Rock ? Stock ? Nonsense !!

 あいつが俺で、俺がわたしで音楽で!
 そんな愉快痛快音楽blog
 ロック? ストック? ナンセンス!

「無人島に持っていきたいレコード」に選ぶべき一枚とは

2004年08月31日 | 音楽コラム
「一番好きなCD」または「一番思い入れのあるCD」を問われることは多くはないが少なくもない。
そこで僕が答えるのは前者はラヴレス、後者はザ・ベンズである。
数年後はツェッペリンと答えているかもしれないし、イギ-ポップと答えているかもしれない。30年後なんかひょっとしたら日本酒飲みながら演歌聴いてる親父になっているかもしれない。まあそれはそれで。
とにかく「好きなCDは?」なんて聞かれたら即答だ。迷いなし。もう直感で答えてしまう。状景反射ってやつですよ。
「好き」だとか「思い入れがある」ってのは「とにかく理屈抜きで好きなんです!」みたいな感覚的なものが大きいから答えやすいって言えば答えやすいんである。

だが、たまーに出てくる「無人島に持っていきたい一枚」ってやつ、これ、なかなか手ごわい。
無人島?
なんで無人島なんだ?
「海外に持っていきたい一枚」とか「一人で聴きたい一枚」とかじゃ駄目なのか。別に便所に持っていきたい一枚でもいいじゃないか。
そんな疑問が頭の中でくるくる回るがこの質問においてその意味を考えること自体、ある種タブーである雰囲気がある。知らんけど。

思うに、この「無人島に持っていきたい一枚」というやつはセレクトセンスを問われているのではないかと。
この質問をされるのは有名人が多い気がする。ミュージシャンにしろ俳優にしろ、映画監督にしろ、とにかく有名人が答えているイメージがある。数年前のどこぞやのファッション系雑誌では石田イッセイとか三浦淳とか、そっち方面の方々がお気に入りの音楽を熱っぽく語りながら「無人島に持っていきたい一枚」に答えていた。
何のCDを挙げていたのか忘れたが、なんか「お前それ絶対違うだろ」的なちょいとシャレてるCD挙げてた。

あるじゃないですか、シャレてる音楽って。別に音楽自体がシャレてるわけじゃないんだけど、シャレたイメージを持つ音楽。例えばナラ・レオンとか、例えばの話。実際有名人さん達が何挙げてたか忘れたけど。
ナラ・レオンってボサノヴァやってるってことでちょいとシャレたカフェなんかで流されることがあるけど彼女の歌ってることってブラジル社会への不満とかそんなんなんですよ(そんなんなんって響きいいな)。

話がずれてる。
「無人島に持っていきたい一枚」ってつまり「あなたの音楽センスを拝見させてください」ってことのような気がするんだな。「音楽センス」って言葉も何かすっきりしないですけど。

ここでシャレたカフェかなんかでかかってるCDを挙げちゃつまらない。「最近流行りの」みたいなCDを選んでもカッコつかないって言えばつかないかもしれない。
では格好のつくセレクトとは何なのか。

小嶋さちほが「無人島に持っていきたい一枚」として挙げたのは、死んでしまった夫「どんと」のソロ自主制作盤「ごまの世界」だという。
けっこういい話だ。
さすが有名人。役者が違うとはこのことか。
小嶋さちほが有名かどうか微妙ではあるものの。

CD棚

2004年08月30日 | 由々しき独り言
最近良く聴いているCDはコンポの前に積んでおく傾向が僕にある。
大体10枚から30枚。
そこで今現在コンポの前に積んであるCD列挙。

autechre / ep7
va / you are here
sugiurumn / our history is made in the night
va / all tomorrow's parties 1.0
akufen / my way
pj harvey / rid of me
pj harvey / stories from the city, stories from the sea
pj harvey / uh huh her
sonic youth / a thousand leaves
sonic youth / murray street
sonic youth / sonic nurse
wilco / summerteeth
wilco / a ghoast is born
mathew sweet / girlfriend
think of one / marrakech emballages ensemble 3
unkle / never, never, land
radio 4 / gotham
the doors / the doors
lou reed trans former
talking heads / remain in light
jack johnson / on and on
donavon frankenreiter / brushfire records
miles devis / birth of the cool
miles davis / kind of blue
the jisus and mary chain / honey's dead
dinosaur jr / in session
downy / 4th
television / marquee moon
the rapture / echoes
joao jirbert / 三月の水

結構あるな。だからなんだと言われればそれまでだが。
一週間後はがらっと変わっている可能性もある。

日本のフォーク

2004年08月29日 | 音楽コラム
「フォーク」と聞くとボブ・ディランが頭に浮かぶ。またはエリオット・スミス。
この二人全然系統違うけれども。

さて、ちょっと前に某編集者Dさんと音楽の話をしているとき、「フォークは死んだ」という話になった。ここで言う「死んだ」という意味は「フォーク・ミュージシャンの人たちが自分のことをフォーク・ミュージシャンと呼ばなくなった」という意味だ、とはDさん。
「今の日本でフォークの人たちはみんな自分のことをアーティストと呼ぶ、それが気に食わん」「アーティストだあ? フォークだろ! フォーク・ミュージシャンだろうがよ!」と。

海外のことは分からないが、日本では60年代、反体制、自主独立などの理念に沿って活動していたの者たちを指してフォークと呼んでいた。60年代欧米でロックが反体制、思想の一つなどの要素を持っていたのに対し、日本ではフォークがその欧米のロック的なスタンスを取っていた。
日本においてはフォークがプロテストソングだったわけだ。

今の日本において、フォークはプロテストソングとして捉えられていない。フォークが反体制、反社会、みたいな意味合いを持っていない。

フォークが反体制、反社会と捉えられていた当時は、自らを「フォーク・ミュージシャン」と呼ぶことは反体制を訴えていることと同義だった。
前述したように今の日本でフォークは反体制と捉えられることはまずないと言っていい。
そのため、「フォーク・ミュージシャンである」と自称することに抵抗があるのではないか。そして自称する必要もないのではないか。

そこで代替する言葉として「アーティスト」をフォーク・ミュージシャンの方々は選んだのではないだろうか。
想像に過ぎないがそんな気がする。

さらに個人的な意見を書かせていただくが、反体制、反社会といったふうに社会に影響を与えるほど影響力のある音楽というのは今ないと思う。今の日本において社会的影響力を持つ可能性のある音楽はポップスだと思っている。スマップやモーニング娘がブッシュ批判の歌を過激な歌詞にのせて歌えば物凄い反響があるだろう、ということである。
だが、絶対歌わないだろう。その時点で僕は社会批判的影響力のある音楽は存在しないと思っている。

それに人々は「ブッシュを蹴散らせ!」だとか「こんな社会じゃ駄目だぜ!」みたいな音楽を必要としていない。ただ自分の気持ちをやわらげてくれるもの、等身大の自分の気持ちを代弁してくれる音楽を必要としているのではないだろうか。
その結果、売れているのがスマップや浜崎あゆみだと思うのだが。

話を戻すが、反社会的音楽を必要としていない今の日本で、反社会的ニュアンスを持つフォークという言葉が消えてしまったのもある意味必然なのではないだろうか。
「フォークは反社会的だ」という事も消えてしまっている気はするが。
そんなことを思いながらジャック・ジョンソンのハワイアン&サーファー的フォークを今聴いている。

yahoo! musicからの記事

2004年08月28日 | 由々しき独り言
PJハーヴェイ・アト・フジロック

上のリンク先をクリックしてみる。
写真ではあるが、PJハーヴェイの姿を観るたび胸が高鳴ってしまう自分がいる。
もしかしたら僕のフジロックベストアクトはPJハーヴェイかもしれない。

さて、先に挙げたリンク先の記事。次のような記述がある。

「ただ、やっぱり会場が大きすぎて、PJハーヴェイの曲と一体になるというより、PJの想いだけが一方通行で観客が静かに聴き入ってしまう分、ちょっとした空虚感が漂ったのも事実。」

いや、それちゃいますよ。
静かに聴き入っているからといって一体になっていないわけではないです。
想像するにURL先の記事に書かれていた「一体になる」ということはオーディエンスも盛り上がること、のような気がするのだが、静かに聴き入るというのは、鳴らされている音楽をしっかり受けとめていることだと思う。少々臭いセリフになるが、目を瞑って音楽と向き合っている瞬間、それは音楽と会話している瞬間でもある。一体となっている瞬間でもある。

会場全体とは一体となっていなかったかもしれない。だが、一人ひとりのオーディエンスとは一体になっていたのでは。そう思うのだが。

久しぶりに聴いてみた part 1

2004年08月27日 | 音楽紹介
「the verve」の「urban hymns」を久しぶりに聴いてみたらこれがとても良い。
このCDが発表されたのが97年だから、「OK computer」と同時期か。
僕は「97年」と聞くと「OK computer」ばかり聴いていたのでその印象が強く、「97年=OK computer」みたいなどこかの音楽誌そのままの思考回路を取る。
NMEだったかローリングストーンだったか忘れたが、「OK computer」と「urban hymns」のどちらを年間ベストアルバムにするか迷った、という話を聞いたことがある。
結果「OK computer」がベストに選ばれた(と思う)。

「the verve」の「urban hymns」は「OK computer」と比べられたということもあってかどうか知らないが、結構メディアにも取り上げられていた記憶がある。
ジャケットの趣味も悪くない。「bitter sweet symphony」のPVもかっこいい。

どうでもいいことを書き連ねた。どうしてもね90年代後半を振り返ると色んな想いがオーバーラップしてくるっていうかね。グラウンドの真ん中で叫んだあの日の事とかね。本当はたいした思い出ないですけど。

で、「the verve」の「urban hymns」なわけだけど、サイケに対する解釈が深い。サイケと言えば「the velvet underground」がそうだったようにドラッグによる幻覚作用をそのまま歌ったような、または音楽に取り入れたような、そういう音楽だと僕は考えている。
「the velvet underground」と音楽性に共通点を見出せる部分は少ないと言えど、「the verve」もまたサイケデリア的だと思う。そこにあるのは「sister ray」のようなこめかみの部分に来るものではなく、「what goes on」の後半で見せるストリングスを前面に押し出し、ハーモニーによって生まれるサイケデリアをもっとどろどろさせた感じ。
「the verve」本人達は「urban hymns」をサイケアルバムだと意識してないのかもしれないけど、M5の「catching the butterfly」を聴いちゃったら「君達はサイケをやりたいの?」と言いたくなってしまう。曲名からしてモロじゃないですか。

サイケサイケと連発しているけれども、「urban hymns」はかなり聴きやすい。皆が口ずさめるポップ・ソングとして完成している感がある。「oasis」と比べられることが少なからずあったけど、それは大衆性も兼ねそろえていたからではないか。その聴きやすい、歌いやすいという大衆性の中にどろどろしたサイケ感が山ほどふりかけられている。もう大盛り。そこが好き。「sonnet」とかは普通にいい曲なだけだけど。
1stも2ndも好きではあるけど「urban hymns」ほどの大衆性は持ち合わせていなかった。

ロックンロール・リバイバル・ムーブメント真っ最中の今、「urban hymns」が発表されていたらどうなっていたか、想像すると胸が高鳴るものがある。
だって僕は「travis」と同等、もしくはそれ以上のグッドメロディーを書いているバンドだと思うし、系統は異なるが「franz ferdinand」以上にポップでアグレッシブだと思う。

「ポップでグッド・メロディーでサイケデリック」
今の音楽シーンに精通している方は「そういう音楽は今もたくさんあるよ」と言うかもしれいないが、5,6年前を振り返ってみても結構面白かったりする。

動けなかった

2004年08月26日 | 音楽紹介
なんだかパソコンの前に座って文字を打つのが久しぶりな気がします。
でも打たなきゃいられない。じっとしているのが勿体無い。
今そんな気分。少しばかり興奮しているんです。

思えば僕が音楽を聴く理由というのは、どんな種類であれ、何らかの感動を欲しているからなわけで、何も感じなかったら音楽なんて聴いてないと思う。
「音楽を聴くのに理由なんて必要ない」
そうおっしゃる人もいるかと思うけど、意識的にも無意識的にも人々は音楽に感動を求めているような気がする。楽しい気分になりたいから聴く、踊りたいから聴く、もしくは静寂が怖いから音楽を流す。
色んな理由があると思うけれど、いずれにせよ気分を心地よくしてくれる音楽を誰もが欲しているのではないかと。

それで今日、一枚のCDをウォークマンに突っ込んで吉祥寺を歩いていたんだけど、途中で足が動かなくなってしまった。ウォークマンの再生ボタンを押して3秒後くらいに歩けなくなってしまった。
これは別にケガをしたとか、痙攣が起きたとか、そういう理由ではなくて、ウォークマンから流れてきた音楽が僕に鳥肌を立たせた。

レディオヘッドが妙にまとまっちゃった今、僕の音楽的嗜好が妙に小奇麗になってしまった今、音楽を聴いて鳥肌立てて涙流すなんてこと、もうないと思ってた。

吉祥寺のとある道の真ん中で、僕は自分が泣いているのを周りにばれない程度に下を向いてその音楽に耳を澄ませた。
「PJ Harvey / rid of me」
とんでもなく切迫していて絶望的でカッコいい音楽。
そういえばフジロックでの「PJ harvey」は持っているギターがナイフに見えるほどぶち切れてた。

タイトルの由来

2004年08月23日 | ご挨拶
全ての人にとってどうでもいいことだろう。僕にとってもどうでもいいことだったりするから困りものだ。
タイトルの由来の話である。

中島らもが始めてバンドを組んだ時、バンド名に苦労したという。とにかくインパクトのある名前を付けようとしたらしい。
その結果が「ごねさらせ」だった。

その響きに驚愕した僕は負けじとBLOGの名前を考えた。インパクトを与えるネーミングとは何かと。
その結果が「由々しき部屋の隙間から」だった。
今思えば懐かしい思い出である。ついこの間のことだけど。

いいかげん僕もこの名前はさすがにイケテナイことに気付き、さっき変えた。
ふと頭に浮かんだ言葉がこれだからしょうがない。フィーリング重視でいきたいと思う。
そのうち向こうの日記のタイトルも変えようと思う。
いいかげんイケテナイことに気付いたので。

ではイケテイル名前とは何か。
中島らもは言う。
「意味不明なものほど評価される」
なるほど、多分僕は間違っていない。

頭痛の日に聴きたい音楽

2004年08月22日 | 音楽紹介
比喩ではなくて本当に痛い。
こめかみの部分を後ろにひっぱられているような感じ。たぶん風邪ではないと思う。

音楽を物理的に言えば空気振動である。その空気振動を足でもなく手でもなく腹でもなく、耳のみが高音低音など多種にわたる振動の違いを感じ取れる唯一の器官なのである。
なんてなんだか音楽学じみた言い回しだな。

頭痛のする日は動きたくなくなるってもんで、余計な刺激も体に受けたくなくなる。よって、僕は空気振動によって耳を刺激する音楽を頭痛のする日は聴かない。いや聴けない。
時として頭痛がひどくなってしまうことも否定できないから。

だが頭痛のする日であっても、聴きたくなる音楽があるのだ。
音楽は空気振動だが、その空気振動も、低音が特に振動する。今僕がハウス・ミュージックを大音量でかければ隣の部屋から苦情がくるのは目に見えているし、ハウスの低音とその苦情の声によって僕の頭痛がひどくなるのは目に見えている。

そこで僕が頭痛のする日に聴く音楽と言えば一つだけで、ボサノヴァの神と呼ばれる「ジョアン・ジルベルト」の「声とギター」、「ジョビン」の「ウェイブ」なのだ。

まあ

2004年08月21日 | 由々しき独り言
作家に音楽好きは多い。
安部公房はピンクフロイドの大ファンだし、村上春樹はジャズマニアと聞いた。
多いと言っておきながら二人しか思い浮かばないのが情けないが。
なんだか頷ける話だから面白い。
とまあこんな感じで。

あれっぽい

2004年08月20日 | 由々しき独り言
なんてことはない。
風邪っぽい。
重要なのはこの「ぽい」の部分であり、風邪をひいたわけではなく、風邪の前兆であり、それはちょっとばかし寒気がしたりダルかったり、食欲がなかったり急に水分がほしくなったりというだけであり、この「風邪っぽい」というのは風邪をひいたことと同義ではないのだ。

考えてみてほしい。今俺ね、「風邪っぽい」からちょいと風邪薬を飲んでみたわけさ。するとどうだ、風邪薬を飲んだ瞬間、具合の悪さなんて全く感じなくなったのだ。病は気からなんて言葉もあるくらで、これは決して「薬が効いた」という訳ではなく、「薬を飲んだ」という行為が「薬を飲んだから体調は良くなるはずだ」という自意識を生むからであり、まさに前述した病は気からなのである。

結局のところ、その「気」で治るくらいであるから、僕は風邪なんて病気にかかっていたわけではなく、「風邪っぽいな」という自意識が自己暗示を生んでいたわけさ。オーケイ?

でさ、この「~~っぽい」って表現、音楽を紹介されるときによく使われる。今だったら「オーディナリーボーイズ」が話題になってる。雑誌またはネットなどのメディアを中心に。
僕はCDを買って通して聴いてないし、試聴した程度であるから偉そうなことは言えないけれども、少し聴いた限りだと、「ブラーっぽいな」って思った。

オーディナリーボーイズはブラーが好きみたい。どこかでメンバーがブラーを肯定する発言をしていた記憶がある。キンクスも好きみたい。
好きだって言うくらいだから、ブラー、キンクスからの影響も少なからずあるんだろう。僕が聴いた限りだとブラーっぽかったりキンクスっぽかったりする部分もあった。

で、僕はこの「~~っぽい」って部分を拡大して聴いている感がある。それは良い悪いの問題ではなく、どうでもいい部分なのかもしれないが、やっぱり「ブラーっぽいな」なんて思いながら聴いている感は確実にある。

そこで思うのは、ブラーもキンクスも聴いたことがない人がオーディナリーボーイズを聴いたときの印象と、僕が聴いた時の印象は異なるんじゃないか。
例えばの話、バッハしか聴いたことがない人が初めてオーディナリーボーイズを聴いた時の印象と、オーディナリーボーイズのルーツと言われているキンクスだとかスペシャルズだとかジャム、フー、クラッシュなどをとことん聴いている人が初めてオーディナリーボーイズを聴いた時の印象は全く異なるんじゃないか、と思ったりする。一応断っておくけどどっちが良いとか悪いとかそういう話ではなく。

調べたわけじゃないから本当に聴こえ方が全く違うのかどうか分からないけど、聴こえ方が全く異なるとしたら、音楽っていうのは音楽自身が発している音が普遍的というか絶対的なものではなく、今まで自分が聴いてきた音楽(音)によってころころ聴こえ方が変わるんじゃないか。なんてことを思ったりもする。

今日、モグワイのキッズ・ウィル・ビー・スケルトンズを夕日を観ながら聴いた。そしたらオリンピック水泳の北島よろしくちょー気持ちよかった。
部屋であぐらかきながら聴いているときと全く印象が違った。
要は「音楽自体」は何も変わっていないのに、環境によって音楽の「聴こえ方」ってころころ変わるのだ。
こういったことは音楽心理学の本を少し開けばまるで一般常識のような感じで載っていてあれだけれども。「あれ」って何か分からないけども。

話がかなり分からなくなってきた。
あ、今少しくらっときた。やっぱ風邪かも。ではこの辺で。オヤスミ。
まだ八時だから寝ないけど。