武井武雄をあいする会

童画家武井武雄が妖精ミトと遊んだ創作活動の原点である生家。取り壊し方針の撤回と保育園との併存・活用を岡谷市に求めています

武井武雄インタビュー(7)

2013年07月20日 14時31分23秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)



版画「鳥の連作No.17」
(1979年)

童画「ほかけぶね」
(1952年)
- 先生の作品、とりわけ童画・版画等は、一貫してメルヘンの世界が描かれていますが、これらの作品をとおしての先生のメルヘンについてのお考えを
武井 それはね、ものを教えるための童画というものもありますしね、童画といっても範囲が広くていろんな用途があるわけですね。しつけのための童画だとか物を理解させるための童画だとかいろいろありますよ。そういうものは僕は「図」だというんですね。絵じゃない。じゃ、絵とは何かというと、やっぱり芸術的感動をもつものが絵だと。芸術感動をもつということは、読者にアピールするのが知的に、知識で覚えるんじゃなくて、感情で、つまり感動する。そこからが芸術であって、その前は図であり単なる技術なんです。技術と芸術の違いはそこにあるというのが僕の考えですね。
 メルヘン的なものっていうのは、実在しない、現実にないものですからね、それは欲求ですね。ひところ、非常に心理学者なんかがよく問題にしたのが、「空想」と「現実」との問題ですね。空想ってのは、夢を見ていて、何の足しにもならん、けしからんというような意見があるかと思うと、一方には空想ってのが物を生み出すんだと、現実を支配するんだと。空を飛びたいっていうような空想と人間の欲求がだんだんに積もり積もって空なんか平気で飛ぶようになった。そういう風に現実にヒントを与えて、現実を進歩させるのが空想だと。メルヘンも空想に入りますけど、僕は、健康な空想はなくなっちゃならないんだと思う。それがなくちゃ人類の進歩がないんでね。空想が元で現実を支配して科学も進歩する。科学だって空想から出て現実化したものがたくさんありますね。だから、すべての根元になるものが空想だという考えに立つと、空想は夢でばからしいものだ、病的なものだという議論は成り立たない。
 メルヘンはだいたい空想の世界ですね。これも健康なメルヘンと不健康でただアヘンを吸っているような娯楽だけのものといろいろあります。だから物によっては、その判断をしなくちゃならない。現実をやがて支配するような空想が望ましいものである。これが僕の持論ですね。


版画「鬼」
(1952年)
- 近年、特に出版ブームであり、これに伴う美術関係も多様化していると思いますが、先生の目でご覧になるこれらの風潮、とりわけ動画の分野での感想はいかがですか

武井 非常に細かい末梢的、芸術的な問題になります。けれども一頃、いわゆるグラフィックデザインをやっている人がかなり出版界に入ってきて、編集者はね、フレッシュで新鮮でいいと考え、これを非常に取り入れたんですね。ところが、これらはちょっと見た目には新鮮なんですが、エスプリがあるかどうかってことになると問題がある。
 これは、ヨーロッパでもちょうど同じような傾向があるんです。むこうの「こどものせかい」という本を編集している人が言っていることなんですが、いわゆるシュールリアリズムみたいなものがヨーロッパの出版界に非常に入ってきたんです。ところがこれは2、3年たったら飽きられちゃってもう顧みられなくなってしまった。それで、やっぱりもう少しクラシックなものがまた台頭してほしいと報告しているんですね。日本でもどうも同じ傾向があって、ひところ大変流行ってきたけれども、これは長持ちしないっていう結果が出たんですね。
 なぜかというと、これらの作品は新鮮な感覚があるけれど感動を与えないってことですね。だから、僕は、「人的感応」って言葉でそれを言っていいるんです。人的感応のない作品は芸術じゃない。だから、これを持つ作家、絵画というのは長持ちする。いつまでたっても、生きていて飽きられない。流行によって波がありますが、その波を越えて死なないってんですね。ですから、僕は、若い人たちにもっぱらそれを主張しているんです。人的感応をもった絵を描かなきゃだめだってね。

- 製作活動を中心とした、先生の近況についてお話を
武井 現時点では、刊本作品をもっぱら作っているんです。いま、刊本作品131番の本を印刷中で、この6月頃には本になっているはずです。
 僕は、目のあいている間中はこせこせと何かやってなくちゃいられない性分で、夜なんかも頭のところに下書きする帳面があってね、何か浮かんだら忘れないように書いておくんです。下図なんかだいたい寝床の中で描いてますね。枕元にその帳面がないと眠れないんです。憑きものに憑かれているみたいなもんですね。
 そして、新しいものに取り組もうって時には、何か少年らしい一つのあこがれとファイトがわいてくるんです。
 今の若い人たちに対して思うことは、本当に自分にやりたいことがあって、それにまっしぐらに入っていける青少年は幸福ですね。そういうものがない人は、ちょっと不幸じゃないかと思うんです。だから進学ばかりじゃなくて、職業につくにしても、何でも。自分が情熱をもってやれる仕事がある人は幸福だと思うんですね。そうでなくて、やむを得ず食う方便で何かになろうとかいうのは、あまり幸福じゃないように思うんですね。
 自分の欲求をもって、いつかそういうものを探すってこと、しじゅう心掛けていることがいいと思うんです。そうすると、やる仕事が生まれたり、たまってくるんですよ。やりたい事がない人生ってのは、やっぱり不幸ですね。

- 先生のお元気さと、限りない旺盛な製作欲は、まさに永遠の不死鳥のよう。先生の長い芸術家としての一筋の道は、そのまま日本の童画史であり、児童文化の発展を象徴しているものといっても過言ではないと思います。


(完)
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武井武雄インタビュー(6)

2013年07月19日 05時51分03秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 武井先生の作品は大きく分けて童画、版画、刊本作品に分類されますが、特に昭和10年の第1号から現在の130号(頒本済み)まで続いている刊本作品の数々は「芸術の極限」と言われているほど。そこで刊本を最初に造られたいきさつなどを


イルフトイズ第4回展の招待券(1932年)

書窓・宇宙説 昭和17年(アオイ書房)
武井 その発端は、今考えている刊本作品の考え方とは違った形なんですね。童画もアルバイトから入って本筋になってきたわけですが、刊本作品の場合も、そんな美術的な本をいつまでも造るなんてことは考えてもいなかったんです。
 僕の仕事の中で大変懐かしみをもって記憶している方が多いんですけれど、ある時、イルフトイズといって僕のデザインした玩具の一つの運動をやったんです。イルフという言葉はフルイのさかさまの造語で、つまり新しいという意味であり、いつも新しいものへの追求を旗印とした児童文化の運動です。これは昭和5、6年ころから10年くらいやりましたかね。僕がデザインをおろして専門の工人じゃなくて、素人でいろいろな技能を持った人を集めてですね。例をあげてみると木製の玩具、はりこの玩具、それから縫いぐるみだとか、あるいは土焼きのものだとか、あらゆる材料を集めてね、僕のデザインでみな作らせたんです。その作品の展示予約を日本橋の三越でやったんですが、会館10時前にライオンのある入り口に並んでて、開くと一緒に走りこんで買うというほど愛好者が出たんです。
 ところが考えてみると、こんなものは大人がナツメロみたいな意味で懐かしがって買うものであって、何も子供を助けることにならないんです。子供の玩具を作るんだったら製造工場で量産しなけりゃならないんだけど、僕らデザインするだけの作家的な立場で、その方は商売の方になって僕らの手には及ばない。
 それと、もう一つは自分が年に500位デザインしなくちゃならないんで、やりきれないこと。それに費用は全部僕の方でもって何ももうからない。もちろん、もうかることなんか初めから考えていなかったんですが。

刊本作品第1号
「十二支絵本」(1935年)
 そこで僕の負担を軽く賛助作品1点だけにして、あとは家に来ている若い人たちが余技作品をいろいろだして、それでやろうじゃないかということになったんですね。今度はイルフという名前はつかわないで武井武雄主宰と頭にサブタイトルをつけて、いろんな展覧会をしたんです。その時に賛助作品を何にしようかと考えた末、思いついたのが小型の本であり、「十二支絵本」という今の刊本作品の第一番になるわけですね。それは1冊35銭かかったんです。その本を造る実費がね。だから原価が35銭で、なおかつお客さんにも、「俺、こんな本を造ったんだ」なんて手ぬぐいがわりにバラバラあげちゃったんです。それが先年の古書展で73万円なんです。35銭の本がです。そんな値段になるんだったらバラバラふりまかないで取っておきゃよかったと思うが、取っておいても戦災で焼けちゃったんですね。
 そんなことで始めたのが刊本作品のきっかけであり、4回いわゆる4番の本までは、新宿三越店の景物の賛助作品なんです。


刊本作品第108号
「ナイルの葦」
初めて日本で栽培したパピルスによる造本
 そのうち「書窓」という雑誌がね、これは恩地孝四郎がやってたもんでアオイ書房というのが道楽に出していた愛書家のための雑誌なんですけどね、これに紹介したんですよね。それまでに出ているものを5、6冊。そうしたらそれを欲しいという人が、つまり愛書家の層で欲しいという人が出てきた。
 それから僕の刊本作品のことを豆本とよく言われますが、豆本とは別なんです。豆本というのはおよそ縦6センチ以内の本をいい、現在全国に30種程ありますね。刊本作品の初めのころ豆本という言葉を使ったことがあるものですからどうもその印象が残っていて困る。
 これには、面白い話があります。
 長野市に米粒に時を書く達人がいてね、僕が小さい本を造っているってことをどこから聞いたのか、ある時わざわざ岡谷まで来て僕と小さい字を書くことの他流試合をしないかっていう申し入れがあったんですよ。ところが僕はもともと小さい本を造る目的で刊本作品を造っているんじゃないからね、それはおかど違いだと言って、結局、世話人がことわったんですよ。


- 刊本作品は毎号変わった造本の技法とアイデアが駆使されており、造本美術の極限といわれる程ですが、武井先生の刊本づくりのねらい等についてお話を


刊本作品「ストロ王」「木魂の伝記」

ユーモアと風刺に富んだ刊本の世界「平和白書」84号
武井 刊本作品の二大特色をあげると、毎回違った表現様式を採用しているということ。最初は、印刷、製版。印刷は種類も非常に多いんですが、世界中で考えられた技法を全部やりましたね。その次には版画、今まであった版画は日本と西洋とではみんな違うんです。西洋は杏木版で、日本は板目木版ですけど、こういうものも全部やり、次には自分の考えた技法の版画をやったんです。今度は工芸ですが、工芸は立体性が強くて本になりにくい。ところが工芸の中でも織物とか、染め物は結構本になるんですね。また金属でも薄いプレートだったら本になる。そんな具合で工芸で13種類を本にしました。
 そこで、なぜそういう表現様式を変えて本を造るのか疑問が起こってくるらしいんですが、これは僕が本の限界を広げるってこと、つまり本の美術を追求するのには、ただ本を読めば足りるっていうような在来の本だけを考えていたんじゃ発展がない、巾が広くない。だから本になり得るあらゆるものを取り入れて、本にしてみることが一つの開拓になるという考えで表現様式を変える事をずっとやってきているんですね。
 もう一つの特色ですが、僕はこの本づくりで一文も報酬をもらわないってことです。ただで46年間つくってきている。その工作費だとか、紙代、製本代とかいう、つまり金銭で支払ったものだけを割りつけてその実費で配っている。本屋で普通実費というと人件費まで入っているんです。ところがその人件費がただ。なぜそういう事をやっているか、以前アメリカの新聞記者がやってきて、そのわけがわからないと言うんですね。芸術作品だったら芸術作品のコストってものがなきゃならんのになぜ報酬を取らんかと言うんです。そんな説明することは面倒くさいし、英語じゃ言えないもんだから、僕は児童出版に原稿かいてそれで生活しているんだからそんなものでまたもうける必要ないんだって言ったら、OK、OKちゅってわかってくれたんです。ところがそんな事じゃないんです。
 本当はですね。絵描きの仕事でも売るための絵と製作のための作品とがある。これは展覧会に出品したり個展をやったりして発表するだけで売る気はない。自分の好きなものを製作している。一方、売る絵がなけりゃ、絵描きなんて首つっちゃあなけりゃならねえんだけど、売る絵があるからそれで何とか生活が成り立っていく。この二本立てなんですよ。絵画ってものの使い方はね。
 僕の製作はテストであってね。いろいろなものが本になり得るかどうかっていうテストをやってるんだから売る気は全然ない。つまりどういうものを造ってくれって言われて造っているんじゃなくって、自分のやりたい三昧ワンマン的なものを造ってるだけ。だからこれに対して報酬を取るっていうのは筋違い。そういう考えから出てるんです。

刊本作品専用本箱(武雄デザイン)
 テストだったら自分に一冊だけ造ればいいんですが、一冊っていうのは本というものの機構からいってたいへん贅沢で金がかかっちゃってとてもできない。ですから、一定の部数は造らざるを得ないですね。それと表現を変えるってことも、お客さんの方から見るとね、何だこれ去年のと同じじゃねえかということになるんです。ところが表現様式を変えていろいろ材料を変えてくると作者の個性は変わらないんですが、ちょっと見た目のバラエティが違ってくるんです。違った感じになる。これはお客さんの見た目の方で、僕の方にはもっといいことがある。それは何かというと、さんざっぱらやって慣れたことなら目をつむってでもできる。これは感激がないんですよ。ファイトがわかない。ところが初めてこれを取り入れて、これをどうしたら本にこなせるか考えた時は非常に新鮮でね。処女地にクワを入れると同じ事で、少年らしいファイトが湧いてくる。少年の夢なんですね。だからこれは僕の若返り法になっているんです。
 いろいろ表現様式を変えるってことは、作者にとってもプラスになっている訳です。僕は、将来のことは全然考えてないんでわからないんだけれども、生きている間はこの刊本作品だけは造るつもりです。

- この刊本作品の愛書家を中心に刊本作品友の会ができ、この人たちは「親類」と称し独特の親睦を深めながら結びついているわけですね。

武井 戦前の程度では、要するに300造れば足りないのが10人以内で、その人があふれるだけですんだんですね。で、今度は戦争中疎開で散り散りバラバラ、皆が方々へ散逸しちゃったんですね。生きているか死んでいるかもわからない。
 そういう状態の中でも本造りはやめず、西堀(郷里)で造っていたんです。この頃は不明の人もいたので260部限定でした。終戦直後から3、4年こんな状態が続いたでしょうね。そのうちにまた、会員がだんだん増えてきて350人になってきたんです。現在は我慢会と称して待っている(正会員になるのを)人が330人位いるんですね。これを僕ら、いろんな言葉をつくるんですけど「親類」と呼んでいるんです。本屋で出しているものなら会員で十分ですけど、もう少し血がつながって近親感がある会ですね。
 普通、ファンなんてものはね、その人の作品が好きだとか、あるいは芸が好きだとか、その人と直接のつながりは割合ないわけなんです。ところがこの刊本作品に関しては、本人と読者としじゅうつながりがあるんです。1年おきにビエンナーレで全国の会合があったり、接触しているんですね。作者と読者が密接なつながりを持っていること、こういうのはちょっと類例がないわけなんですよ、世界中にね。

第3回刊本作品信濃友の会でのスナップ
(昭和32年夏)
 それで会員じゃ感じがでないから親類と呼ぶようになった。この言葉は非常に成功して、北海道の人が九州に行って見ず知らずだけど、名簿を見てその人の家へ行って親類だって言って泊まってるんです。ほんとうの親類意識があり、これはまあ親類っていう言葉を使い出して成功した造語の例なんですけどね。
 通常の刊本作品は本会員の300人にだけ配本。それで今も我慢会の一番先頭の人が17年くらい並んでいるんです。(本会員になるのを待っている。)だから、こういう人たちが親類だって呼ばれても本一冊もらえないんじゃなにが親類だってことになるんで、5冊に一遍ずつ我慢会へ特頒するんです。ただし、みんなにはやれないんで200番まで。だから500部限定になるんですね。
 それから2年に一遍の全国友の会の時には、いくら最後の昨日入った人でもですね。これはスーパー我慢会って言っているんですが、こういう人たちでも出席すれば本がもらえることになっています。今のところそれよりしょうがない。じゃ、良いものだったら数が多くてもいいじゃないか、なぜ300しか刷らないのかという問題が出てくるけれども、それは普通の本屋で本をつくっているのと全然違うんですよ。刷り本(製本前のバラの状態を刷り本という。)でもみな調べてですね。本当に手作りの本で、僕の手数が大変にかかってるんです。300以上は個人の力じゃとてもできないんです。出版屋だったら校正係がいたり、頒本、発送係がいたり、セクションで分けて手分けでやるから、いくらでもできるんですけどね。

- 先生の刊本作品は、風刺的なものからはじまって、ユーモラスあるいはエロチックなものまで、非常にバラエティに富んだ素材でつくられていますが。

武井 だいたい風刺的なものが多いには多いんですよね。中身に味付けしたいのはユーモアとペーソスという人生の悲しみのようなもの。これは余談ですけど、初めは既製ののものだって僕の文章として使ってったんですよ。例えば、イソップとかインドの伝説とか中国の聊斉志異の中にある伝説とか、そういう既製のものを使ってたんです。ところがこういうものは虎の威を借りるキツネでね。原作のウェイトにおんぶしているのは卑怯だと、これで作品と呼ぶのはおこがましいっていうんで24番の本からは絶対に人のものは使わない。つまり既製の伝説とか文学は使わず、全部自分で良く言えば創作、悪く言えば出鱈目を書くということにして、それをずっと墨守してきているんです。
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武井武雄の芸術作品と生家の関わり(武井武雄インタビューより)

2013年07月03日 06時56分29秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金


増沢荘一郎氏によるインタビューから、武井武雄の芸術作品と生家に関わる部分を抜粋しました。
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武井武雄インタビュー(5)

2013年06月14日 10時51分27秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 武井先生は、童画作品集で、昭和50年に東独ライプツィッヒにおいて「世界で最も美しい本」としてグランプリを受賞。これより先、昭和43年、ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成して、ソヴィエト各地を歴訪しておりますが、武井先生のお感じになったソ連の児童文化を中心にお話を。



グランプリを受賞した武井武雄童画作品集

モスクワ・ジャーナリスト会館で講演
武井 童画・アレンジの分野では僕には先輩がいないんで、どうも僕が先輩格にされちゃっているんです。だから、いつも審査員とか、賞をくれる側に回っちゃうんで、賞をもらったことがない。東独では、そういう事を知らないもんだからグランプリに選定されたんだろうと思います。
 ソ連へは25名で訪ソ団を結成して行ったんです。ソ連邦には15か国あるんですが、我々を歓迎するため、その全部の国から代表が集まったんです。我々の訪ソを非常に重大視してくれたわけです。その時、団長だったもんだから、皆の前で講演をさせられちゃったんです。それで僕は、外国のどこの国にも行ったことがないのにソ連だけは、なぜ来る気になったのかということについて話したんです。
 それは郷土玩具なんですね。僕は終戦直後、松本の放送局に呼ばれてその話をしたんですが。皆、日本は滅びちゃったように思っているけど絶対に滅びない証拠を見せるって話した。日本は一応戦争に敗けたけれども、民族として滅びる恐れは全然ない。なぜかというとね、僕は長年、郷土玩具を集めていてわかったことだけれども、勃興する民族は玩具が非常に多い。ところが、弱少民族や疲弊していくような覇気の弱い国は玩具がない。郷土的な玩具がないんですね。
 これは、そういうことを研究しているドイツ人のルンプさんという人も同じ意見ですがね。この人は日本にひところ来ており、歌舞伎の研究なんかやってたんですが、世界中を回って郷土玩具も非常に見て歩いているんですよ。
 このルンプ氏の言うのに、世界の二大郷土玩具国というのは、日本とロシアだと言うんですよ。ロシアってのは、つまり農民美術時代のもの、帝政時代のことを言っているんですね。そういう折り紙を付けている位なんで、日本とかロシアとかいう国はそう疲弊する傾向の国でないことはこれだけの例でも明らか。だから敗けた敗けたといっても、民族が滅びるわけじゃないんだということをしきりに言って放送したことがあるんですがね。
 そんなわけで、日本とロシアはともにたいへんな郷土玩具国という点で共通性があるということが一つ。
 もう一つは、ロシアでは昔は児童文化なんてなかったんですね。そりゃあトルストイみたいな人は童話を書いているけれど、これは特殊なものであって、児童文化運動というものがなかった。それで、本はどこから来るのかというと西ヨーロッパの方からクリスマスのシーズンだけ輸入してくるっていう。それで間に合わせて自家生産をしてないってんです。これは、メクシンというソ連の人からじかに聞いた話なんです。彼はむかし日本に来て、僕の家にも来たことがある人なんです。
 このメクシンは、教育人民委員会という、日本でいえば文部省の児童課長をしている人なんです。彼は、巌谷小波みたいな人と同じにソ連各地の子どもにお話をして回っていた、いわゆる話術家なんですね。学識経験者よりもこういう実践家を重く用いるという意味で児童課長にしたわけなんですね。
 そのメクシンの話によると、西ヨーロッパに依存していた児童文化は、革命後は来なくなってしまった。それで一般に呼びかけて文学的な作品を募集したんです。そうしたらもう学校の教員から文士の卵、あるいは労働者などあらゆる階層の人々が、原稿を持ち寄って随分集まったというんです。それをですね、今度はどこの国でもやっているんですが、学識経験者ってものにいちいち目を通してもらって、こりゃつまらねえ、こりゃややいいとかセレクトしてもらって、その上で残ったものを、日本じゃすぐ出版にかけるんですが、ところがソ連では、というよりメクシンですが…。それから先なんです、メクシンの偉いところは。彼はその残った原稿を持って子どもに話をして回ったんです。そして、反響のあるのと、そうでないのとを分け、反響の多かったのを出版にかけたんですね。ソ連は国営で、出版屋があるわけじゃなく国でやっているんですが。
 ですからソ連の児童文化史ってものは要するに革命から後のことですね。僕らが行った時はその50周年記念ぐらいの年です。それに日本でもちょうど児童文化の起こってきた歴史が約50年、近代的な見方でですね。ソ連と一致してるんです。
 これらの二点で、日本とソ連は非常に共通性があるんで、一度ソ連へ行ってみたいと思っていた-ということを僕は講演の代わりに話したわけです。

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武井武雄インタビュー(4)

2013年06月14日 09時08分57秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 武井先生にとって幼・少年期に次ぐ郷里との関わりは、昭和20年から3年間の生家(岡谷市西堀)への疎開時と思います。そしてこのとき始めた双燈社の文化活動は、今日の岡谷・諏訪地方の美術文化活動の原点になっているといっても過言でないと思いますが、双燈社の活動などを中心に当時の模様を。

武井 昭和20年3月末日、池袋の家が建物疎開で半分以上も取り壊されて生活できなくなってきてね。残った半分も5月の空襲で焼かれてしまい何も残らなかったです。それで西堀に疎開してきたわけですが、当時はみな食い物のことしか何も考えない。第一、人間のきめが非常に荒くなっている。感情が荒廃してるんですね。そこで、こりゃあいかん、何とかして正常なものにもっていかなくちゃと、同志6、7名で相談して「双燈社」というものをつくったわけです。

武雄がデザインした岡谷美術協会の賞状


岡谷美術協会の新年会風景(昭和23年正月)
 東京から行った疎開組の方では、後に版画家になった武井吉太郎、歯科医の青木貞亮らがいて、他に地元組として八幡竹邨(篆刻家)、長いこと高島小学校の教員をしていた武井伊平(俳人)、広円寺の和尚で今の先代住職吉水浄善、それからお寺の真ん前の家の小口吉雄さん(農業・盆栽家)、これらの人たちで文化活動をやろうってことになったんですね。
 文化といっても、考えてみると精神文化だけじゃなくて物質文化も文化なんで、この二つが両立して初めて健全な文化が建設される。そこで双燈-二つの燈びというのは、物質文化と精神文化を表している。それと広円寺でいつも会合をしたんですが、本堂の所に二つ燈が立っているので、そんなことも含み「双燈社」という名前にしたんです。
 どんなことをやったかっていうとね。だいたいオーソドックスな面では、知っている中央の名士が岡谷へ来たとき、その人に頼んで講演というか談話をしてもらうってことも一つですね。これも随分やりました。それに、柔らかいものでは、下諏訪の連中を頼んできてオーケストラをやったり、絵の展覧会は幾度もやりましたし、武井吉太郎が収集家で日本画をたくさんもっていたので、それらを中心に展示学習したりしましたね。
 そして版画は、版画の作品材料が僕の所に焼け残ったようなものがいろいろあったものですから、版画展や講習会をやったんですね。それが岡谷に初めて版画の根をおろす元になったわけです。増沢荘一郎君は、その時に来た生徒なんですよ。そういう風な当時からの版画のお弟子筋の人が今でもかなりおります。その版画は後に、双燈社の版画部会という名になって毎月集まって作品を見せ合い、批評し合ったり、交換し合ったりしたんです。そして、版画集も作った。メンバーの数だけずつ刷って一冊ずつ分け合い、今も残っているわけですね。
 それだけではなく、例えば傘平(からかさだいら)みたいなところへ遠足に行ったこともあります。そういうことが一番土地の人たちと接触できるんです。つまり、みな文化人みたいな顔をし、偉そうな顔をしてやっていたんじゃ全然、文化は成り立たないんでね。本当にバカ騒ぎをしたりして接触することで遠足をやったわけです。それでナベを持っていき、キノコを採ったりして野っ原で味噌汁をつくり、みんなで食ったり、そして当時NHKなんかでよくやってたんですが、ジェスチャーを当てっこしたり、そういう、いわば遊びをしたんですね。

双燈社の芝居の時の記念写真
前列左より武井吉太郎、武井武雄、小口吉雄
後列左より武井伊平、吉水浄善の諸氏

双燈社版画部会が共同試作した新憲法画集

武雄の余技作品 おひなさま
 その遊びの最たるものではね、僕が脚本を書いたんだけど、芝居やったんですよ。広円寺で双燈社のね。小口吉雄さんが女になり、僕は和尚をやった。吉水和尚は和尚になったんでは面白くないから他の何かになり、武井吉太郎はお寺の小僧になったりしてね。あの人たち東京へ行って何か偉そうになっているなんて思われちゃ困るんで、やっぱりこういうばかげたこともやるんだぞということで、わざわざ芝居をやったんです。それが、みな村の人としての親近感につながったと思います。
 当時、印刷もいろいろできない時代でして、僕が謄写版の機械もっていたもんですから、プログラムだとか、いろいろなものを全部自分で刷ったんです。それらは今でも、かなり残っています。
 それから、新憲法ができたとき、版画部会の連中が、みな一点ずつ割り振って、新憲法の画集を作ったんです。版画や画集なんて初めてという人も混じってね。これは、市でたいへん喜んじゃってね。何かそういうことの宣伝というか、広報をしてくれるというんです。
 それから僕は、手製でおヒナさまを作ったことがあるんですが、それの講習会をやったんです。当時は物がなくておヒナさまなんか買えない時代ですから、村のご婦人なんか非常に喜んでね。それにみんなで一緒に作るということがとても楽しいことだったんですね。

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増沢荘一郎氏による生家でのインタビュー映像

2013年05月26日 18時29分05秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金

岡谷市の版画家 増沢荘一郎氏による武井武雄生家でのインタビュー

16分くらいから、武井武雄の芸術作品と生家との関わりに触れる部分が出てきます。封建的な旧家に生まれたが故に新しいものへのあこがれが人一倍強かったのだと…。武井の業績は、生家抜きには語ることができないのです。

(冒頭12秒間、音声がない時間があります。)

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武井武雄インタビュー(3)

2013年05月20日 22時25分31秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 大正11年、当時きわめて質の高い絵雑誌「コドモノクニ」が和田古江氏によって創刊されましたが、これに武井先生が大きな助言者になっていたということですね。この「コドモノクニ」執筆者たちを見ると、大正ロマンと称せられる当時のそうそうたる面々であり、武井さんの文化人たちとのかかわりの深さを垣間見ることができます。これらの人々との思い出などを聞かせてください。

写真11:大正ロマンティシズムの旗手たち

大正ロマンティシズムの旗手たち

 武井 この写真は、和田さんが子どもをなくして悲しんでおられたので、慰める会をしようと「コドモノクニ」の執筆者を僕と岡本帰一とが集めたときのものです。やはり、「コドモノクニ」に執筆していたという関係で知り合った人、親しかった人が多いですね。-「コドモノクニ」の会合が年2回くらいあったものですから。
 ちょうど、僕の刊本作品の「親類通信」という小冊子に「思い出の人々」と称し、その思い出を書いていますが、ほとんど故人になっています。
写真12:武雄が記した写真の顔ぶれの名前

武雄が記した写真の顔ぶれの名前

 野口雨情は、その作風のとおり、とても素朴な風体で、もちろん靴を履いていたのだと思うが、どうしても板草履を履いていたような気がして困ります。それほど、村役場の小使いさんといった感じでした。会合の席で自作の詩に節をつけてよく朗唱するのが癖でして、それは朗読でもなく作曲でもなく独自の芸で、これは雨情節と呼ばれたもんです。
 中山晋平は信州中野の人でね、情報局の命令で一緒に東北地方へ講演に行ったこともあり、僕の童謡を四つ作曲しています。
 小川未明も同行して、いつもなぜか泊まりは同室で、大イビキに悩まされたものです。
 北原白秋については、-僕は、童画を初めて描きだすときに、どうせ童画を描くなら白秋のものに描くような身分になりたいと言っていたんです。そしたら、その数か月後に、白秋の”花咲爺さん”という童謡集の装幀から絵をたのまれて、わりに早く白秋のものを描くようになったわけです。
 もう一つは、僕は郷土玩具を蒐集していて、その陳列館(自宅の庭に-当時池袋)を作ったんです。それで白秋の家に行って名前を付けてもらったわけですが、当時、白秋は”鴎(かもめ)の塔”という童謡集をつくっていた時だったから、「塔という字が好きだから、じゃあ”蛍の塔”にしよう」と名前を付けてもらったんです。そして、人形のような形に作った看板に書いてもらって、それを蛍の塔の入り口にずっと掛けておいたんですが、結局、戦火でみんな焼いちゃったんですけどね。
 僕は、その時、感激しちゃったんですよ。当時、白秋といえば有名で大家なんですが、こんな偉い人が”蛍の塔”という字を書くのに、半紙十何枚もに下書きをして、それからやっと本物の板に書いたんですよ。僕なんか頼まれると、ぶっつけに書いちゃうんですがね。白秋のそれには感激、なるほど偉いもんだと思ったものです。

  思い出の人々─────────────武井武雄

▶西條八十 大正期児童文化に貢献した著名な作家の中で一番あとまで延命していた人である。一時期池袋の自分の家の近くに住んでたことがある。ちょうど唄を忘れたカナリアが流行していた頃で、童謡作家として急に名を知られたのもこの頃である。しかし、自分は全く面識もなく遠い雲の上の人に過ぎなかった。
 後年知り合いになってからいろいろとこの人のドンファンぶりを聞かされた。まず、校歌は絶対に作らないこと。その理由は、自分はいつ心中するかわからないので、その時せっかく歌いなれた校歌を廃止するというのも気の毒だから初めから作らないのだという。それから、自分が死んだら棺の内側に今までたまっているラヴレターを貼りつめてもらうのだという。さて、これは故人の遺志どおりに実現されたかどうか、ついぞ聞いたこともない。
 小学館の文学賞と絵画賞の審査は、毎年湯本へ行って行われていたが、この往復の小田急の車中で、ちょうど刊本作品を2、3冊持っていたので、「この中の詞文は全くのトウシロウの出鱈目だから笑っちゃ駄目ですよ」と言って見せたところ、「いや出鱈目どころじゃない。これは立派な詩ですよ」という。「あんたが詩だという折り紙をつけてくれるなら、少し自信をつけることにするかな」と言って笑ったことがある。

▶竹久夢二 中学生の自分にまず開眼の端緒を与えてくれたのが夢二画集の春の巻だったという事、夢二という名の存在はそれ以来の事である。自分が中学校を終わって美校の受験生として東京へ出てきた頃、夢二は東京駅の近くのあたりに、「みなとや」という小さな店を出していた。夢二とは一体どんな男なのか、探訪のために紺絣(こんかすり)に袴をはいた自分はわざわざ見に行ったものだ。
 それは夢二の自作になる木版刷りの紙製品で、便箋、栞、封筒、千代紙等、店頭にはたまきさんとおぼしき女性が番をしているだけで、肝心の夢二は影も形もなかった。これは少しねばってみようと思って待っていると、二階からバーバリコートの上から革ベルトをしめたむくつけき大男がのっしのっしと降りてきた。夢二とはその画のような優男ではなくて荒削りのむしろむくつけき男だったのだ。
 中沢臨川という評論家の説によると作家は自分の性格や体質にないものを希求するもので、その欲求が芸となって現れる。これを二元性の神秘という、となっている。東西の著名な作品について、いちいちその例をあげているのである。なるほど、夢二もその二元性の神秘かとその時感じたのであった。
 後年、ある会合の席で紹介されて初めて直接に会ったのだが、この時彼はすぐに息子を呼んで紹介した。自分はコドモノクニなどで既に知られていたので、むしろその読者である子供に紹介したのだろう。
 考えてみると、画と詞文とを併合して一つの作品を作る刊本作品の構成法と全く同じような事を夢二は既にやっていたわけで、その形式に関する限り彼は先輩といっていいのだが、しかし、本の美術を追求するという根本の考え方は彼にはなかったようである。池袋に”なるとや”という婦人服の生地店があって、そこのかみさんが夢二の命日には必ず花を持って墓参に来ていた。一面識もないただのファンである。
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武井武雄インタビュー(2)

2013年05月19日 18時45分13秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 美術学校卒業(大正8年)後、間もなく武井先生の非凡な才能が認められ、当時の代表的な幼年雑誌「日本幼年」改題「コドモノクニ」などに執筆、次々に世に出されたわけですが、大正ロマンといわれる当時の模様、油絵専攻の武井先生が童画へと移行したいきさつなどを。

写真7:美校時代の武雄(大正5年2月20日撮影)後ろ側

美校時代の武雄
(大正5年2月20日撮影)後ろ側

 武井 僕は、美術学校を出て洋画家になるつもりでいたんです。ところが実際、卒業しても食っていけないんですね。でも、親父の反対を無理矢理押し切って美校へやってもらってたもんで、”卒業したら親父のスネは絶対にかじらん”という堅い決心で、僕は意地を張っちゃってね。美術学校は5年やって、その上に希望者だけの研究科ってのがあって、1年間置いてもらえるんです。だから親父からせびる目的で研究科に入り1年間延ばしたけれど、もうそれ以上はダメなんで、何かしなくちゃならなくなったわけです。
 当時、「赤い鳥」という雑誌を出した鈴木三重吉が先鞭をつけたんですが、大正の中期から児童文化の運動が起こってきたわけです。僕らはこれを「大正の児童文化ルネッサンス」と言ってるんですが-。それから文士はみな童話か童謡を書く時代になり、いろんなものが同時に澎湃(ほうはい)として起こってきたわけです。おとぎ話が童話という形になり、児童文学になったということの初期なんですね。そうすると、それにつれて絵画も映画も音楽も全て同程度のもの、いままでよりは一ケタ上のものが要求されてくるわけなんです。それで、方々で児童文学とともに、美術方面でもいままでになかったような絵描きが、みな専業でやるようになってきたんですね。
 僕は、ちょうどそのルネッサンスが起こってくる気運のある時代に遭遇したわけです。だから、どうせ何かアルバイトをするんだったら、一番好きなことをやろうってんで童画を描いて、しばらく食いつなげようと思ったわけです。この頃はまだ”童画”という言葉はなかったんですが-。ですから、最初はアルバイト根性であり、半年ほどそういうことを続けました。
写真8:コドモノクニ創刊号(大正11年1月)

コドモノクニ創刊号
(大正11年1月)

 そして、ある時、僕ら子どもの頃の出版物の絵ってものを、よく思い出してみたんです。そしたら、うまいことはうまい。技術的にはうまい絵があったんですがね。しかし、魂に触れるようなものがない。つまり、精神的感動を起こすものがないんです。いつまでも忘れないで、そのものを思い出せるようなもの-、つまりエスプリがないんですね。
 これは何故だろうと考えたんです。これは後に、川端龍子も書いていたんですがね。それは本当の腰掛けで、第二次的な考えで仕事をしていたということです。後に、軸物や屏風が高い値段で売れるようになったら、もう子どもの雑誌の絵なんか全然やらない、ほったらかしちゃう。やっぱり、大人のための純正美術をやりたい人が、アルバイトに、ちょっと子どもの雑誌に描いているという態度、これはケシカラン。これでは子どもを感動させるものができるわけがないんだ、と僕は考えたんです。
 それともう一つは、仮に美校を出て油絵を描いていくとしてもね、油絵で食っていくとしたら、金持ちにへつらって何とかして絵を買ってもらうのがおち。そういう人は、たくさん収集しているから買った絵も、どこかへ積んじゃって見もしない。それよりも多くの人、大衆が見て楽しむことの方がいい。今の単位と部数は違いますがね。今は40万、50万ですが、当時は多い雑誌で5万位だったんじゃないかな。つまり、その雑誌を5人で見るとすると25万人になり、それで何か感動を受けるものがあったら、この方がやりがいがあるのではないかと考えたわけです。
写真8:武雄の著書・ラムラム王(大正15年叢文閣)表紙
 当時は血の気の多い二十代でしたから、これは若気の至りですね。僕は左翼の運動は全然やらなかったけれど、そういう大衆のための美術を打ち立てようという考えが、すでにその時にあったんです。
 それともう一つは、自分の一番好きなことで稼ごうということ。それらのことで、今までアルバイト根性だったやつを180度転換をしたんです。男子一生をかけて子どものために自分の能力をささげても、これは男子として恥ずかしくないことだという風に切り換えたわけです。そうすると、これはもうアルバイト根性じゃなく自分の第一義的な仕事ということになるんですね。そういうことを半年くらいたってから、やっと悟ったわけです。それからはもっぱら専門家みたいな顔をして、それをずーっと墨守してきたということでしてね。
写真9:武雄の著書・ラムラム王(大正15年叢文閣)挿し絵の一部

武雄の著書・ラムラム王
(大正15年叢文閣)
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 大正13年というと、関東大震災の翌年ですが、当時、執筆の順序として挿し絵が多かったんです。つまり文士が童話とか童謡だとかを書くと、それに絵、挿し絵をつけるという形式が多かったんです。そのために皆、錯覚を起こしてるんですね。子どもの絵本や雑誌の絵は、文学の隷属物だと思っている。あたかも、そこに主従関係があるみたいに。これはイカンと僕は思ったわけです。これは子どもに与える、対象を子どもとした絵本であって、決して文学にくっついているものじゃないんだと。絵画は絵画として独立して子どもに見せられるものであって、児童に対する美術の独立性ちゅうものがないことを非常に残念に思ったわけです。

 そこで、銀座の資生堂で個展を開いたんです。その時に、これは文学の隷属物じゃないんだから何とか呼び名をつけなくちゃいけないということで「童画」という言葉を初めて使ったんですね。これは、童謡があり、童話があるんだから、童画でいいんじゃないかとつけたわけです。
 ところが、非常に珍しい言葉だったらしくて、どこかの県会議員みたいなオッサンが来て、「表に童画って書いてあるけど、中に入ったら大人が描いた絵じゃないか」ってイチャモンつけたんです。だから僕は「ちょっと待ってくれ、大人が書いても童話だし、童謡もそうだ。これと”同様”だろう」と言ったんです。そしたら「そう言われてみればそうだ。誰が描いても童画でいいんだ」と、納得して帰った。そのくらい珍しかったんですね。
 ところが、何年か後までも動画という言葉がなかなか理解されなくて、子どもの描いた絵と間違われて困った。子どもの描く絵は”児童画”といって区別し、童画は大人が描いて子どもに見せるための絵というわけです。後に展覧会をやった時なんかも、「これはうまく描けてる。実にうまいものだ。惜しいことに年齢が書いてない」なんて、やっぱり子どもの絵だと思ってるんですね。
 これが、昭和34年に僕が紫綬褒章をもらったときに、童画をもって児童文化に貢献したと、ちゃんと書いてあるんですね。ですから、そのとき国で「童画」という言葉を認めたことになるわけです。昭和42年に勲四等の旭日をもらったときにも童画と書いてある。小学館の辞典にも童画という項目が載っている-もっとも、これは僕が書いたものですが。このように童画は、国の公認の言葉にもなり、やっとのことで定着してきたという感じですね。
 それで、僕は童画家といわれているんだけれども、実際は三足のワラジをはいているんです。「童画」と「版画」それに「刊本作品」と称する本作りですね。日本では、マスコミ的に子どもの本が出ていったから、これがいちばん浸透し、童画家といわれているんです。ところが、アメリカでは、版画家といっている。そして、刊本作品の会員からすると造本美術-つまり本作りだと言っているんですね。ですから、どれが一体、僕の本当の顔だかよくわかりません。
 現在の立場だと、1年中の自分の時間をいちばんたくさん使っているのが刊本作品、本作りです。子どもの絵本は、年にせいぜい2冊くらい描く程度ですね。
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武井武雄インタビュー(1)

2013年03月23日 19時04分29秒 | 武井武雄インタビュー
武井武雄をあいする会の設立趣旨入会申込み生家の保存・活用を求める署名生家保存・活用のための募金
「武井武雄・メルヘンの世界」(昭和59年)諏訪文化社から抜粋
(昭和56年2月に収録、オール諏訪1、2号に連載されたもの)


- 武井先生は明治27年に岡谷市(当時平野村)西堀に生まれ、幼少期をすごされたわけですが、この頃の追憶の中から特に「絵」との関わり部分を中心にお話を。

写真1:明治31年2月18日撮影。武雄5歳

明治31年2月18日撮影
武雄5歳

 武井 僕には記憶はありませんが、一番最初に絵を描いたというのは三つの時、昔の数え年でですね。この時、桜の花を描いたということです。僕の祖父は一三といって、平野村の戸長をやっており、当時は病気で寝ていたんですが、祖父にその絵を見せたら大変ほめて、「偉くなれよ」ちゅって頭をなでたという。これは母から聞いた話です。それから間もなく祖父は亡くなりました。
 これは余談ですけれど、僕は岡谷市の生まれということになっていますが、非常に厳密にいうと中洲村(現諏訪市)の神宮寺です。つまり昔は、今でもそうかも知れませんが、嫁さんは里方へ行ってお産をする習慣があったんですね。僕の母の里は、神宮寺にある諏訪神社の神官の家なんですが、そこへ行って僕を生んだんです。だから僕が本当に生まれたところは母の里であり、中洲村神宮寺であるわけです。しかし岡谷市に生まれたと言ってもかまわないでしょう。

写真2:折井房之胸像(岡谷市立小井川小学校)

折井房之胸像
岡谷市立小井川小学校

 それから僕は小井川小学校に入学したわけですが、この一年生の時、つづり方「私は絵描きになります」って書いたんです。本当にその気があったんじゃなく、絵が好きだったんで、書いちゃったんですね。そしたら折井房之っていう先生がビックリしちゃってね。いま、小井川小学校の庭に武井直也君の彫刻で折井先生の胸像が建っていますが、その折井先生は、ずっと一年生を担任する先生でね、上諏訪の大和からゲタをはいて歩いて通ってきた先生です。僕の家の遠い親戚にもなる方です。
 僕の父は名を慶一郎といって、平野村の村長を30年もやっており、それに今でも村の人が「お屋敷」と言っているほど、いわゆる古々しい封建的な元藩士で旧家なんですね、僕の生家は。その地主の一人息子が絵描きになったら大変だ。やっぱり親父の跡を継いで村長になるか、何かそういう事をやってなくちゃいけないのに、事もあろうに”絵描きになります”っていうつづり方を書いたというわけ。折井先生が、その日のうちに僕の家に来たんです。そして親父に、「武雄はこういう事を書いたんでケシカランけれど、どうすりゃいいか」って。どうするもこうするもないんでね。一年生の書いたつづり方ですから。まあ絵描きなんて夢にも想像もできない商売で、びっくりさせられたということですね。

写真3:八幡郊処

八幡郊処

 それから、僕は病弱でしてね。どうも一人息子で過保護だったんじゃないかと思うんです。いつもノドをはらしたり、ロクマクになったり、疑似セキリになったり…。それで食べ物も制限され、お菓子もダメ、カキやスモモといった果物もダメ、トウモロコシも消化が悪いからといった始末。それでもう、方々の家の子供の食っているものを食いたくてしょうがなかったんですね。
 そういう風に虚弱児童だったんですが、この頃、親父と同年の八幡郊処が来ては僕を相手に、お子守して遊んでくれたんです。後に篆刻家となり、総理大臣の原敬が郷里盛岡に建立した寺の篆刻を彫ったほどの人ですが、郊処はその頃、まだ篆刻家じゃなく百姓で仙太郎さんといっていたんです。百姓だけど非常に教養があって学問も修めている人でした。
 その遊びというのが、どういう遊びかというと、紙に「ヤッ」と点を書いてよこすと、こっちはその点を元に何かの絵にして、今度は「ヤッ」と棒を引いて向こうへ渡すと、その棒を元に絵にして、また何かくっつけてこっちへよこすという遊びをしていたんです。郊処という人は芸術家風の人でして、そういう事がやはり僕に何か潜在的な影響があったと思うんですね。

- 武井先生の幼い日の”妖精ミト”との特異な話は、武井作品の芸術、メルヘンの原点ともいわれていますが、このミトについて

 武井 学校へ行かない年、つまり小学校二年生の時なんか、僕は病弱で2か月しか学校へ出ていないんです。それでも昔だから単位が足りないなんて言わず進級させてくれました。とにかく小学生の頃だいたい弱かったんです。それが”ミト”につながるんです。
 その頃、僕は戦争ごっこやいろいろやって外でも遊んだんですが、大部分は家で寝ていたものですから、友達が比較的ないわけですね。ですから自分で友達をつくったんです。それは空想的な人物でして、どういう顔や格好をしていて男か女かということも全然わかりませんが、ただ抽象的な人物を自分の中でつくっちゃったんです。これがいわゆる”妖精ミト”なんですね。
 それがあらゆる場合に呼べば出てくる。庭にリンゴの木なんかがあって登っていると、叔母が「ミトが来ているよー」って呼ぶとだれと遊んでいてもとんでいっちゃう。時にはコンペイトウの芯からポイッとミトが出てきたり、そういう空想的なものをつくって、それと毎日遊んでいたということですね。多分、夢の中でそいつが出てきて「俺がミトだ」と言い、それでメルヘン的なものを自分で創造しちゃったわけなんですね。  当時は、今ほど雑誌もないし、親戚の人が夏帰省してくる時、金港堂でお土産に子供の本を買ってきてくれる程度で、あまり文化財に恵まれていなかったんです。だからミトは自分が勝手につくった僕の心の中の友達だったわけです。このミトは、小学校三年になると、なぜか出てこなくなりました。

小井川小学校100周年記念碑のレリーフ(武井武雄作)



- 小学校までは虚弱体質だった武井先生は諏訪中学(現諏訪清陵高校)へ行くようになってから見違えるほど丈夫に。これは往復16キロの道を登下校で毎日歩いたためとのことですね。そこで、絵描きになる志望を固めた頃の模様を、島木赤彦の話も交えて。

写真5:旧制中学時代の武雄(明治45年1月)左から二人目

旧制中学時代の武雄
(明治45年1月)
左から二人目

 武井 中学生(旧制)になると、内向性だった小学生時代の反動で、いたずら少年になりました。先生の声色をマネたり、悪いことは何でも先頭になってやったり、いい中学生じゃなかったですね。
 それから本当に”俺は絵描きになるより他はない”と決心したのは中学三年の時です。しかし決定的に自分だけで決めて親父には黙っていたんです。そんなことを言うと、また、うるせーもんですから。ところが卒業するときになって、いよいよ黙っているわけにゆかず、「僕は美術学校(現東京芸術大学美術学部)を受けたいんだ」と言ったんです。そしたら親父は、「絵描きを志望するなんてとんでもない」と反対なんですね。  親父やお袋の考えでは、西堀の家に足止めしてくっつけておきたいんで、”眼医者だったら家にいて往診がないからいいだろう”ちゅって、眼医者が第一候補。もう一つは農科、農学部で、”そこへやって地主の旦那になってりゃいい”と思ったんですね。それと親父の反対の理由は他にもあったんです。
 当時、諏訪に美校を出た人が二人いたんですが、その前例が親父にとっては余り良い見本じゃなかったわけですね。ところがそんな事、僕の方はチンプンカンプン。「俺は違うんだよ」と言ってみても中学生の言うことには権威がない。しかし結局、親父も困っちゃって自分の思案にいかないもんだから、当時いちばん親父が信頼していた教育者に意見を聞きに行ったわけです。
写真6:島木赤彦

島木赤彦

 そのうちの一人が、スパルタ教育で有名な諏訪高女(現諏訪二葉高校)の初代校長の岩垂今朝吉という先生。もう一人は、当時の郡視学の久保田俊彦先生で後の島木赤彦、この二人に相談したんです。
 そしたら岩垂先生は、「いま、美術学校の三年生くらいの実力があったら受けさせてもいいでしょう」という返事。三年生くらいの実力がある奴が、いま改めて一年生に入っていく必要はないんですね。ところが、これはもののたとえで、とにかくそのくらいの天分があったらという意味なんですね。
 久保田先生の方は、「本人がやりたいというものをやらせれば一番将来性があって安全なものだ。自分がやりたくないものを無理矢理、親の意見でつっこんでやても、それはロクな者にならない。やりたいことは当人に責任を持たせてやらせろ」という返事なんですね。そこで親父もやっと折れ、美校を受けることを許可してくれたんです。だから島木赤彦は、そういう助言をしたことで恩人といえば恩人なんですね。
 ぼくが中学を卒えて東京に出てきた(大正二年)ちょうどその頃、久保田先生も東京に移られ淑徳女学校の国文(国語)の嘱託教師をしながら「アララギ」の編集を始め、名前も改め島木赤彦と名乗ったわけなんです。
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