Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

好き?

2005年01月31日 | 音楽紹介
 女好きだよ。うん、俺、女好き? 悪い?
 いやでもあれだぜ? ここで言う好きはあれだぜ?
 女性ヴォーカル好きだぜって意味だぜ? ここ音楽blogだしな。
 ちなみにヴォーカルのヴォは「ボ」じゃなくて「ヴォ」な?
 どうでもいいんだけど。

 でも女の声が好きって言うとちょっとやらしいよな。女性ヴォーカルが好きって言えば全然やらしくないのにさ。
 こういうとこズルイよな。音楽って。
 よくわかんないけど。

 という素晴らしい前フリをしたところで音楽話。
 僕は普通に女性ヴォーカルが好きである。
 ボニーピンク好きだし、バードポンド好きだし、エゴラッピンも好きだし、ドットアリスンも好きだし、と言い出したらきりがない。ちなみに現在、一番好きな女性ヴォーカリストはドットアリスンである。女性歌物を聴いていて、女って怖いわ。と思う瞬間がある。

 さて、このサイトにて、04年年間ベストアルバムに選んだスティーナ・ノルデンスタム。
 ベストページに僕は「上品な歌声だ」と書いたような気がするが、撤回する。確かに上品ではあるが、その奥にどろどろとしたものを感じるのだ。そのどろどろしたものとは恐怖であった。その恐怖は、スティーナ・ノルデンスタム、彼女から吐き出され、アルバム全体をぬめぬめと這い回っている。「わたしを潰さないで」「わたしを殺さないで」「わたしを消さないで」「わたしを殺さないで」「私を見捨てないで」スティーナはそう下を向き、呟くようにそう歌う。音は洒落ているのに、バックサウンドも洒落ているのに、スティーナの音楽からは悲痛な叫びを感じるのだ。

 どんなに着飾っても、どんなに綺麗な音作りをしても、スティーナが持っている恐怖を消すことはできない。それは彼女の個性だと思う。

ぶつぶつ

2005年01月30日 | 由々しき独り言
 今日は友人E氏と高円寺にあるライヴハウスへ行った。
 なんかモグワイやってた。

 あとスティーナ・ノルデンスタムの良品が今日送られてきた。送ってもらった。
 スティーナの国内盤は不良品だったので。
 以上、メモでした。

絶対行くライヴ

2005年01月29日 | 音楽紹介
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3/27
sun. 東京@LIQUID ROOM ebisu
[Liquid Heaven ver.1]
with 勝井祐二セッション feat Yae
SPECIAL OTHERS & Leyona, FLYING RHYTHMS
MELTONE feat元晴(Soil&"Pimp" Sessions)
AURORA(acoustic set), Magnolia
bobin and the mantra, DJ/MOODMAN
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うっわー。この知らせを聞いたとき胸がずっきゅんずっきゅんと高鳴りました。
めちゃくちゃ楽しそうなイベントじゃないですか!
ロヴォの勝井氏。ジャムバンド「メルトーン」。
そしてフジロックでの彼女達の演奏を見て以来ベタ惚れの「ビッグフロッグ」。
これで3000円はお得! 6000円くらいでも行ってた。
「moe.」には行かず、これに行きます。
いやー、楽しみだ。

フィクションCDレビュー

2005年01月28日 | 由々しき独り言
 恐怖を表す音楽がある。
 めずらしくはないが、恐怖を感じさせる以上に、「恐怖の中のやさしさ」という感覚を強烈に、そしてまた雪がとけるように人に与える音楽、それが3人組ロックバンド「トーキョーTKSセレクション69アウアーズ」の4thにあたる『ゴーゴーへブン(邦題「死にたきゃ死ねよ」)』だ。

 「トーキョーTKSセレクション69アウアーズ」(以下アウアーズ略)のフロントマン、マイケル・ガイリッチ・ヤレコフスキは言う。「俺たちは北極のまた北部の過酷な土地で育った。そりゃもう毎日が生きるか死ぬかの世界さ。食パンを食べようにも、寒さで一瞬のうちに凍って、まるで下手なフランスパンさ。かじって歯が折れたことも何度かあったよ。あ、今俺の隣にいるベース担当ロビン・ラヴァネッリ・ヤイモンド、こいつ、全部差し歯なんだぜ」「おいおいやめろよ(ヤイモンド)」「はは、でも、俺たちの音楽から生きることの意味を感じてもらえたら幸せかな。ま、タイトルはゴーゴーへブンだけどな(笑)」。

 インタビューからも分かるようにメンバーの息はばっちりだ。ギター、ボーカル担当ヤレコフスキ、ベースのヤイモンド、そして唯一日本人であるドラマー、タカシによるバンド・アンサンブルは聴く者を圧倒する。
 表情ひとつ変えない冷たく凍り付いた歌声で始まるM1はまるで自分が北極の地にいるかのような感覚をリスナーに与え、吹雪が通り過ぎるように鳴るベースはまさに北極という国で培われた感性から生まれる冷たさと恐怖が同居するサウンドだ。アルバム全体を通し「寒さ」「空虚さ」が存在する。そして何よりも「恐怖」が存在する。その恐怖とは、ホラー映画を観て味わうような恐怖ではなく、北極にひとり残されたとき凍った食パンをかじっているような、いつ歯が折れるのか分からないような感覚。そう、食べなくては生きられない、だが食べると歯が折れる、という生きるか死ぬかのぎりぎりの境界線を漂っているかのような恐怖感だ。

 ヤレコフスキは言う。「思えば俺たちはいつ死んだっておかしくない土地で育った。だけどそこで生き抜いたんだ。生き抜いたんだよ! だからこそ、生と死をテーマに音楽をやってるんだ。みんなに死の恐怖を死ってほしい。毎日が死と隣り合わせの恐怖を知ってほしいんだ。今年2月14日に出るゴーゴーへブン(邦題「死にたきゃ死ねよ」)ってタイトルは、ちょっとしたブラック・ジョークなんだよ」。

 だが、そんなアウアーズに新しい血を抽入したのが日本人ドラマー、タカシだ。去年6月、彼が加入したことによって、アウアーズの音楽は劇的に変化した。サウンドが息をするようになったのだ。彼の奏でる音はどこか暖かみがある。それは祖母の肩を揉んでいるような、母の日にカーネーションを贈るような、やさしさ溢れる人を安らげる音だ。タカシの加入によってアウアーズは手に入れた。生きることは厳しく辛い、だが、やさしさにも溢れている、ということを。

 ベースのヤイモンドは言う。
 「最初は日本人に北極の厳しさが分かるもんかって思ってた。生きることの厳しさも分かるもんかって思ってた。日本も不況らしいけど、北極の厳しさに比べたら不況なんてアリみたいなもんさ。だから俺たちはタカシをメンバーに加える条件として、凍ったフランスパンを食うことを挙げたんだ。俺とヤレコフスキはタカシはきっと逃げ出すと思ってたさ。だけど違ったんだよ。あっさり食いやがったんだよ。タカシは食ったんだ。凍ったフランスパンを食ったんだ。食パンですら歯が折れるんだぜ? 凍ったフランスパンを歯を折らずに食える奴なんて今までいなかったんだぜ? それをあっさり食ったんだ、タカシは。それ以来、俺たちはバンドメンバーという枠じゃ納まらない硬い絆で結ばれたんだ。まったく、大したやつだよ」。

 アウアーズの4th『ゴーゴーへブン(邦題「死にたきゃ死ねよ」)』は生きることの厳しさ、生きる者のやさしさ、死の恐怖、それらが詰め込まれた名盤だ。安定を欲する現代社会に新しい風を吹き込むことになるだろう。

 蛇足になるかもしれないが、アウアーズにやさしさを抽入したドラマー、タカシはこんなことを一言言い残し、インタビューを後にした。
 「やさしさ? ハハ、そんなもん、どこかに置き忘れてきたね」。
 さて、どうだろう。僕らリスナーはそう思わない。タカシさん、ひねくれたあなたはそう言うけれど、『ゴーゴーへブン(邦題「死にたきゃ死ねよ」)』からちゃんと聴こえてきますよ、生の声。
 恐怖の片隅から、あなたのドラムはやさしさを叫んでいる。 

ライヴ予定

2005年01月26日 | 由々しき独り言
 スマッシュやクリエイティヴマンを見る限り、行きたいライヴがあまりない。
 行く事に決まっているのはソニックユースとモーサムトーンベンダーである。あとできればモーにも行きたい。行きたいライヴがないと言っておいて結構行くじゃないか俺。

 見たい演劇はたくさんあるのだけれど。ちなみにベターポーヅに行きます。あと他にも色々行く予定です。

 今年もフジロックに行けるかな。行くと決めたらライヴはなるべく控えよう。あ、でもデスインヴェガスがライヴするなら絶対行く。

カッコつけててカッコ悪い 企画一回目

2005年01月24日 | なんとか企画
 よし、なんか企画しよう。
 そんなことを思ってキーを打っているわけだが、あんま楽しい企画が思いつかないのだな。
例えば、50年代辺りから、年別にアルバム評を書いていこうかというアイデアが浮かんだのだが(50年,51年,52年…・・・02年,03年,04年って感じで)、あんまり楽しくないよね。だからなんだっていう。それに俺50年代の音楽ってチャックベリーとかビルヘイリーくらいしか知らんし。CDレビューを書くこと自体あんまり楽しいと思わないし。
 「有名人が好きな音楽!」ってのはどうだろうか。いや、なんかヤダ。ファッション雑誌の企画みたい。

 そこでだ、テーマを挙げて、それに沿う音楽を羅列する、という企画をやろうと思う。
 まあここで「ロックな音楽」なんてテーマはつまんない。「サイケな音楽」ってのもつまらない。僕が書いててつまらないって話だが。

 だから「プロレスみたいな音楽」とか「巴投げみたいな音楽」っていうテーマでやろうかと思うんだけど、どう? どうって尋ねられても。

 最初で最後の企画になりそうではあるが、行ってみよう、行けばわかる事だってあるんだ。僕は猪木にそう教わった。

 さて、記念すべき一回目は「カッコつけている音楽」である。
 これは、「カッコいい音楽」ではない。「カッコつけているけど、カッコ悪い音楽」である。僕はカッコ悪い音楽も好きだし。「カッコ悪いけど最高じゃん!」ってのは僕の中で最上級の褒め言葉である。

 Cuica / city to city
 カッコつけてるよなー。でもカッコ悪いよなー。でもいい味出してんだよなー。だぶんアフリカだと思うんだけど、そのアフリカ音楽の要素をテクノに取り入れていて、普通に聴いてて面白い。だけどね、この人たち、アフリカ音楽の要素をあくまでクールにクールに聴かせようとしてる。テクノって音楽はロックに比べれば一段熱を冷ました状態で鳴らされている様に思う。で、アフリカ音楽すら、クールに聴かせようとしている。
 無理なわけである。アフリカ音楽ってもともと生活習慣、狩の文化から生まれた踊れる音楽である。みんなでどんちゃん騒ぎするような音楽なのだ。それをクールにしようったって無理があるわけである。でもこの人たち必死でクールにしようとしている。汗水たらして。そこが、カッコつけてるけどカッコ悪い! でもそれがいい味出してる。まるです。

 最初はこんな感じで。

最改新版 旅するバイオリニスト

2005年01月23日 | 音楽コラム
 西荻窪駅の改札を降りたときのこと。駅前は会社帰りのサラリーマンや女子高生で溢れている。彼らや彼女達のしゃべり声、そして電車の音が嫌に耳についた僕は、CDウォークマンのイヤホンを耳に突っ込もうとした。その瞬間、かすかではあるが、バイオリンの音が聞こえてきた。
 最初どこかの店がラジオでも流しているのかなと思ったが、駅前の路地を出るとバイオリンを持った一人の白人男性が立っていた。年は三十代半ばに見える。すらりと背が高く、高級そうな黒い紳士服を着用し、整った顔をしている。そしてその仕草、振舞いは、まるでクラシックのコンサートから飛び出てきたようだった。改札を降りたとき僕の耳に入ってきたのは彼のバイオリンの音色だった。彼は曲を一通り弾き終わると丁寧にお辞儀をし、周りに集まった人々に文字が書かれている紙を手渡していた。集まっていた人々と言ってもわずか三人程度だが。
 紙には「ヤレック・ポヴィフロフスキ」と書かれている。彼の名前のようだ。全く知らない。経歴も書かれていて、なんでも首席で音楽大学を卒業し、有名な賞も取って、かなりのエリートなのだが、「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」という持論から様々な国を転々とし、路上で演奏をしているとのことだ。笑顔を忘れず、聴き入っている人々に愛想良く振舞う彼の紳士的な佇まいに好感を持った僕は足を止め、しばらく演奏に耳を傾けた。
 新宿駅を出た辺りでよくロックバンドやジャズバンド、そしてアフリカと思われる民族音楽をやる人たちを目にするが、たった一人でバイオリンを弾く人は見たことがなかった。
 外で演奏するということは当然騒音も入ってくる。車の音。電車の音。人のしゃべり声。決して音が大きいとは言えないバイオリンを外で弾くことは、周りの雑音によって音が消される可能性が高いわけで、ある種、自殺行為のように思えた。
 それゆえ、環境音楽や現代音楽と呼ばれるブライアン・イーノやジョン・ケイジのように雑音をも音楽として捉え、雑音をも自分の音楽に取り込むような演奏をするのか、もしくは即興演奏をやるのかな、と思ったのだが、全くそのような素振りは無く、ショパンやシューベルトを楽譜どおりに演奏していた。三分か二分に一度の割合でガタンゴトンと電車の音が不器用に聞こえて来る。その度、バイオリンの音はかき消される。全くと言っていいほど聴こえない。僕は外でバイオリンを演奏する意味を解せなかった。
 そこで一通り演奏が終わったとき、片言の英語で「なぜ外で演奏するんですか?」と尋ねてみた。多分彼にとって、この質問は皮肉に聞こえたのだろう。彼の表情は一変した。文字通り体全体のジェスチャーを交え、「何を言っているんだ! どこで演奏したっていいじゃないか。僕はただ、みんなに聴かせたいだけなんだ!」。そう説明してくれた。いや、訴えたと書いた方がベターかもしれない。僕は英語が苦手であるから、もちろん意訳ではある。ただ、彼の表情は真剣だった。
 そうなのだ。元々音楽は生活に密着したカタチで存在し、鼻歌や口笛や、それこそなんでもいいのだが、人がなんとなくリズムに乗って膝を叩く音が音楽であったりした。音楽評論家「小泉文夫」は代表的な例としてわらべうたを挙げている。どこで演奏したって、どんな音を奏でていたっていいのである。
 つまり、「音楽=CD」「音楽=コンサートホールで聴くもの」という概念は音楽を商業または芸術として捉えて初めてでてきたものなのだ。音楽はCDやライヴだけじゃない。小波の音を音楽として聴く人がいるし、東南アジアにはにわとりの声を音楽として聴く人が存在する。
 僕らは、いや、もしかしたら僕だけかもしれないが、「音楽はCDに収録されているもの」「音楽はライヴ会場で演奏されるもの」。そんなふうに音楽を物凄く限定された世界に押し込めてはいないだろうか。
 もちろん音楽が芸術、そして商業として捉えられたことで発展してきた部分は大きいのだろう。CDもレコードもラジオもなかったら、僕らはここまで音楽に夢中になることはなかったかもしれない。だが、発展したがゆえに、芸術として捉えられるようになったがゆえに、音楽に優劣を付けたり、さらにはリスナーにまで優劣を付ける風潮があるのも事実だ。ただ、それが、なんだか哀しいのだ。
 「ヤレック・ポヴィフロフスキ」。彼が西荻窪駅前で奏でたバイオリンの音色は人々の心に響かなかったかもしれない。無視して通り過ぎた人も多数いただろう。それでも彼は今も世界のどこかでバイオリンを弾いている。「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」「音楽とは自由だ」という意思を込めて。
 だが、その演奏に聴き入っていた僕の手には、見事にパッケージングされたCDという名の商業音楽が、黄色くまぶしいタワーレコードの袋とともにあった。

トラックバックには未だに慣れないです

2005年01月22日 | 由々しき独り言
 音楽に優劣はあるとかないとか、そういうトラックバックが来た。
 音楽に優劣はあるか、というテーマはそれこそ色んなサイト、掲示板で論議されてきたテーマであるけれども、なんというか、どうでもいいわけである。なんか、そういう優れている、劣っているという観点で音楽を聴くのに僕が疲れてしまったというのもあるけれど。

 ポピュラーミュージックという言葉がある。これは商業音楽、芸術音楽の総称だ。今CDなりレコードなりにパッケージングされた音楽はポピュラーミュージックである。だが、音楽は、商業・芸術と捉えられる以前にも存在したわけである。それは水の流れる音であったり、人がなんとなくパンパンと手を叩く音であったり、海の音だったりした。
 
 ポピュラーミュージック以前の音楽は、芸術(アート)といった枠に捉えられていなかった。海の音を優れているか劣っているかで聴く人はいないわけである。ただ生活に密着した、というか、生活に溶け込んだ音楽として存在した。

 「この音楽は優れているか劣っているか」という概念(僕はちっぽけな概念だと思うが)は、音楽を芸術と言う枠組みにはめ込んで出てくる概念である。芸術という概念も人間が作り出したものである。その自ら作り出した芸術という枠に音楽を閉じ込めて、この音楽は糞だ、とか言う。

 ただ、僕は今、音楽を、ポピュラーミュージックを、芸術だとかアートだとか、高尚なものとして、特別なものとして捉えていない。僕だけだろうか、音楽を芸術として捉えていないのは。空気を吸うように飯を食うように生活の中に存在するもののひとつとして捉えている人が多いのではないだろうか。音楽を聴くわけではなく、生活の一部として日常に溶け込ませる。そうすると、音楽は、優劣という概念を突き破る。

スーパーカー解散によせて

2005年01月22日 | 由々しき独り言
スーパーカー解散残念だ結構
それぞれの道歩んでメンバー進行 苦い記憶はないさみんなの過去 それは結構 視界は良好 帽子被れば俺もナカコー 値段にすれば結構な格好 明日も行くさ青森観光 森林で鳴くさホトトギスかっこー 

怒られそうなのでやめる。ぜってー上の読んでムカついてる人いるよ。

気を取り直して書く。
スーパーカー解散。別に驚きはなかった。そりゃちょっとは驚いたけど、「なんで?」という思いはなかった。2ndジャンプアップは良かった。3rdフューチュラマも良かった。4thハイヴィジョンも良かった。ハイヴィジョン好きじゃないって人いるけど、ヘッドフォンして結構な音量で聴くとすごいよ。電子音がとても暖かく聴こえる。それに呼応するように生楽器が挿入されていて、より人間味のある電子音楽を作ったと思う。そこに冷めた歌声を乗せて暖かみがありつつもクールな方向に持ってったと思ってる。あくまでクールなんである。なんか感情を剥き出しにするのを避けているような、嫌がっているような印象を受ける。アンビエントなストリングスってやつですか、それも入れる必要性があったから入れたわけではなく、入れることを前提として作られたんじゃない? とか思う曲もある。でも、結果、それがいい方向に向かった。散漫になってないって意味で。(ちなみに僕の中でハイヴィジョンは電子音楽だ)。

でも5thアンサーを初めて聴いた時、なんか違和感があったんである。違和感が快感に変わる瞬間ってのも音楽にはあるわけで、違和感があること自体は別にどってことないんだけど、僕が感じたその違和感は、絶対僕が受け入れられる類のものではないな、というものだった。
スーパーカーの良さのひとつに若さみたいなもんがあった。1stでそれは剥き出しにされているわけだけど、2ndから4thまでの音は若もんが背伸びして大人の音作ってるようなかわいらしさがあった。電子音とかアンビエントっぽい音入れたり、大人な音作りしたり。だけど、背伸びしているんだけれども、衝動は10代そのまんまで、その衝動を抑えようとしてるのに見え隠れして、さらには衝動が爆発した瞬間に、ぱーっと突き抜ける爽快感を与えてくれる曲がたくさんあった。例えばホワイト・サーフ・スタイル・5とか。フェアウェイとか。

だけど5thにはそれがない。僕は衝動を感じない。だから動かされない。もちろん「衝動なんてどうでもいいよ」と思いながら聴けばいい音楽なんだろうけど、スーパーカーってもともとギターバンドじゃん、とか思ってしまう。ギター掻き毟るように弾く姿が見えない。音楽を一歩引いたところで見ているんじゃないかと思ってしまう。稲中の言葉を借りれば「あんときのお前は尖ってたよ!」とかなんとか言いたくなる感じ。
本当に大人になってしまったスーパーカー。思い入れのあるバンドだから解散は残念だけど、その決断について僕がどうこう言うことじゃないのかもしれない。もう彼らは大人なんだから。

ラウンズ

2005年01月21日 | 音楽紹介
 この作品を聴いてからというもの、ウォークマンを持ち歩かなくなってしまった。
 変わることのない日常にひっそり隠れている「何か」を聴きたくなったのだ。そんな静かな喜びをこの作品は教えてくれる。

 フォー・テットの「ラウンズ」である。ポスト・ロックバンド「フリッジ」のメンバー、キーランのソロユニットが作り上げた三作目にあたる。インストゥルメンタルでスロウテンポな曲が続く。エレクトロニック音を多用し、そこにパーカッション、オルガン、ストリングスがやさしく触れ合う程度に添えられる。基本はエレクトロニカだが、木の感触に近く、「フォーク」と「エレクトロニカ」の出会いという意味で、「フォークトロニカ」と表される。
 やさしく表情ひとつ変えない音があふれ出し、耳の中で溶けていく。「ふと気付いたら鳴っていた」。まるで時計の針の音のような、いつの間にか生活に溶け込んでしまう音楽だ。雪がとけるように耳にすうっと入ってくる。ひょっとしたら「刺激のない退屈な音楽」と感じる方もいるかもしれない。

 だが、よく聴くと、そこには日常に隠れている音が散りばめられているのだ。心臓の鼓動のような電子音で始まるM1は、自分で自分の心臓の音を聞いてしまった時のような驚きをリスナーに与え、深夜に鳴く冷蔵庫の音のようなノイズが含まれているM2は日常における不快な雑音そのままなのだ。また、M10の美しいメロディーの中から時折聴こえるサンプリングされた女性の「ア、ア」という声は、子猫に睨まれた時のようなかわいらしい驚きを感じさせる。日常における今まで気付かなかった音に対面したときの驚き、耳を傾けないと聴こえてこない音、それが、このレコードに溶け込んでいる。作者キーランは言う。「聴けば聴くほど何かに気付くような作品を作りたかった」と。
 この音楽は主張しない。決して「こうだ!」と断言しない。「日常ってこうなんじゃない?」「日常の音って案外楽しいものなんじゃない?」。そう問いかける。ただ、問いかける。

 「ヘッドホンをすれば、現実は夢になる」そんなセリフがどこかの映画にあった。素敵な台詞だと思う。だけど、「ラウンズ」を聴いて、非現実感を感じることはないと思う。増して、現実が夢になる、なんてことはないと思う。そこにあるのは、ちょっとした驚きにあふれたもうひとつの日常だ。
 「ラウンズ」を聴いた後、日常の音に耳を傾けてみてほしい。聞こえてくるのは車の音。雨音の可能性もある。もしくは何かの鳴き声? ただ、同じように聴こえていた日常の音でも、ひっそりと隠れていた「何か」が感情を帯びて聴こえてくる。