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畑村洋太郎著『失敗学実践講義』

2010-05-31 16:03:35 | Weblog
畑村洋太郎著『失敗学実践講義』

本書の著者畑村洋太郎(はたむら・ようたろう)氏は、1941年東京の生まれ。東京大学工学部機械工学科修士課程修了。東京大学大学院工学系研究科教授、工院大学グローバルエンジニアリング学部特別専任教授を歴任した(東京大学名誉教授、工学博士)。専門は失敗学、創造的設計論、知能化加工学等で、2001年から畑村創造工学研究所を主宰している。2002年には、NPO法人「失敗学会」を、2007年には「危険学プロジェクト」を立ち上げた。『失敗学のすすめ』、『危険学のすすめ』など多数の著書がある。本書は、2006年に講談社から刊行された同名のタイトルの単行本を文庫本化にあたり増補したものである。
事故や失敗は、起こっては困る。しかし、「必ず起こる」ものと考えておくべきだ。これが著者の基本的な考え方。重要なのは、その失敗から何を学ぶかである。本書では、電車脱線、回転ドア死亡事故、金融システム障害など、様々な場面で発生した事例を徹底的に解明・分析する。「失敗学」を生かせば、あなたの仕事や組織は、確実に強くなる。と著者は発言する。本稿では、本書第6講「起こる前に起こった後のことを考える(火災に学ぶ)」をベースに、著者の考え方を紹介してみよう。どのような場所でどのような形で火災が起こるか。ありとあらゆるシナリオを想定することで、火災の可能性を減らしていくことはできる。それでもなお、火災は「完全に防ぐことができない事故」だと著者は考える。備えをしているつもりでも、それをあざ笑うかのように予想外の形で火災事故は起こってしまう。火災の可能性を減らすのと同じように大切なこと。それは、火災が起こったときに、どのような動きをするかを決めておくことである。それにより、たとえ火災を防ぐことができなくても事故の被害を最小限に食い止めることができるからだ。著者は、ここで2002年10月1日、三菱重工業長崎造船所で建設中の「ダイヤモンド・プリンセス」号(以下「ダ」号)の火災事故を取り上げる。「ダ」号は、11万3000トンの世界最大級の豪華客船。この船の建造中、溶接作業を行っているときに生じた熱が厚さ5ミリの床の鉄板の反対側にあった可燃性のプラスティック製の内装に伝わり発火し燃え広がって36時間燃え続けた。
事故直後、三菱重工の関係者は、119番通報や初期消火の遅れなど安全管理の甘さを糾弾された。事故が起こると、関係者はいつもそうしたことで責められる。しかし、この場合、実際はどうだったのだろう?この火災事故に関しては、世間はあまりに皮相かつ短絡的な見方をしていると著者は見る。「ダ」号の火災事故の場合、突発事故ではあったが、約1000人の作業員が全員無事に退避している。大きな事故であったのにケガ人を一人も出さなかった。この点になぜ世間は誰も注目しないのかと、著者には不思議に思う。船の中、特に建造中の船の中というのは、迷路そのもの。そんな場所で火災発生後の避難がスムーズに行われて一人のケガ人も出さなかったのは、事故後の連絡網、退避経路の確保、安全確認など、日頃の訓練で身につけた初期動作の一つ一つが現場で働く作業員に浸透していたからにほかならない。後日、著者は現場を訪れ、艤装工事中の船への出入りは幅1㍍程度の二ヵ所のタラップから行われ、ここではバーコードで人の出入りをすべて管理していたことを知る。工事責任者は全員が退避するのを待って、消火活動を開始した。
(2010年、講談社文庫、552円+税)

『日本生命百二十年史』拾い読み

2010-05-18 16:41:58 | Weblog
『日本生命百二十年史』拾い読み

『日本生命百二十年史』が出版された。たまたま目を通す機会があったので、チョット気にかかる点等をメモしてみた。

日本生命の創業には、第百三十三国立銀行の頭取であった弘世助三郎が中心的な役割を果たす。弘世は、近江彦根(滋賀県)の素封家に育ち、早くから救世救民の志が強い人物であったが、近代的生命保険の仕組みを知って、関西の中心地である大阪に新たな生命保険会社を興そうと決意、創立に向けて精力を傾けた。創立委員・発起人については、第百三十三国立銀行の取引先である各国立銀行首脳等を歴訪し、協力を依頼する。1889年(明治22年)7月1日に大阪府知事に提出された創立願には、大阪府、滋賀県の財界有力者ら62名が発起人として名を連ねた。同月4日に創立が認可され、ここに日本で3番目(明治生命、帝国生命に次ぐ)の生命保険会社として「有限責任日本生命保険会社」が誕生する。7月28日の創立総会では、社長鴻池善右衛門(10代、1877年に第十三国立銀行(現、三菱東京UFJ銀行)を創設)、副社長片岡直温(前職は滋賀県警察部長)以下の初代経営陣を選任、創業者の弘世助三郎は取締役に就任する。

 同社の営業開始は、創立から2か月半を経た9月20日のこととなる。これは、年齢別の保険料率を定めた「保険料表」の完成に時間を要したため。この「保険料表」作成こそ、同社の経営理念が明確に反映されたもの。創立にあたって同社が用意した「保険料表」は、実は外国で使用されていた保険料表を補正したものに過ぎなかった。事業経営の将来に大きな影響をもつ保険料率が、欧米人の死亡率によって算出されていることの不合理に、経営陣は納得ができない。この窮地を救ったのが、東京帝国大学教授の藤澤利喜太郎。藤澤は、その著書『生命保険論』の中で、日本人の生死をもとに作成した死亡生残表(藤澤氏第一表)を掲げていた。担当の人見米次郎(当時岩崎姓)は、藤澤を訪問して保険料表の作成を懇願した。藤澤は、保険料を低すぎることのないように定め、もし将来余剰金を生じたときは、これを契約者に割り戻すべきであるとし、その実行を経営陣が誓約するならば、どのような援助も惜しまないとの意向を表明した。
1918年(大正7年)に始まり翌々年迄続いたスペイン風邪の蔓延。その影響により、生命保険会社の死亡率は急激に悪化した。同社でも、予定死亡100に対する実際死亡は戦争時を除く平常年で70~80台であったが、1918年~1920年度の3年間は、件数ベースで見ると、99,92,102と予定死亡率と実際死亡がほぼ均衡するレベルに達している。この間、流行性感冒による死亡は合計2,735名、保険金支払額は203万円を超えた。とはいえ、業界全体を見ると同社以外の会社が大きな死差損を出す状況下にあって、同社の損害は比較的軽微で済む。これは、同社が、前述の藤澤教授による保険料表(第二表)を用いており、厳格な保険数理が働いていたことも幸いしたとされている。
 さらに、1923年(大正12年)9月1日には、関東大震災が発生。災害史上空前の惨禍となる。地震と火災発生により、関東・東海の広範囲にわたって甚大な被害が生じ、死傷者十数万人、被害総額は100億円を超えた。同社は、ただちに救護班を組織して、大阪本店から現場に派遣し、被害者の救護に当たる一方、保険金、貸付金その他の支払いに非常簡便の手段を講じた。関東大震災による支払保険金は翌年8月末までの1年間に支払いを終了した額が81.6万円。同一期間内に震災地域内の契約者に支払った解約返戻金8.7万円、同じく貸付金31.3万円であった。なお、被害が関東とその周辺に限られたため、同社における死亡率の上ぶれは小さかった。

 時代はずっと下って、1996年(平成8年)。この年の4月に施行された改正保険業法では、「生命保険固有分野」、「損害保険固有分野」、「傷害・疾病・介護分野(第三分野)」についての定義規定により、保険業務区分が明確化され、本体による生損保兼営は依然として禁止されたものの、”子会社を通じての生損保兼営”が可能となる。日本生命は、平成8年8月8日、100%子会社として「ニッセイ損害保険株式会社」(以下ニッセイ損保)を設立、同年8月27日事業免許を取得して同年10月1日営業を開始する。ニッセイ損保の販売体制には特徴があった。それは、従来の代理店に加え、個人マーケットについて日本生命の営業職員を代理店として販売を行う点である。生命保険と損害保険を併せてご提案するトータルサービス(TS)を同社の中心チャネルである営業職員一人ひとりが提供するという体制をとることにより、顧客の利便性の向上を図ったのだ。また、この手法は経営資源の有効活用にも資するものであった。TSの推進の目的で、平成9年度より、営業教育訓練体系にTS教育を加えた。同時に初級代理店から普通代理店に格上げしていくための教育も推進するなど、損保教育の拡充を図った。
 また、生損セット商品の開発も行い、万一の場合や就業不能時の所得補償のための新商品「トータルガード」(平成9年9月)、特定のケガや携行品の損害、個人賠償責任などをカバーする「スーパーアクティブパック」(同年11月)といった商品も発売していく。1999年(平成11年)4月にサービスを開始した「ニッセイ保険口座」を開設した顧客に対し、ニッセイ損保の自動車保険・火災保険・傷害保険等の所定のご契約について、ニッセイ損保の規定に基いて、保険料の割引を行う「口座で割引」制度も導入された。
 1999年(平成11年)6月、日本生命は、同和火災、ニッセイ損保との3社で資本関係の強化に同意した。既に、同和火災とニッセイ損保の間では、自動車保険の損害査定業務などで提携関係にあったが、さらにこれを拡大していこうというものである。変化の早いマーケットにおいて、顧客サービス強化のために必要な機能強化を”自前”で行うよりも、技術的・時間的・コスト的な面など総合的な観点から、”提携”による方が効率的であるとの判断からであった。
 更に、同年7月に同和火災の第三者割当増資を引き受けたことで、同和火災は日本生命グループの一員となった。翌年5月、ニッセイ損保と同和火災は「合併契約書」に調印、2001年(平成13年)4月には、「ニッセイ同和損害保険株式会社」(ニッセイ同和損保)が誕生する。この合併を機に、リスク細分型自動車保険「ぴたっとくん」を発売した。この商品は、運転者の年齢や範囲に応じて合理的な保障と保険料を実現している。
 ニッセイ同和損保の誕生は、日本生命グループとしての損害保険事業の幅と規模を拡大し、これにより日本生命社の損害保険事業への確たるコミットメントを示すこととなる。生命保険・損害保険双方の商品を提供することによりお客様との接点が増え、営業職員の活動の幅が広がることになった。一方、ニッセイ同和損保は、日本生命とのクロスセリングの効果もあり、他の大手損保会社を上回る業績伸展を示す。正味収入保険料は、平成12年度末の2,683億円から20年度末には3,109億円と15.9%の大きな伸びとなる。その後、2009年(平成21年)1月、ニッセイ同和損保は、あいおい損保および三井住友海上グループとの経営統合を発表している。ニッセイ損保が誕生したのが1996年(平成8年)。僅か10年余の間であったが、本書により目まぐるしい変化の跡を簡潔に辿ることができた。
 
本書には、企業スポーツについても、若干のページが割かれている。1929年(昭和4年)創部という伝統を誇るのが野球部。都市対抗野球大会には、1949年(昭和24年)の第20回大会に初出場以来、出場は51回。これは歴代1位という快挙だ。第56大会(1985年(昭和60年))、第63大会(1992年(平成4年))、第68大会(1997年(平成9年))と3回の優勝を遂げている。一方、社会人野球日本選手権では、1974年(昭和49年)の第1回大会以来、出場が29回。2回の優勝(第17回大会、第29回大会)を果たした。また、1954年(昭和29年)に創部された女子卓球部は、優勝22回、総合優勝(内閣総理大臣杯)12回という戦績を残している。同社における企業スポーツは、企業イメージを高め、社内の一体感を作るためと位置付けられている。

日本生命は、“歴史を大切にする会社”である。千葉県浦安市にあるニッセイ総合研修所内には、メモリアルルームが設置されている。ここには、創立趣意書(原稿)、開業時の保険料表、本店旧社屋の模型など、同社の歴史を物語る貴重な資料が展示されている由。規模は小さいかもしれないが、今後本格的な「企業博物館」として発展していくことを期待したい。