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鎌倉・室町時代の庭園

2017年03月14日 | Weblog
                                 『洛中洛外図』に描かれた二条殿

 鎌倉・室町時代の庭園『後鳥羽上皇と二条良基の二条殿』   資料:京都市考古資料館

 京都国際マンガミュージアムがある京都市中京区烏丸御池の旧龍池小学校跡地西側から、鎌倉時代に造営され、室町時代後期まで維持、整備された庭園が発掘された。この地周辺は、平安時代以降、皇族や貴族の邸宅が営まれ、平安時代中期には、後朱雀天皇の皇后である禎子内親王の邸宅、鎌倉時代には、後鳥羽上皇の御所・押小路殿があったと記録にのこされている。
 承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐へ流された後、この地は藤原道家を経て二条良実のものとなり、それ以降、室町時代後期まで藤原氏二条家の本邸・二条殿として受け継がれた。二条殿は邸内の庭園が有名で『洛中洛外図』にその様子が描かれている。(写真)

 庭園の池は「龍躍池(りゅうやくいけ)」と名付けられ、調査地のある龍池学区の名称の由来となった。
 鎌倉時代になると地面を削って高さ約1㍍の段差が作られ、東側が高く西側が低い地形がつくり出されて整備される。段差の西側には礎石を用いた細長い建物が作られるが、この場所は平安時代中期の井戸底と比較して水が湧いていてもおかしくない深さなので、建物の間近まで池の汀(みぎわ)が寄せていたと考えられる。
 その後、段差の西側は整地が行なわれる。雨落溝をもつ別の建物が作られ、建物の東側と西側には一基ずつ庭石が据えられる。また、整地により池の汀は西へ移ったと考えられ、これにともなって溝や石組が作られた。

 室町時代になると、段差の西側に度々整地が行なわれ、庭園が整備された。室町時代前期の庭園は、池に小石を敷き詰めた緩やかに湾曲する洲浜が作られ、庭石を配置した美しい景観をつくり出す。池は南西側へ向かって調査地の外側へ拡がる。
 室町時代中期の庭園は、前期のものとほぼ同じだが、白砂のみで洲浜が作られ、庭石がない。また、東側の高まりには建物が作られる。建物は庭園にともなう施設であったと考えられる。
 室町時代後期の庭園は、小石と白砂をまばらに敷いた洲浜が作られ、庭石は高い方に一基、一段下がった低い方に二基が据られている。また、東側の建物も建て替えられる。

 二条殿の庭園は名園として知られており、整備の機会ごとに意匠を尽くした作庭が行なわれたのだろう。鎌倉時代に削られた段差は緩やかとなっていったが、東側の高まりと池の底とでは高低差が2㍍ほどもあり、立体的な造形がこの庭園の特徴だった。
 『洛中洛外図』に描かれた庭園は、時代の移り変わりの中で、風情の異なる巧みな造園を繰り返しながら維持されてきたことが、発掘調査で明らかになった。
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