木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

蓮杖写真記念館

2012年01月29日 | 江戸の写真
所要があって下田に行った。
下田というと、下岡蓮杖出自の地である。
ロープウエイで登ることのできる寝姿山の山頂に蓮杖写真記念館がある。

蓮杖は文政六年(1823年)の生まれ。蓮の根に似た唐桑の木でできた杖に蓮の花を彫り、愛用したため、号とした。
長崎の上野彦馬と同時期に活躍した写真家であり、よく西の上野彦馬、東の下岡蓮杖と言われる。
実際には、江戸には鵜川玉川や島霞谷・隆夫妻、西には大与こと堀与兵衛などの存在もあったのだが、商業的にもっとも成功したといえば、蓮杖と彦馬のふたりとなる。
彦馬は、津藩の堀江鍬次郎の指導と援助のもと、長崎海軍伝習所のポンぺの教えを纏めた「舎密局必携」を表すほど、学術的であったのに対し、絵師出身の蓮杖はもっと現場の実践主義であった。
彦馬の実家は代々、煙硝工場を営んでおり、薩摩藩などの雄藩とも付き合いが深い。それだけに、武士階層のいい部分も悪い部分も見ている訳で、彦馬は武士に対する憧れは少なかった。
それに引き換え、蓮杖は武士に対する憧れがあったようで、しばしば、勤皇の志を口にし、大小を腰に差し、浪士風のポーズを好んだ。
成功してからは大言壮語に拍車が掛かったようで、時には煙たがられたようである。
当時、写真は成功すれば驚くほど儲かった。
彦馬は長崎で写場を開いたが年収は1万円から1万5千円あったという。役人の年収が百円だったころの話である。
東の横綱である蓮杖の声が大きくなるのも無理はなかった。
彦馬がエリート育ちなのに対し、蓮杖は叩き上げで、今でいえば、屋台から始めて、大チェーン店を経営するようになったラーメン屋さんのようなものなのかも知れない。
成功してからは、得意の語学を生かし、海外の学術誌を読み、弓を引いた彦馬とは違い、蓮杖は、成功した後も俗物臭をプンプンとさせていたように思うが、門下からは横山松三郎、江崎礼二など優秀な弟子を輩出し、彦馬門下生に負けてはいない。
年をとって、変に「いい人」になる人物よりも、最後までぎらぎらとした人間には魅力を感じる。
そういえば、彦馬はかっちりした写真が得意であったが、蓮杖はスナップ写真にも似た人物像を得意としていた。この辺りにも、二人の性格の違いが出ている。

話は蓮杖と彦馬の比較論のようになってしまったが、下田の蓮杖博物館、ぜひ行ってみて下さい。
ここに行ったなら、記念写真を取るべきです。600円を支払って、男性は軍服姿、女性はドレス姿で記念撮影ができます。自分の持ちこんだカメラで撮ってくれるため、基本的には2ポーズと言いながら、何枚も撮ってもらえる(混んでいなければ)。
いつもいるとは限らないが、とてもフレンドリーなH.Mさんがいろいろ工夫をして撮って下さる。
男性だったらモデルガンだとか、模造刀などを持ちこんで撮ってみるのも面白いかも知れない。子供にも対応するので、家族で行けば、いい記念になることは間違いない。

蓮杖写真記念館HP


H.Mさんの写真を撮らせてもらったが、「ブログに載せるときは目隠しをしてね」と言われた。そんな高度な技は出来ないので、とりあえずは、全景のみ。


幕末、この場所に下田湾の見張所ができた。確かに非常に見晴らしのいい場所である。


M.Kさんお勧めの心太(ところてん)。しっかりとした歯ごたえがあっておいしい。350円。お土産も買ってしまった。


帰りの伊豆急で買った駅弁「つぼ焼き さざえめし」、1050円。見事なほど、サザエしかない。さざえのつぼ焼き1個を入れるというアイデアが秀逸で、アイデア勝ち。これを高いととるか、潔いととるかは、判断が分かれるところだろう。実は、横浜~湘南~伊豆は駅弁が優れた地域。

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2012年01月22日 | 日常雑感
久しぶりのブログ再開となるが、「夢」から始めたい。
「夢」
①眠っている間に、種種の物事を見聞きすると感ずる現象。
②実現が困難な、空想的な願い。
③(現在のところ実現していないが)将来は実現させたい願い・理想。
④はかないこと。たよりないこと。
(岩波国語辞典)
とある。
古語ではどうなのかと思って調べてみると、
①(いめの転用)睡眠中に種種の事がらを見聞きしたと感ずる現象。
②ぼんやりとして頼りないもの。不確かなもの。はかないもの。
③心の迷い。煩悩。
(福武古語辞典)
とある。
結構、ネガティブである。
ちなみに、longmanの現代英英辞典を引いてみると、DREAMの項には、否定的な意味は存在しない。

農耕民族の日本では、夢を見ることは危険視されたのであろうか。

夢は、宗教的なものとして、捉えられていた。
古来、日本では、人為では説明できない夢の中でなら、人は神と交流できると考えられていたのである。

睡眠中にみるものでない夢を、なぜ夢というか―――。それは、時間や空間の超越ということと関係がある。睡眠中の夢では、過去や未来の人にも会え、遠く離れた人や、神や仏にも会える。過去の誰も頂上をきわめたことのない山に登りたいという夢では、そのような山の頂上に自分が立っている状態を想定しているわけで、これは空間や時間を無視している。つまり意識の中で、それらを超越していることになる。そして、そのような空想を、夢想ということがある。
つまり、正確に言えば、「睡眠中にみる夢のようなこと」という意味で、夢といっているのである。
 

上記の文は、明治生まれの大御所・樋口清之氏の文であるが、この「日本人の歴史」が表されたのは1982年。
翻って、現代では、「君の夢はいつか叶う」とか「諦めないことが夢を叶える秘訣」だとか、かなりの甘言が飛び交う。

作家の五木寛之氏はPHP誌の中で、世の中はポジティブシンキングだとか、強く願えば必ず叶う、などということが声高に語られるが、それらはほとんどが幻想でしかない。世の中には願っても叶わないことのほうが圧倒的に多い。諦める心も大事だ。諦めるとは、明らかに究めるに繋がり、必ずしも悪いだけではない、との苦言を呈している。

今もアメリカではダルビッシュ投手の契約金にもみられるように、アメリカン・ドリームが存在する。
ビッグドリームを夢見るのもその人の勝手である。
ただ、大きい夢のためには、大きい努力が必要とされる。
努力、というよりも、何かを成すために、何を捨てればいいのかと取捨選択をしながら、進んでいくことだろうか。

「明日の朝、目が覚めたら作家になっているなんて、そんなことはありえないのだわ」
やっと、少女にはわかりました。作家になることは、そんなにだいそれたのぞみではないし、魔法でも奇跡でもなかったのです。
一足とびに、作家になることもできないし、じっと待っていたところで、いつかなれるというものでもありません。ひとつの夢を見終わったらもうひとつ、またひとつ、またひとつ、と際限もなく夢みて、その夢を手に入れるために、ありったけの力を注ぎこむことだけが、作家になる方法だったのです。

立原えりか「大人になりたくなかった少女の物語」

「歩くように、書け」
以前、日記に書いていた言葉である。

夢を見るのは、いいことでも、悪いことでもない。
ただ、夢を叶えられるかどうかは、夢見ている本人がどれだけ、真剣に夢と取り組んでいるかなのだろう。

夢しかなかった(プロレスで下半身不随になりながらも夢を諦めないシンガーソングレスラー・ハヤブサの歌です)

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