おだやかな日々が続きますように。

脳腫瘍で結婚して3年間たたかった新婚カップルの日々

出張から帰ってきました。

2011年07月30日 | Weblog
 3日間、熱い論議をした大会から帰ってきました。ちよっと、語り疲れ、飲みづかれです。また、報告させていただきます。
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お葬式に行ってきました。今日から全国大会です。

2011年07月27日 | Weblog
 労働組合の仕事のひとつにお悔やみがあります。組合員の家族、主には、親ですが、亡くなった場合に弔電、香典、生花を用意します。組合の共済会からお見舞金も出るのでその手配も。うちの組合は。パ-トさんの組合員もいるので、その場合も。パ-トさんの場合、職員向けの回覧はまわりませんが、わかれば用意します。最近は、なかなかいけていませんが、組合代表として、お通夜、お葬式に参加しています。
 今回は、組合員本人だったので、お葬式に参加させてもらいました。小学生の子供さんがいるおうちでした。夏休みということもあり、子供さんの友達の参列がありました。焼香の時、笑顔の本人の写真を見たとき、涙がこみあげてきました。
 今日から、たけちゃんの組合の全国大会です。医師・看護師・介護労働者を増やせ!、社会保障費の増額、医療・介護・福祉の患者・利用者負担を引き下げよ。被災地の復興をテ-マに話し合います。一年間奮闘してきた仲間と大いに語り飲む場でもあります。
 今も難病といっていい脳腫瘍とたたかっている人・家族がいます。それを支える医療・介護の体制は、まだまだ不十分です。変な言い方ですが、医療・介護・福祉の分野は、ひとつの大きな成長産業です。ここに税金を投入しても、勝手言われたような「医療費亡国論」のように、国が滅ぶことはありません。北欧やイギリスでその実践がされています。「いい医療・いい介護の実現と医療・介護・福祉に働く人の賃金・労働条件の改善を車の両輪として同時に追及する」がたけちゃんの組合の路線です。そのために、微力ながらがんばる必要があります。
 ともさん、たけちゃんは、がんばってくるよ!!「エイエイオ-だよともさん」ともさんと行った畳の色の変わった宿のある下呂に行ってくるよ。
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急な死 明日から大会です。

2011年07月26日 | Weblog
 職員がバイク事故でなくなってしまいました。社会人になってから資格をとりに行って、理学療法士としてはたらいていた人でした。前の職場でも知り合いでした。ほぼ同い年でした。まだ3人も子供がいるのに。
 明日から組合の本部の大会です。一年間の総括と方針を決めます。また、暑い仲間が集まります。
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ともさんの詩

2011年07月25日 | Weblog
 生まれて29年間、生き方が下手な私は、いろんなことにぶつかり、傷をつけては縫い合わせ、時には縫うことすらできずに、ぽっかり穴をあけたままで、そうこうするうちにこんなになってしまいました。つぎはぎでみすぼらしい。
 でも、見方を変えれば愛きょうがあって、ちよっと優しい。そして、案外、丈夫。こんなになっても、私にはとても大切なものなのです。寝居合わせては、新しく生まれ変わる日々。それが私の心の誕生日。私もずいぶん縫い物が上手になりました。
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母さん僕の麦わら帽子・・・・

2011年07月23日 | Weblog
 このフレ-ズを知っている人は、おそらく40歳以降の人でしょう。「母さん、僕の麦わら帽子どうしたでしょうね?きりずみから・・・・」そう、映画「人間の証明」のフレ-ズでしょう。角川映画は大作映画であるとともに、キャッチコピ-がすごかったです。光テレビでやっていました。・・・思わず見てしまいました。
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明日というか今日、ともさんの日です。

2011年07月23日 | Weblog
 ともさんの月命日です。毎日はイソガシイレけど、がんばっています。力がみなぎっています。23日には、労働組合教室です。
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義父の49日が終わりました。

2011年07月21日 | Weblog
 義父の49日の法要が終わり、骨収めをして、会食しました。当然のことながら、私は、一歩引いた身でした。住職さんからは、あんたの顔が見えないと隣で飲まないかとさみしがられました。義父と妻と天国で楽しく話しているに違いないと思います。
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ひさしぶりにJR ジュニア君と飲みました。

2011年07月17日 | たけちゃんのこと
 1986年日本ふく笑い大学入学・・・(東海地方の福祉系大学)の同級生 ジュニア君と飲みました。
 彼は、学生時代なんでも話をしてきた親友です。彼と私のつながりは、学生運動です。学生運動というヘルメット・・安田講堂と思う人が多いと思いますが。私たちは、正当なというか理路整然と当局と交渉する学生運動でした。
http://www.zen-gakuren.jp/news/news_10.html
大学自体が3者自治、学生自治会、教授会、教職員組合で話し合って、運営することになっていました。全員加盟制で選挙で選ばれた執行委員会があり、各クラス(4年間一貫したゼミナ-ル教育)から選出された代議員によって構成される代議員会がありました。代議員会には、運営する議長さんなど代議員の互選によって選ばれた役員がいました。代議員会は、月1回開催され、執行委員会の報告を受けて、いろいろ討論していました。成立に規定があり、執行委員会の提案を採択していました。
 私の大学は、4年間、ニックネ-ムで呼び合うことが決まりでした。彼は、ジュニア君といいました。私は、キャベジでした。たいてい、最初のクラスコンパで決まりました。1年生をリ-ドしてくれる兄弟クラス制でした。私は、富山出身というと正露丸かキャベジンといわれて、キャベジンになりました。学生会館の電話の呼び出し<自治会が自主管理していました>もニックネ-ムでした。1部1年のキャベジンさん学館Aにお電話ですと放送がかかりました。もちろん、日常会話も。「今日は、キャベジンの家で飲もう」とか、「昨日、そ-ち゛とつまみとジュニアが飲んでいて、そこにおろしとやろくがやってきて、おろしが酔っ払って暴れたんだって」というのが会話として成り立っていました。昨日も本名がなかなか出てこなかったです。
 学生自治会にとって、もっとも大事なことは、6月に開催される学生大会でその年の運動方針と決算・予算を決めることでした。私は、結果的に4年間、この成立に全てをかけてきました。1年生で1年生の代議員会の4役、2年生で代議員連絡会の議長、3年生で代議員会議長をしました。時は、1986年 4月に中曽根内閣が300議席を占め、臨調・行革路線、国鉄解体、老人医療費有料化、天安門事件が起きた時代でした。
1988年12月24日に消費税法案が可決され、1989年から消費税がはじまりました。
 1986年6月学生大会の成立にむけて、みんなががんばっていました。学生大会は、規約で学生数の何分の1で成立することにななっていました。実数と同じ数の委任状で成立しました。学生大会は、2日間ありました。その参加をクラス単位で確認するのです。朝の登校時間、昼の休憩時間の宣伝、講義が終わったあと、先生ら断わって、マイクを借りて、宣伝する。⇒マイクアジ。それらを6月頭から計画的に行う。参加確認した人の7割が参加するといわれていました。参加確認数は、毎日、集計されていました。もちろん、各クラスで討論して、「学費値上げ反対」や「校内にもっとスロ-プ」を「コンパのマナ-を守ろう」等、クラスごとの要求や意見を発表することも行います。
 各学年の代議員と組織者と呼ばれる協力者によって、毎日、朝に集りを持って、1日の行動目標、行動予定をみんなで確認していました。夕方には、夕方の集中があり、1日の行動結果を報告しあいました。そのあと、各学年の結果をもとにして、分析と対策が話し合われました。2部があったこともあり、学生会館の閉館時間は、午後11時でした。とにかく、みんな必死だったのです。
 私たちの入学するまで、大学の講義は、自主的活動の保証のために3限カリでした。それが、私たちからコマ数が増えていました。学生要求の多様化もあって、私の4年間で定例学生大会は、一度も成立しませんでした。
 定例学生大会前日は、合宿で最後まで意思統一会議、当日の作戦会議を行いました。当日となると、学生が出いりする全ての道に宣伝する部隊が割り振られて、
配置について、宣伝しました。また、大会がはじまると、私たち代議員会のメンバ-は、別の会議室を確保して、実際に受付した人をチェックして、カウントする。確認してきていない学生に連絡する。<当時は、携帯もなく、アパ-トに電話しました。>などをするのです。大会が休憩となると、大会は、まだ続きますと呼びかけるストッパ-につきました。
 1986年6月の定例大会2日目、今からクラス会という時に私と一緒に代議員をしていたK君が腹痛を訴えて、医務室に行きました。「自分が医務室に言ったことは、誰にもいわないでほしい。みんなが心配するといけないから。学生大会が成立してほしいから」と言って。終って、医務室に行くと彼は、近くの病院に運ばれていました。その状況を私は、1年の責任者であるジュニア君に興奮しながら報告しました。それとほぼ同時にじゅにあ君は、Oクラスの代議員のあゆみちゃんから「同じ代議員のなごみちゃんのおじいちゃんが危篤で帰ってきないさいと電話があったが。学生大会を成立させたいから帰らないでいる」ということを聞かされていました。
 そんなにまでしてがんばった学生大会は、不成立でした。1年生だけの集まりを持ったあと、代議員だけ残っての話し合いがはじまりました。学年全体の時には、こらえていたじゅにあ君が泣きじゃくって、何もしゃべれませんでした。私がその時、フォロ-に入りました。それまで、私は、代議員になったものの、一般参加者でした。この時をきっかけにして、4役に入ることになりました。この光景は、ジュニア君もしっかり覚えていました。
 私の4年間で86年は、学費値上げ反対、87年も学費値上げ反対、88年は、消費税導入反対で全国学生統一ストライキの提起があり、私の学部は、3回ともストライキ権を確立しました。学生の最高の権利である「学ぶ権利」を放棄しての抗議は、最高戦術といわれていました。私の大学の場合、全学生の過半数の投票で投票が成立して、過半数が賛成とする
とストライキが成立して、講義はなくなりました。
 学生大会が不成立だと、全学投票という4日間で過半数の投票で成立する投票を行うこと
となりました。これがまた、成立させるのがたいへんでした。
 福祉を学ぶ学生として、自分たちが学生ストライキをして、運動すれば、消費税を阻止できると真剣に考えた学生時代でした。そんな、超濃い活動家集団の仲間が約20人います。
大学入学から4半世紀、今度、同窓会することとなりました。
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フランス

2011年07月16日 | Weblog
 新聞にフランスと日本の比較が載っていた。フランスは、とにかく労働時間が短い。週35時間制だったような。バカンス法というのがあって、年間5週間の休みだそうです。そのうち3週間は、連続してとらないといけないと決まっている。フランスには、コンビニもなく、家電の普及率も低いんだそうです。
 でも、フランスの生活が大きく劣ると思う人はいないですよね。私たちは、国際競争力で踊らせされているだけなんですね。
 フランスに仕事で行ったことありますが、土日シヤンゼリゼ通り=日本の銀座を歩いても、お店があいてない。街には人がいっぱいいる。どうしてですか?ときくと、土日は家族で過ごす時間だと言われた。フランスでは、倒産しても、わざわざ労働者が未払いの賃金を請求しなくてもいいそうです。それは、国が会社に変わって、真っ先に未払い賃金を払ってくれるからだそうです。
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いきなり、ともさんのこと思いだしました。

2011年07月13日 | Weblog
 忘れもしない2009年2月26日。組合の臨時大会の日でした。診療所から往診が始まった直後、おそらく、はっきりとともさんの言葉というか叫びを聞いた最後だったと思う。ともさんが「いやいや」「さよさよ」と言った。そう聞こえた。この言葉をきいた私と義母は、「いやいや」は、診療所の医師と相談していた胃ろうをつくるかどうかは、嫌、「さよさよ」は、サヨウナラと思っています。その後、大学病院に電話して、大学病院では対応してくれないことを知りながら、無理やり、介護タクシ-で大学病院まで行きました。
 その後、私の病院に入院になりました。口から食べられなくなった。ごっくんが出来なくなったため、IVHという管を肩から入れた。それを入れると妻の反応は、にぶくなった。一ヶ月間、私の勤務する病院に入院しました。朝、昼、晩と妻に会いに行った。うちの病院は、個室はいくないけど、差額ベットは、病院の方針でない。一ヶ月間、妻は、個室にいた。だから、私は、自分の都合のいい時間にいけた。義母に負担かけることなく、安心だった。
 私の仕事的には、春闘のまっただ中だった。回答指定日という、回答してもらえる日に有額回答がなかったので、ストライキをしました。
 都合のいいように、妻を一ヶ月入院させてしまった。あのとき、妻は、どう思っていたのだろう?
その後、このままでは、中途半端でお前は、絶対に後悔するとブロックで同した。春闘のまったただ中で、病院の給食を委託するかどうかの交渉の真っ最中でした。富山の市長選挙、議会選挙もあった。・・・でも、休むことにした。・・・そのことによって・・・新たな事件も生まれたが。
 生きている人間は、ある時には、支えている側の状況や判断でそうせざるをじように組合の仕事をしている先輩に言われて、介護休暇を取ることにしま得ない時がある。必ず・・・。そのことは、誰も責めない。責められない。
 生きていくことでしか答えはない。
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