だから、帰っておいでと伝えてくれないか。
85 なかなか暮れきらない夏の日を、一日何もしないでぼんやりしていると、あなたのことだというのではないが、悲しい気持ちになってしかたがないよ。

片桐洋一氏、田中まき氏による同書には、〈雁は死者の世界から飛び来るものと考えられていた〉とあります。秋山虔氏の「ゆく蛍」の校注(新大系『伊勢物語』)では、〈雁は秋に飛来する渡り鳥だが、亡き女の霊魂をも暗示する。〉〈うち明けられぬ片思いの果てに病み死んでいった女のために喪屋に籠る男の目に、闇のなかを飛び交う蛍は女の霊魂といった印象。その蛍への呼びかけは、異界の亡き女からの雁信の願いをこめている。〉と述べられます。

蛍飛、孤灯、星河。徐々に天を仰いでいくこの目線は、『伊勢物語』の男が横になったまま蛍を目で追いかけた目線と、その動きが重なります。そして鴛鴦瓦、翡翠衾と、下がってきた目線は、屋内、さらに内面へ。蛍は天を飛翔しても私の寝床、夢の中まで来てはくれない。「蛍」には、亡き楊貴妃の「魂魄」が重ねられています。

平安時代の貴族に好んで朗詠された詩歌を集めたソングブック、『和漢朗詠集』には、「長恨歌」を始め白居易の作品がきわめて多数収められています。『伊勢物語』45段が「長恨歌」を踏まえたことは容易に想像され、飛び交う「蛍」という自然物に、亡くなった女の霊を見ていることは、疑いがないでしょう。『伊勢物語』では、ここにさらに、雁という飛来する自然物をも重ねています。この雁もまた、天へ昇ってしまった女の霊、そのものではありませんか。

そこで私は、このように考えてしまうのです。
「魂魄」の「魂」は、霊体のうち、天へ到達し、「魄」は、身体を離れないといいます。
『伊勢物語』45段の作者は、「長恨歌」の「魂魄」という表現を発展させたのではないでしょうか。すなわち雁に、天上に到達した女の「魂」を、そして蛍に、屍を離れずにただよう女の「魄」ーーなきがらに寄り添う生命の揺曳を、見立てたのではないでしょうか。
「蛍」に限らず、『伊勢物語』には、魂が肉体を離れて遊離することを思わせる段が、他にもあります。59段がそうです。いったん死んだ男が蘇生して、その遊離魂が天の河までいちどは昇ったことを示す歌を詠みます。110段にも、女を思うあまり、男の魂が抜けだしたことを示す歌があります。(参考:「國語國文」一〇六七号「《毘沙門の本地》をめぐって」出雲路修著)

『古今和歌集』で、遊離魂が描かれているのは、恋歌二にある、次のような歌。


  〈570 恋しきにわびて魂まどひなば空しきからの名にや残らむ よみ人しらず〉


大意 恋しさのあまり、思い悩んで魂がさまよい出てしまったら、恋のために身を空っぽの抜けがらにしたという評判だけが残るのでしょうね。


生きた身から魂がさまよい出るという思想は、『伊勢物語』にも『古今和歌集』にも、すでに存在しますが、ここでは魂がさまよい出てしまった身を「むなしきから」として、中空から見下ろすような視線を注いでいます。

後代では、『後拾遺集』(1086年)の、著名な歌を挙げましょう。


  〈1162 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る 和泉式部〉


大意 男に忘れられて、ここに来ています。沢(ここでは御手洗川。貴船神社に男の心変わりのを訴えた折の詠歌。)の蛍を見ても、私の体からさまよい出てしまった魂かと思えてきます。それほどまでに思い悩んでいるのです。

同時代、紫式部が『源氏物語』に、女の、愛ゆえの生霊の跋扈を描いています。霊魂は、生きたままでも身体を離れうるものとして積極的に描かれるようになりますが、『源氏物語』では、生霊がたださまようだけでなく、人を殺めるまでになります。生霊が取り憑けば、誰彼を殺しうるというとらえ方に至ったのは、非常に新鮮な進展であるように思います。

その出典を明確にたどれないとしても、平安時代末期の『俊頼髄脳』では、「わすれ草VS鬼のしこくさ」の万葉歌の背景に、「魂魄の思想」をみました。万葉集3076番を古例とした場合、『古今和歌集』570番、『伊勢物語』45段、『後拾遺集』1162番のように、生きたままの身体から分離する遊離魂の思想として、発展的に継承されたと見るべきではないでしょうか。

霊体が身体から分離するという思想が、仏教思想と矛盾しない感じさせ方で、和歌や和歌説話(和歌物語)に発展したのは、なぜでしょう。
それは、死霊ではなく、生霊というかたちをとらせるようになったからではないでしょうか。
つまり遊離した魂に、帰っていく肉体を存在せしめ、日常への帰還を可能にしたことで、物語の進行上のつじつまを合わせられるからでしょう。
その一方で、詩歌は、あらかじめ説明がつくものを扱うジャンルではありません。
和歌が生まれるとき必要なのは、他者への説明がつくことではなく、対象に実体的な感覚を持ち得ることでありましょう。つまり、魂であれ魄であれ、膚身に感じられてこそなのです。
たとえ説明がつかなくても、そのように感じられるときに、言葉にすることでそのものを在らしめるのが、詩歌でありましょう。(本考1)
古人は、恋焦がれて、生ける身から離れてしまう「たましい」を、実際に感じていたのでしょう。
だからこそ、歌が生まれたのでしょう。

『古事記』の次の記述を挙げます。

  〈又食物乞大氣津比賣神、爾大氣都比賣、自鼻口及尻、種種味物取出而、種種作具而進時、速須佐之男命、立伺其態、爲穢汚而奉進、乃殺其大宜津比賣神。故、所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。故是神產巢日御祖命、令取茲、成種。〉(『古事記』上巻三)


記紀では、死後のイザナミの腹の上に雷が発生したり(本考2)、オオゲツヒメの死体からさまざまな穀物が生まれたり、死によって自然物が創造され生長するというかたちがありました。前者の雷は、妻のイザナミに代わって夫のイザナキを追いかけますし、後者のオオゲツヒメは死後、食物神であることの本質を変えずして、五穀豊穣の女神へと発展する説話であると見られます。

要するに、私たちは、ずいぶん古代から、単にその死によってその本質を損なうことないと考えつつ、生命は、その死後、自然物によって何らかの形で代理・代弁されたり、引き継がれたりすることが可能だと、とらえていたのではないでしょうか。

あらためて、奥村恆哉氏の解説(新潮日本古典集成『古今和歌集』)を引用しておきます。


  〈ほかならぬ『古今集』仮名序は、日本の歌人、紀貫之の言葉であるというところが肝心なのだ。貫之の思想を、単純に中国思想に還元し、それで万事畢ったと考えては、重大な見落としが出ることになるだろう。〉
  〈仮名序の書き出しは、和歌の本質にかかわった重要な箇所であるが、細かく見ると、「花に鳴く鶯」「水にすむ蛙」という言い方には、的確な出典は見当たらない。ここには明らかに、古い日本の汎神論的思考を読みとることができる。〉

また奥村氏は、『古今和歌集』「仮名序」の〈力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の中をもやわらげ、猛きもののふの心を慰むるは歌なり。〉のくだりについても、同解説中で、次のように述べます。(本稿の序文に引用した箇所と重なります。)


  〈語としては、漢語「鬼神」と大和言葉「おにがみ」とが、中身まで同じだと考えては性急にすぎるのだ。前者は死者の霊であり、後者は記紀の神話に出てくる、名も記されなかった諸々の「かみ」である。漢語「鬼神」を、「おにがみ」と訓むところで、意味深長な日本化が行われたのである。〉


奥村氏の〈意味深長な日本化〉という言葉に、『古今和歌集』の意図の絶妙さが、見え隠れします。『古今和歌集』は、「日本文化とは、日本の歌とは何か」を目がけた国書です。『古今和歌集』の意図とは、いったん取り入れた中国の文化を排除してしまおうとの意図ではなく、外的な環境からさまざまに影響を受けながら成り立ってきたことを認め、日本の詩歌、日本の自然と人間のありようから、日本化できるものを日本のものとし、アイデンティファイする、その意図だったでしょう。

さて、その『古今和歌集』において、「古い日本の汎神論的思考」とは、どのようなものだったでしょうか。


 〈849 時鳥今朝なく声におどろけば君に別れしときにぞありける 紀貫之〉
 〈855 なき人の宿にかよはば時鳥かけて音にのみ泣くと告げなむ よみ人知らず〉


大意 
849 今朝、ホトトギスの鳴く声を耳にして、はっとしましたよ。去年のきょう、あなたは亡くなられたのでした。
855 亡くなったあの人の、冥途の宿に通うというホトトギスよ。私が、ずっと心から忘れないで、泣いてばかりいると、あの人に伝えてくださいな。

「巻第十六 哀傷歌」から引きました。
これらの歌について、同書の校注に奥村氏は、〈時鳥が現世と冥途とを行き来するという『十王経』の考え方を踏まえる。〉としています。

ホトトギスは、キョッキョッキョッ……という鳴き声。しかも、鳴き止まないという鳥で、昼間だけでなく夜通しでも鳴くことから、夏の部には、なぜそうまでして鳴くのかと、観入する歌が多く見られます。『古今和歌集』は、日文研の和歌データべースで全1111首中、「ほとときす」のヒット52件。全体の4.68%に、ホトトギスが詠まれています。ちなみに『万葉集』では全4516首中、3.38%。『古今和歌集』ではその夏の部で、全34首中なんと28首がホトトギスの歌、82%です。『万葉集』でも『古今和歌集』でも、描かれた自然物のなかで、「ホトトギス」の愛されようは、飛び抜けた件数の多さです。

『十王経』は、唐代の中国や平安時代の日本で作られた経です。ここでは、日本で作られた『地蔵菩薩発心因縁十王経』の国書データベース(国文学資料館)に当たってみます。(原文中の句点、引用符、注記は筆者。■★は筆者無学につき不明字。★★は「カンロウ」の読み仮名あり。)


  〈至門閞樹下。樹有荊棘■(うかんむりに「死」)如■(かねへんにはつがしらに似た部分の下に「手」)刃、二鳥栖掌。一名無常鳥。二名抜目鳥。我汝旧里化成★★示怪語、鳴別都頓宜寿。此鳥近呉語其祈家命鳴。我汝旧里化成烏鳥示怪語、鳴阿和薩加。此鳥遠呉語病来将命尽。〉


冥界の門に生える棘のある樹に二種類の鳥が棲みついており、それが、死者の罪業に対して責め苦を与える霊鳥であるそうです。一つめの鳥は無常鳥と名付けられ「別都頓宜寿(ホトトギス)」と鳴き、死者の生前、身近なところ(旧里)にも、カンロウの姿をして出現しています。二つめの鳥は目抜鳥と名付けられ、カラスの姿をしています。

中国の古典では、霊獣はたいてい空想上の産物であり、現実離れしたファンタジックな姿形を持つのに対し、日本の古典では、実生活のなかで身近に目にする生き物を、その姿を変えずに霊獣としてあてがうのです。このことが、注目すべきポイントではないでしょうか。


さて、部立「哀傷歌」は、全34首中、貫之の作が5首という多さ。この部立に、貫之の思い入れが感じられます。そして、壬生忠岑4首、紀友則2首を、この部立に入集。友則は『古今和歌集』の完成を待たずに、送られる側ともなり、貫之5首、忠岑4首のなかから哀傷を受けています。親友でもあった友則への貫之の哀傷は、こころが奔りやまぬという詠みぶりで、次のようなものです。


  〈839 明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ 紀貫之〉


大意 あすは自分がどうなるともわからないのだが、今日はまだ生きている。その今日のうちは、亡くなってしまった友のことが、ただただ悲しくてならない。〉


さきのホトトギスの849番と比べてみましょう。849番は、前出した藤原基経という要人の弟が亡くなって、一年経ったというその日の歌。貫之は、ホトトギスは冥途とこの世を結ぶという霊獣なだけあって、亡き人に代わってその命日を告げ知らせたと詠みました。架空の生物ではなく、現実のホトトギスをそのまま霊獣として受け止めています。「悲しかりけれ」と叫ばずにいられない839番と比べれば、ホトトギスの849番は、言葉のあっせんに十二分に理知がはたらいていますから、ここでなされているのは、感情に突き動かされての詩的飛躍ではないでしょう。つまり、ホトトギスが冥途の使い、霊獣であることは、当時の社会通念ともなっていたのでしょう。

「哀傷歌」にある、他の歌も見ていきましょう。


  〈853 君が植ゑしひとむらすすき虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな 御春有助〉

大意 住む人がいなくなった邸は荒れ果てて、お庭に植えられた一むらのすすきが茂りに茂って、虫たちが思う存分に鳴いていますよ。

この歌は、荒れ果てた庭で、虫たちが鎮魂の音楽をさかんに奏でているとも受け取れますし、オーケストラを奏でることで、虫たちが、庭のさまを痛ましく思う作者の悲しい気持ちを代弁しているとも受け取れます。


  〈831 空蝉は殻を見つつもなぐさめつ 深草のやま 煙だに立て 僧都勝延〉
  〈832 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 上野岑雄〉


大意
831 はかない蝉の抜け殻でも、あればその殻を見ながら、お姿を思い出して心が慰められもするのに、深草の山に埋葬してしまったので、何も残りはしない。山よ、せめて形見の煙ぐらい、立ててみせなさいよ。
832 深草の野辺の桜の木よ。もし、おまえに心があるならば、今年の春だけは、墨染めに花を咲かせてほしい。私と同じ、悲しい気持ちでいてほしいのです。

831・832番は、いずれも当時の摂政・関白、藤原基経が亡くなったのを受けての歌。
831番は、蝉の抜け殻を、現代人はどう見るでしょう。茶色くてかさかさして、風が吹いただけでくしゃりと潰れてしまいそうで、気持ちがわるいと思う人のほうが多いかもしれません。しかし、その壊れやすさを、この時代の人々は、美質として愛しました。抜け殻に生命の名残を見て、いとおしいと感じたのです。
832番は、モノクロームの桜、実際には存在し得ないものの像を、作者は幻視しました。死という非日常が招きよせる「墨染めの桜」は、悲しみ極まるところの、ばけものでしょう。そのような怪異をひきおこしたいと願ってしまうほど、悲しいというのです。

こうした、はかないもののなかでもはかない自然物への観入、そのような自然物に一体的なることへの希求こそが、「古い日本の汎神論的思考」として、古代人に、鮮烈に持たれていたのではないでしょうか。
『古今和歌集』巻二十「神遊びの歌」から、その詞書「ひるめの歌(天照大神を祭る歌)」を一首、紹介しておきます。


  〈1080 ささのくま 檜隈川に 駒とめて しばし水かへ かげをだに見む〉


大意 ささのくまの檜隈川に、馬をとめて、馬に、しばらく水を飲ませてやってくださいな。天照大神様、せめて、水にうつるあなたのお姿を、そのあいだ、私に拝ませてやってください。

この歌は、『万葉集』の〈3097 さひのくま 檜隈川に馬とどめ馬に水かへ我よそに見む〉が伝承され、神遊びの歌となったものです。本文訳に、そのように明示はされないのですが、この大意では、「かげ」を、水にうつる太陽神としました。奥村氏の解説によると、水に映ったものの影は、〈『古今集』の特別な嗜好〉であるとのこと。太陽神の「かげ」を拝ませてくださいという歌です。しかし、目を焼かれるため、太陽を直接に見ることはできません。ですので、水かがみをとおして、馬に水を飲ませるあいだ、そっと、拝んでいるのではないでしょうか。
『万葉集』での部立は「寄物陳思」。「寄物陳思」という部立から、伝承されるうち天照大神を祭る歌として、「神遊びの歌」の部立に移行しています。「寄物陳思」は、「物に寄せて思いを陳べる」意。自然物に託して思いが陳べる、この様式が、伝承を経て洗練され、異界や死生観を表出しうる様式となっていったように思われます。







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(未定稿)鬼さん考 4

2024-04-20 16:03:02 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑵ 『日本霊異記』――死後の世界観を映しだす「鬼」

通称『日本霊異記』には、「鬼」が明確な形で登場する説話が、上巻第3縁、中巻第24縁、25縁、33縁の四つに見られます。
上巻第28縁、中巻第5縁では、「鬼神(おにかみ)」について触れられます。
この書は、日本最古の仏教説話集といわれており、上巻、中巻、下巻の三巻構成。延暦六(787)年に原撰本がまとめられ、その後改編増補されて、弘仁年間(810-824)に現存本の成立をみたとされています。
ここでは、出雲路修氏校注・解説の『日本霊異記』(新日本古典文学大系〈岩波書店〉)に沿って読解を試みます。
その理由として、一つめに、その成立年代が、万葉の次の年代を見るのにふさわしいこと。
二つめ。この書には『日本国現報善悪霊異記』という正式の題名があります。
この題名は、作者である景戒がみずから付けた題名です。
出雲路氏は、この題名にある「現報」「霊異」について作者景戒が何を表そうとしていたのかを見ることで、原撰本説話(まず先に成立した幹説話群)とそうでない枝説話との分類に成功しています。ゆえに、この分類に基づいたとき、原撰本説話の「報」と「霊異」の叙述に、作者景戒の価値観の反映が望めるのです。そして、原撰本説話ではないということは、後に改編増補された説話であり、必ずしも所期の価値観に拠らない、枝説話ということです。

では、正式の題名である「現報」「霊異」について作者が何を表そうとしていたのか。
出雲路氏は、「現報」と「霊異」について、各縁の標題が、作者景戒の理解語彙に対応しているかどうかを分類しました。そして、次のような対応が見られるものを原撰本説話としています。


  〈「現報」とは、「報」のひとつ。「時」を基準としてなされた「現報」「生報」「後報」という「報」の三分類、の一項である。〉(同書「解説」)
 
 〈「現報」は、その人の行為に対する「報」がその人の生涯のうちに現れる。現在世で完結する因果応報のありかた。〉

  〈「霊異」とは、どのようなものか。(中略)たんなる「怪」な現象ではなく、その背後に超越的なもの(ここでは「神祇」)をもった超自然的な現象とみるべきであろう。〉


「報」とは、仏教でいうところの因果応報の「報」を指します。
つまり、作者景戒がまとめようとしたのは、〝その人の生涯のうちに現れた現在世で完結する因果応報を示す、神仏による超自然的な現象の記〟であるといえるでしょう。
そして、これらに基づいて、『日本霊異記』の、さきに挙げた鬼(鬼神)の説話の6編を見ていくとき、この意味合いに対応した説話……すなわち原撰本説話は、このなかで、一つしかありませんでした。中巻第5縁です。
原撰本説話であること、あるいはないことにおいて、どのようなことがわかるでしょうか。
まず、原撰本説話ではないが、「鬼」が明確な形で登場する上巻第3縁、中巻第24縁、25縁、33縁から、順次見ていきます。
それから、原撰本説話である中巻第5縁について、見ていきます。
最後に、原撰本説話ではない上巻第28縁を取り上げます。

上巻第3縁。「雷の憙びを得て子を生ましめ強き力ある縁」。本文の一部を引用します。


  〈時に其の寺の鍾堂の童子、夜別に死ぬ。彼の童子見て、衆の僧に白して言さく「我れ此の鬼を捉りて殺し、謹めて此の死の災を止めむ」とまうす。衆の僧聴許す。〉〈すなはち鬼の頭の髪を捉りて別に引く。〉〈鬼已に頭の髪を引き剥がれて逃ぐ。明日彼の鬼の血を尋ねて求め往き、其の寺の悪しき奴を埋み立てし衢に至る。すなはち彼の悪しき奴の霊鬼なりと知る。〉


大意 ときに、寺の鐘堂の童子が、夜毎に死んだ。彼の童子が見て、僧侶たちに、私がこの鬼を捕まえて退治し、いましめてこの死人の出つづける災いをくい止めましょう、と申した。僧侶たちはこれを許可した。悪霊は、彼の童子に、頭髪を引き剝がされて逃げた。あくる日、血の痕を辿っていくと、寺の、疫病で死んだ奴を埋めた街角に至った。すなわち、この鬼は、疫病で死んだ奴の悪霊だったとわかった。

この前の文脈で、「彼の童子」が、雷と農夫との間に生まれた子で普通の子ではなく、怪力を持っていたことが示されますが、その部分を含めても、因果応報について述べる要素は皆無です。鬼は、疫病で亡くなった者の霊が、人に死をもたらす悪霊となったのでしたが、その退治の方法は、生々しい流血の描写を伴い、力ずくで退治されるのが印象的です。これは私の感想に過ぎないのですが、この上巻第3縁は、疫病で亡くなった者の霊が祟るという点で、古代中国という源流への近さを感じさせます。その一方で、力ずくの鬼退治というアスペクトに、大江山や桃太郎のような、非常にポピュラーな鬼退治伝説への方向性をも感じさせます。頭髪を捥ぎ取っての流血に、江戸時代『雨月物語』(上田秋成)の「吉備津の釜」を想起する人も少なくないでしょう。あとから増補された枝説話ですが、この一本の説話に、大陸に由来しながら、どのようなことを後代の人々が吸収し、見せ場として伝承してきたのか、日本の人々のメンタリティと、日本の説話文学のたどる命運とが、象徴的に示されているように思えます。

次いで、中巻第24縁、25縁です。あらすじのみを示します。

中巻第24縁「閻魔王の使の鬼召さるる人の賂を得て免す縁」。
あらすじ 楢磐嶋は、閻魔王の使いである鬼に、命を狙われつきまとわれていたが、大安寺から交易の資金を受けて寺を利する商いの途中だったことを鬼に伝えると、鬼は、商いが終わるまでの猶予を与えた。鬼は、腹が減ったので何か食べさせるように求めた。そして磐嶋が干飯を食べさせると、鬼は、病気になるからおまえは私に近づくなといい、疫病神であることを告白した。磐嶋は、無事に家まで帰り着くことができたので鬼を饗応した。すると鬼は、牛の味が好きだから牛を食べたいと、さらに饗応を求め、自分が牛を死なせる死神であることを告白した。磐嶋が、牛は差し上げるのでどうか免じてほしいというと鬼は、饗応を受けた恩によっておまえを許したら、重い罪となって鉄の杖で打たれる。そうならないよう、おまえと同じ年齢の身代わりを差し出せという。また鬼は、磐嶋に、金剛般若経百巻を読めとも命じた。牛、読経、身代わりの命をもって、磐嶋は許され、九十余歳まで長生きした。

鬼は、閻魔王の使いであるから、勝手なことは許されないのです。校注によると、「酒食をもてなされて人を死から免れさせた冥界の死者の例」はさまざまの典籍で見受けられるようです。

中巻第25縁「閻魔王の使の鬼召さるる人の饗を受けて恩を報ゆる縁」。
あらすじ 山田郡に衣女という女がいて、病気になった。そこへ、閻羅王の使いの鬼が来て、衣女を連れて行こうとしたが、鬼は走り疲れ、祭ってある食べ物を見て、そそられて饗応を受けた。「私はおまえの饗応を受けてしまった。だからその恩に報いよう。おまえと同じ姓名の人はどこかにいるか。」と鬼は言い、衣女は、鵜垂郡に同姓同名の別人がいると伝えた。鬼は、鵜垂郡にいる別人の額に一尺の鑿を打ち込んで、身代わりにとったが、閻魔王に見破られ、別人の女が蘇生し、衣女は、やはり死ぬことになった。ところが、身代わりとなった別人の身体は、すでに荼毘に付されてしまっていたので、まだ遺されていた衣女の身体に別人の精神を宿すことにして、別人が、山田郡の衣女として蘇生した。

中巻第24・25縁については、原撰本説話ではなく、因果応報についての記事ではありませんが、死後の世界からの蘇生譚です。「鬼」は、ともに「冥界からの死者」(校注)、閻魔王の使いとしての死神であり、食の接待を受けたことで、対象者の蘇生を実現させようとします。第24縁と第25縁を比べてみると、24縁のほうは、磐嶋には大安寺を利する交易のあったことや読経百巻の般若の力のあったことが結果の違いとなっているようで、これを現報かつ善報ととらえれば、そうでしょう。いずれも『今昔物語集』に見え、25縁の別人としての蘇生については、添加文により、蘇生の成功譚であることが強調されます。
いずれにせよ、閻魔王の部下である死神の仕事ぶりが、対象者からの饗応次第であることや、饗応や賄賂を受けたことによる刑罰を免れようとして、対象者に経を読ませるところなど、人間の世界が死後の世界におおいに投影されています。死後の世界の秩序を、この世と地続きにあるものとしてとらえていることが、特徴な枝説話です。

さて、中巻第33縁はどうでしょう。本文の一部を引用します。


中巻第33縁「女人悪しき鬼に点され噉はるる縁」。
  〈聖武天皇の世に、国挙りて歌詠ひて謂はく「なれをぞよめにほしとたれ あむちのこむちのよろづのこ 南无南无や 仙さか文さかも酒持ち のり法まうし やまの知識あましにあましに」といふ。爾の時に大和国十市郡 菴知村の東の方に、大に富める家有り。〉〈一の女子有り。名けて万の子と曰ふ。〉〈面容端正し。高き姓の人伉儷ふになほ辞びて年祀を経。爰に有人伉儷ひて念々物を送る。彩帛三車なり。見ておもねりの心をもちて兼ねてまた近き親ぶ。語に随ひて許可し、閨の裏に交通ぐ。其の夜閨の内に音有りて言はく「痛きかな」といふこと三遍なり。父母聞きて相談ひて曰はく「いまだ効はずして痛むなり」といひて、忍びてなほ寐。明日の暁に起き、家母戸を叩きて驚かし喚べども答へず。怪しび開きて見れば、ただし頭と一の指とのみを遺し、自余はみな噉はる。父母見て、悚慄り惆懆て、娉妻に送れる彩帛を睠れば、返りて畜の骨と成る。載せたる三の車は、また返りて呉朱臾木と成る。〉〈すなはち疑はくは、災の表まづ現れ、彼の歌は是表ならむ、或るいは神しき怪しなりと言ひ、或るいは鬼の啖ふなりと言ふ。覆し思ふに、なほし是れ過去の怨なり。斯れまた奇異しき事なり。〉


大意 聖武天皇の世に、わらべ歌が流行った。(わらべ歌の現代語訳は後述。)そのとき、あむち村の東の方に、大金持ちの家があった。(その家に)一人の娘がいた。名を万の子といった。たいへん美しい娘であった。位の高い人が求婚するのにそれでも断って年月が経った。そこへ、物を送って求婚する人が現れた。染められた絹布が車三台ぶんであった。それを見て気に入られたいと思うようになり、仲良くなって、結婚を許した。夜中に三度、「痛いなあ」という声が聴こえた。父母は、性交になれないせいだととらえて、それでもじっと寝ていた。夜が明ける頃になって、母親が大きな声で起こしても答えない。怪しんで戸を開けてみると、東部と指一本だけを遺して、ほかはみな食われていた。結納の豪華な品々を載せた車は、畜骨と呉茱萸の木に変貌していた。つまり、こういうことではないか。災いのしるしは歌となってまず現れる。それが、あのわざ歌だったのだ。このできごとを、ある人は神の起こした怪異だといい、ある人は鬼の仕業だという。にれかんで思うに、これはやはり、過去に怨まれたせいである。これはまた、あやしい事である。

出雲路氏は、傍線部のわざ歌について、次のような校注を付けています。


  〈仏教語を多用しての戯笑歌。歌の歌詞それ自体に奇怪なものが含まれているわけではない。仏教というきらびやかなイメージを織りこんで、男たちが、「おれたちみんな、おまえが好きなんだぞ」と、女にからかい半分で歌いかけたもの。語音の連想から連想へと展開する歌。〉
  〈汝(な)も南无(なも)や、仙(ひじり)釈迦文(さかもに)、さかも酒(さか)持(も)ち。「汝(な)も」から同音の南无(なも)がみちびかれ、南无から仙(ひじり)釈迦文(さかもに)(釈迦牟尼仏)へと連想が展開し、さらに、釈迦文から同音を共有する「酒(さか)持(も)ち」がみちびき出されている。釈迦牟尼を「釈迦文」とする例は、たとえば妙法蓮華経・方便品をはじめ諸書にみえ、めずらしいものではない。〉


またさらに、出雲路氏のわざ歌の訳を校注から拾ってまとめますと、次のようになります。


  〈「おまえを嫁にほしい、と言うのは誰か。「おれさまだぞ。」「このおかただぞ」といっている、みんな。おまえも、酒持って。車に乗って、こぼれるほど、たくさん。」〉


本文では、結びの文に、冒頭部分のわざ歌を「災の表(しるし)」としていますが、校注者が、同じわざ歌を、不吉の予兆と解釈していないことがわかります。
仏教語にきらびやかなイメージを結ぶのは、歌人がいにしえの歌語にまばゆさを覚えるのと、同じことでありましょう。
そして作者である景戒は、この書を、仏教説話集として著そうとしている僧侶です。
加えて「知識」が、「友人。三宝供養のための行動に党を結び力を合せる人々。」(上巻第35縁の校注)の意であることを踏まえると、やはり、このわざ歌は、仏教的な価値観からいって、災いの予兆であるとはいえないように思います。
そして、この中巻第33縁は、原撰本説話ではありません。しかしながら、本文中に「奇異しき事」という表現が出てきます。
この説話中で「奇異しき事」らしいのは「彩帛三車」の変貌ですが、しかし「彩帛三車」の変貌は、本文に「返りて」と、「返」の字が使われていることから、もともと畜骨と呉茱萸の木だったと校注者は指摘します。
「奇異しき事」が、神仏による超自然の現象でないならば、作者景戒の理解語彙に対応しているといえません。そればかりか、ここでは、限りなく人のしわざとしての、凶悪殺人事件でありましょう。
またさらに、結びの部分の「なほし是れ過去の怨なり。」とは、いかなる「怨」を指すのでしょうか。
景戒は、過去世の報ではなく、現報について書こうとしていたはずです。
校注者は、上巻第3縁で、「日本の前世説話では、過去世においていかなる行為がなされたのか、といったことは記述されないのがふつう。」とします。
『今昔物語集』巻20第37が、この中巻第33縁を出典としています。
「耽財、娘為鬼被噉悔語」と題され、「たからにふけりて、むすめをおにのためだんぜられくゆること」と読めることから、『今昔物語集』では、子の過去世の怨みから起きた事件ではなく、親が貪欲であったために、その娘が鬼の被害に遭ったという現世での因果応報に解釈している点が霊異記と異なります。そして、今昔では、わざ歌について記しません。
こうした編集は、編纂者の解釈次第なのでしょう。
『日本霊異記』、『今昔物語集』、そのいずれにせよ、解明のならない、受け止めがたいできごとを、一足飛びに超自然の現象であるとするところに、ある種の無理を生じています。人ではなく鬼のしわざ、超自然のしわざであると、なんとか合理化することで、日々の平安を守ろうとした人々の心もようが、見えてくるようです。

それでは、原撰本説話として分類を受けている、中巻第5縁を見ていきましょう。あらすじのみを示します。

中巻第5縁「漢神の祟により牛を殺して祭また生を放つ善を修ひて現に善と悪との報を得る縁」。
あらすじ 摂津の国にいたある金持ちが、鬼神(漢神)の祟りを恐れて、一年に一頭ずつ供物として牛をほふった。七年かけて七頭を祭り終わったが、たちどころに重い病となり、殺生の業のためだと思って、放生供養をせっせとおこなった。そして臨終のときを迎え、亡骸をすぐには焼かないように妻子に伝えて、亡くなった。九日のちに蘇生した。金持ちの男は、冥界での出来事を語った。冥界には、七人の非人がいて、牛の頭で人のからだ、彼らは地獄の獄卒でもあったが、この金持ちにほふられた牛たちの霊であった。牛たちは、自分たちを供物にして祈り、そのあと肴にして食べた男を激しく怨んでおり、この男に苦しみを与えてほしいと訴える。その一方で、この男を赦してやってほしいと訴える声もあり、閻魔王は悩んで、赦してやってほしいという声の数の多さにより、この金持ちを蘇生させることにした。蘇生させた者たちは、じつは、この金持ちに放生された生き物たちであった。殺生が悪報につながり、放生供養が善報につながる。

ここでの「鬼神」は、あの世の鬼ではなく、主人公が生前、祟りを免れるために牛を殺して供物としていた鬼神で、本文中、「漢神」「鬼神」と二通りの呼び方をされています。
『今昔物語集』巻20第15が、この中巻第5縁を出典としています。
「摂津国殺牛人、依放生力従冥途還語」と題され、「つのくにのうしをころすひと、ほうじょうのちからによりてめいどよりかえること」と読めることから、霊異記と同様に、放生供養の大切さを説いています。
殺生を求める鬼神という反仏教と、仏教とを対照させ、殺される生き物の、悲痛と嘆きをとらえさせます。終局、放生供養の大切さが説かれるための流れにおいて、完成された仏教説話といえるでしょう。

鬼神信仰については、『抱朴子 内篇』(引用部分は古典籍総合データベース『全文抱朴子』。公開者:早稲田大学図書館)に、次のように述べられています。(原文の句点筆者。)訳文については『抱朴子 内篇』(東洋文庫。校注訳:本田濟)から引用し、その解説を参考にしました。


  〈楚之霊王躬自為巫靡受斯牲而不能却呉師之討也。〉(巻9 道意)

  〈孝文尤信鬼神咸秩無文而不能免五柞之殂。〉

  〈楚の霊王は神がかりのことが好きで、自身巫のまねをし、惜しまずに犠牲を供えたが、呉の軍勢が攻めて来たとき、これを斥けることはできなかった。(桓譚『新論』)〉

  〈武帝は最も鬼神を信じ、文献にない民間の神々にもすべて禄を与えたが、不老不死の願いはかなわず、とど五柞宮でなくなった。(『漢書』武帝本紀)〉


『抱朴子』は、317年に成立。作者は葛洪。内篇は道家の理念を、外篇は儒家の理念を示す書として著されました。
ここから、家畜をほふり鬼神への供物とする祭祀や、鬼神を使役する方術が、楚の霊王(前541-前529在位)、漢の武帝(前140‐前87在位)の頃、古代中国においてさかんにおこなわれていたことがわかります。ただし『抱朴子』では、供物や賄賂で鬼神の機嫌をとることに否定的な見解を示し、長生のための仙術、呼吸法などを重んじます。実際、このような祭祀で家畜を殺してしまうと農作業ができなくなるので、古代中国でも禁じられることがあったようです。

霊異記において、殺された牛たちは、「明に知る、是の人主と作りて我が四足を截り、廟を祀りて乞祈り、賊して膾して肴に食ひしことを。」と閻魔王に訴えています。つまり、お祀りしたあと、その牛を食べていたのです。『日本霊異記』の中巻第5縁の校注に、791年、牛を殺して漢神を祭ることが、諸国で禁じられたことが示されます。逆にいえば、禁令がでるほど流行しかかっていたのでしょう。霊異記の原撰本がまとめられたのは787年、直近です。作者の景戒は、殺された牛たちの無念の声を聞き届け、鬼神を崇める肉食祭祀を、強い気持ちで咎めようとしたことでしょう。

最後になりましたが、上巻第28縁。あらすじのみを示します。

上巻第28縁「孔雀王の呪法を修持ちて異しき験力を得て現に仙となり天に飛ぶ縁」。
あらすじ 役優婆塞は、大和国葛木上郡茅原村の人である。生まれつき頭がよく、いろいろなことを学んで、道を会得した。仏教の三宝を仰いで信心し、四十余歳で岩屋にこもり松を食して清水を浴み、孔雀の呪法を修得して不思議な仙術を身に付けた。鬼神を自在にあやつり、「大倭国の金峯と葛木峯とに、橋をわたして通えるようにしよう」などというので、使役される鬼神たちはうんざりした。その鬼神の一人である葛木峯の一語主大神が、「役優婆塞が天皇を傾けようとしている。」と託宣したため、役優婆塞は朝廷に追われる身となったが、験力を使えるので捕まらない。しかし、代わりに母が捕らわれたので、母を放すために自ら捕らわれた。伊豆に流されたが、空を飛べるので夜は富士山で修行をし、処刑されようというとき、その刃に富慈明神の表文があらわれ、これを奉り、赦免を乞うた。701年、辛丑に次ぐ年の正月、役優婆塞は、天朝の辺に近づかれて、ついに仙人となられて空を飛んだ。一言主大神は役行者に呪縛され、今の世に至ってなお、その術は解かれない。

ここでは、道教の方術が仏法として用いられ、鬼神たちは、仏法に使役される鬼神であり、その鬼神たちのなかで、役優婆塞の圧倒的な霊力を疎ましく思い、朝廷に讒言した一人の鬼神には名前があります。本説話は、異教の方術をも駆使し、強かな鬼神たちをも支配するのが仏法であることを示しており、結びの文では〈仏の法の験術の広く大なることを、帰り依まばかならず證を得む。〉と、仏教に帰依することの大切さが強調されます。原撰本説話ではなく、因果応報を記す気配もありません。強いていえば、仏教が道教の神々を使役する様子を前面に押し出すことで、仏教の優位性を見せつけています。この説話が盛り込まれた意味合いは、そこにあるのかもしれません。

では、『日本霊異記』の鬼(鬼神)説話について、まとめます。

①上巻第3縁に、日本の中世以降の鬼退治伝説や、近世の怪談につながっていく方向性が見られる。
②中巻第24・25縁に見られる死後の世界の秩序には、人間の世界の秩序が地続きに投影されている。
③中巻第33縁に、人のしわざである凶悪事件が「霊異」によって合理化されるという、受け止めがたいできごとへの人間的な反射が見られる。
④原撰本説話である中巻第5縁に、仏教の死生観である輪廻転生が明確に前提され、あの世へいった人々が生前の人格を保っていることが、死後の世界観として見てとれる。
⑤上巻第28縁に、仏教が他の民間信仰を統合する優位性を持つことが強調されている。

①~④の点は、現代人の所作とつながり、現代人もまた、知らず知らずのうちに、「あの世へいった人々が生前の人格を保っている」と見ているように思われます。現代人の死後の世界観と、通じるのではないでしょうか。
⑤については、この以降、和歌や文学において、興味深い展開が見られるようになります。
超自然の霊性を、日本に古来からある自然物の、そのままの姿に象徴させるようになっていくのです。その過程を次いで述べます。











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(未定稿)鬼さん考 3

2024-04-14 14:44:08 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑴ 万葉の時代の死生観――「死者の霊」のイメージを中国と比較する


「鬼」の字義は死者の霊。中国ではそうだといっても、「死者の霊」の意味合いもまた、中国と日本とで、違っています。
中国では、死者の霊を「鬼(キ)」と呼んで、古くから信仰の対象でした。
それは、現代の日本文化の一つでもある盂蘭盆の行事に想起される、子孫を見守るという穏やかな祖霊のあり方とは、かなり異質です。そして、中国では、仏教と、仏教以前から存在する道教を含めた、中国古来の民間信仰が分かちがたく結びついていることを、知っておく必要がありそうです。

孔子の編纂といわれる歴史書『春秋』の、注釈書である『春秋左氏伝』「昭公七年」には、鄭の宰相である子産によって、取るに足りない人でも非業の死を遂げることになれば祟りをなすことが述べられます。


  〈人生始化曰魄。既生魄。陽曰魂。用物精多、則魂魄強。是以、有精爽至於神明。匹夫匹婦強死。其魂魄猶能馮依於人、以為淫厲。〉

  〈人間が生まれて、最初に動き出すのを魄(目・耳・手・足などの肉体の作用)といいますが、魄ができますと陽、すなわち霊妙な精神もできますもので、それを魂といいます。さまざまな物を用いて肉体を養うのに、そのすぐれた精気が多いと魂も魄も強くなります。そこでその魂魄が精明になると天地の神々と同じはたらきをするようになります。いやしい男女でも非業の死をとげた場合には、その魂魄が後に残って他人にとりついて、みだらなたたりをするものです。〉


新釈漢文大系『春秋左氏伝』「昭公七年」 (鎌田正著 明治書院)から、原文・現代語訳とも引用しました。ただし原文からは返り点を省略し、漢字を新字体もしくは通用しやすい書体に改めました。この原文と同じまとまりにあたる箇所を、中国古典文学大系『春秋左氏伝』(竹内照夫訳 平凡社)では、次のように訳しています。


  〈人が生まれるとき、まずできるものを魄といいます。魄ができてのち、陽の気が身に添いますのを、魂といいます。そして物を取って身を養い、精力が多くなれば魂も魄も強くなり、こうして清く明るい心が育てられ神にもひとしい知恵を持つにも至るのです。ですから卑しい男ひとり女ひとりでも、変死などしたならば魂魄がなお他人にとりついてよこしまなたたりをすることもできます。〉



中国で「鬼」と呼ばれる「死者の霊」については、一般書においても次のように述べられます。


  〈『漢書』の「地理志」にはすでに、「江南は土地が広く、……巫・鬼を信じ、淫祀を重んじている」とあるように、特に中国の南方では、かなり古い時代から鬼に対する信仰が盛んに行われていた。〉(『中国の呪術』松本浩一〈大修館書店〉)

  〈たとえば『楚辞』「九歌」中の「国殤(こくしょう)」は、戦死者のための鎮魂の歌とされているが、「身すでに死して、神(しん)にして以て霊、子(し)の魂魄、鬼雄とならん」とあるように、のちの時代に横死者の霊魂が、厲鬼(れいき)として恐れられたことを彷彿とさせる。やはりこの「国殤」の目的も、彼らを祀り慰めることで、たたりを免れることが目的だったのだろう。〉(同)


漢民族が考えた「鬼」、すなわち死者の霊とは、生前の貴賎によらず、横死や非業の死を遂げることになれば、人々に取り憑き、不満を申し立て、救済が得られるまで祟りをなす存在のようです。それが古来からの考え方であり、現在でも、浙江省磐安県では三十六種の孤魂(祀り手のない魂)と、異常死した三十六種の殤冤鬼を供養し救済する儀式がおこなわれているそうです。それは、祟りを受けないためにそうするのです。
この点が、中国と日本とで、死者の霊についてのとらえ方の大きく異なる点です。
本章において後述しますが、日本では、祀らないからといって、すぐさま死者から祟りを受けるとは考えないでしょう。貴人の怨霊を御霊として区別し、祟りを恐れ、お祀り申し上げるといった信仰が平安時代にはありましたが、誰でも祟ることができるとは、考えませんでした。

さらに、同じ一般書から、祟りをなすもののうち、「鬼」とは由来を区別される「精怪」について述べた箇所を引きます。


  〈精怪は鬼の一種として考えている著作もあるが、鬼とはある一点で明確に異なっている。それは、鬼はもともと人間だったわけだが、精怪はもとは人間以外の存在だったという点である。もとの物とは、動物であったり、植物であったり、あるいは器物であったりするが、それらが長い間、天地日月の精気に感応することによって、変化を来たし霊物となったものを精怪という。〉


自然霊や精霊もまた、中国と日本とで、そのイメージが違っているようです。
日本人が身近に感じてきた精霊の類については、中国では「精怪」と呼ばれ、死者の霊である「鬼」とは、明確に分けられていました。中国では、「精怪」もまた、祟りをなします。しかし、日本人にとっての精霊は、もっと身近にいて、祖霊と地続きにつながるような、親しみ深いものではなかったでしょうか。たとえば、現代になっても、針、鞠、筆、人形の供養がなされますが、それは祟りを恐れてというよりも、愛用した事物への哀惜の所作でしょう。


出雲路修氏は『説話集の世界』において、仏教伝来ののち、死後の世界観の展開がまだ希薄であった時代、その萌芽の古例に、山上憶良の歌を挙げ、次のように述べます。


  〈たとえば、《万葉集》巻五・九〇五「わかければ 道行き知らじまひはせむ したへの使 おひてとほらせ」は、「まひ」「したへの使」といった、中国の志怪小説の世界では普通であるが当時の日本においてはかえって孤立した〈冥界游行〉伝承を歌う。志怪小説の世界を念頭においての詠歌である。〉(『説話集の世界』[「よみがへり」考]出雲路修著〈岩波書店〉)
  
〈八世紀初頭における中国志怪小説との接触が、一方では《万葉集巻五・九〇五》の歌を生み出し、一方では在来の〈蘇生〉説話を〈冥界游行〉説話へと変貌させたのではなかったか。〉


引用中の和歌の大意は、「まだ幼いのであの世への行き方も知らないだろうから、贈り物はしましょう。あの世からの使いよ、この子を背負って、連れていってやってください。」となります。わが子の死を悲しむ父親になり代わって、詠まれた歌です。
あの世の使いに贈り物をするのは、祟りや障りを恐れるからではなく、苦しい旅路とならないよう、配慮をくれてやってほしいからでしょう。親としてよくよくのことをしてやらなければ気が済まなくてそうするのであって、贈り物をする理由を、祟りを封じるためと受け取ってしまったら、和歌として成り立ちません。和歌は、愛の世界をうたうものです。「まひ」が、愛の世界の所作となる点で、大陸との違いが決定的です。


出雲路氏は、この和歌によって、在来の〈蘇生〉説話が〈冥界游行〉説話と変貌したのはいつ頃かを探り、死後の世界観がこの国の言葉の世界に注入され始めた時期を推し量りました。すなわち『万葉集』の頃、仏教が、国教として浸透するようになり、それまでに希薄だった死後の世界観もまた、具体的に示されるようになってきたのです。

『万葉集』の、他の和歌を見てみましょう。「新日本古典文学大系」(岩波書店)の『万葉集』(校注:佐竹昭広氏、山田英雄氏、工藤力男氏、大谷雅夫氏、山崎福之氏)から作品を引用し、大意については、校注を参考に付しました。読みやすくする目的で、漢字表記を仮名にした箇所があります。


  〈117 ますらをや片恋せむと嘆けどもしこのますらをなほ恋ひにけり〉


舎人皇子の御製。「原文では「鬼乃益卜雄」。注記に〈「しこ」は罵りの言葉。原文「鬼」の字は、漢語「鬼」「鬼子」が罵る語に用いられることによる表記であろう。〉とあります。恋に囚われる自分自身を「ますらを」であるとしながらも、同時に「鬼(しこ)」と自虐せずにいられない。片恋が深まるにつれ、激しさを増した嘆きをうたっています。ここでの「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分、という意味で「しこ」の訓を当てていますが、このあとの時代では、「鬼」の字に「しこ」の訓を当てなくなっていきます。


  〈608 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくごとし〉


笠女郎から大伴家持に贈った歌です。女が、男を、「餓鬼」と罵って、恋が終わろうとしています。思うように愛してくれない人を愛するのは、立派なお寺でもその仏様ではなく、餓鬼を後ろから拝むようなものだというのです。


  〈3640 寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼たばりてその子はらまむ〉


詞書に〈池田朝臣の、大神朝臣奥守を嗤ひし歌一首 池田朝臣、名忘失す〉とあります。注記に〈痩せている大神奥守を「男餓鬼」と戯れた。〉とありますから、池田朝臣が痩せている大神奥守を「男餓鬼(おがき)」と呼んで、「女たちがあなたの子を産みたいと言ってるよ」などと、からかった歌のようです。

「餓鬼」は死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語ですが、そのままの意味に使われてはいません。いずれの歌でも、メタファーとして、人を罵ったりからかったりする言葉となっています。このように『万葉集』の時代には、大陸からやってきた仏教語が、身近に浸透していたことをうかがわせます。

和歌ではありませんが、特に見ておきたいのは、巻五の、896番と897番のあいだに挟まれた題詞「沈痾自哀文」です。
山上憶良最晩年の作で、病苦を嘆きます。
形式は、全体に七つの連で構成され、本文と憶良自身によるごく散文的な注記を含みます。ここで取り上げるのは、その⑴⑷⑸⑺の連から、本文のみの抄出です。冒頭の連番は、出典が七つの連を⑴~⑺の連番で示したことに従い、注記については、大意のほうに反映しました。


(1) 〈窃かに以みるに、朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして、世を度ることを得。〉〈況や、我胎生より今日に迄るまで、自ら修善の志有りて、曾て作悪の心なきや。〉〈この 所以に三宝を礼拝して、日として勤めずといふことなく、百神を敬重して、夜として闕くること有ること鮮し。〉〈嗟乎媿しきかも。我何の罪を犯してか、この重疾に遭へる。〉


大意 ひそかに思いみるに、一日中慎むことなく山野で狩りをして生き物を殺している人ですら、災害にも遭わずに生きていくことができる。生まれてこのかた、善行をしたいと思うことはあっても、悪事をはたらこうと思ったことなぞ、これまで私にあっただろうか、いや、ない。仏法僧の三宝を礼拝し、神々を敬い尊ぶこと、夜でも欠かさなかった。ああ、それなのになんと恥ずかしい。私が何の罪を犯したというのか。こんなにつらい病気にかかるなんて。


⑷ 〈命根既に尽き、その天年を終ふるすら、尚し哀しと為す。〉〈何に況や、生録未だ半ばならずして、鬼の為に枉げて殺され、顔色壮年にして、病の為に横に困めらるる者や。世に在る大患、敦かこれより甚しからむ。〉


大意 生命力がすでに尽き、天寿を全うするときですら、それでも死ぬのは哀しいと人は思うものだ。それなのに、本来の寿命をまだ半分も生きられず、鬼のために理不尽に殺され、病気のためにこれでもかと苦しめられる者は、どれほど哀しいだろうか。これにまさる苦しみが、この世にあるだろうか。


⑸ 〈抱朴子に曰く、「神農云はく、[百病癒えざれば、安ぞ長生を得むや。]」といふ。帛公略説に曰く、「伏して思ひ自ら励ますに、この長生を以てす。生は貪るべし。死は畏るべし」といふ。天地の大徳を生と曰ふ。故に死人は生鼠に及ばず。〉〈遊仙窟に曰く、「九泉の下の人は、一銭にだも直らじ」といふ。〉〈孔子曰く、「これを天に受けて、変易すべからざるものは形なり。これを命に受けて、請益すべからざるものは寿なり」といふ。〉〈故に生の極めて貴く、命の至りて重きを知る。言はむと欲ひて言窮まる。何を以てかこれを言はむ。〉


大意 「[もろもろの病気が治らなくて、長生きできるはずがない]と神農にある」と抱朴子がいう。帛公略説には「ひそかに自らを励ますときに、長生きしようと思っている。貪欲に生を求めるべきで、死ぬことは恐れるべきだ。」とある。天地の偉大な徳が生だ。ゆえに死んでしまえば生きているネズミにも劣るのだ。遊仙窟には、「あの世にいってしまった人には一銭の値打ちもあるまい」とある。孔子がいう。「天から授かって変えようのないものが人の姿かたちである。天命として授かって、もっと続けさせてくださいと請願できないものが寿命である」と。ゆえに生がきわめて貴く、命がまことに重要なものであると知る。このことを言葉で表したいのに、言葉に詰まってしまう。どうすれば言葉にできるだろうか。


⑺ 〈若しそれ、群生品類、皆尽くることある身を以て並びに窮りなき命を求めずといふこと莫し。この所以に、道人方士、自ら丹経を負ひて、名山に入りて、薬を合はするは、性を養ひ神を怡びしめて、以て長生を求む。〉〈帛公また曰く、「生は好き物なり。死は悪しき物なり」といふ。〉〈今吾病の為に悩まされて、臥坐すること得ず。〉〈「人願へば天従ふ」といふ。如し実有れば、仰ぎて願はくは、頓にこの病を除きて、頼りて平の如くなること得むと。鼠を以て喩と為すこと、豈に愧ぢざらむや。〉


大意 そもそも生き物はどんな生き物でもいつかは死ぬ身でありながら、終わりなき命を求めずにはいられない。だからこそ、道人方士たちが、仙薬の処方を記した書巻を背負い、名山に入って薬を調合するのは、性を養い心神をよろこばせることで長生きしようというのである。また帛公に、「生はよいもので、死はわるいものだ。」とある。今、私は病気に悩まされて、寝ているのも座っているのもつらくてできない。「人が願えば天は従う」といわれる。もし本当なら、天を仰いでお願い申し上げます。ただちにこの病気を取り除いて、健康な体に戻してくださいと。ネズミをたとえに出したのは、恥ずかしいことでした。

(1)のように、「沈痾自哀文」は、不殺生戒への「窃か」な疑問に始まります。狩猟採集、殺生を生業とする人々ですら、健康に一生を遂げられるというのに、自分は、欠かさず経をよみ三宝を礼拝するという信仰生活を実行してきた。それなのになぜ、病気にかかって苦しむのかと。そして、⑸の『抱朴子』は、道教の教典として著された前仏教時代の漢籍(次章)、『遊仙窟』は唐代の伝奇小説。『帛公略説』が未詳ですが、校注者は、「死人は生鼠に及ばず」の部分を、引用ではなく作者自身の言葉であると解しています。この解に従うと、憶良は、「人間だって、死んでしまったら生きているネズミ以下だ」と、天に唾するように言い切ったことになります。そして、⑺の結びの部分では、一転して天を仰ぎ願い、いますぐ健康な体に戻してください、さきほどのネズミのたとえを恥じいるので、と殊勝です。この起伏の激しさは、居ても立ってもいられぬ病苦のゆえでしょう。

結びの部分に示されている憶良の本望、真の願いは、病の癒えることでした。仏教による「死後の世界観」の注入があったとしても、生命の根源にある瀬戸際の価値観が、どうであったかということ。この作品は、仏教の教えを受け入れ順いながらも、生きとし生ける者の本心をあらわにしているでしょう。

そして、「沈痾自哀文」にでてくる「鬼」は、本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う鬼、死神です。

『万葉集』に出てきた「鬼」を、いったん、次のようにまとめておきます。


・「しこ」と訓じ、「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分。
・餓鬼。もとは死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語だが、ここでは人物や人々への嘲り、からかいのメタファー。あるいは、人の姿形の特徴をたとえていう。
・本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う死神。


仏教は、中国に仏教が入ってくる以前の中国の世界観(道教など)を残したまま、日本に伝来しましたが、日本的には、大陸から伝来の「鬼」が、そのもの「死者の霊」であることをほとんど拒絶しているのです。
日本で「鬼」と「死者の霊」は、別のものです。

大陸と違って、死霊は祟るものではなくて、惜しむものだと、私たちの祖先は考えたのです。ですから、「鬼」の字の、祟るものだというネガティブな意味合いに、日本の古代社会において排除対象を意味した「おに」という和語が、くっついたのかもしれません。

そして、万葉の時代よりあと、死後の世界は、日本においても具体的に描かれるようになります。
その死後の世界で、日本における「死者の霊」たちが「鬼」の姿ではないとしたら、いったい、どのような姿をしていたのでしょうか。






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(未定稿)鬼さん考 2

2024-03-31 17:40:24 | 月鞠の会
一 日本にもとからいた「おに」を探る

⑵ 周辺事物との関係性を考察する

折口信夫博士は言います。

  〈おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。」〉

馬場あき子氏は言います。

  〈いずれにしても「おに」という語が、中国産の「鬼」とはまったく別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していたわけである。〉

お二人とも、漢字をこの国に迎える以前から、この国には、「おに」の概念が存在していたと述べているのです。

漢字の伝来には諸説がありますが、『新字源』(角川書店)では、「鬼」のなりたちを「象形。顔に大きな面を着けた人の形にかたどる。死者の霊魂に扮するさまにより、神霊の意を表す。」としています。さらに、儒教の教典「礼記」から挙げた用例の意味を、「神として祭られる霊魂。死人のたましい。祖先の霊」としています。中国への仏教伝来は1世紀半ば、『礼記』は、整理されたものの成立年代が紀元前1世紀。「鬼」の字義にみえる「死者の霊。祖先の霊」のイメージは、中国に仏教思想の浸透するよりも古いことがわかります。
そして、漢字が日本で文字として普及したのは、6、7世紀頃といわれています。この国にはその以前の文字による記録が無いため、中国の文化の影響を受けない言葉の例を探すのは難しそうです。いかなる方法を用れば、「おに」の概念が日本にもとからあったと、言ってもよくなるのでしょうか。

折口氏のほうは、『信太妻の話』のなかで、「かみ」と「おに」の「二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事」を示しつつも、「強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。」とも述べています。この伝え方が示唆するのは、「かみは祀られて、おには祀られない」といったことでしょうか。

『新字源』で「神」のなりたちを見ていくと、「会意形声。示と、申シン(いなびかり)とから成り、空中をただよう「かみ」、ひいて、人間わざを超えたはたらきの意をあらわす。」としており、「あまつかみ。天の神」の意味では「鬼」を対義語に当てています。「楚辞」からの用例が「死者の霊魂」の意味で挙げられていますから、古代の中国では、「神」も「死者の霊魂」の意味で使う場合があったようです。

また、折口氏の言葉で気になるのは、「漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。」というところです。

日本にもとからいた「おに」とは、どのようなものだったのでしょう。
果たして、精霊のたぐいだったのでしょうか。
この章では、ともに超自然的な意味合いをもつという点で似通った、「かみ」と「おに」とを比較することで、日本にもとからいた「おに」がどのようなものであったか、探っていこうとしています。
また、「おに」と呼ばれているそのものの、周辺事物との関係性にも着目します。
まず、「かみ」との類似点から見ていきましょう。

〇「かみ」と「おに」の類似点

「神」の語源について、阪倉篤義氏の『語源――「神」の語源を中心に』(『講座日本語の語彙〈第1巻〉語彙原論』〈明治書院〉)を見ていきますと、次のようなことが述べられています。

 ・〈カムシロ・クマシロは、「神の御料(シロ)を意味して〉いること。
 ・〈カムに並んでクマという語が、神を意味するものとして存在したことが推定される〉こと。
 ・〈クマという地名を持つ土地は、山嶽重畳して、奥深く隠れた場所であることが多い〉こと。
 ・〈複合語に用いられて、道や川や垣根などの「入りくんで見えにくい場所」を意味するクマと同一の語である〉こと。
 ・「クマ」という名詞は、夫婦のことをおこなう「久美度」(『古事記』神代)「竒御戸」(『日本書紀「神代紀」)という用例から存在が推定される、クムという動詞から派生した情態性の体言で、「隠れたる情態」を意味したこと。
 ・〈「神」の意を有したと考えられるクマは、こうして成立した、同じ情態言であって、「隠れたるもの」というのが神(クマ)の本来の意味であったと考えられる〉こと。
 ・カムという形は、動詞の終止形でもあり、「入りくむ」「つつみこむ・深くしまう」のような、クムと同趣の意味であること。
 ・〈クムと、kumu-kamu という母音交替の関係にあると見なし得るのが、神を意味するカムである。すなわち、カムという語もまた本来、「奥まった所に身を隠しているもの」を意味した〉こと。

そして、阪倉氏は、カムは、i母音接合による名詞構成の方式にならって、「カミ」という語(名詞)となり、同様に、「入りくんでいる」「「奥深く隠れた存在」あるいは「奥深く身を隠している存在」を意味するものであったと結論づけています。

「鬼」のほうは、三省堂『例解古語辞典』によると、〈『日本書紀』や『風土記』の類に「鬼」という字はあるが、訓で読む場合、「もの」をあてたらしく、「おに」と読まれた確かな例はない。「おに」の確例は、文献上は、『竹取物語』『伊勢物語』が古いところ。〉〈平安時代の「おに」のとらえ方には、その本体を人の目にさらすのをきらって姿を隠しており、人の前に現れるときにはいろいろな姿を借りて現れるもの、といったとらえ方が強かったらしい。〉とあります。また、10世紀前半の辞書『和名類聚抄』には、「おに」の語源を「隠(おん)」にあるとしています。

「常陸国風土記」(717~724)に、次のようなおにの話があります。

A 〈郡より西北のかた六里に、河内の里あり。本、古々の邑と名づく。俗の説に、猿の声を謂ひて古々と為す。東の山に石の鏡あり。昔、魑魅(おに)在り。萃集りて鏡を翫び見て、すなはち自づから去る。俗、疾き鬼は鏡に面へば自づから滅ぶと云ふ。〉(「常陸国風土記」)

大意 この里には昔、おにがいて、集まって鏡をもてあそんでいると、自分からいなくなりました。里の人によると、悟ったおには鏡に向かうと、自分から消えていなくなると伝えられていました。

これらのことから、「かみ」と「おに」が似た意味の言葉であるのは、確かに、どちらも「身を隠す」という意味においてであるといえそうです。聖徳太子のお母さん、穴穂部間人皇女の名が「神隈」とも「鬼隈」とも呼ばれていたのも、この意味においてでしょうし、その地名が、身を隠す適地ともいえる洞穴に由来するとの馬場氏(あるいは折口氏)の明察をも、この語源説が裏付けていることになります。

そして、このように明確に語源について説明できることにおいて、少なくとも、「神(かみ)」は、もとから日本にあった言葉で、日本で生まれた言葉(この国に語源がある)だと、はっきりしています。


〇「かみ」と「おに」の相違点

古代社会で、日本古来の「神」と同義の役割を果たした「おに」のあったことをもとに、「おに」の概念が、〈独自の土俗的信仰や、生活実感として〉、もとからこの国に存在していたと言い切ってしまうのは、果たして、正しいのでしょうか。

その説明の方法は、「おに」と「かみ」が完全に一致して同じものしか示さないか、「おに」の持つ意味のすべてが「かみ」に含まれる場合においてのみ、有効である気がします。少なくとも「かみ」については、語源における意味が日本に固有のものであるとき、確かに「かみ」は、日本にもとからある概念であると説明がつきます。そして、「おに」が、「かみ」と同一の意味以外の意味を持たないとき、「おに」もまた、日本にもとからある概念であると説明できます。しかし、「おに」のほうに、「かみ」と明らかに区別される要件のあった場合、やはり、別の言葉なのですから、「かみ」と区別される「おに」において、日本にもとからあった使い方を探してみなければ、どの意味において日本に固有といえるのかが、はっきりしないのではないでしょうか。

つまり、むしろ、日本にもとから「おに」の概念の存在したことは、折口博士のいう「国訓の上には、鬼をかみとした例はない」ことや、かみは祀られてもおには祀られないという背景らしいところから、断定され得ると私は思うのです。すなわち、決して「かみ」と交換しえない「おに」の概念が、古代社会に存在したことにおいて、紛れなく、日本にもとから「おに」の概念はあったと、言い切れると思うのです。

さらに、同じものをさして、「神」とも「鬼」とも呼んだ例を挙げておきます。それは「雷」です。

  
B 〈已にして伊奘諾尊に謂りて曰はく、「吾が夫君尊、請はくは吾をな視たまひそ」とのたまふ。時に闇し。伊奘諾尊、乃ち一片之火を挙して視す。時に伊奘冉尊脹満れ太高へり。上に八色の雷公有り。伊奘諾尊、驚きて走げ還りたまふ。是の時に、雷等皆起ちて追ひ来る。時に、道の辺に大きなる桃の樹有り。故、伊奘諾尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて雷に擲げしかば、雷等、皆退走きぬ。此桃を用て鬼を避く縁なり。〉(『日本書紀』「神代上」〈岩波文庫〉)


ここでは、イザナキを追いかけてくる雷たちを「鬼」としています。この雷たちは、その前の一文で「八色の雷公」とされており、黄泉の国で、イザナミの膨れ上がった腹の上にいた雷たちです。イザナミから、私の姿を見ないでと懇願されているのに、イザナキは、火をかざしてイザナミの姿を見ました。そして、逃げ出しました。そのイザナキを追いかけてきた雷たちを、「鬼」と表現し、桃の実を投げることで退散させたとしています。


C 〈天皇、少子部連繋贏に詔して曰はく、「朕、 三諸岳の神の形を見むと欲ふ。或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為ふといふ。或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉て来」とのたまふ。 蜾蠃、答へて曰さく、「試に往りて捉へむ」とまうす。乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。天皇、斎戒したまはず。其の雷虺虺きて、目精赫赫く。天皇 畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷とす。〉(『日本書紀』「雄略天皇」〈岩波文庫〉)


ここでは、雄略天皇が「三諸岳の神の形」を見たいといって、少子部連繋贏に捉えるよう命じ、繋贏は確かに三諸岳に登って、大蛇をとらえてきました。蛇は水神で、雷となって降雨をもたらします。

このようにして、雷という自然現象は、古代社会のとらえ方において、主体性のある霊的存在であり、生命体になぞらえられての格を持ちました。簡単にいえば、古代社会において、「おに」の概念は、中国由来かどうかはひとまずおいて、自然の物象に存する霊魂、自然霊として「かみ」と同一の性格を有し、まったく同じものを指すことがありました。

しかし、同じものなのに、それが、前者のエピソード(B)では「鬼」と呼ばれ、後者のエピソード(C)では、「神」とされています。さて、それが「神」であるか「鬼」となるかは、何による違いであったか。

前者のエピソード(B)では、イザナキとイザナミに対立が発生し、イザナミの立場にいた雷たちがイザナキの追手となりましたから、イザナキと雷たちは、敵どうしとなってしまった関係性です。いわば、敵となったものをイザナキの立場から「鬼」と呼んだとして差し支えないでしょう。
しかし、後者のエピソード(C)では、「三諸岳の神」とは「蛇」の姿をして降雨をもたらす水神であり、雄略天皇は畏まり、少子部連繋贏に捉えさせたものの放させてもいます。その後、繋贏に「雷」を称号として与えていますから、ここで「雷」は、善神の意味合いで一貫しています。
つまり、雄略天皇の立場から畏まる態度を表明し、利害において対立しない(対立が発生するのを避けた)関係性です。

このことから、そのものが「かみ」だったか「おに」だったかは、利害対立の有無や、畏敬の表明の有無に拠ったのではないかと思わされます。このようにとらえて、折口氏のいう「強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い」こと、ひるがえして「おに」は祀られていないらしく「かみ」は祀られていることに、矛盾しません。

さらに、同一語彙、「雷」に関連して、「神」や「鬼」の出てきた例を、『日本書紀』から挙げていきます。
『日本書紀』は、天武年間に編纂が始まった、わが国で初めての正史といわれています。「正史」とは、すなわち当時の朝廷が公式に認めたということですから、朝廷の立場を正として編纂されています。内容は、天皇紀として区切られていますが、まだ文字による記録のない神代の昔から始まっています。
岩波文庫『日本書紀』の解説によると、もとになった史料は、帝紀と旧辞であり、「帝紀と旧辞とは、もとは口々に伝えられていたものであるが、天武天皇のときには諸家が所有して異本が多く生ずるほど、文献として定着していたのである。その筆録は六世紀欽明朝の前後から始まったのであろう。」としています。そのほか、個人の記録など多様な記録がもとにされ、潤色のために中国の史書が用いられるなどしているようです。これらのことから、『日本書紀』は、六世紀以降の記録をもとに、『日本書紀』編纂の始まった天武年間の価値観でもって、まとめられているといってよいでしょう。

「雷」は、「神」ともされ「鬼」ともされる典型的な例として、『日本書紀』に多く出現します。同一語彙の例に当たるのは、用いられ方に違いがあったときに、比較しやすいからです。次に挙げるのは、推古天皇紀から。「雷」が「神」とされて順当にストーリーが展開される例です。加えて、推古天皇は、聖徳太子が摂政を務めた折の女帝ですから、聖徳太子のお母さんが「神隈」「鬼隈」とも呼ばれたのと同時代の記録です。


D 〈是年、河辺臣――名を闕せり。――を安芸国に遣して、舶を造らしむ。山に至りて舶の材を覓ぐ。便に好き材を得て、伐らむとす。時に人有りて曰はく、「霹靂(かむとき)の木なり。伐るべからず」といふ。河辺臣曰はく、「其れ雷の神なりと雖も、豈皇の命に逆はむや」といひて、多く幣帛祭りて、人夫を遣りて伐らしむ。則ち大雨ふりて、雷電す。爰に河辺臣、剣を案して曰はく、「雷の神、人夫を犯すこと無。当に我が身を傷らむ」といひて、仰ぎて待つ。十余霹靂すと雖も、河辺臣を犯すこと得ず。即ち少き魚に化りて、樹の枝に挟れり。即ち魚を取りて焚く。遂に其の舶を脩理りつ。(『日本書紀』「推古天皇」二十六年〈岩波文庫〉)


同書校注に、「霹靂の木」の木とは、「雷神による木の意か。」、「落雷は稲と雷との交接であり、それによって稲が稔るのだと、当時の人々は信じていたので、雷電をイナツルビと訓む。」とあります。「伐るべからず」と言われているのに、その雷の木を切ったから祟られるのかといえば、そうではなく、ここで河辺臣は「神」に呼びかけ申し入れをしており、雷神は、誰を傷つけることもなく、船舶も完成しています。つまり、「神」に呼びかけることで対立を避け、それによって「雷」は稲を稔らせる善神として温存され、勅命もまた成りました。

時代がくだって、同書「斉明天皇」の七年には、「雷」をめぐって「神」と「鬼火」がでてきます。


E 〈五月の乙未の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し。(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)

この「神」は、同書校注によると「雷神」であり、この災厄は落雷に依るものとわかります。五月は梅雨明けであり、落雷の多い季節ですから、落雷のあること自体は順接に発生する自然現象で、落雷があっただけでは、祟りや怪異に結びつきません。「雷の木を伐った」だけで祟られるわけではないのも、「推古天皇」二十六年のエピソードから明らかです。ここでは、「鬼火」が現れ病死者の出たことで、それが雷の木の祟りによるものと示唆されますが、順接の自然現象でありながら、そののちに発生した、無関係かもしれない凶事とひもづけて、それを祟りによるものと受け止めるには、そう受け止めるだけの背景が、別途、あったはずです。

じつは、この文脈には、直後に、この頃、百済救援の拠点であった済州島からの朝貢が始まったこと、百済が滅亡してからも、百済救援の拠点であった済州島を助け、大和朝廷と半島との関係性に大きな変化は見られなかったことを印象づける挿話がつづきます。さらに、韓智興という人物の付き人からの讒言を受け、遣唐使人らは、唐の朝廷からの「寵命(みめぐみ)」が無かったことが記されています。
「斉明天皇」の五年にも、智興の別な付き人から遣唐使人らが讒言を受け、流罪を被るということがありました。同種のことがうちつづくと信憑性を増し、国と国の問題となることは必定です。このままでは遣唐使どころか、大和が、大国である唐と戦争になってしまうかもしれない。このような文脈をととのえる挿話が、「鬼火」の出る背景を語っているのでしょう。この挿話は、次の二文をもって、締め括られます。


F 〈使人等の怨、上天の神に徹りて、足嶋を震して(雷を落として)死しつ時の人称ひて曰へらく、『大倭の天の報近きかな』といへりといふ。〉(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)

「死しつ」は「ころしつ」と読みます。遣唐使人らの怒りが天の神に通じて落雷が讒言者を殺しました。この挿話によってととのえられてから、つづく本文の文脈に注目です。「鬼」は、百済救援を推し進めた斉明天皇(皇極天皇)の、喪の儀を、山から見下ろすという姿で、登場したのでした。


G 〈秋文月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆怪ぶ。〉(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)


大意 斉明天皇が崩御されました。その喪の日、朝倉山の上に大笠に身を隠した「鬼」が現れ、喪の儀を見下ろしていました。人々は皆、怪しんだということです。

書紀の文章として、E→F、F→Gは、そのままつづきます。この文脈は、どういうことでしょうか。「鬼」出現の直前には、落雷によって讒言者が天誅を受けています。そして、当時の人々が、天の怒りを称えていうには、〈『大倭の天の報近きかな』といへりといふ。〉です。
この部分では、「大倭」にも天の報いやいかにと、「時の人」の秘められた逆心が表明されているのではないでしょうか。戦乱に兵士としてかりだされる以上の負担はありません。すでに民心の離れてしまっていることを、すぐあとに登場する大笠を着た鬼が、暗示しているのではないでしょうか。
あの鬼火は、「雷の木」を伐ったことによるものと読者に思わせながら、決して、そのアクションだけでそうはならないこと、「雷の木」の伐採をきっかけに、政治への批判が、こうした「鬼」の姿をとって山上にまで現れたとみるのが、もっともではないでしょうか。
つまり、ここでとどろき閃く雷は、国難を暗示させて、焉りゆく斉明天皇の時代を劇化する、盛大な演出としてはたらいているのです。

E→F→Gの「鬼」出現までは、「斉明天皇」七年です。さかのぼって、「斉明天皇」六年にも、百済救援の失敗を予感させる次のような「わざ歌」が、取り上げられています。


H 〈是歳、百済の為に、まさに新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、続麻郊に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして、艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。(中略)或いは救軍の敗續れむ怪といふことを知る。童謡有りて曰はく、
  まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりがりが〉
(『日本書紀』「斉明天皇」六年〈岩波文庫〉)


同書校注によると、この童謡(わざ歌)の意味は解明されていませんが、「要するに征西軍の成功し得ないことを諷する歌に相違ない。」とあります。つまり、このわざ歌は、船の前と後ろが夜のあいだに理由もなく反対になっていたという怪異を、戦に敗れる予兆として位置づけるとともに、斉明天皇崩御に至る流れの伏線としても、機能していたということです。そして、喪の儀を見下ろす「鬼」出現の怪が、大和と百済が小国どうし同盟の絆で結ばれていた政治の季節の終わりを象徴していたことをうかがわせます。『日本書紀』編纂者の工夫としていえば、一つの政治的局面の終焉であることを強く印象づけるために、わざ歌の伏線を張り、喪の儀を見下ろす「鬼」出現に至るまで、文脈を仕込んであるということです。
つまり、大和朝廷という絶対者を浮き彫りにするために、「鬼」を出現させているのです。大和朝廷が絶対者である。この浸透こそが、天武朝の、『日本書紀』編纂の意図であったからでしょう。

『日本書紀』の「鬼」の用例を、もっと見ていきましょう。


I 〈二の神、諸の順はぬ鬼神(かみ)等を誅ひて、一に云はく、二の神遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆已に平けぬ。〉
(『日本書紀』「神代下」〈岩波文庫〉)


「二(ふたはしら)の神」とは、地上の世界である「葦原中国」を平定するために派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)であり、「鬼神」の記述で「かみ」の訓になるのは、「鬼」の字が修飾語であることを意味しているでしょう。そしてここでは、直後に出てくる「邪神」とイコールであることから、「鬼」の意味は、ここでは「身を隠す」という古来の意味よりは、「邪」のほうが近いでしょう。
『日本書紀』では、朝廷の日本統一を阻害する存在を、おしなべて敵とみなす態度が明白であり、朝廷の敵を「鬼」と呼んでいるようです。次に挙げる、孝徳天皇紀も同様です。


J 〈乙卯に、天皇・皇祖母尊・皇太子、大槻の樹の下に、群臣を召し集めて、〈今より以後、 君は二つの政無く、臣は朝に弐あること無し。若し此の盟に弐かば、天災し、地妖し、 鬼誅し人伐む。皓きこと日月の如し」 とまうす。〉(『日本書紀』「孝徳天皇」〈岩波文庫〉)


年号を日本独自の年号として大化にあらためるに際し、孝徳天皇は家臣らを集めて、従わぬ者を滅ぼすことを宣言しました。校注によると、この改元には、従わない者へのとりこぼしのない制裁が強調されています。この強調は、強権を誇示するばかりでなく、大和朝廷こそが正統・正義であることを前提とするでしょう。

さらに、『日本書紀』では、「鬼」のどのような様子を邪悪としたのかを、具体的に見ていきます。


K 〈亦山に邪しき神有り。郊に姦しき鬼有り。衢に遮り徑を塞ぐ。多に人を苦しびむ。(中略)或いは党類を聚めて、辺堺を犯す。或いは農桑を伺ひて人民を略む。撃てば草に隠る。追へば山に入る。故、往古より以来、未だ王化に染はず。〉(『日本書紀』「景行天皇」)〈岩波文庫〉)


ここでは、「邪しき神」「姦しき鬼」と呼ばれる人々が、山や辺境など、村里の外れに潜んで、グループを形成し、村里の生活を脅かす姿が描かれています。そして、天皇は、日本武尊に武器を授け、このような「邪しき神」「姦しき鬼」を討てと、熊襲征伐を命じます。この対句は、あとで「即ち言を巧みて暴ぶる神を調へ、武を振ひて姦しき鬼を攘へ」とつづきます。つまり、「神」は言葉で調伏し、「鬼」は力づくで追い払えということです。ここに、「神」と「鬼」の違いが示されているように思われます。

つまり、それが「神」であるか、「鬼」となるかの違いであったのです。関係性が対立へと向かえば、「鬼」となり、利害対立する「神」には対話、しかし「鬼」には、武力行使だったのです。実際、雄略天皇紀では少子部連繋贏が、推古天皇紀では河辺臣が雷神に言葉で申し入れをして、対象は、「神」であることを温存しています。そのことを、これらの記述が裏付けてくれます。
つまり、「かみ」か「おに」かは、絶対的な意味合いではなく、環境(周辺事物)との関係性の持ち方で、決まっていたのです。


⑶ 様相の具体的な記述から考察する

この章では、古代の文献において、「おに」と呼ばれているものが、直接に描かれるとき、どのような具体性をもっているかに着目します。
『日本書紀』と同時代の国書に『風土記』があります。
『風土記』とは、「国史が大和朝廷に対してお答え申し上げる性格の公文書であり、国の過去と現在の忠実な報告記事に終始するもの」であり、「内容は史籍地理志を意識して書けということ」であると、『風土記』(新編日本文学全集〈小学館〉)の校注・訳者の植垣節也氏は、同書の冒頭において紹介します。つまり、『風土記』は、公式の歴史書である『日本書紀』を正もしくは主としつつ、各国情を報告差し上げる『風土記』は、事実に忠実でなければならないということです。

各国の『風土記』のなかで、完本で遺され、「鬼」の古例が見られるのは「出雲風土記」(733年)でした。


L 〈阿用の郷。郡家の東南一十三里八十歩なり。古老伝へて云ひしく、昔、或る人、此処に山田を佃りて守りき。その時、目一つの鬼来て、佃る人の男を食ふ。その時、男の父母、竹原の中に隠れて居りき。時に、竹の葉動(あよ)けり。そのとき、食はるる男「動く動く」と云ひき。故れ、阿欲と云ふ。神亀三年、字を阿用と改む。〉(『風土記』「出雲風土記」新編古典文学全集〈小学館〉)


大意 目が一つしかない鬼が来て、ある農夫の息子を食べました。その父母は、竹原に隠れてじっとしていましたが、竹の葉が動くと鬼に見つかりそうになるので、農夫の息子は、みずからが食われながらも父母に、「動(あよ)く、動(あよ)く」といって、じっと隠れているように教えました。この伝承は、地名のもととなりました。


この「目一つの鬼」のエピソードについて、植垣氏は同書「古典への招待」及び本文校注にて、次のように述べます。


  〈風土記の執筆者は、これが高天原から追放された神の仕業という大和側の見方を排することで出雲の立場を貫きました。八岐の大蛇の話の原型は、須賀の宮のすぐ近くにある大原の郡阿用の里の、目一つ鬼の伝承です。〉

  〈出雲は明治以前、鉄の生産が日本一であったが、鉄鋼から鉄を取り出す技術が大陸から伝えられた。技術者は尊敬されながらも、一方、不思議な術を使う集団に見えたと思われる。ところで、鍛冶の仕事では火の温度を知るために火の色を見る。これを長年続けると片目が失明する。目一つの鬼の正体はじつは自分の片眼を犠牲にして仕事をした人であった。愚かな恐怖心から鬼に仕立て、子を食う話が語られた。八岐の大蛇の伝承の原形はこれであろう。〉(『風土記』「古典への招待」植垣節也)


馬場あき子氏は、『鬼の研究』のなかで、この「目一つの鬼」について、次のように推察します。


  〈日本の書物に登場する鬼が一つ目であることは、日本の鬼の原型を考える上にたいへん参考になることである。神犠にえらばれたしるしとして片目をつぶされた一つ目の男が、ある時よこしまな暴力をもってふいに民衆の収穫を奪い去ることは考えられぬことではない。〉


馬場氏がこのように述べるのは、「目一つの鬼」の由来を、柳田国男氏の研究に求めたからです。柳田国男氏が、『一つ目小僧』のなかで、日本の古代の風習を挙げ、「大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭りの日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げても捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折つておいた」ことの名残であるととらえたからです。また。馬場氏は、「鬼」に「しこ」という読み方があったことに言及し、異形であったり、身体の一部が損なわれていたりする姿のものを「おに」と呼んだ可能性を示唆します。

じつは、私は、両氏の説の、ある部分に、違和感を持ってしまうのです。両氏とも、ここで「目一つの鬼」とは、二つある目のうち、一つが潰れた(潰された)人物を想定しているのですが、二つある目の一つが潰れている、そのようなすがたかたちを見て、人々は、「目一つ」と認識するかということです。その場合、「片方の目の潰れた(潰された)」と認識するのではないでしょうか。またそれに、片方の目が潰れているといったようなことは、一見してわかりにくく、近くに寄って認識できることです。ですので文字どおり、この「鬼」の目は、初めから一つしかなかったのではないかと、私は思うのです。

それから、『日本書紀』の八岐大蛇の伝説は、強力な霊性を感じさせる水神伝説でもあります。


M 〈時に素戔嗚尊、乃ち所帯かせる十握剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾裂きて視せば、中に一つの剣有り。是所謂草薙剣なり。(中略)一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に、常に雲気有り。故以て名くるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。〉
(『日本書紀』「神代上」第八段〈岩波文庫〉)


そもそも朝廷が、『風土記』の編纂を各国に命じたのは、各国から税を、余すところなく搾取する目的があったでしょう。この伝承のある出雲国ではよく雨が降るということになり、五穀豊穣の地という印象になります。遠国である出雲国において、このような伝承を「風土記」の報告に認めてしまうと、租税がたいへん重くなる可能性があったでしょう。

『日本書紀』欽明天皇紀には、飢餓による食人の記録が残されています。

N 〈廿八年、郡國大水飢、或人相食。轉傍郡穀、以相救。〉(この書き下し文は後ほど。)

食人の強烈な描写は、増税回避のために、かつての大災害、大飢饉を、中央政府に想起させることにあったのではないでしょうか。大災害が発生すれば、どうなるかわからない。出雲国とて例外ではない。そして、目一つの鬼が、遠巻きにも「目一つ」とわかるほどの、文字どおりの異形の姿であったとしたなら、この郷の人々にとり、伝承すべきであった事柄は、何だったのでしょうか。

実際、班田収授法は、税を納める農民にも、取り立てる側の国司にも過酷すぎて、ほどなくして戸籍を偽るなどの不正が横行したほどでした。男子は六歳になると口分田を支給されますが、六歳など、まだほんの子供で、おとなのように働けるはずもありません。そして、成人男子が死亡すると、その口分田を返納しなくてはなりません。男親は、六歳にはなったがまだ幼い男の子のぶんをも耕さねばならず、税を滞納すると、兵役や建設工事にボランティアで駆り出されます。すると、家には女子供だけとなり、田畑を耕す人がいなくなってしまうのです。そのようなわけで、農民のほうでは、男子が生まれたら女子と偽ったり、高齢者が亡くなってもまだ生きていると偽って、収穫を見込める口分田を手放すまいとしました。そのようななか、なんらかの事情で労働力と見込めそうにない子は、口分田支給の六歳までに死んだことにして、山などに移したり、遺棄したりしていたのではないでしょうか。

またさらに、「おに」は、欽明天皇紀にて、次のようにも記されます。北陸地方に伝わったとされる、放浪民の伝承です。


O 〈越国言さく、「佐渡嶋の北の御名部の埼岸に、粛慎人有りて、一船舶に乗りて淹留る。春夏捕魚して食に充つ。彼の嶋の人、人に非ずと言す。亦鬼魅なりと言して、敢て近づかず。
〈人有りて占へて云はく、『是の邑の人、必ず魅鬼の為に迷惑はされむ』といふ。久にあらずして言ふことの如く、其に抄掠めらる。是に、粛慎人、瀬波河浦に移り就く。浦の神厳忌し。人敢て近づかず。渇ゑて其の水を飲みて、死ぬる者半に且とす。骨、巌岫に積みたり。俗、粛慎隈と呼ふ。」とまうす。〉


「粛慎人」がどのような人々をさすのか諸説あるようですが、彼らは、どこからかやってきて、その土地に隠れ棲んでいたようです。定住はせず、放浪民であり、地元の人々から「おに」と呼ばれて、地元の人々を悩ませるようになったという伝承です。この「鬼魅」の様子は、前項(2)、書紀におけるKの文章が述べた「鬼」の様子と重なります。

ここで、もう一度、Aの文章に戻っておきたく思います。


A 〈郡より西北のかた六里に、河内の里あり。本、古々の邑と名づく。俗の説に、猿の声を謂ひて古々と為す。東の山に石の鏡あり。昔、魑魅(おに)在り。萃集りて鏡を翫び見て、すなはち自づから去る。俗、疾き鬼は鏡に面へば自づから滅ぶと云ふ。〉(「常陸国風土記」)


魑魅(おに)は、集まって遊ぶことがあり、鏡に映るのは自分自身であると認知できる。鏡に映ったのは自分自身だと分かれば、姿を消してしまったーー。姿を消して、どこへ行ったのでしょうか。集まるまえは、どこにいたのでしょうか。

私には、「風土記」に登場する「阿用の鬼」も「河内の魑魅(おに)」も、なんらかのハンディキャップをもって生まれた子が、労働力とはならないために、物心つかないうちに、そう遠くない山のなかに棄てられ、なかには生き残るものもいて、山の民となった姿と思えるのです。そして、生きた人であるからには、食べ物などを求めて、しばしば、郷にも出没をします。山のなかでグループになることもあったでしょう。郷の人々のほうでも、もとは自分たちの血縁者であり、戸籍を偽るなど、生きていくためのやむなき不正のためにそうなったものであるからこそ、事件化を避けて、なんとか山へ追い返そうとしたでしょう。逆に、こうした者たちに事件を起こされたときも、「おに」が現れては消えたことにして、その形で伝承もし、「風土記」なる中央への報告書としても、このような形でバランスを取ったのではないでしょうか。

いずれにせよ、日本にあったもとからの「おに」の概念とは、折口博士のいう精霊や自然霊のような土俗の信仰のそれではなくて、生きながら棄てられた人々を、あるいは定住民と対立する流浪民を、もとから「おに」と呼んでいたではないかという問題提起を、私は、しようとしています。中世以降、山の民や流浪民を「おに」と呼んだらしいことは、『鬼の研究』ほか、先行の研究で明らかにされていますが、農耕が始まり、条件のよい土地を奪い合うようになったときから、そのような人々はすでに発生していたでしょうし、そのような人々への呼び名が無かったとは、むしろ、考えにくいことだからです。ですので、そうした人々を、とっくに「おに」と呼んでいたのではないかと、考えてしまうのです。
この国の言葉の使い方に、外来文化の影響の乏しかった頃にも、共存の難しい人々、異質な人々を排除しようとする向きと、対立を避けて、なんとか折り合いを付けようとする郷の風情は、常にないまぜであったようにも思われます。
 
欽明天皇紀にあった、「佐渡嶋に鬼魅(おに)あり」の「粛慎人」「粛慎隈」は、異文化の部落の存在を示し、異文化の人々との対立を暗示します。この景行天皇紀における「邪しき神」「姦しき鬼」のふるまいは、まさに、定住民から見た、対立する異文化集団のふるまいと同様ですし、「常陸国風土記」の目一つの鬼のふるまいも、「農桑を伺ひて人民を略む」行為そのものでした。そして『日本書紀』が、そのような人々の排除を、朝廷の権力でもって唱えるようになるまで、郷の人々は、彼らをひそかに「おに」と呼びつつ、折り合う道を模索していたかもしれないのです。
いずれにせよ、古代の人々が「おに」と呼んでいたのは、重い税に耐えかねて逃げ出すなどした人々、戸籍操作のために山などに棄てた子や、あるいは放浪することになったグループ、ハンディキャップピープルであった可能性が高いでしょう。

さて、ここまででわかってきたことを、まとめます。
古典籍からの引用を、アルファベットでA~Oとしています。①~⑤に、A~Oの引用部分を対応させると、次のようになります。
間接的な引用部分は、主たる引用部分にひもづける形で(‐●)として示しました。


【⑴2のまとめ】

① 「おに」の概念の、中国に由来しない、日本にもとからあった意味合いとは、「身を隠す」という意味合いであった。……阪倉「神」語源説、折口信夫説、馬場あき子説、A、G

② 「おに」の概念の、「かみ」の概念と意味の重なるところが多いなか、「おに」の概念の独自性は、文脈の中心人物と対立する関係性となったときから、中心人物の立場で、「おに」と呼んだ。なかでも『日本書紀』においては、朝廷が武力において制圧すべき敵とみなした存在を「鬼」とした。…B、I、J、K

③ ②を受けて、『日本書紀』では、雷のような、信仰対象であった自然現象を絶対視してはおらず、大和朝廷と対峙する関係にあるものとしてとらえている。もとは「神」として順接にとらえてあっても、災厄を結果としたものについては、同一文脈中にあっても、「神」から「鬼」へと関係性をとらえ直した。朝廷からの、対話や対立を避けるアクションなどにおいて災厄を避けられた場合は、「神」であることを温存した。つまり、「かみ」か「おに」かは、絶対的な意味合いではなく、環境(周辺事物)との関係性の持ち方で、決まっていた。……C、D、E

④ 『日本書紀』では、わざ歌を用いるなどして、大和朝廷に対する大衆の反感や逆心を、「鬼」の出現によって暗示した。……H→E→F→Gの流れ

⑤古代社会の人々に 「おに」と呼ばれていたのは、流浪民や棄民、ハンディキャップピープルであった可能性が高い。……A、K、L(‐M、N)、O



このように見ていきますと、日本にもとからいた「おに」は、どうやら精霊のたぐいではなかったということになります。
あるときは、逆賊のメタファーであり、メタファーでないときは、現実の人間もしくは人間集団を指し、その内実は、悪意のある無しによらず。社会と協働していくことの難しい人々だったようです。
であれば、なぜ、折口博士や馬場氏は、日本にもとからいた「おに」に、精霊や自然霊といった、土俗信仰の対象である可能性を、取り置こうとされたのでしょうか。
なぜ自分もまた、同じ指向を持ったのでしょうか。
このことを、和歌文学をその精神風土におくものにとり、『古今和歌集』「仮名序」の影響が大きかったせいではないかと私は考えました。(本考5)

さて、「おに」という和語には、中国から入ってきた漢字のうち、「鬼」の字が当てられています。
この「鬼」の字は、大陸では「キ」という音を持ち、死者の霊を表しました。それにまた、天武朝の頃には、同じく大陸から渡ってきた仏教が、浸透してきた時代でもあります。
本考では、次いで、大陸から受け入れた死生観が日本でどのようにアレンジされていったかを、「鬼」の字において表現される事物をめぐって、見てまいります。














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