緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

受け取る思考癖もある。

2024-04-17 | 意識・無意識
    思考癖という話を数日以来していました、途中違う話もはさみましたが (^^;)

普段からの思考、思いとか考えている事が癖になり当たり前になり、無意識化し、自分発信の言葉や行動が自分の価値観の世界のまま無意識化されるという話。

たまには自分を俯瞰してみる癖や人の話しや考えも素直に受け取ってみるのも大切だよという話。

何でも当たり前になったり、無意識化していると自分に気づかず、よく言うところの自分を棚に上げてという事にも気づかずにいるという。
私のまわりにも多いです。
それを他人の私から見ればすんなり分かります。
だからこそ私はどうかなって不安になったりするので、
人からあなたはこうだよとか言われるのが意外と好きだったりするのです。

昔からそんな感じで、言われたりした時に嫌な事でも怒らなかった。
そうなんだと落ち込むことも多かったし、傷ついた。
自尊心も無かったし、自己肯定感低かったからだろう。
まあそれも後には傷つく事だと知ったし、それはある意味自分で自分を擁護できないで自分が自分を傷つけている事でもあると気づいた私は、言われた事でも自分でしっかり考えようとしました。

そう発した方の状況や思いや考えを考察して、何でそう思われるのか、何でそう見えるのかと。
自分が傷付く事がありたり前にならないでいようと思ったからです。
相手の思い込みかも知れないし、勘違いかも知れないし、妬みや嫉みやひがみかも知れない。
そんな事に振り回される自分も自分を傷つけるし。
一旦自分の中の思い込みや先入観やすべての当たり前を外さないと相手の事でも分からない。
常に自分の気持ちや考えは対峙する時点でフラットでありたい。

自尊心が無いのも自己肯定感が低いのも自分の責任ではないかも知れないし、そう育ったトラウマかも知れないけど、それにも気づかず、そのまま生きている自分でもあったのは間違いない。
そう生きている自分自体が自分で自分を傷つけているのかなと思ったりした。

そう思えるようになると、余計に自分を棚に上げてッという人に敏感になって行った。
自由にモノ申す人が悪い人などとは思わない。
ある意味憧れでもあったので。

でもギャップが見えると辛そうだな苦しそうだなと思うのはある。
魂とのバランスのギャップが感じられる。

自分の世界感を自信持ってるのだろうけどそれを堂々と発するのと受け止める世界が低いのとバランスが取れていないとしんどそう!!

その人はそうも感じていないけど、肉体にきっと現れる。
現に表れている。
この現に表れているって言葉にも現れているように、それが表現でもある。
その人の言葉、その人の行動、その人の身体の表現。
それは痛みだったり、病気だったりするのかなと。

生活習慣病もその一つかなと。
普段の自分の当たり前や価値観や無意識化。

「発する」という癖や当たり前や無意識化もだけど、
受け取り方、捉え方も癖になっている思考癖の一つでしょう。

よく使われて、よく聴く事の中では、コップの水。
残り少ない水を、「もうこれだけしかない」というのと、「まだこれだけある」という。
時間で言うと、「後30分しかない」というのと、「まだ30分ある」

これも癖になって当たり前になっていると無意識にそう受け取っている事にも気づかない。
そうすると次の行動が変わっている事にも気づかない。

私もマイナス思考だったので、「でも」「だって」などとよく使っていた。
ある時から気づけば直すようにしたりした。

言葉もそうですが、
以前も話していますが、
情報社会で、情報というのはテレビやSNSから入って来る者だけが情報ではないという。

普段の眼や耳から普通に流れ込んでいるのです。
朝に目覚めた瞬間から光の強弱も、外からの物音も。
自分が心地よく思っているもの、不快に思っている事、無意識なものでもです。
それに対しての価値観、当たり前に決めつけている事。

思考が働く前に脳に入ってきています。
その脳に思考癖があったらどうでしょう。
捉え方の癖です。
ただ入れている事でいっぱいになっている事もあるでしょう。

人と接している時でも、映像の中からの人を観ている時でも。
全てに思考癖などないと思っている自分でも嫌いだと思い込んでいるかも知れないし、大事だと思い込んでるかもしれない。

今、高齢なってからの眼や耳の症状に白内障、緑内障、難聴などもありますが、
白内障はレンズが曇る事、緑内障は視野が狭まる事、難聴は聴きづらくなる事、
それを心と繋げてみればどんな表現であるか、
私は哲学ってみたりしています。
自分でも幼い頃から視力が弱く、乱視が強かったのでそれを哲学するようにです。
どうして自分はそうなんだろう、何故それが必要だったのかと考える様にです。

レンズを曇らせてまで見たくないのか、見せたくないのか、もっと奥の本質をみろと言ってるのか、物の本質をみるレンズを磨けと言われているのか。

視野が狭いとはどういうことか、思考の視野か、心の視野か、受け止め方の視野か。

聴きたくないのか、聞こえなくしているのか、聴く事とはどういうことか、心の耳は使っているのか、

これはきっと両親とのトラウマや学びなども環境で作用していますが、
魂の課題でもあるので、
自分がそうしているのか、
神様がそうしてくれているのか。
今生の命の期限までに達成したい真の目的なのか。

こんな事でも思考癖により当たり前になったり無意識化している事ってたくさんあると思います。
何か気づくきっかけが与えられた時にはチャンスです。
それを哲学するだけだと思っています。

あ~だから私も人から言われた時がどこか何か傷ついているにしても嬉しかったんだと思えたんかなと、今ではそう思う。

人間今生の命が無くなるまで何かしら気づきはあります。
気づかなければ終わりません。
ボーっと生きて平安だとしてもそれに気づいたら次のステージがあるように (*^^*)



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