木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

中條景昭の奮闘~静岡茶と旧幕臣

2011年09月23日 | 江戸の幕末
静岡県は日本一のお茶の産地である。日本全体のお茶生産量の40%のシェアを占める。
(ちなみに2位は鹿児島で同20%、以下三重、京都と続く)
中国から伝来したお茶は、奈良時代には日本にも存在した。
しかし、量産されるようになったのは最近である。
知られているようで、あまり知られていないお茶の黎明期についてQ&A方式で書いてみたい。

Q1.静岡でのお茶の生産はいつからこのように盛んになったのか?

A.お茶の生産が盛んになるのは、明治に入ってからであった。これは海外との貿易が始まり、お茶の輸出が急速に拡大した事情による。輸出需要に応えるべく、これまた急速に栽培面積を増やしていったのが静岡である。
静岡県榛原郡金谷町以南に広がる牧之原台地は面積5千ヘクタールに及び、静岡のお茶の生産面積の4分の1を占める。牧之原は古くは布引原とも呼ばれ、荒涼の地であった。
ここに開墾団として入ったのが、徳川慶喜の護衛を目的として作られた幕府精鋭隊の武士たちであった。精鋭隊の武士は、徳川宗家を引き継いだ家達が駿府に赴くのに従い、久能山付近に住んでいたが、無禄移住であり、自分たちの飯の種を自ら見つける必要性があった。中條景昭を隊長として、彼ら二百二十戸が牧之原に移ったのは、明治二年(1869年)。この年から静岡茶の歴史は新たな一歩を踏み出したと言える。

Q2.誰が牧之原への移住を言い出したか?

A.勝海舟のアイデアであると書いてある記事や文献を見ることがあるが、これは完全に間違い。
実際は松岡神社までできている松岡萬が大井川水路を視察に行ったときに見つけたのか、あるいは後に静岡県知事になる関口隆吉が見つけたのか、景昭が言いだしたのか諸説あるが、単独の意見ではなく新番組(旧精鋭隊)の内部で合議の結果、ここを開墾するのがよかろうという結論に達したと思われる。景昭は勝海舟の許しを得て、この荒れ果てた地を貰い受ける。
明治三年には大谷内竜五郎率いる彰義隊の残党八十五戸が入植し、三百戸以上の人々が牧之原に入った。
開墾した地で栽培する作物にお茶を選んだのは、お茶の輸出増加を見据えた上での勝海舟の卓見であった。

Q3.牧之原のお茶は大井川人夫が作ったというのは本当か?

A.勝海舟の話と同様、これもたまに聞く話である。
大井川越制度の廃止により、職を失った人夫は千三百人と言われる。彼らの救済に奔走したのが総代・仲田源蔵である。仲田の努力に共鳴した丸尾文六らも現れ、南部地帯三百町歩に百戸が入植する運びになった。しかし、支度金が支給されるとその中の六十七戸(!)はどこかに逃げてしまい、実際に入植したのは三十三戸であった。彼らは明治六年までに三十九町歩を開墾したが、牧之原の一部だけであり、牧之原のお茶は大井川人夫が作ったというのは、いかにも大袈裟である。

Q4.では、牧之原のお茶――静岡のお茶――の歴史は旧幕臣が作ったのか?

A.開墾団は、語り草にもなった開墾に当たって刀を差しながら鍬を持ったというように武士根性が抜けきれず、また後に資金運営のために作った笱美館の不正経理からの失敗のように、武士の商法でも失敗を重ねた。
静岡茶(荒茶)の生産量は明治16年2,710トン、明治23年5,411トン、明治43年10,128トン、大正9年14,666トンと飛躍的に増えていくが、逆に牧之原開墾団員の数は明治16年までに3分の1に激減、明治30年に60戸、昭和5年に16戸、昭和33年に10戸となってしまった。
歴史的に見ると、旧幕臣の試みに刺激を受けた周辺の農家が静岡茶を作ったというのが実際のところだ。
しかし、旧幕臣が静岡茶の黎明期を作ったのは紛れもない事実である。
中條景昭は明治11年には、将来を見据えて共同製茶工場設立を画策した。実際に工場が造られたのは、景昭の死後の明治30年であるが、これは景昭に先見の明があったことの証左である。

住み慣れた江戸を離れ、未開の地とも言える牧之原台地の固い土と格闘した開墾団の意気込みを思うと、胸に迫るものがある。



大井川を望む屋敷跡に建てられた中條景昭像

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