平成28年(2016)NHK大河ドラマ『真田丸』制作決定。
大坂冬の陣で、徳川方20万とも30万ともいわれる大軍を相手に奮戦し、夏の陣では僅か3千の手勢で徳川家康を2度も自害(切腹)を決意させるまでに追い込んだという真田幸村の戦いぶりとは。
これは直木賞作家・津本陽『幸村無限』の記述である。
幸村の指揮のもとで、現世の見納めとなる決戦に臨む覚悟をかためた兵たちは、若者よりも三十路をすぎた壮年の者が多く、実践の経験者もいた。
彼らが腰に差す太刀は身幅が広く厚く、重量があった。戦闘で甲冑武者と斬りあい、折れず曲らない鉈(なた)のような堅牢なこしらえである。
敵を斬るうちに刃切れが多くなると、腰の袋から砥石(といし)を出して磨くこともあった。斬りあうときは沈(ちん)なる構えという、腰を深く落し、両足を踏んばる姿勢で、一気に叩っ斬る。
八双、脇構え、中段、下段から敵の首、手先、両脇、下腹、臑(すね)などをめがけ、斬りおろし突きこむ、実戦剣法であった。
敵と組み打ちとなったときの当身技も、戦場往来をかさねた侍たちは心得ている。熟練者が体当たりをすれば、相手の鎧(よろい)を一撃で砕くこともできた。
喉、眼、鼻を拳で突き、鎧の上から掌底で心臓を打ち失神させる。逆手にかかった腕をはずし、逆手をかけかえすなど、さまざまな小具足打ちの技があるが、すさまじい威力を発揮するのは、敵を抱え投げる返し技であった。
敵の股の間から腕をさしこみ、腰帯をつかみ、あおむけに落すと、敵は地面に頭から叩きつけられるので、甲冑の重みで頸骨(けいこつ)を折り即死するのである。
幸村は痩せていて、外見では武芸者に見えないが、真田流当身技の名手で、体重がはるかに重い相手を、一瞬に吹っ飛ばす妙技を見せることがあった。
彼は寡兵で大軍を撃破する、孫子の兵法をくわしく心得ており、部下の信頼を一身に集める武将の資質を、すべてそなえていた。
★古文書にみる真田幸村
大久保彦左衛門『三河物語』。
三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すより外、後先の陣にも御旗の崩れ申す事なし。いわんや七十に成らせられて、収めの御ほうどうの崩れては、何の世に恥をすすぎ成さるべきか。
徳川家の記録『本多家記録』。
幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う。
徳川家の記録『朝野旧聞哀稿』。
家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延びその到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす。
薩摩藩主・島津家久の書状。
五月七日に、御所様の御陣へ真田左衛門佐かかり候て、御陣衆追ひちらし討捕り申し候。御陣衆、三里ほどづつ逃げ候衆は、皆々生き残られ候。三度めに真田も討死にて候。真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申すことに候。
豊前小倉藩主・細川忠興の書状。
眞田左衛門佐、合戦場於いて討死。古今にこれなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候。
真田幸村49歳没。尚、真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ちのびたという説がある。
花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田がつれて 退きものいたよ加護島へ (童歌)
大坂冬の陣で、徳川方20万とも30万ともいわれる大軍を相手に奮戦し、夏の陣では僅か3千の手勢で徳川家康を2度も自害(切腹)を決意させるまでに追い込んだという真田幸村の戦いぶりとは。
これは直木賞作家・津本陽『幸村無限』の記述である。
幸村の指揮のもとで、現世の見納めとなる決戦に臨む覚悟をかためた兵たちは、若者よりも三十路をすぎた壮年の者が多く、実践の経験者もいた。
彼らが腰に差す太刀は身幅が広く厚く、重量があった。戦闘で甲冑武者と斬りあい、折れず曲らない鉈(なた)のような堅牢なこしらえである。
敵を斬るうちに刃切れが多くなると、腰の袋から砥石(といし)を出して磨くこともあった。斬りあうときは沈(ちん)なる構えという、腰を深く落し、両足を踏んばる姿勢で、一気に叩っ斬る。
八双、脇構え、中段、下段から敵の首、手先、両脇、下腹、臑(すね)などをめがけ、斬りおろし突きこむ、実戦剣法であった。
敵と組み打ちとなったときの当身技も、戦場往来をかさねた侍たちは心得ている。熟練者が体当たりをすれば、相手の鎧(よろい)を一撃で砕くこともできた。
喉、眼、鼻を拳で突き、鎧の上から掌底で心臓を打ち失神させる。逆手にかかった腕をはずし、逆手をかけかえすなど、さまざまな小具足打ちの技があるが、すさまじい威力を発揮するのは、敵を抱え投げる返し技であった。
敵の股の間から腕をさしこみ、腰帯をつかみ、あおむけに落すと、敵は地面に頭から叩きつけられるので、甲冑の重みで頸骨(けいこつ)を折り即死するのである。
幸村は痩せていて、外見では武芸者に見えないが、真田流当身技の名手で、体重がはるかに重い相手を、一瞬に吹っ飛ばす妙技を見せることがあった。
彼は寡兵で大軍を撃破する、孫子の兵法をくわしく心得ており、部下の信頼を一身に集める武将の資質を、すべてそなえていた。
★古文書にみる真田幸村
大久保彦左衛門『三河物語』。
三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すより外、後先の陣にも御旗の崩れ申す事なし。いわんや七十に成らせられて、収めの御ほうどうの崩れては、何の世に恥をすすぎ成さるべきか。
徳川家の記録『本多家記録』。
幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う。
徳川家の記録『朝野旧聞哀稿』。
家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延びその到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす。
薩摩藩主・島津家久の書状。
五月七日に、御所様の御陣へ真田左衛門佐かかり候て、御陣衆追ひちらし討捕り申し候。御陣衆、三里ほどづつ逃げ候衆は、皆々生き残られ候。三度めに真田も討死にて候。真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申すことに候。
豊前小倉藩主・細川忠興の書状。
眞田左衛門佐、合戦場於いて討死。古今にこれなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候。
真田幸村49歳没。尚、真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ちのびたという説がある。
花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田がつれて 退きものいたよ加護島へ (童歌)