Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

独り言

2004年11月27日 | 由々しき独り言
 どうもこんばんは。
 この年でみずぼうそうにかかったタカシです。下の日記が異様に暗いのはかかり始めの頃だったためと思われます。
 これからも色々書き連ねていきますのでどうぞヨロシクお願い致します。
 しかし、大人になってからかかるみずぼうそうって辛いっすね。

ヘイ、ナウ!

2004年11月23日 | 音楽コラム
 僕は情報量の多い音楽が苦手なようだ。
 「情報量」などと書いてしまったが自分でも何の情報かよく分かっていない。ただ、黙って耳を通り過ぎていくような、聴いてるのか聴いてないのか自分自身分からないような音楽を聴くことが多いように思う。疲れることがないから。

 おかしな例かもしれないが、恋愛の歌だとか社会批判だとか、意味を持った音楽を聴くと少し疲れるんである。歌詞なり音そのものなり、メッセージ性を持った音楽を聴いて頭の中でそのメッセージを具現化する行為が疲れるんだと思う。単にめんどくさいということだが。

 癒し系と呼ばれるジャンルがあったが、あれだって別に全ての人に「癒し」として作用するわけではないだろう。「癒し系」というジャンルは「これを聴いて癒されてください」とややもすれば命令されているようなメッセージ性を含んでいる気がするんだがどうなんだ。癒し系を聴くとき「癒されたい」とか「癒してください」とか思って聴くと、その「癒されたいと思う行為」自体がなんだかおかしなものであって、僕にすれば逆に疲れるんである。

 色々書いたが単に僕の好みの話だ。「恋してますか?」って人に言われて恋したくないんですよ。「社会はくだらねえんだよ!」って人に言われて社会に唾吐きたくないんですよ。「踊れ!」って言われて踊りたくないわけですよ。

 ただ単に僕が今疲れているからだけかもしれないが。疲れているときは何もしたくない。音楽だって聴きたくない。そっとひとりにしておいてほしい。何も考えたくない。
 そう思っているときに、ふと、聴こえてくる音楽が好きなんだと思う。

ベッドが僕を誘っている

2004年11月22日 | 由々しき独り言
 一睡もしていないのでとてつもなく眠い。目が溶けそうだ。
 ここは音楽について書く場所と決めてあるが、特に書きたいことはない。
 強いて上げるならアビーロードはジ・エンドが好きです。確かポールズ・ブティックでビースティーズもサンプリングしていた。
 おやすみなさい。
 なんだか、やけくそ気味の文章だな。今日。

11/19 「rovo」のライヴに行きました

2004年11月21日 | ライヴ
 織田祐二が映画撮影でタイに行ったときのこと。タイ人と間違われたらしい。
 そのことを振り返って織田祐二が一言。
「ショックでした」。
 なんでだ。

 それでも、なんとなく何にショックを受けたのか分かってしまう自分が悔しく、自分にとてつもなく腹が立つ。僕の想像に過ぎないが、日本人は自ら他のアジア諸国と日本との間に、何か境界線のようなものを引いてはいないだろうか。そんなことを織田祐二の発言から思った。

 そうならば、音楽についても言える気がする。僕はアンダーグラウンド・カルチャーというものについて詳しくないのでそっちの方は知らないが、チャートを賑わす日本人ミュージシャン達の音楽はヨーロッパやアメリカの音楽から多大な影響を受けていると感じる。アジアやアフリカなどからの音楽的要素を僕の耳は感じない。
 意識的にそうしているのかどうか知らないが、まあ、それはそれでいい。自分の好きな音楽の要素を自分の音楽にも取り入れる。自然なことだ。

 さて、「Rovo」である。僕は彼らの音楽からアフリカの民族音楽の要素を感じる。リズムがエスニックというか、どこかアフリカを思い起こさせるし、楽器もどこの国から持ってきたのか分からないようなモノを使うんである。

 19日、その「rovo」のライヴに行ったのだ。場所は渋谷AX。思い出がぎゅうぎゅうに詰った場所である。「ファーリーズのチケット売ります」と書いた紙を持って立っていたらダフ屋に絡まれたこととか、ストロークスのライヴ後、ダッシュでポカリスウェットを二缶飲んだこととか。あとは、まあ、いろいろと、ねえ。あれですよ。

 僕がAXに着いたのは7時15分頃で、既に前座のGOMAが始まっていた。この方、僕好きでした。大雑把に別けて電子音楽には二種類あると思っていて、ひとつは気持ちを吸い込んでしまうようなやさしいモノ、もうひとつは体全体にびりびり響くほどの攻撃的とも言える音圧を持ったモノ。GOMAは後者だと感じた。人をばんっと突き放してしまう音楽だ。だけどそれが妙に気持ちいい。

そんなふうにGOMAに酔っているといつの間にか「rovo」の登場。手にはおかしな楽器を持っている。ステージから離れた場所にいた僕は一体どうやって弾いていたのか見えなくて残念だったが、弓みたいな楽器だった。それをシャカシャカやっている。
 僕はrovoのライヴを見るのはこれで6回目なのだが、毎回サプライズを与えてくれる。え、なにこれ? みたいな。で、その、なにこれ? っていう感情が気持ちよくなっていく瞬間が心地いい。

 だが、全体的に見るに、今回のライヴは「なにこれ?」が心地よさに変わらなかったのだ。演奏した曲は知らない曲ばかりで、多分新譜からの曲中心だったのだろう。その曲たちは、躍り出しそうになるけど躍らせてくれない、という境界線をぐるぐる回っていた。

 そのもどかしさが心地よさに変わる瞬間もあると思うのだが、残念ながら、今回はなかった。僕は新譜を聴いていない。聴けば、そのものどかしさがどこにあるのか分かるのかもしれない。ただ、言えることは、いままでのrovoとは違った、ということだ。

 ライヴが終わりに近づくと、それまでMCを一切交えていなかったメンバーが話し出した。「中西宏司が今日でrovoを離れます」と。僕は彼のことをほとんどと言っていいほど知らないが、rovoの音楽は様々な楽器、エレキギターもエレキベースもバイオリンも、それこそアフリカの楽器とも思われる楽器たちが織り成すハーモニーのようなものでリスナーに高揚感を与えるものだと思っている。彼が抜けることによってrovoの音楽は良くも悪くも変わってしまうのではないだろうか。そんなことが頭をよぎる。

 前述したように僕は新譜を聴いていないが、ライヴで演奏された曲は新譜中心だったのだろう(発売記念ライヴだったようだし)。ひょっとしたら、新譜は彼が抜けることを意識的にも無意識的にもメンバー全員が感じながら作ったのではないだろうか。それゆえ、どこか突き抜けた感覚がなかったのではないか。そんな邪推をしてしまう。

 ラストの曲はrovoを離れる中西氏と初めて一緒に作った曲「SUKHNA」であったという。その音色は素晴らしかった。素晴らしかったのだけれども、どこか寂しくAXに響いた。
 曲が終わり、山本精一が一言。
「じゃあ、また来年」
 その言葉は、まるで一年後、彼がまた同じ右隅に立っていることを期待するかのように、館内にぽつりと残り、そして消えていった。

この畜生めが!

2004年11月20日 | 由々しき独り言
 アウチ!
 ビデオが壊れた。うちはFUNAIという怪しい名前のメーカーのテレビデオを使っていて、そのうち壊れるだろうとは思っていたんですが、案の定今日壊れました。ライヴビデオが観れないよー!
 僕の中でレディオヘッドの「ライブ・アト・アストリア」は一番好きなライブビデオなんです。パブロハニーとベンズ期の曲が収録されているのですが、演奏のテンションたるや壁を突き抜けるほどぶち切れてます。

 僕はもう音楽に救いを求めることをやめてしまったリスナーではあるけれど、高校時代、上記のライブビデオを観て何度救われたことか。クリープの演奏が映し出されるたびに拳を上げ天井を突き抜けるほどのカタルシスを感じていました。そしてストップ・ウィスパーリングがこれまた素晴らしいのだ。プルーブ・ユアセルフもいい。トム・ヨークのカオスへ突入するシャウトが僕を心を震えさせる。
 修理をお願いしなくては。

ビッチェズ・ブリュー

2004年11月18日 | 由々しき独り言
 マイルスのビッチェズが未だ分からない。
 「なんなんだこれは?」
 そんな印象しかない。100回以上聴いているのに。カインド・オブ・ブルーはすごく好きなのに。チャーリー・パーカーも好きなのに。

 音楽に対して「分かる・分からない」というものがどういったものかすら分からないわけだが。
 単純に好きか嫌いかの問題かもしれないが。

 僕の感受性が乏しいの一言で片付けられることかもしれない。
 それでも聴くのだ。いや、なんとなくだけど。

ポスタルサービス

2004年11月16日 | 音楽紹介
 特に好きなジャケットではないのだが載せて見る。

 電子音がチープに聞こえなくもないが、どこか暖かみを感じさせるCDだと思う。M1とM10の出来は別格だと思う。

お茶,飲みたいです

2004年11月15日 | 由々しき独り言
 MSNトゥデイが面白い。
 まずタイトルが良い。読者の興味をくぃっと惹き寄せる。今日のタイトルは「いい女の方程式」だった。MSNトゥデイにあるコラムは読者を限定しているのである。今日の「いい女の方程式」だって男に向けて書かれていない。女性が読むことを前提に書かれているものだろう。だからこそ僕のような人が読んでも面白いんである。野次馬的な感覚で読んでいるわけだが。
 文体が女王様的だと思ったのは僕だけだろうか。「今風のメイクをしてごらんなさいよ!髪の毛をカーラーで巻いてごらんなさいよ!今年流行のツイードのジャケットで決めてごらんなさいよ!」。こんな感じなんである。

 それはいい。話を少し戻す。MSNトゥデイのコラムは「特定の誰か」に向け書かれている。これ、音楽にだって言えるんじゃないかなと思う。例えば僕が大学一年か二年の頃、ドラゴンアッシュがすごいことになっていた。で、続々とフォロワーが登場し、売れた記憶がある。いわゆるジャパニーズヒップホップだ。これは「ジャパニーズヒップホップファン」というファン層に向けて登場し、作品をリスナーに届けていたように思う。そのファン層以外の人に向けては発せられていないように思うのだ。ドラゴンアッシュはどうか知らないけど、つまりそのフォロワーたちは聴く人をあらかじめ特定しているように思えた。

 そう仮定すれば、これはジャパニーズヒップホップに限らず音楽全てに言えることかもしれない。ジャズはジャズファンに向けて発せられているように思うし、最近のロックンロールリバイバルってやつも特定のファン層に向けられて発せられているような気もしないではない。
 ジャンルは記号とも言えるだろう。全然知らない新人のCDにジャンル名が書かれているのと書かれていないのではかなりの差があると思う。リスナーが手を伸ばすか否かという意味で。
 その全然知らない新人のCDにアシッド・ハウスと書かれていたら興味を持つ人がいるだろうし、アンビエント・ハウスと書かれていたら興味を持つ人がいるだろう。
 この間某新人バンドのCDを手に取ったのだけど、そこには「UKロック」と書かれていた。国内盤の帯には「ロック」とか「ポップス」とか書かれているじゃないですか。そこに「UKロック」と書かれていたのだ。
 これはUKロックファンというファン層が出来上がったことの象徴に見えた。
 まとまりがゼロに近い文章ですがこの辺で。

最後の

2004年11月15日 | 由々しき独り言
 この前カラオケに行ったんですね。
 カラオケなんて3,4年ぶりで全然歌えなかった。曲を知らないとかそういうのではなく、単に喉がついていかない。歌っている最中喉がつらいんである。
 で、僕が無理なく歌える曲と言ったらビートルズのヒア・カム・ザ・サンと藤井フミヤのトゥルー・ラヴくらいなんですね。その二曲を歌ったんだが、一緒に行った友人にビートルズの方を気に入った方がいたみたいで、「どのアルバムに収録されてるの?」と聞いて来た。
 カラオケボックスの中ってウルサイじゃないですか。だから「アビーロード」と言わず、もっと分かりやすく「最後の」って言っちゃったんです。実質的にはラストアルバムだし、僕の中では、ずーっとビートルズのラストアルバムだと認識されているし。
 その友人から今メールが届いた。「ビートルズの最後のアルバム買っちゃったー。タカシの歌った曲って何曲目?」と。
 もし、「レット・イット・ビー」の方を買ってしまっていたら、どう謝っていいのか分からないし、とても申し訳ない。

酔っちゃった

2004年11月14日 | 音楽紹介
 おっおう。昨日のアクセス数が普段の三倍になってるぜヘイヘイヘーイ。
 ナルシストのアイロニーだぜヘイヘイ。アイロニーって言葉最近覚えたぜ。詳しい意味は知らないけどねヘイヘイヘーイ。

 「芸術」っていう言葉がある。芸術とは何か、アートとは何か、なんてことは分らないし知らないけど、あんまり好きな言葉じゃない。だって、なんか高いところに位置している感じがするじゃない。高尚っていうかさ。手を伸ばしても届かない。

 この前、って言っても半年くらい前のことだけど、某アーティストの展覧会に行った。展示されていたのは、鏡張りの部屋とか、テーブルの上に石みたいのが置いてあったりとか、僕の目には正直言って意味の分からないものに映った。頭の中に浮かんだ言葉も「ん?」「ん~ん?」とかで、僕の感性なんてそんなもんである。

 でもその展覧会には美術評論家の方がいて、いろいろと説明してくれた。その、なんと言うか、芸術について、アートについてを。説明を聞いているうちに思ったのが、芸術には意味があるということだ。鏡張りの部屋であっても、テーブルの上に置いてある石であっても、その一見無意味とも思えるものから「何か」を汲み取ることに面白さがある、と。作者の方も「何か」を見ている人に汲み取って欲しくて芸術を創作している、と。で、その「何か」を見る側に与えるには単なる鏡じゃだめみたい。単なる石ころじゃだめみたい。鏡なり石ころを、なんらかのカタチに変えて提示することが大事なようだ。ただのモノに意味を付けるわけだから多少難しくしたりしているんだろう。鏡だけじゃだめだし、石だけじゃだめだ。前面鏡張りにした部屋を作ったり、ただ石を見せるだけじゃなく、真っ白いテーブルの上に置いてみたり。

 ただ、思うに、なんだか難しくし過ぎてないか? やりすぎなんじゃないか? と思うモノもあった。美術評論家の方いわく芸術って何かを訴えているわけだ。でもそれ自体が観ている側にとってあまりにも難しすぎたら芸術の「何か」を汲み取るのが困難になってしまうのではないかと思った展示物もあった。一言で言えば「やり過ぎだろ」っていう。

 その「やり過ぎ」に気を付けた音楽家がいる。キエランだ。ユニット名はフォー・テットと言う。彼の作る音楽は往往にして難しいものが多いように思う。意味を汲み取りにくいという意味で。歌詞もないし。そのフォー・テットのラウンズを今聴いている。この作品が何を意味しているかは分からないけど、前作のポーズと比べれば結構聴きやすいんじゃないかと思う。前作まで彼は「フォークとサイケデリック音楽に没頭して」とか、「ジャズのインストを放棄したかった」「“クラウトロックのような催眠的なリズムのあるフォーク”をやりたい」とか、アイロニーという言葉ですら覚えたての横文字に弱い僕からすれば、発言を聞くだけで難しい音楽をやっていたようだ。

 だけど、ラウンズからは難しさを何も感じないのだ。何も考えずただ踊ってしまうような曲もある。またはただ単に落ち着く曲だとか。
 彼はテクニックの持っているやり過ぎに注意したと言う。前面鏡張りにしたり、石を白いテーブルに乗せたりするでもなく、小手先の技術に捕らわれず、感情をそのまま表すような、そんなレコードを作りたかったのではないか。音楽も芸術のひとつであろう。難しくすることで芸術を表現するのではなく、感情をそのままぶつけた。ラウンズはそんなレコードのような気がする。

 だけどちょっとしたおかしさがあるのだ。聴いているうちに酔ってしまう瞬間がある。陳腐で月並みな表現だけど酔えるほど美しかったり、壮大な世界観? みたいな。だがそれを創り手の彼自身も意識しつつ、客観的に見ている。ラウンズのテーマは「新しくて感情的」だとキエランは言う。その自分で制限できない感情的な部分をもやり過ぎに注意し、客観視し、自分も自分で作った音楽に酔っているような。ナルシストってやつか。
 芸術の意味? 知らないよ。音楽って何? 知らないよ。
 ナルシストのアイロニー? それで結構。十分じゃないか。