武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

古文書にみる真田幸村

2014年09月25日 | Weblog
 平成28年(2016)NHK大河ドラマ『真田丸』制作決定。
 大坂冬の陣で、徳川方20万とも30万ともいわれる大軍を相手に奮戦し、夏の陣では僅か3千の手勢で徳川家康を2度も自害(切腹)を決意させるまでに追い込んだという真田幸村の戦いぶりとは。

 これは直木賞作家・津本陽『幸村無限』の記述である。
 幸村の指揮のもとで、現世の見納めとなる決戦に臨む覚悟をかためた兵たちは、若者よりも三十路をすぎた壮年の者が多く、実践の経験者もいた。
 彼らが腰に差す太刀は身幅が広く厚く、重量があった。戦闘で甲冑武者と斬りあい、折れず曲らない鉈(なた)のような堅牢なこしらえである。
 敵を斬るうちに刃切れが多くなると、腰の袋から砥石(といし)を出して磨くこともあった。斬りあうときは沈(ちん)なる構えという、腰を深く落し、両足を踏んばる姿勢で、一気に叩っ斬る。
 八双、脇構え、中段、下段から敵の首、手先、両脇、下腹、臑(すね)などをめがけ、斬りおろし突きこむ、実戦剣法であった。
 敵と組み打ちとなったときの当身技も、戦場往来をかさねた侍たちは心得ている。熟練者が体当たりをすれば、相手の鎧(よろい)を一撃で砕くこともできた。
 喉、眼、鼻を拳で突き、鎧の上から掌底で心臓を打ち失神させる。逆手にかかった腕をはずし、逆手をかけかえすなど、さまざまな小具足打ちの技があるが、すさまじい威力を発揮するのは、敵を抱え投げる返し技であった。
 敵の股の間から腕をさしこみ、腰帯をつかみ、あおむけに落すと、敵は地面に頭から叩きつけられるので、甲冑の重みで頸骨(けいこつ)を折り即死するのである。
 幸村は痩せていて、外見では武芸者に見えないが、真田流当身技の名手で、体重がはるかに重い相手を、一瞬に吹っ飛ばす妙技を見せることがあった。
 彼は寡兵で大軍を撃破する、孫子の兵法をくわしく心得ており、部下の信頼を一身に集める武将の資質を、すべてそなえていた。

★古文書にみる真田幸村
 大久保彦左衛門『三河物語』。
 三方ヶ原にて一度御旗の崩れ申すより外、後先の陣にも御旗の崩れ申す事なし。いわんや七十に成らせられて、収めの御ほうどうの崩れては、何の世に恥をすすぎ成さるべきか。

 徳川家の記録『本多家記録』。
 幸村十文字の槍を以って大御所を目掛け戦はんと心懸けたり。大御所とても叶はずと思し召し植松の方へ引き給う。

 徳川家の記録『朝野旧聞哀稿』。
 家康の本陣総崩れとなり家康は身代わりとして本多正純を将座に残し自分は身をもって玉造方面さして落ち延びその到底のがるべからずとして二度まで自害せんとす。

 薩摩藩主・島津家久の書状。
 五月七日に、御所様の御陣へ真田左衛門佐かかり候て、御陣衆追ひちらし討捕り申し候。御陣衆、三里ほどづつ逃げ候衆は、皆々生き残られ候。三度めに真田も討死にて候。真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申すことに候。

 豊前小倉藩主・細川忠興の書状。
 眞田左衛門佐、合戦場於いて討死。古今にこれなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候。さりながら手負ひ候ひて、草臥れ(くたびれ)伏して居られ候を取り候に付、手柄にもならず候。

 真田幸村49歳没。尚、真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ちのびたという説がある。

               花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田がつれて 退きものいたよ加護島へ  (童歌)

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昭和天皇実録(2)

2014年09月21日 | Weblog
 昭和天皇実録

 明治43年2月4日の手紙。 まだやっぱりおさむうびざいますが、おもう(父)さま、おたた(母)さまごきげんよう居らっしゃいますか、迪宮(昭和天皇)も、あつ宮(秩父宮)も、てる宮(高松宮)も、みんなじょうぶでございますからごあんしんあそばせ。

 明治44年6月10日の手紙。 おたたさま日一日とおよろしくおなりあそばしてうれしゅうございます。もうおにはさきのごうんどうもあそばしますか、おしょくじもようめしあがりますか。 (略) おたたさまますますお暑くなりますからなほなほおだいじにあそばして一日も早くごぜんかいをいのります。

 宮内庁書陵部によると、手紙や作文の一部は、この度の実録で初めて公になると説明している。
 因みに、吉田茂首相の懐刀といわれたのが白州次郎で、その妻が白州正子(樺山資紀伯爵の孫娘)である。白州正子の母は佐佐木信綱の門下で、柳原白蓮や九条武子とも親しかった。白蓮事件のとき柳原家には、大正天皇の生母にあたる「二位の局」がまだ生きておられた。柳原家は、冷泉家とは姻戚関係にあり、白州正子の叔母が嫁している。
 かつての華族会館であった霞会館では、いまも五摂家の「堂上会」が催され、近衛、鷹司、一条、二条、九条の順に座って、水入らずで平安貴族の宴が行われているという。

 公家ことば

     おもうさま          父親
     おたたさま          母親
     おばん            ご飯
     そもじ            お蕎麦
     たもじ            蛸
     えもじ            海老
     さもじ            鯖
     こもじ            鯉
     しゃもじ           杓子
     おまな            お魚
     おまん            お饅頭
     おせん            お煎餅
     おひや            お水
     おしたじ           お醤油
     おみおつけ         お味噌汁
     おかか            鰹節
     おこうこ           お漬物
     おゆに            お粥
     おこた            炬燵
     ぞろぞろ           お素麺  
     やわやわ           おはぎ
     いしいし           お団子
     うきうき            白玉
     おべたべた          お餅に餡をまぶしたもの
     かずかず           数の子
     するする           するめ

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デング熱が拡大

2014年09月14日 | Weblog
★ブログ拝見『デング熱で大騒ぎ』

 本日は、太陽と仲よしこよし地球と仲よしこよしと西式健康法を紹介されているデルファイ・ヒーリングさんの「デング熱で大騒ぎ」です。西勝造先生が創始された西医学の、唯一の正統西式のブログといわれています。それでは最後までじっくりとお読みください。

 国立感染症研究所のサイトの「デング熱 日本人の誤解を解くコーナー」を見ると『1942から1945年にかけて、神戸・大阪・広島・呉・佐世保・長崎などで約20万人に上る温帯地域最大のデング熱流行が発生した』とある。

 大東亜共栄圏建設を目指す大日本帝国の医学者たちは南方に於けるマラリアやデング熱の研究に取り組み、昭和17年7月24日付けの『朝日新聞』には「『デング退治』に大手柄若き軍医ワクチン制作に成功」という見出しの記事が出ている。
 ビルマのラングーンに於いて「同中尉はかくして得た病毒を培養基によって予防ワクチンの製作を目指しており、すでに試薬は作られて目下実験中であり、デング熱を共栄圏から絶滅する日も間近いであろう」と記事は結ばれている。その後ワクチンは登場していないので試薬の段階でとどまったようだ。
 帝国海軍の軍医は昭和18年3月の時点でデング熱を媒介するヒトスジシマカが卵の状態で越冬できることを確認している。
 大日本帝国の敗戦後、日本は占領されGHQによる統治が始まったが、第32軍政部は昭和22年5月22日、東京都に対して、蚊が媒介するデング熱などの流行を予防するため、防火用に溜めている桶の水をなくして、土を入れるか、伏せておく。また、墓地の花立てや線香立ての穴も、土砂で埋める、という指示を出した。
 しっかりと植民地の管理を進めていたなぁ。

 感染者が蚊に刺されたら、その蚊がデングウイルスを媒介するということ。
 国内では蚊に刺されないように注意しないといけないし、アジアに旅するときには虫除けスプレーが必要だな。
 ネットで検索すると、虫除けスプレーにMosi-guard という製品があるようだ。空港の売店にもあるかもしれない。Mosi-guard はどう発音するのだろう?

 西勝造 著「家庭醫學寳鑑 前編」(私の手元にあるのは 昭和27年発行 昭和52年重版)にも「デング熱」の項がある。
 「原因 デング熱とは、西班牙(スペイン)語にて「オシャレ者」と云う意味である。本症は、関節痛強度のため、治療後も膝関節付近に脱力感があり、歩く時気取った様に見えるから、この名があると云う。本病は、熱帯、亜熱帯、地中海沿岸等の各所に、地方病的、又は流行病的に見られる。本邦に於いては、昭和二年、及び六年には、台湾、及び沖縄に流行し、昭和十七年には、長崎及び阪神地方に大流行があった。云々」

 予防法も治療法も西式の健康原理の実践であることは言うまでもない。

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昭和天皇実録

2014年09月10日 | Weblog
 昭和天皇実録

 宮内庁は、昭和天皇の生涯を記録した『昭和天皇実録』が完成し、天皇・皇后両陛下に奉呈したと発表した。
 編集作業は1990年に16年計画で開始。これまで2度、計8年間の延長を経て、今年3月に終了、24年かけ完成した。
 昭和天皇実録は、B5サイズの和製本で、本文は計60冊。1901年の昭和天皇誕生から、1989年の87歳での逝去まで。
 太平洋戦争開戦から終戦の決断に至る過程の記録が注目される。

 昭和天皇実録が全文公表された。
 特別閲覧は、9月9日~10月30日は1日に7回、11月中は1日に6回。定員は各回12名(土・日は18名)。場所は皇居東御苑内の宮内庁書陵部。

【記述】 昭和20年(1945) 3月11日 (賀陽宮)恒憲王と御対話になり、無条件降伏と戦争責任者の処罰以外は戦争終結の条件として考えられ得る旨を述べられる。

 賀陽宮恒憲(かやのみや つねのり)殿下は、陸軍戸山学校長を務め、早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めたという。
 尚、天皇が御前会議で「自分の一身がどうなろうと構わない」と語ったとされることの記述はない。

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武道(1)  植芝盛平著

2014年09月07日 | Weblog
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                      母指ヲ下ニ廻シツツ、敵ノ右手頸ヲ逆ニ執リ之ヲ胸ノ中央ニ當テ、
                      左手ヲ以テ敵ノ前臂ヲ握リ、胸ニ力ヲ入ルル如ク敵ノ右手ヲ制ス

 『武道』 合気道開祖・植芝盛平著  昭和13年刊 
 「武道」は陸軍戸山学校長の賀陽宮(かやのみや)殿下の希望により作成された限定版。参謀将校による写真撮影という。開祖の受手は、植芝吉祥丸先生、塩田剛三先生、大久保能忠先生が務める。

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合気とは何か

2014年09月05日 | Weblog
★ブログ拝見『合気とは何か』

 本日は、虎之巻を公開されているhann3さんの武術・武道のタイガーロールから「合気とは何か…“気”の文字には隠された意味(秘伝)がある」です。斉藤守弘師範と、空手道連盟和道会の柳川昌弘先生の対談で、斉藤師範が開祖の技を語るくだりは注目です。それでは最後までじっくりとお読みください。

 【虎之巻】 合気とは何か…“気”の文字には隠された意味(秘伝)がある? [武道実践者・柳川昌弘が読み解く 武道家のこたえ]

 読書書籍:武道実践者・柳川昌弘が読み解く 武道家のこたえ―武道家33人、幻のインタビュー

 合気道の基本はあくまで攻撃です。
 攻撃といっても打ち込むというより、こちらから打って相手を呼び出すというのが基本です。打ち砕くんではなく、パッとゆくから相手がすぐ払おうと手を出してくるでしょ。その手を引っかけるというのが基本なんです。
 (中略)
 開祖の本にも、ここに「我より進めて攻撃すること」と書いてありますね。

 合気道開祖・植芝盛平さん直伝「岩間スタイル」と呼ばれる斉藤守弘さんと、空手道連盟和道会の柳川昌弘さんの対談。斉藤さんが開祖の技を語るくだり。

 掴まれるのではなく、掴ませる。攻められるのではなく、攻めさせる。合気道の技は、後手に回っての受け身の防御技ではなく、主導権を握って戦いの場を支配する攻撃技みたいですね。
 古流武術の言葉(流派名や技名)には、同音異義語で意味が隠されているという話を聞いたことがあります。本当のことをすべて伝えると、弟子が師匠を超えてしまうという理由で。流派の存続や自分の命が危うくなりますもんね。
 けれど、強くなれる秘訣を学べることが、武術道場の魅力でもある。門下生を集めるためには、魅力(強さの極意)を継承・伝承していかなくてもいけない。なので、教えて教えず、伝えて伝えず。「技の形(型)を見せても、使い方は秘密」という稽古手法が生まれたようですね。ただ、口伝として隠された意味を伝えることなく、秘密をそのまま墓場にまでなんて方も?
 「合気」というと、目に見えない不思議な“気”という力が存在して、相手に触れることなく自由に投げ飛ばす妖しいイメージもありますよね。こちらの“気”の字は“気持ちの気”…動く気配を伝えることで、相手の意識(深層心理)を捉える技法。「心の一方(すくみの術・金縛りの術)」といった催眠術(瞬間暗示)に近い技術かもしれないですね。

 「我より進めて攻撃すること」というのは隠れた口伝…植芝盛平さんの合気は、“機が熟すの機”が神髄なのだと思われる。機会(チャンス)を作る意識で一歩踏み込み、相手を触りに行く。近づかれると怖いもの…「やられる前にやらなくては」と相手が手を出す。ポイントは、熟すまで待てるかどうか、ギリギリまで耐えられるかどうか。自動車のチキンレース(チキンゲーム?)で、先にブレーキを踏ませる、ハンドルを切らせるような感じでしょうか。

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