最近になって、やっと、マスコミのコンピューターの取り上げ方が少しずつ変わってきた。
以前は、何か事件があったときに、そこにコンピューターがあると、それだけで「病的」なイメージをかもし出すためにわざとらしいことを平気で言ってのけた。
それが、近頃は、コンピューターがあっただけならばそれはよしとして、その上の記憶のなかに、攻められるものがあったとき、それを取り上げるようになっている。
まだまだ、取り上げ方がいびつで、自分たちの好きなように情報を加工してしか伝えないが、ちょっと、進歩した。
マスコミにいる人なんぞ、どうせ馬鹿ばっかり(っとそういう人だけでないことは解っているのだが・・・)で、考え方など変わらないと思っていたが、ま、多少は変わるらしい。
今日は、上の話に関連して、佐世保の事件のことを考えてみたいと思う。
私が、佐世保の事件の一連の報道の中で気になったことのひとつに、ホームページを改ざんした、というものがあった。
加害者と被害者がお互いにIDとパスワードを交換し合っており、相手の掲示板やコンテンツの中で気に入らないものがあった場合、消せる状態にあり、実際に消すことがあったということだった。
このことは、何もそれほど特筆すべきことと捕らえられていないかもしれない。
多くの人が、実際にそのような状況にあったら、いやな情報を消してしまうものだろうから。
でも、簡単に流していいことではない事だと、そう思う。
私たちは、コンピューターの中の情報を簡単に消してしまっていすぎるのではないだろうか。
コンピューターは、その中にある情報を簡単に消せる。
このことは、コンピューターを使う人ならば大半の人が知っていることだろう。
データを消すのは非常に簡単である。
大抵はファイルを消してしまうという、ただそれだけのことだ。
それだけで情報は削除できる。
どんなにデータ量が多くても、作るのに時間がかかっていても、大切なものであったとしても、消すのは一瞬の作業である。
しつこいようだが、コンピューターの中のデータを消すのに、苦労はいらない。
でも、私たち人間の記憶は違う。
そんなに簡単に消せるものではない。
多くの記憶であるほど、時間がかけられた記憶であるほど、大切な記憶であるほど、それを消し去るには時間がかかる。
私たちにとって、記憶を消す、または記憶が消える、ということは、とても重大なことである。
「好ましくない」という程度の記憶や「ちょっとうれしい」という程度の記憶はすぐに忘れてしまう(このことも考え物だが)ものだが
、多くの人に、大切な記憶というものがあり、消したくないと思う記憶、消したいと思っても消えない記憶、というものがあるだろう。
コンピューターの中の記憶は、簡単に消せるものではあるが、実際の記憶と同じように、やはり大切な記憶、というものもあり、それらがあることをちゃんと認識していなければいけないのではないだろうか。
コンピューターの記憶を消してはいけない、とは思わない。
ただ、何かを表現するときには、平たく言えば、何かを書こう、残そうとするときには、それが私たち人間の記憶と同じように「残る」ものなのだと、意識する必要があるのではないか。
まだまだ、コンピューターの上の世界は、現実ではないと捕らえている人が多いからこそ、のことなのだとは思う。
上のような意識を持つことによって、少しでもコンピューターの上の世界も現実なのだと、意識できるようになれば、少しは、いろいろなことがよくなっていくのではないだろうか。
また、コンピューターの記憶を簡単に消せないものと意識することと同様に、これから先の私たちの記憶が、コンピューターの中に残されることによって、今までよりももっと消えにくいものになっている、ということも意識していく必要があるのではないだろうか。
マスコミや政治家による無責任、無理解な発言。
私たち自身による、心無い、共感し得ない発言。
発言者の意図にかかわらず、どのような発言も、誰かがディジタル化し、コンピューターの中に残すことによって、いつまでも残そうと思えば残る記憶となる世の中になっている。
それらの発言がネットワークに載り、誰もが、いつでも見られる状況になったとき、私たちの言葉が思わぬ結果を生み出すことになるかもしれない。
全ての結果を想定して発言をするなどということは不可能であろう。
しかし、自分の発言がどのような結果をもたらすことになるのかを考えることは出来る。
人間の記憶力が、コンピューターによって補われ、望むならば半永久的に残すことも可能になっている現在だからこそ。
自分の発言に対して、その結果を受け入れることが出来るよう、自分の思ったことを率直に話すことが、これから先に発言をする際に、考えなければいけないことなのかもしれないと、そう思う。
以前は、何か事件があったときに、そこにコンピューターがあると、それだけで「病的」なイメージをかもし出すためにわざとらしいことを平気で言ってのけた。
それが、近頃は、コンピューターがあっただけならばそれはよしとして、その上の記憶のなかに、攻められるものがあったとき、それを取り上げるようになっている。
まだまだ、取り上げ方がいびつで、自分たちの好きなように情報を加工してしか伝えないが、ちょっと、進歩した。
マスコミにいる人なんぞ、どうせ馬鹿ばっかり(っとそういう人だけでないことは解っているのだが・・・)で、考え方など変わらないと思っていたが、ま、多少は変わるらしい。
今日は、上の話に関連して、佐世保の事件のことを考えてみたいと思う。
私が、佐世保の事件の一連の報道の中で気になったことのひとつに、ホームページを改ざんした、というものがあった。
加害者と被害者がお互いにIDとパスワードを交換し合っており、相手の掲示板やコンテンツの中で気に入らないものがあった場合、消せる状態にあり、実際に消すことがあったということだった。
このことは、何もそれほど特筆すべきことと捕らえられていないかもしれない。
多くの人が、実際にそのような状況にあったら、いやな情報を消してしまうものだろうから。
でも、簡単に流していいことではない事だと、そう思う。
私たちは、コンピューターの中の情報を簡単に消してしまっていすぎるのではないだろうか。
コンピューターは、その中にある情報を簡単に消せる。
このことは、コンピューターを使う人ならば大半の人が知っていることだろう。
データを消すのは非常に簡単である。
大抵はファイルを消してしまうという、ただそれだけのことだ。
それだけで情報は削除できる。
どんなにデータ量が多くても、作るのに時間がかかっていても、大切なものであったとしても、消すのは一瞬の作業である。
しつこいようだが、コンピューターの中のデータを消すのに、苦労はいらない。
でも、私たち人間の記憶は違う。
そんなに簡単に消せるものではない。
多くの記憶であるほど、時間がかけられた記憶であるほど、大切な記憶であるほど、それを消し去るには時間がかかる。
私たちにとって、記憶を消す、または記憶が消える、ということは、とても重大なことである。
「好ましくない」という程度の記憶や「ちょっとうれしい」という程度の記憶はすぐに忘れてしまう(このことも考え物だが)ものだが
、多くの人に、大切な記憶というものがあり、消したくないと思う記憶、消したいと思っても消えない記憶、というものがあるだろう。
コンピューターの中の記憶は、簡単に消せるものではあるが、実際の記憶と同じように、やはり大切な記憶、というものもあり、それらがあることをちゃんと認識していなければいけないのではないだろうか。
コンピューターの記憶を消してはいけない、とは思わない。
ただ、何かを表現するときには、平たく言えば、何かを書こう、残そうとするときには、それが私たち人間の記憶と同じように「残る」ものなのだと、意識する必要があるのではないか。
まだまだ、コンピューターの上の世界は、現実ではないと捕らえている人が多いからこそ、のことなのだとは思う。
上のような意識を持つことによって、少しでもコンピューターの上の世界も現実なのだと、意識できるようになれば、少しは、いろいろなことがよくなっていくのではないだろうか。
また、コンピューターの記憶を簡単に消せないものと意識することと同様に、これから先の私たちの記憶が、コンピューターの中に残されることによって、今までよりももっと消えにくいものになっている、ということも意識していく必要があるのではないだろうか。
マスコミや政治家による無責任、無理解な発言。
私たち自身による、心無い、共感し得ない発言。
発言者の意図にかかわらず、どのような発言も、誰かがディジタル化し、コンピューターの中に残すことによって、いつまでも残そうと思えば残る記憶となる世の中になっている。
それらの発言がネットワークに載り、誰もが、いつでも見られる状況になったとき、私たちの言葉が思わぬ結果を生み出すことになるかもしれない。
全ての結果を想定して発言をするなどということは不可能であろう。
しかし、自分の発言がどのような結果をもたらすことになるのかを考えることは出来る。
人間の記憶力が、コンピューターによって補われ、望むならば半永久的に残すことも可能になっている現在だからこそ。
自分の発言に対して、その結果を受け入れることが出来るよう、自分の思ったことを率直に話すことが、これから先に発言をする際に、考えなければいけないことなのかもしれないと、そう思う。
修正させていただきました。