過疎地域の村からの無責任な世捨て人の呟き

限界集落の村でクラシックギターを勉強しながら日頃感じている疑問を発信します。賛否両論あると思いますが議論しましょう。

美辞麗句(日本語に対する1考察)

2016-10-22 20:40:43 | 日記


以前にも書いた記憶がありますが、言葉だけは綺麗に心の中ではベロを出している(覆面背離)事が今の日本には多すぎる気がします。「自分は文章を書くのが苦手で」と言う逆に言えばブロガーの文章をおほめ頂いてるのかなと思えるような温かいコメントを頂きました。

何度も幾つもブログを読ませて頂きましたが本当に穴が有ったら入りたい心境でした。

冒頭の記述でも冷静に読んでみると知らず知らずの内に言葉を整えよう整えようとしている自分に気づいている自分が居ます。何度も書きましたが敬愛する「岡林 信康氏」のデビュー時にある評論家が「誰も遣らなかったことだが、日頃のふるうに使われている猥雑な言葉を其の儘歌にしている。」と言われた事があります。

言葉をいじると何故か真実が消えます。皆さま自分で何かを書きそれを推敲した時、自分が本当に言いたかった事がうまく表現できてないと思われた事はありませんか?

逆に言えば、政治屋や警察幹部が幾ら取り繕うとも「土人」「シナ人」はその人の真実であり、現在の心の表現であるとブロガーは思います。その心根に至った経過は分かりません。家庭がそうだったのか、本人の意思か、教え込まれたか、強制されたのか幾つもの要因が考えられます。この言葉の根底には何がありそして誰が居るのでしょう。

最近漸く疑問が表面化して来ましたが芸能人の「やらさして頂いた」調の如何にも下司の人気取り的表現で、ほとんどの人が同じ言い回しを使うと言う事は一種の言論統制のように思えてなりません。

これも以前書きましたが「故 井上ひさし氏」の著作の中にこの点に触れているものがあります。設定ではある役になった彼の夢になっていますが、滝沢馬琴の文章が出て来ます。今の法律に照らせば「馬鹿」は知的障害のある人、お妾は結婚した女性以外の愛する女性にしなければなりません。極論すれば、「メクラ」「つんぼ」「ちんば」「オシ」等は誓えません。

夢の中で馬琴は言います。「言葉を換えれば、それは自分の文学作品ではないし、その前に作家としての自分が居なくなってしまう。」と。井上氏はそこで目が覚めるのですが、彼曰く「状態は言い回しを幾ら変えても変わっていない。現状に対する取り組みこそ重要であって言葉遊びに流れている。そして日本人とは言い回しを変えることで何か良いことをしたという気分になってしまう人種だと行っています。

ブロガーの表現力のなさでどのくらいお伝えできたか分かりませんが、嘗ての細川さんの時から違和感を覚えていた「御議論」や「真摯に受け止めて」「与えられた仕事を全うすることが国民の信頼にこたえる事だ。」等不祥事が起きればまたは起こせば言葉で切り抜けようまたはこういう言い回しにしようという取り決めがあり、誰と誰が「キツク𠮟り置くが辞任には当たらない。」といい、もう少し度が過ぎると「議員の出処進退」は本人が決めるものと言う言い方に代ります。

余り議員辞職する人はいませんが衆議院議員ともなると補選に2億5千万円の税金がかかります。言葉は決して真実を伝えるものではありません。当然のことながら嘘と言う人間本来の保身と言う本能が働くからです。

彼らの言い回しでは国民に寄り添うのが政治だそうです。残念ながらブロガーには寄り添ってくれる方はおられません。

岡林氏ははっきりと貧乏が悪いと言われました。立派な政治屋さんはどんな綺麗な言葉を使って現状を表現するでしょうね。それが信じられるかどうかは別ですが。

我々も言論弾圧法に怯えるのではなく現実に対処できる言葉を作りましょう。言葉をもっと大切にしましょう。政治の根本の様な気がします。

本当に寄り添ってくれる人に政治を任せましょう。


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1 コメント

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美句 (ケンスケ)
2016-10-24 07:36:47
仰っしゃる事理解出来ます
最近は言葉を飾り真実を覆い隠しているような気がするのは俺だけしょうか
政治家の決まり文句は流行語のように形ばかり
多くの国民は真実を見ることなく自分で綺麗事だけを選んでしまっている
今は飴・飴・飴をばら撒き次に来る見え隠れしているムチ・ムチ・ムチ
愚かな国民の姿を見ると悲しくなります
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