Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

ネットラジオ放送告知

2007年06月30日 | なんとか企画
 またこりずに、今日もインターネットラジオなるものをやってみようかなと思っていまして、まあ退屈極まりない話を僕が永遠としゃべっているだけだとは思うけれど、音楽について語ろうじゃないか! という心意気でやってやろうかなと。

 ちなみに本日夜12時30分スタート。
 http://crossbonesstyle.radilog.net/
 URL先のページの右側に再生ボタンがあるので、それを押して頂ければ、聴けます。ちなみにチャットとかで話題振ってもらえると小躍りします。

 音楽の話は何もしていないけど、そんな日もあっていいじゃない。今日はそんな気分です。ではでは。よかったらネットラジオ覗いて見てくらはい。あ、ほんとに非生産的なことしゃべんないからね、僕。

フジロック

2007年06月29日 | フジロック
 先ほど今年のフジロックのタイムテーブルをぼけーっと眺めていたら、僕の中でフジロック行進曲が鳴り響き、ああ、行きたいよ、そりゃ行きたいさ、ってな具合に行けたら行きたいのだけど、お金がなく、行けない。

 ハッピー・マンデイズが出るんだね。その次がニュー・オーダーとかならいいのに。僕はハッピー・マンデイズにもニュー・オーダーにも思い入れはないけれど、見てみたいという想いは、ある。パーフェクト・キスを生で聴きてえ。まあ最近のニュー・オーダーには興味がないのだけれども。

 おおう、今またタイムテーブルを眺めていたらオーシャン・カラー・シーンの名前が。僕は彼らをリアルタイムで体験していて、かつ、好きといえば好きなのだけど、じゃあ、どんだけ好きかって言われたら、うーん、と唸る。懐かしいな、なんて思っちゃう。まだ現役なのに。クーラシェイカーもまたしかり。

 しっかし一日目のヘヴンのトリがヨ・ラ・テンゴってのは最高、まさに最高のシチュエーションで、想像するだけでウキウキとワクワクとドキドキを足して3でかけたような気持ちになる。つまり大好きだってこった。他のステージのトリにぴんと来ない人は観とけ観とけ。俺が保障する。あ、キュアーは観たいですけど。

 二日目は観たいの特にないや。あえて言うならビースティーズ。たぶん僕が行ったらヘヴンとオレンジをひたすら往復してそう。

 三日目は凄いね。ボアでしょ? rovoでしょ? バトルズにクラムボン。キングトーンズも出るじゃないですか! えええ、ソウル・フラワー・ユニオンも? 素晴しい日だ。
 三日目だけ、行けたら行きたいな。そんなことを思った夜でした。

金はないが

2007年06月28日 | 由々しき独り言
 向こうの日記に、金がどうのこうのと書いたが、思えば、CD・レコードというものは当然ながら、金を払わなくては手にすることができない。僕のような貧乏人が金を消費するということは、命を削っていることと同義であり、つまりはCDを買い、音楽を聴くことは、命の源と引き換えであることなのだ。まあこれは僕の場合に過ぎないが。

 であるからして、音楽を聴く行為は命を削っているのだから、イッショウケンメイ聴かなくてはならない。十二分に楽しまなければならない。そして音楽を骨をしゃぶるほど、味わいつくさなければならない。それをおろそかにしてしまうと、やらしい話だが、元が取れない。などと、矮小なことを思うのである。

 しかし、なぜ僕は、ギリギリの生活を続けているにも関わらず、金を生活費よりも優先し、音楽を買うのか。そう問われたら、音楽が好きだから、と答えるしかない。音楽を聴く行為とは、ときとして、非現実感を味わうものとして働く。それを現実逃避と捉えることも可能であり、まあそのとおりかもしれないが、僕は音楽を聴く行為とは、現実逃避というより、異文化、異世界に触れることと同義であると思うのであって、それは自分が住んでいる世界の狭さを確認し、世界は広い、未知の世界は永遠と思えるほど広がっている、ということを感じ取れるという意味において、音楽とは素晴しいものであり、その魅力に、僕は抗うことができないのである。

クローサー

2007年06月27日 | 音楽紹介
Closer
Joy Division
WEA/Warner

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 いまジョイ・ディヴィジョンの『クローサー』を聴いているのだけれども、暗いね、これ。いや、暗い、ということは音楽において悪いことでもなんでもなく、逆に底抜けに明るいポップスを聴いているより、楽しかったりする。楽しいというより「共鳴できる」と書いた方がベターかもしれない。

 人は誰しも根暗であると僕は思う。表向きは社交的で、いわゆる明るい人間であっても、実のところ根暗である、という人を何度も僕は見たことがある。孤独だったり、悩みを抱えていたり。

 人間である以上、悩みというやつは誰もが抱えているのだから、つまりは普遍的なものなのだから、苦悩というものが、いつの時代も芸術のテーマとして扱われてきたことは不思議でもなんでもない。もしかしたら苦悩こそが人間の本質を表すものなのかもしれない。

 ただ、その苦悩にもレベルがあり、例えば、ダイエットしたいけどついついケーキを食べちゃう、なんていうものと、息子が殺された、というものとでは同じ苦悩であっても苦悩の重みが違う。

 苦悩とは人間を映す鏡であると僕は思う。ケーキの食べすぎで悩んでいる人間と、高みに上りたいが自分の才能の無さに悩んでいる人間とでは、同じ人間であってもベツモノである気がする。今、自分は何に苦悩しているのか、ということを考えてみれば、前述したように、自分の人間的成熟度を計るひとつの物差しとして働くのではないか。

 音楽から話がそれてしまった。
 冒頭に記したジョイ・ディヴィジョンというバンドは、バンドの中心人物、イアン・カーティスの死という物語性が常に付きまとうものであり、その物語性が不謹慎ながらも音楽を楽しむ上で重要な要素であると考えられている風潮がある。それは僕としては邪道なのである。イアン・カーティスが死んだから素晴しい音楽なのではない。音楽として素晴しいから、素晴しく聴こえるのだ。当たり前だが。これはニルヴァーナに関しても言える。

 ただ、もし僕が、ジョイ・ディヴィジョンを聴くとき、イアン・カーティスが自殺したことを知らなくとも、このバンドが苦悩を抱いていたことは、音楽を通じて感じ取ることが出来たと思う。本当に素晴しい音楽とは、わざわざ音楽の成り立ちやバンドの事情を知らなくとも、苦悩を抱いているバンドだったら、その苦悩が伝わってくる音楽であると僕は思うのだ。それにかけて、ジョイ・ディヴィジョンはずば抜けている存在ではないか。そしてそれが、今なお、彼らが支持される理由のひとつであると思う。

ビースティーズ

2007年06月24日 | 音楽紹介
Hello Nasty
Beastie Boys
Grand Royal/Capitol

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 何気なくCD棚から取り出したビースティー・ボーイズの本盤であるが、これ、確か7,8年前の作品であって、今聴いたら古臭く聴こえるのではないかと一瞬疑ってしまったが、なんのなんの、そんなことは全然なく、今聴くからこそ斬新に聴こえるなんてこともあるんである。

 まずはっちゃけ具合が実によい。彼らは白人であるわけで、黒人ラッパーから見れば邪道なのかもしれないが、その邪道ということがまさに重要であって、邪道だからこそ、やりたい放題できる、ということもある。小気味よいリズム。巧みなサンプリング技術。音響処置もばっちり。ときにジャジーな香りのする楽曲もあり十分楽しめる。これだけ書くと、なんだ、よくできたヒップホップじゃん、なんて言われるかもしれないが、いやいや、ひとつ言えるのは、阿呆なのである。この人たち。

 間抜けで甲高い声がホップする。ウッドベースと民族音楽的なパーカッションの交差。そこにぴろぴろとフルートらしき音がメロディの核として音響空間を泳いでいる。なんつうか、真顔で音楽と睨めっこしながら作られたというより、好きなことを好きなようにやっちゃおうぜ的な意志を感じる。それは時として、どうしようもなく軽いノリではあるが、それがどうした、軽いノリだからこそ生まれる音楽があったっていいじゃないか。本に例えれば、純文学だけもてはやされ、脱力エッセイが否定されるなどという出来事が起こったら、おい、ルネサンス以前に逆戻りだ。

 要はこの音楽は軽いノリであり、阿呆な匂いがするのだということを言いたいのだ。だが、矛盾するようだが、別に阿呆でなくとも、「阿呆に感じられる音楽」ならそれはそれで楽しいのである。しかしビースティーズは本当に阿呆だ。素晴しいことかもしれない。

この世は全てショービジネス

2007年06月23日 | 音楽コラム
 ここ数日、日雇いのバイトに行っていたこともあり、更新せず、風呂に入り、即寝る、といった生活を続けていた。まあ2,3日間だけだが。筋肉痛がひどい。腕が肩から上にあがらないよ! 仕事場はツタヤだったのだが、やる仕事と言えば、荷物運びが主で、汗が猛烈に溢れ出たね。あとはCDやDVDにシールを貼ったり、棚に並べたりといった作業であった。

 肉体的に最も辛い作業は荷物運びだったのだが、精神的に最も辛い作業はシール貼りであった。ただただ、ひたすら、品物にシールを貼る。それだけ。誰にでも出来る簡単な作業である。小学生にだってできる。もしかしたら幼稚園児にだってできるかもしれない。作業自体は本当に楽である。だが、僕は、シールを五時間、六時間貼り続けるという作業に、自分がやる意義を見出せなかったのである。永遠に終わらないと思えるほどの商品を前に、シールを貼り続けていると、この僕という人間が否定されているような気持ちになった。前述したよう、誰にでも出来る。僕がやる意義をどうしても見出せない。「お前はシールを貼り続ける仕事がお似合いだ」と言われているような気がして、つまりはプライドを保てなかったのである。それは僕以外のバイトの人も感じていたようで、ぶつぶつと文句が聞えてきた。モチベーションは下がっていく。それは仕事の能率が下がることを意味する。社員の人から、しょうがねえなあ、といった口調で「あとここまで貼り終えたら、休憩させてやるから、集中しろ」みたいなことをぶっきらぼうに言われた。僕はこの「休憩させてやるから」という言葉からおごりを感じてしまったのである。「させてやる」と言われても、こっちは別にに休憩目当てで作業をしているわけではない。お金が目当てなわけだが、お金以上に、人は仕事にやりがいを求める。この社員は経営工学を学ばなかったのか、などと思ってしまった。

 今書いたことに対して、否は完全に僕にある。金をもらっている以上、何をやらされようと、何を言われようと、言い返せない。ただ、僕はこのシール貼りという作業を、悪意のような感情とともに行なってしまったのは事実だ。

 客は、僕が悪意を込めて貼ってしまったシールとともに、商品を買っていくのだろう。そしてその商品を読んだり、聴いたり、観たりして、感動するのだろう。申し訳ないが、それもまた事実だ。

 僕らは音楽を聴いて感動する。しかし、CD・レコードには、シールやら、帯やらが付いていて、それを付ける作業をする人の中には僕のように嫌々やっていた人もいるのかもしれない。別にシールや帯だけではなく、アーティスト自身も、プロデューサーやらレコード会社から、やりたくもない音楽を強要され、嫌々演奏した音楽がCDとなり、売られるという話を聴いたことがある。かならずしもCDには、善意のみが込められているわけではない。

 しかし、作者やそれに関わる人々が、“本当は”どんな想いで音楽を作ったり、売ったりしているのかを知る術は僕らにはない。嫌々パッケージングされているのかもしれない、プロデューサーに強要され、嫌々作られた音楽かもしれない。CDを買う行為とは、そういったネガティブなものも同時に買うことである。それは資本主義が音楽を産業として捉え、作り出した罪のようなものだ。

 だがやはり、音楽に胸を打たれたら感動するのである。どんなにネガティブな感情が付加価値的にあっても、感動するのである。音楽を聴いて涙し、笑顔になるのは、人間にのみ備わった尊いものである。感動を否定したくはない。だから、感動した、という結果こそが、僕は最も重要であると思いたい。

 音楽が素晴しく、感動したとしても、「ネガティブな感情によって作られた音楽だから」といった理由で、自分が感じた感動を否定したくはないし、逆に、どんなにぼろ糞な音楽でも、「がんばって作った音楽だから」とか「人々が好意を込めて作った商品だから」という理由で肯定したくはない。音楽とは、感動するか否かが全てだ。

 だからお涙頂戴ものの美談とともに売られるような音楽は音楽として素晴しくなければ信じないし、逆にどんなに最悪な人間が作った音楽でも、それが素晴しい音楽なら、それを信じる。最近の例えで言えば、zardのヴォーカリストが亡くなったという話を聴いたが、亡くなったからzardの音楽が売れるといった現象が起こったのだと仮定したら、僕はzardの音楽を聴いているのではなく、ヴォーカリストの死というストーリーをリスナーは聴いているような気がして、音楽として信じられないのである。もし、「死というストーリー性も音楽を楽しむ上でひとつの要素になるのでは?」という言葉があれば、死などという不謹慎なものを楽しむ要素としてしまう人間を僕は信じない。

脱 iPod

2007年06月20日 | 由々しき独り言
 iPodを手放すことにした。理由はいろいろあるけれど、一番大きな理由は、別にiPodを持ち歩かなくとも街には音楽が溢れているから、ということである。街に溢れている音楽とは、時代を反映していると思う。音楽評論家、中村とうようが「ヒットチャートは時代を反映する」と言ったように、喫茶店やファミレスで流れているBGM、そして音楽ではないが、雑音もまた、時代を反映しているように僕は感じる。一日中イヤホンを耳に突っ込んでいたのでは、それを感じ取れないのだ。「感じ取る必要なんてないじゃん」と言われるかもしれないが、これでも僕は一応オンガクライターの駆け出しであるわけだから、音について考えることは決してマイナスに働くことはないだろう。

 あとは、音質の悪さに耐えられなくなったということも挙げられる。僕はポータブル・プレイヤーに音質の良さは求めていないが、iPodの音質はちょっと・・・・・・、という感じになってしまった。
 そしてたぶんこれが冒頭に記した理由より、一番大きな理由だったりするのだが、金欠である、ということである。
 明日は早起きしなくてはならないのでこの辺で。

和む

2007年06月19日 | 由々しき独り言
 ざわざわしている。時折、笑い声が聞えてくる。静寂を感じる瞬間は一時もなかった。駅前のドトールでひとりコーヒーを飲んでいた僕の耳に飛び込んできたそれらの音は、なぜか僕を苛立たせた。だから僕は耳を店内に流れているBGMに傾けた。ジャズを柔らかい音質に変えたような音楽が鳴っていた。その音楽は耳にすんなり入ってくる。低音も高音も強すぎず弱すぎずな音で、人の笑い声やしゃべり声に比べたら、はるかに、と言っていいほど耳に馴染み、朗らかな心地になれた。

 飼い慣らされている、と思った。喫茶店などで流れている音楽は、人を心地よくさせるためであったり、和ませるものであって、音楽を聴かせようという意志はあまり含まれていない。
 だが、人が聴いて和む音楽とは、決して喫茶店でかかっているような音楽だけではない。ハードコアを聴いて和む人がいるかもしれないし、J-ポップを聴いて和む人がいるかもしれない。もしかしたら、現代音楽を聴いて和む人もいるかもしれない。
 しかし、喫茶店でかかっているBGMを聴いて心地よくなった僕は、僕の耳が、世間が考える「和みの音」に飼い慣らされているということだ。

 人のしゃべり声や笑い声も、BGMも、同じ「音」である。しかし同じ「音」であっても、「メロディーがあるもの、リズムがあるもの」を心地よく感じるのは、僕の中で無意識のうちに、無感覚的に、「音楽かくあるべし」というものが出来上がっているからだと思う。音楽がなかった時代だってあったのだ。その時代には、人の話し声を聴いて和むひともいたかもしれない。そんな話を聞いたことがある。

 喫茶店が意図的に提供した和みの音に和んでしまった事実に、なんだか悔しかったのだ。

楽しむ 2

2007年06月17日 | 音楽コラム
 昨日、どんな音楽も視点を変えれば楽しく聴ける、みたいなことを書き、事実僕はそうであると思う。僕はモーニング娘の音楽を面白いと思ったことはないけれど、ゴトウマキの歌い方がエロいとか、プロデューサーつんくの作るいかにも歌謡曲なメロディーが良くも悪くも笑えるとか、メンバーの年功序列が音楽からも見て取れるとか、そういう観点から聴けば、楽しいっちゃあ、楽しい。
 
 ただ、これは、音楽ならなんでもいいというわけではなく、音楽を楽しむ方法はたくさんある、ということを言いたかったのである、昨日の僕は。そしてどうせ聴くからには楽しく聴けた方がいいじゃん、ということも言いたかったのである。

 しかし、これらを批評という観点から見ると話は違ってくる。昨日もちょろっと書いたかもしれないが、わざわざリスナーが、音楽を楽しむ努力をしなくとも、面白く聴こえる音楽こそが、アート足りえる。たとえ趣味思考から外れた音楽であっても、その音楽の世界に引きずり込まれる音楽こそが、アートとしての音楽である。それだけは念を押しておきたい。

楽しむ

2007年06月16日 | 音楽コラム
 時々思うのだけれども、なにか特定の対象に向けて「分からない」と卒中、口にする人は、「分からない」のではなく、「分かろうとしていない」のではないか。たとえば、携帯電話の使い方がよく分からないと僕の親にあたる世代はよく言うが、携帯電話の使い方など楽である。少なくとも自動車の免許を取るよりずっと楽だ。そこに分かろうとしない努力の欠如が僕には透けて見える。

 これは音楽にも言えることであって、特定の音楽に対し、「良いと思えない」という人は、その音楽を「良いと思えるようになる努力」みたいなものを怠っているからではないかなと僕は思う。いや、もちろん、何度聴いても良いと思えない音楽はたくさんあるように思うし、個人の趣味嗜好の問題だってある。そもそも音楽を良いと思える「努力」などというものをする必要があるのか、という疑問もあるが、まあ、どうせなら、どんな音楽であっても、楽しめた方がいいじゃん、という感じなのである、僕は。

 例えば、僕はボブ・ディランをさほど良いと思ったことがないのだが、彼がどのような心情で音楽を作ったのか、ということを調べてみれば、楽しく聴けちゃうこともある。電化後のマイルス(特にオン・ザ・コーナー)にしても、ロックやファンクへの挑戦、もしくは反抗という意味を汲み取って聴けば、何も知らずに聴くよりは楽しく聴ける。

 まあ音楽家はあくまで「音楽」によって食っているわけだから、音以外の付加価値を汲み取って聴くのは邪道なのかもしれない(僕は邪道と思っている人だ)。ただ、付加価値を汲み取って聴くことで初めて気付くこともあるわけで、たとえ邪道であっても、それは音楽を楽しむひとつの方法であると思う。

 ちょっと話が複雑になるが、前述したように音楽家は音楽で食っているわけだから、その音楽から歴史的背景だとかメッセージ性をリスナーに与えられない音楽は、音楽家としてさほど優れていないのではないのか、という疑問もある。それでも、楽しもうとせず、ちょろっと聴いただけで駄作だと切り捨てるよりは、楽しんでやろう、みたいな気持ちで色々と音楽について調べてみる方が面白いんじゃないだろうか。