Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

yanokami

2007年07月31日 | 音楽紹介
 さきほどレイ・ハラカミと矢野顕子のコラボ作『ヤノカミ』をユーチューブで聞いたのだけれども、いや、これがなんともピンと来ないもので、失敗作では? と思った。大体において歌ものエレクトロニカにおける歌声とは落ち着きがあり、しっとりと歌われるものであり、それが特徴で、良い部分でもある。しかし矢野顕子のホップするというか、高音が跳ねる歌声は、どうにも耳なじみがよくない。それは僕の耳が矢野顕子の歌に慣れていないせいもあるが、やはり相性というものがあって、ハラカミのやわらかな弾力と矢野顕子のキーの高い歌は決して溶け合うことなく、歌と電子音が完全に別け隔てられて聴こえてくる。つまりアンサンブルという意味において一体感がないということだ。

 ただ、これはヤノカミをエレクトロニカの観点から聴いた結果であって、もし歌ものポップスという観点から聴いてみれば、別に僕がぐだぐだ言うような音楽として聴こえないのかもしれないし、もしかしたらハラカミも矢野顕子も「ヤノカミ」を歌ものポップスとして聴かせたいのかもしれない。ポップスとしてなら聴けなくもない。が、それにしたって歌声と電子音とでは当然ながら音質が全く異なるのだから、どちらかがどちらかに歩み寄る必要があるんじゃないか。

 なんて思っていたのだが、二回目に聴いたら、あら、これ、中々いけるじゃない、ってな具合ですんなり耳に入ってきた。それに、良いじゃないかこれ! なんて、2段落目まで書いていた逆のことを思っていたりするから不思議だ。それでもやはり相性が良いとは言い難いのだが、これはひょっとすると歌ものエレクトロニカの新たな一歩にも思えてくる。えー、なんでだろ。自然体でお高くとまっていないからだろうか。いやいやそんな漠然とした理由ではないんだろう。
yanokami - 気球にのって
http://www.youtube.com/watch?v=1DQCoCiV4lA

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2007年07月30日 | 由々しき独り言
 ここを見ている人にとっては、だからなんだ、なんて言われそうですが、トラックバックを受け付けることにしました。というのも何だかこのBLOGがとても閉鎖的な気がするからです。いや、閉鎖的なのは僕の性分に合っているので、それはそれでいいのですが、やはりBLOGというものをやっている以上、トラックバックを活用することで、広がっていくこともあるんじゃないかと思った次第です。もしBLOGをお持ちのかたがいましたら、トラックバックをなんなりと。あ、でも全然共通性のないトラックバックはちょっとヤーヨ。僕もトラックバッカーと化そうと思います。迷惑かけない程度に。

クラムボン 其の弐

2007年07月29日 | 音楽紹介
Musical
クラムボン
Columbia Music Entertainment,inc.( C)(M)

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 一曲目を聴いた瞬間、いまクラムボンがいかに自信に溢れているのかを実感した。変拍子満載で一寸違えばたちまちのうちに崩壊してしまいそうな曲を冒頭に持ってきて、あくまでもポップに聴かせる手腕、技巧を堂々と披露する。またそれを違和感なく歌いこなす原田からヴォーカリストとしての資質を十分に感じ取れる。これは収録されている全ての楽曲に言えることで、ディスコチックなナンバーも、ファンク・テイストなナンバーも、どこをどう聴いても「クラムボンの音楽」なのである。

 でもそれは当たり前なことかもしれない。もしクラムボンがファンクっぽいことをやったからといってジェイムズ・ブラウンになるわけがないし、ジャズっぽいことをやってマイルス・デイヴィスっぽくなるはずがない。演奏しているのはクラムボンなのだから、どのような曲をやったってクラムボンの色が付いて当たり前なのだ。

 要は、クラムボンはどんな種の曲をやってもクラムボンの音楽になる、という軸を持っているバンドだと言いたいのである。それをこれでもかと見せ付けるように、このアルバムはバラエティー豊かである。初めて聴いたとき、ベスト盤なんじゃないか? ってくらい統一感がないと感じた。しかし、やはりクラムボンの色がしっかりついたサウンドだ。

 思えばこのバンドは単にポップな曲を作るだけではなく、ジャズ、シューゲイザー、ダブなど、様々な音楽要素を吸収し、自分のものにしてしまう、ということがひとつの特徴として挙げられる。それは実験的と言えるかもしれないが、難解な音楽家を気取らず、むしろJ-ポップと言ってもいいほど大衆的なサウンドとして聴かせるから凄い。

 ただ、ひとつひっかかる曲がある。8曲目を大雑把に言えばモグワイから轟音を抜き取ったポスト・ロックなのだが、イマイチである。そもそもポスト・ロック的アプローチは過去のアルバムでやっているのだから、別に今やらなくてもいいじゃないかと思うのだが、この作品を、クラムボンにとっての総括だと捉えれば、ヴァラエティー豊かで、今までやってきた音楽を振り返るという意味において、バンド側には有意義な作品と言えるし、聞き手にとってもクラムボンの歴史の見取り図として働くかもしれない。

 厄介なのは、どんなに複雑なことをしようと、過去を振り返ろうと、それはリスナーにとっては結構どうでもいいことだったりする。ただ純粋にいい音楽であればそれでいい。クラムボンが支持される理由の多くは実験性ではなかったはずだ。実験性に優れていることを見せ付けられても・・・・・・、という感じは否めない。もちろんポップなことには変わりないのだが、どうせ実験性を全面に押し出すのならば、大衆性とは程遠い前衛音楽みたいなものを作ってもよかったんじゃないか。たぶんクラムボンならやれるはずだ。

クラムボン

2007年07月28日 | 音楽紹介
id
クラムボン,ミト,原田郁子,伊藤大助,堀口大學
ワーナーミュージック・ジャパン

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 燃えるとか、踊るとか、もしくは意識が吹っ飛ぶとか、そういった感情で満たされる音楽もいいけれど、ただひたすらに新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで、吐いて、吸い込んで吐く。そんな清涼感に溢れた音楽が気持ち良く感じるときもあるわけで、このクラムボンの『id』がまさにそれなんじゃないかと僕は思う。聴いていると、ぐったりとへたりんだ体を、気持ちを、静かに支えてくれるようなやさしさがある。それはさながら励まされているようで、嬉しくて温かくて、ずっと添い合っていたくなる。

 シンプルなバンド・サウンドを基調とした演奏はロックというよりポップスと言った方が適切で、自然に耳に滑り込んでくる。あえて、なのか、輪郭をぼかした様々な楽器の奏ではヴォーカルをくっきりと浮かび上がらせる。雄大なストリングスの奏で。ひっそりと小声のように鳴るアコースティック・ギターの可愛らしい響き。時折鳴るビートを強調しない電子音のかすかな弾力。それらが表現力豊かな歌声と溶け合い、さらさらとした絶妙なサウンド・アンサンブルとなる。

 中核を成すヴォーカルの存在感は抜群で、静かに移り変わる表情の豊かさが楽曲に潤いを与えている。決して叫ぶことなく、甲高い声もあげない歌声なのだけど、その分、大切に歌っている印象を受ける。まるで話しかけるように。ほんのりとエコーをかけた曲もあり、それが歌声に包み込むようなやさしさを持たせている。

 先にシンプルなバンド・サウンドと書いたけど、アダム・ピアースが共同プロデュースしているためか、民俗音楽的なパーカッションを交えたり、立体的な空間を作り上げたり、いわゆるポスト・ロック的な音響処理をしている。でも難解な印象はまるでなく、クラムボンのひとつの特徴でもあるあくまでしっとりとしたメロディと歌をそっと届けるように聴かせてくれる。

 わざとらしさみたいなものは皆無で、丁度ジャケットにあるように、雲が流れていく音を音楽にしたらこんな感じになるのかなあといった空想ができるほど音がゆっくりと流れ、聴いている間は時間もまたゆっくりと流れていく。

 そんなふうに、この音楽からは台風や津波、雪崩といった自然の激しい部分ではなく、雲の流れ、草木の香り、波が描く放物線などをそのまま音にしたような曲がつまっている。自然とは、もっとも身近にあるものだけど、自然の存在に意識的になることはあまりない。だから、自然を音にしたようなこの作品を聴いた時、新鮮に聴こえるとともに自然の大きさ、広さ、豊かさに、静かに身をあずけてしまいたくなる。

町田康が殴られた

2007年07月27日 | 由々しき独り言
 町田康の小説、詩なぞは好きであるが、彼の音楽には全く持って興味のないこの俺。町田康が布袋に殴られたからうんぬんということにも興味がなく、コメントするのもめんどうくさく、いやいや、僕がコメントする必要はないのでは、なんて、当然なことを思ったのだが、この殴る蹴るというやつ、作家兼パンク歌手である町田康の、いやはや、なんともパンクだね、な感じな出来事で、これでひとつ逸話じみたものができたじゃないかと思ったのだが、町田康という男、布袋を訴えるもんだから、ああ、これはただ事じゃあないなと思った次第。ってのも、作家なわけだからこれをネタにエッセイ、コラム、小説を書けば、それはそれで面白いんじゃないかなと思うわけで、ちょいとパンクじゃないなあなんてことを思ったわけです。いやもちろんパンクとは元々うんぬん、という話はよく分からない僕であるけど、やはり作家兼パンク歌手である町田康に、今回の事件をニュースによってではなく、歌なり文章なりで、訴えて欲しかったというのが、僕の極めて個人的でわがままな欲求。

ヨ・ラ・テンゴ アウトテイク集

2007年07月26日 | 音楽紹介
Genius + Love = Yo La Tengo
Yo La Tengo
Matador

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 アマゾンには「BEST OF」と書いてあるけどベスト盤じゃありません。アマゾン嘘付くな。

 レーベル「マタドール」より96年に発表されたヨ・ラ・テンゴの『ジニアス+ラヴ=ヨ・ラ・テンゴ』、それはシングルB面曲やアウトテイクを収録した企画盤のようなもので、たぶん、持っている人はよっぽどのヨ・ラ・テンゴファンだと思う。というか、僕としては特にファンでない人が最初に買うヨ・ラ・テンゴの作品がこれだと彼らの良さが十分には伝わらないんじゃあないかと思ってしまう。

 というのも、ヨ・ラ・テンゴというバンドはライヴもいいのだけれど、練りに練った音響空間を作り出したり、エコーの処理、ヴォーカルと他のパートとの音量の取り方が絶妙な音楽を作るスタジオ・ミュージシャンとしても優れているバンドだと思う。この作品に収録されている曲も決して出来は悪くないのだけど、オリジナル・アルバムに収録されている曲と比べると、やや、手を抜いているなと感じることしばしば。まあでも、ギター・ノイズがこれでもかと炸裂する曲あり、しっとり聴かせる曲ありで、楽しめないわけではない。

 音の質感的に初期の楽曲を多く収録しているように思える。バンドの初期とは結構はっちゃけた感じというか、馬鹿みたいにポップな曲をやったりするもんで、ヨ・ラ・テンゴも例外ではなく、彼らの「若さ」みたいなものを聴きたい人には良い作品かもしれない。

 しっかし、このバンド、メロディは初期の頃から良いんだなあと聴いていてあらためて思った。キンクスやビーチボーイズを愛する彼らのこと、メロディは生命線であるのだろう。そこにヴェルヴェッツ大好きフロントマンのアイラさんはサイケデリックなギターサウンドを奏でるからたまらないわけである。個人的にシスター・レイのカヴァーが入ってたら最高なんだけど。

 結局のところ、前述したように、ここに収められている楽曲はオリジナル・アルバムに収録されている楽曲ほど優れているとは言いがたい。ファンのために作られた企画盤だ。ファンにとってはヨ・ラ・テンゴの良さをあらためて認識するため、そしてアウトテイク集であっても音楽性は一貫していることを知るためとして良い作品かもしれないが、やはりファン以外は買わない方がいいんじゃないかと思う。

 ちなみに二枚組みです。一枚は歌あり。もう一枚はインスト。国内盤にはケヴィン・シールズとμ―ziqのリミックス収録。

helios『Eingya』 ( 2nd )

2007年07月25日 | 音楽紹介
Eingya
Helios
Type

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 昨日紹介したhelios。彼の2ndにあたる『eingya』は前作と比べ、音楽性はほとんど変わっていない。強すぎず弱すぎず、水をたっぷり含んだ透明で清涼感のある音が流れ続け、そこにシンプルであるがゆえに美しいビートが小さく跳ねる。ただ、大きな変化として前作よりも生楽器をより全面に押し出していることが挙げられ、それが功を奏している。

 平静で何も考えていないときに聴くと、気持ちに寄り添い、興奮も安らぎも与えない、良い意味で刺激のないアコースティック・ギターのアルペジオが胸にすっと染み込んでいく。ベース音も滑らかに、ストリングスも丁寧に奏でられ、静寂を埋めるというよりは、静寂にちょっとした潤いを与える程度の柔らかくやさしいサウンド・アンサンブル。ピアノの奏でも、エレクトリック・ギターの奏でも、全てが過剰に主張せず絡まった胸の糸をほどいてくれる。

 そして前作にあった音の強弱、緩急の変化を扱い、楽曲に破綻を持たせ、単なるアンビエント・ミュージックとして終わらせていない事はもちろん、メロディが光っている。触れ合う程度のベースとピアノから導かれるように流れるギター・アルペジオがメロディの格となり、楕円を描いているような、刺ひとつない丸く、やさしいメロディが淡々と流れ、気持ちもまたやさしく、丸くなる。

 そうした生楽器を全面に押し出したのは意図的なことなのだろう。もし1stがエレクトロニカという音楽をhelios自身がどこまでものにできるのか、ということに焦点を当てた作品だとしたら、この2ndは、幼い頃から様々な楽器に長けていた彼の真骨頂を主軸にエレクトロニック・サウンドに挑戦したものである気がする。東洋を思わせるエスニックなフルートの音色、水滴のようなピアノの奏で、そこにエレトロニック・サウンドが添い合うと、やがて圧倒的と言えるノスタルジアな音世界が広がっていく。都会の金属の匂いをさえぎって、草木の香りが漂ってきそうなほど。

 本作はエレクトロニカというより、生楽器の占める比重が高いせいか、ポストロックという言い方ができるかもしれない。もちろんエレクトロニカだろうが、ポストロックだろうが、もしくは他のジャンルだろうが、音楽そのものが素晴しければいいわけだけど、これほど生楽器の使い方が巧いのだから、エレクトロニカ的方向へ向かうのではなく、純粋に生楽器のみの作品を作ってみればさらに素晴しい作品ができるのではと思ってしまう。

 もしかしたらそれもheliosは考えているのかもしれない。なぜなら本作には前作に比べ、電子ビートが強調されている曲はほとんどなく、それゆえさほどエレクトロニカには聴こえず、あくまで生楽器に焦点を絞っているからだ。このユニットに関しては、それが正解だと思う。

helios『unomia』

2007年07月25日 | 音楽紹介
 メロウかつドリーミー。夢の中を漂っているかのような音世界。と書くと、よくあるフォークトロニカの一種としてしか捉えられないわけだが、レーベル「Merck」から発表されたheliosの1st『unomia』は、ピアノやギターにダウンテンポなビートを交えたフォークトロニカの音であることに変わりはないのだが、一味違う。

 あくまで美しく、純粋無垢で、汚れひとつない、というわけではなく、ストリングスの音色はときに歪み、雑音に聴こえることもあれば、鋭利な刃物が切りかかってくるような緊迫感もある。さらにこのユニットは音量も音楽性だと捉えているようであり、モグワイやゴッドスピードのように音量の強弱を操ることで楽曲に破綻を持たせている。しかし、それはあくまで「密かに」であり、じっくりと耳を澄ませなければ気付かない程度のものであって、このユニットを他のフォークトロニカと差別化を計る決定的なものではない。

 では何が優れているのかと言えば、メロディを重視している点にある。メロディを重視するということは、ポップス路線に向かうことだと捉えられてしまうかもしれないが、メロディを重視していても、あくまでエレクトロニカの音である。それは「重視」というより、メロディを「大切にしている」と書いた方がベターであり、メロディを全面に押し出すのではなく、メロディによって生まれる高揚感を大切にしていると言って良いかもしれない。たとえばM7はいくつものメロディを重ね合わせていくことで、聴き手の高揚感を生じさせていることに成功しているように思える。また、生楽器の響かせ方も上手い。海の音をサンプリングしているところも面白いが、これは他のエレクトロニカにも共通して言えることである。

 フォークトロニカという音楽が飽和状態になった今、その先を行くアーティストが必要だと感じる僕にとっては、中々面白いのだが、この作品に関しては音楽としての決定的な強みが感じられないのも事実である。それというのも、聴いていても純粋に感動しないのである。2ndはまだ聴いていないのでそちらに期待したい。

キャラクター

2007年07月24日 | 由々しき独り言
 今日たまたまTVをつけたら番組名は忘れてしまったけど、観たことのない音楽番組がやっていて、それはよくあるトーク番組の側面を持っていたのだけど、いわゆるJポップに焦点を絞ったものではなく、洋楽・邦楽をうまくブレンドした番組であった。そして、僕が見る限りでは、質の高い音楽を紹介する、というコンセプトでもって放送しているTV番組のように見えた。

 というのも、音楽を紹介する際、「音楽性の高いオンガクを求めている人ならばーーー」みたいな台詞が結構あったからである。ここで言う音楽性の高さとは質の高いオンガクと汲み取っていいのかもしれないが、「質の高いオンガク」というものはなんとも曖昧で、なにをもってして質が高いと言えるのかということに対して疑問はつきない。演奏技術的なことを指して質が高いと言えるし、様々な音楽要素をブレンドしたオンガクを指して質が高いと言えるかもしれない。だが、演奏技術が高ければ素晴しい音楽かと問われたら、そうでもない。どんなに演奏技術に優れていても、そのオンガクに感動しなければ音楽としての価値は低い。様々な音楽要素をブレンドすることにしたってしかりだ。

 結局のところ、オンガクの優劣を決めるとすれば、それは感動するか否かだと思っている僕にとって、ジャンルの融合とかそういうことは結構どうでもいいことだったりするんである。

 ふと思ったのだけど、J-ポップと呼ばれるオンガクって、音楽そのものではなく、TV番組でのトークの上手さやファッション性なども含めて評価されているんじゃないか。例えが古くなってしまうけど、TMレボリューションが売れたひとつの理由に、西川(だったかな?)のキャラクターが面白いから、ということもあると思う。もし西川がTV番組に出演せず、彼のキャラクターを誰も把握していなかったら、彼の音楽は評価されただろうか、と思うと疑問だ。

 これは別に西川に限らず、ジョン・レノンやプリンスにも言える。というか全てのアーティストに言えることかもしれない。ビョークやレディオヘッドが好きなひとは、アーティストのキャラクターも含めて愛しているように僕には思える。仮にそうだとしたら、それが良いことなのか悪いことなのか分からない。というか良い悪いを決める必要はないのかもしれない。しかし、ひとつ言えることは、音楽が素晴しくなくてはキャラクターも愛されない、ということだ。J-ポップにおいてはそれが逆になっている感が、たまに見受けられる。