「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

響き合ふ大西郷と荘内の士魂

2008-08-01 10:20:53 | 【連載】 日本の誇り復活 その戦ひと精神
【連載】「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(三十四)

響き合ふ大西郷と荘内の士魂
かくて西郷の精神と姿が後世に残された
 
 陽明学(ようめいがく)に連なるわが国の先人達をテーマに私が講師を務める連続講座が、広島に加へて、仙台・秋田・鹿児島でも開催される様になつた。

六月一日の秋田セミナーの翌日、地元の方々のご好意で、山形県酒田市にある荘内(しょうない)南洲(なんしゅう)神社(じんじゃ)(荘内南洲会)を訪ねる事が出来た。西郷南洲と言へば直(すぐ)に思ひつくのは鹿児島だが、歿後の大西郷精神顕彰の観点から言へば荘内の果した役割は極めて大きい。それは、大西郷の精神を言葉で表した『南洲(なんしゅう)翁(おう)遺訓(いくん)』の刊行と、大西郷の俤(おもかげ)を写した「肖像画(しょうぞうが)」の双方が荘内の人々の大西郷を慕ふ真情によつて生み出されたからである。

 魂が共感し合ふにはそこに同質の純度が求められる。西郷南洲と荘内藩の出会ひは明治元年の戊辰(ぼしん)戦争に始まり、西南戦争に於ける西郷の死を乗り越えて、明治二十三年に、旧荘内藩士の手で『南洲翁遺訓』が刊行された。この間二十二年、大西郷の精神と荘内の士族達との魂の共鳴の音叉(おんさ)が常に鳴り響いてゐた。時代は、旧来の武士道の価値観が文明開化の大波に飲み込まれて行く激動期であつた。それ故にこそ、大西郷の精神を守り続けた荘内の人々の思想信条の堅固さに改めて感動するのである。大西郷の精神はそのまま荘内武士道の精神であつた。それは、明治二十三年を機に全国に響き渡り、百十八年後の今尚、吾々に西郷南洲を慕ふ魂の共鳴を与へ続けてゐるのである。

 荘内南洲会から刊行されてゐる長谷川信夫『西郷先生と荘内』には、荘内藩に対する寛大な措置を指示した際の西郷南洲の言葉が紹介されてゐる。西郷は、「荘内藩には王政復古の大旨(たいし)が通じない為に、本当の朝廷の御趣旨のある処が達して居らなかったのである。此の事は深く察してやるべき事である。敵となり味方となる。此れは皆、運命と申すより外ない、今彼等が順逆を知って一と帰順した以上は兄弟も同然ではないか、自分はどうして自ら偉(えら)ぶって彼等を敵視することが出来るであろう。」と語つたといふ。この至誠に荘内の人々は痺(しび)れたのである。

 荘内からは西郷の下に教えを乞ふべく次々と青年達が派遣されて行つた。明治三年十一月には十八歳の青年藩主酒井忠(ただ)篤(すみ)公自ら、選抜した藩士七十六名を率ゐて鹿児島に赴(おもむ)き直接西郷に教へを仰いだ。家老の菅(すげ)実(さね)秀(ひで)は鹿児島に赴く藩士達に「国辱(こくじょく)をそそぐと云うことは、天下を覆(くつがえ)して幕府を再興すると云うことでは無い。一同が志を立てて道を学び皇国の為(た)め身命(しんみょう)を抛(なげう)ち、あっぱれ武士の手本天下の模範となるならば是をこそ辱(はじ)をそそぎ得たと云うものだ。」と語つたといふ(『西郷先生と荘内』)。

明治四年、廃藩置県が断行され酒田県権大参事に任命された菅実秀は、翌年、旧士族による殖産事業として、出羽三山麓(ふもと)の原生林を開墾し養蚕(ようさん)事業を興す事を決定する。旧藩士三千名が三十二組の開墾隊に組織されて現地に赴きこの「松ヶ岡開墾事業」に取り組んだ。藩士達には「開墾の本義は、徳義を基にして不毛の地を開墾、報国のために産業を振興し、賊軍となった国辱をそそぎ、武士の見本、天下の規範となる。」と示された(岡田幸夫『気節凌霜道遙かなり』)。激動の時代の中、西郷の下(もと)への青年達の派遣、更には松ヶ岡開墾事業と、荘内の指導者達が「士風(しふう)」維持の為に如何に心魂を砕いたかが伝はつて来る。西郷の下を訪れた青年達は、荘内を代表して赴いたとの自覚で、西郷から受けた教へを細大もらさず記録して故郷の人々に伝へた。かくて、荘内の地に西郷の教へが記録蓄積されて行つたのである。

 西南戦争における西郷の死は荘内の人々に大きな衝撃を与へたが、荘内では西郷から受けた教へを血肉化する為の会合と命日の祭りが絶える事となく続けられた。その脈流は明治二十二年の大日本帝国憲法発布に際し、西郷に正三位が贈られ賊軍の汚名が雪(そそ)がれるに至つて奔流の如く溢(あふ)れ出た。

東京で持ち上がった銅像建立に協力しつつも、大業を顕彰するだけでは不十分として、「政府の要路の人々は、自分方の在り方を正当化する為に、西郷先生を誹謗(ひぼう)し、西郷先生の真精神をおおいかくそうとした、その暗雲を払拭(ふっしょく)して、真実を世に明らかにする時は今であると、そして西南の役で西郷先生と共に死ぬべき立場を、今日迄耐えて来たその悲願を果す時が到来した。(『西郷先生と荘内』)」と、直(ただ)ちに「南洲(なんしゅう)翁(おう)遺訓(いくん)」の編纂事業に着手した。直接教えを受けた人々が集つて、「遺訓」の吟味を行ひ、心に沁み込んだ言葉の数々が精選されて行つた。それを菅実秀翁が添削修正して最終稿四十一項が確定し、翌年一月に刊行された。その際政府の出版検閲が行はれ、訂正要求が出されたが、断固として撥(は)ね付けて承認させてゐる。一言一句に全精神を打ち込んだ気魄の勝利だつた。

 更に、荘内の人々の大西郷顕彰の思ひは次の行動を生み出した。二十三年四月、酒井忠篤公は六名の旧藩士を選び、二名づつ三隊(東日本・東京周辺・西日本)に分けて『大西郷遺訓』千部の訪問配布活動を命じた。文字通り風呂敷を背負つてのキャラバン行脚(あんぎゃ)だつた。日本会議では今年も夏に全国縦断キャラバン隊が全国を遊説して回るが、吾々のキャラバン活動の原型がここにあつた。この全国行脚は各地で大西郷と縁ある人々との繋(つな)がりを生み出し、西郷直筆の教訓なども発掘され、後に遺訓に加へられてゐる。

 荘内では西郷歿後からその直筆の書を掲げて命日の祭典を行つてゐたが、三十余年が経ち、後学(こうがく)の士がその真風貌(ふうぼう)を拝する事が出来ない事を嘆き、肖像画を以て霊位となさんと志した。かつて南洲の下を訪れた石川(いしかわ)静(しず)正(まさ)が画の心得があつた為、苦心惨澹、修正を繰り返して肖像画を描いた。それを元に、画伯黒田清輝門下の秀才佐藤(さとう)均(ひとし)に依頼し、西郷南洲未亡人や嗣子、更には板垣退助等西郷に直接縁有る人々の教示も受けて遂に完成させた。それが今南洲神社などで配布されてゐる南洲翁の肖像画である。

 西郷南洲の顕彰が鹿児島と荘内といふ二つの中心地を持ち、その二つが相響きあつて南洲の遺徳と精神とが全国に発信し続けられてゐる事に深い感慨を覚える。
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