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平安貴族の庭園

2017年02月26日 | Weblog
                                   城之越遺構(三重県伊賀市)  

 平安貴族の庭園『寝殿造りの庭園に迫る』   京都市埋蔵文化財研究所 南孝雄氏講演録

 平安貴族の邸宅「寝殿造り」は平安時代に成立する。その様子は源氏物語などにも描かれ、庭園を備えていたことが解る。
 その成り立ちは、君主が政治や儀式を執り行う広場であり、門から建物の階段までの広場であった。

 平安時代以前の庭園
 古墳時代の祭祀遺構。 三重県伊賀市の城之越遺構や阪原坂戸遺跡(奈良市)、巣山古墳の出島状遺構(奈良県広陵町)は、いずれも水辺の祭祀場で石敷きを伴っている。平安時代の州浜に極めて近い。
 飛鳥時代の庭園。 石神遺跡や酒船石遺跡、飛鳥京跡苑池などは、幾何学的な平面形の池、石積み護岸、石造物の三要素で構成されている。これは百済の影響か、新たな技術がみられる。
 平城京の庭園。 宮跡庭園、東院庭園、長屋王邸、阿弥陀浄土院などの池は、平面形が曲線で構成され、岸の意匠に州浜があり、自然石による石組みなどの変化が起きる。唐の影響もみられるが、独自性をもち平安京の庭園につながる。

 平安時代前期の庭園
 平安時代前期の著名な庭園遺構としては、神泉苑や嵯峨院(大覚寺)の大沢池がある。
 神泉苑は、池の一部が現在も残っているが、平安時代の状況は未だ判明しない。
 大沢池は、名古曽の滝跡から長さ20㍍以上、幅約6㍍、深さ約1.5㍍の曲線を描く巨大な遣水が発掘され、水の流れが庭園の重要な要素であったことがわかる。このような大きな水の流れは、古墳時代の城之越遺構にも通じ、日本の庭園の底流をなすものといえる。
 9世紀前半の平安京内の主な庭園遺構に、冷然院(嵯峨天皇離宮)や賀陽親王邸があり、いずれも池を中心として、深さは30㌢~40㌢と浅い。
 冷然院は、池は南北の長さが約50㍍あり、岸辺は景石や州浜で意匠される。特に滝の部分には多数の石が配され、荒磯風の景観を呈する。
 賀陽親王邸の池は、州浜は拳大の石を用い、幅は5㍍以上もある。
 また9世紀後半の主な庭園遺構に、斎宮邸と藤原良相(よしみ)邸・西三条第がある。
 右京三条二坊十六町の斎宮邸からは、斎宮が居住した邸宅であることがわかる墨書土器が出土している。池は二つあり、溝でつながっている。池1の北端と池中央の底から泉が湧き出て取水源となっている。泉の湧水は池1を満たし、更に池2へと留まることなく流れていた。池1の岸には州浜が施されているが、北と南では使用されている石の大きさが違っていて、北が拳大の石を用いているのに対し、南は細かい砂礫でより穏やかな印象を与える。
 左京三条一坊六町の藤原良相邸・西三条第からも墨書土器などが出土して、右大臣・藤原良相の邸宅、西三条第(百花亭)であることがわかる。池は東西に二つあり、溝でつながっている。東池は東西約15㍍、南北約27㍍で、州浜は西岸にのみ施される。池の南岸からは堤状の高まりが池中央まで延び、先端には島がある。西池は東西40㍍以上、南北25㍍以上で、州浜は東西と北岸の三ヶ所に施される。東池と西池を比較すると、規模が西池の方が大きく、州浜も丁寧に施工されている。ここから西池が主殿に面する表向きの池で、東池は奥向きの池であったと考えられる。更に池の埋土を分析したところ、梅・桃・桜・松・菱・蓮などの花粉や種子が検出され、邸宅の別称「百花亭」の通り、邸内は花々で飾られていたことが窺える。 

 平安貴族の庭園の池は、浅い池で岸辺は拳大の石を敷き詰めた州浜となっており、景石を要所に配置、立石は少ない。荒磯を表した石組みは、自然の風景を模した穏やかな印象である。この様式は平安後期の宇治の平等院など、浄土庭園に引き継がれる。
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