武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井武雄インタビュー(1)

2013年03月23日 19時04分29秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 武井先生は明治27年に岡谷市(当時平野村)西堀に生まれ、幼少期をすごされたわけですが、この頃の追憶の中から特に「絵」との関わり部分を中心にお話を。

写真1:明治31年2月18日撮影。武雄5歳

明治31年2月18日撮影
武雄5歳

 武井 僕には記憶はありませんが、一番最初に絵を描いたというのは三つの時、昔の数え年でですね。この時、桜の花を描いたということです。僕の祖父は一三といって、平野村の戸長をやっており、当時は病気で寝ていたんですが、祖父にその絵を見せたら大変ほめて、「偉くなれよ」ちゅって頭をなでたという。これは母から聞いた話です。それから間もなく祖父は亡くなりました。
 これは余談ですけれど、僕は岡谷市の生まれということになっていますが、非常に厳密にいうと中洲村(現諏訪市)の神宮寺です。つまり昔は、今でもそうかも知れませんが、嫁さんは里方へ行ってお産をする習慣があったんですね。僕の母の里は、神宮寺にある諏訪神社の神官の家なんですが、そこへ行って僕を生んだんです。だから僕が本当に生まれたところは母の里であり、中洲村神宮寺であるわけです。しかし岡谷市に生まれたと言ってもかまわないでしょう。

写真2:折井房之胸像(岡谷市立小井川小学校)

折井房之胸像
岡谷市立小井川小学校

 それから僕は小井川小学校に入学したわけですが、この一年生の時、つづり方「私は絵描きになります」って書いたんです。本当にその気があったんじゃなく、絵が好きだったんで、書いちゃったんですね。そしたら折井房之っていう先生がビックリしちゃってね。いま、小井川小学校の庭に武井直也君の彫刻で折井先生の胸像が建っていますが、その折井先生は、ずっと一年生を担任する先生でね、上諏訪の大和からゲタをはいて歩いて通ってきた先生です。僕の家の遠い親戚にもなる方です。
 僕の父は名を慶一郎といって、平野村の村長を30年もやっており、それに今でも村の人が「お屋敷」と言っているほど、いわゆる古々しい封建的な元藩士で旧家なんですね、僕の生家は。その地主の一人息子が絵描きになったら大変だ。やっぱり親父の跡を継いで村長になるか、何かそういう事をやってなくちゃいけないのに、事もあろうに”絵描きになります”っていうつづり方を書いたというわけ。折井先生が、その日のうちに僕の家に来たんです。そして親父に、「武雄はこういう事を書いたんでケシカランけれど、どうすりゃいいか」って。どうするもこうするもないんでね。一年生の書いたつづり方ですから。まあ絵描きなんて夢にも想像もできない商売で、びっくりさせられたということですね。

写真3:八幡郊処

八幡郊処

 それから、僕は病弱でしてね。どうも一人息子で過保護だったんじゃないかと思うんです。いつもノドをはらしたり、ロクマクになったり、疑似セキリになったり…。それで食べ物も制限され、お菓子もダメ、カキやスモモといった果物もダメ、トウモロコシも消化が悪いからといった始末。それでもう、方々の家の子供の食っているものを食いたくてしょうがなかったんですね。
 そういう風に虚弱児童だったんですが、この頃、親父と同年の八幡郊処が来ては僕を相手に、お子守して遊んでくれたんです。後に篆刻家となり、総理大臣の原敬が郷里盛岡に建立した寺の篆刻を彫ったほどの人ですが、郊処はその頃、まだ篆刻家じゃなく百姓で仙太郎さんといっていたんです。百姓だけど非常に教養があって学問も修めている人でした。
 その遊びというのが、どういう遊びかというと、紙に「ヤッ」と点を書いてよこすと、こっちはその点を元に何かの絵にして、今度は「ヤッ」と棒を引いて向こうへ渡すと、その棒を元に絵にして、また何かくっつけてこっちへよこすという遊びをしていたんです。郊処という人は芸術家風の人でして、そういう事がやはり僕に何か潜在的な影響があったと思うんですね。

- 武井先生の幼い日の”妖精ミト”との特異な話は、武井作品の芸術、メルヘンの原点ともいわれていますが、このミトについて

 武井 学校へ行かない年、つまり小学校二年生の時なんか、僕は病弱で2か月しか学校へ出ていないんです。それでも昔だから単位が足りないなんて言わず進級させてくれました。とにかく小学生の頃だいたい弱かったんです。それが”ミト”につながるんです。
 その頃、僕は戦争ごっこやいろいろやって外でも遊んだんですが、大部分は家で寝ていたものですから、友達が比較的ないわけですね。ですから自分で友達をつくったんです。それは空想的な人物でして、どういう顔や格好をしていて男か女かということも全然わかりませんが、ただ抽象的な人物を自分の中でつくっちゃったんです。これがいわゆる”妖精ミト”なんですね。
 それがあらゆる場合に呼べば出てくる。庭にリンゴの木なんかがあって登っていると、叔母が「ミトが来ているよー」って呼ぶとだれと遊んでいてもとんでいっちゃう。時にはコンペイトウの芯からポイッとミトが出てきたり、そういう空想的なものをつくって、それと毎日遊んでいたということですね。多分、夢の中でそいつが出てきて「俺がミトだ」と言い、それでメルヘン的なものを自分で創造しちゃったわけなんですね。  当時は、今ほど雑誌もないし、親戚の人が夏帰省してくる時、金港堂でお土産に子供の本を買ってきてくれる程度で、あまり文化財に恵まれていなかったんです。だからミトは自分が勝手につくった僕の心の中の友達だったわけです。このミトは、小学校三年になると、なぜか出てこなくなりました。

小井川小学校100周年記念碑のレリーフ(武井武雄作)



- 小学校までは虚弱体質だった武井先生は諏訪中学(現諏訪清陵高校)へ行くようになってから見違えるほど丈夫に。これは往復16キロの道を登下校で毎日歩いたためとのことですね。そこで、絵描きになる志望を固めた頃の模様を、島木赤彦の話も交えて。

写真5:旧制中学時代の武雄(明治45年1月)左から二人目

旧制中学時代の武雄
(明治45年1月)
左から二人目

 武井 中学生(旧制)になると、内向性だった小学生時代の反動で、いたずら少年になりました。先生の声色をマネたり、悪いことは何でも先頭になってやったり、いい中学生じゃなかったですね。
 それから本当に”俺は絵描きになるより他はない”と決心したのは中学三年の時です。しかし決定的に自分だけで決めて親父には黙っていたんです。そんなことを言うと、また、うるせーもんですから。ところが卒業するときになって、いよいよ黙っているわけにゆかず、「僕は美術学校(現東京芸術大学美術学部)を受けたいんだ」と言ったんです。そしたら親父は、「絵描きを志望するなんてとんでもない」と反対なんですね。  親父やお袋の考えでは、西堀の家に足止めしてくっつけておきたいんで、”眼医者だったら家にいて往診がないからいいだろう”ちゅって、眼医者が第一候補。もう一つは農科、農学部で、”そこへやって地主の旦那になってりゃいい”と思ったんですね。それと親父の反対の理由は他にもあったんです。
 当時、諏訪に美校を出た人が二人いたんですが、その前例が親父にとっては余り良い見本じゃなかったわけですね。ところがそんな事、僕の方はチンプンカンプン。「俺は違うんだよ」と言ってみても中学生の言うことには権威がない。しかし結局、親父も困っちゃって自分の思案にいかないもんだから、当時いちばん親父が信頼していた教育者に意見を聞きに行ったわけです。
写真6:島木赤彦

島木赤彦

 そのうちの一人が、スパルタ教育で有名な諏訪高女(現諏訪二葉高校)の初代校長の岩垂今朝吉という先生。もう一人は、当時の郡視学の久保田俊彦先生で後の島木赤彦、この二人に相談したんです。
 そしたら岩垂先生は、「いま、美術学校の三年生くらいの実力があったら受けさせてもいいでしょう」という返事。三年生くらいの実力がある奴が、いま改めて一年生に入っていく必要はないんですね。ところが、これはもののたとえで、とにかくそのくらいの天分があったらという意味なんですね。
 久保田先生の方は、「本人がやりたいというものをやらせれば一番将来性があって安全なものだ。自分がやりたくないものを無理矢理、親の意見でつっこんでやても、それはロクな者にならない。やりたいことは当人に責任を持たせてやらせろ」という返事なんですね。そこで親父もやっと折れ、美校を受けることを許可してくれたんです。だから島木赤彦は、そういう助言をしたことで恩人といえば恩人なんですね。
 ぼくが中学を卒えて東京に出てきた(大正二年)ちょうどその頃、久保田先生も東京に移られ淑徳女学校の国文(国語)の嘱託教師をしながら「アララギ」の編集を始め、名前も改め島木赤彦と名乗ったわけなんです。


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