Programmer'sEye

1エンジニアとして、これから先のコンピューターと人との付き合い方を考えてみたい。

15歳ならSEXしよう!

2004年09月28日 20時03分30秒 | 愛するということ
東京都が15歳以下の性交渉を条例で禁止することを検討しているというニュースが流れている。

このニュースが実際のものかどうか、実際に条例として制定されるかどうかは別として、こんなことがニュースとして流されている事自体、大人しか存在してはいけない社会だと、行政さえもが考えていることの現れであり、とても嘆かわしい。

あたりまえの話として、人間の生理的な欲求を押さえ込もうとするような条例や刑法があるとすれば、それは愚かなものとしてさげすまれるべき条例や刑法であろう。
このような情報社会になり、「正しさ」が求められるようになっている現代において、いまさらながらそのようなおろかな条例や刑法を「検討する」ということはまずないだろう。
すると、この15歳以下の性交渉を禁止するという条例を考えた行政の人間は、15歳以下の人間の性交渉に対する欲求の増大は、それら若年層の人間の精神的未熟さからきている、と考えているということだろう。

しかし、よく考えさえすれば、昨今の若年層の性交渉に対する要求の増大はけして精神的な未熟さからくるものではない、ということがすぐにわかる。
体の成長とともにホルモンの分泌は始まり、それが子供たちを性行為へ走らせているのであり、生物として自然な流れなのだ。
言うなれば、生理現象の一つである。
近代の子供たちの栄養事情は、今のおじさんおばさん、またおじいさんおばあさんを含めた世代の方々が子供のであったころと比べたら、それこそ天国と地獄ほどの差があるといってもいいだろう。
昔から実証されていることではあるが、性的な成長は年齢に関係なく、肉体的な成熟度に左右される。
また、それらの成長には「栄養素」のバランスは関係なく「栄養」が取れていることが重要。

問題があるとするならば、そのような生物としての摂理、生理現象を、精神的な問題として抑制しようとしている大人の考え方がおかしいのであって、子供たちに原因があるわけではない。

青少年の安易な性交渉への対策としてとりえる行動としては、性行為の若年化は生物としての摂理として認めた上で、若年層に対する性教育の強化を行う、ということが正しいのではないだろうか。

若年層における性感染症の蔓延や安易な性行為への傾倒は、子供たちへの、動物としての「性」に関する道義的な教育や性行為の意義、および性行為に潜む危険性などを、子供たちに正しく教えることの重要性から、長い間目をそむけていた結果に他ならない。
にもかかわらず、感染症蔓延などの原因を子供自身に求め、そればかりか、生物として現れる生理的な衝動を心理的に押さえつけられるものとして「ルール」という形で抑制しようとしている。
そのことは、ある意味、社会全体から子供に向けて行われる虐待、と捕らえられるほどのことだろう。

実際には、15歳以下の性交渉禁止の条例が作られることはなさそうではある。
しかし、出てくる問題を自分が見える角度からしか検討せず、一方的な解釈の元に解決を試みようとするからこそ、個々の問題の対処が遅れており、今回のような性病の氾濫などのこの混ざる状況を生み出しているのだということを、行政にかかわる方々にはよくよく考えてほしいものである。

世の中のほぼ全ての事象は、大人となった人々が勝手に進めてきた政策のおかげでそうなったのだということを、忘れないでほしい。
その責任を、子供たちに押し付けようなどというのは、もってのほかだ。

「子供たちのことを考えなければ」って、どういう意味だ?

2004年09月21日 14時40分20秒 | 愛するということ
2人の兄弟が川に突き落とされ、死刑が執行され、精神鑑定の結果が下された。

何か、子供がかかわる事件がおきるたびに、
「もっとおとなたちは子供のことを考えなきゃいけない」なんて言葉がいろいろなところに書いてある。

ふざけるな。
馬鹿かおまえら。
子供のことを考えろ?
理解していないにも、ほどがある。

朝の8時に家を出て夜の10時過ぎに帰ってきて、顔を合わすのは寝顔だけというような人々に、何を考えろというのだ。
何かあれば全ての責任を負わされ、家にいる間中子供のことだけを考えていなければならない人々に、これ以上考えろというのか。
何が好きなのか、何がしたいのかさえも知らない人に、何を子供にしてやることが出来る?
全ての危険を取り除いていかなければいけない人が、何を子供にさせることが出来る?

何か物音を立てれば静かにしろとアナウンスを流し、何かにつけては子供の成長過程がどうのこうのと不安を煽り立て、まるで子供を持つことが罪といわんばかりに、社会全体から圧力がかけられてくる。

今、街中には子供が少ない。
あたりまえだ。
何処へいってもうるさいといわれ、少し騒げば、保護者は何をしていると責められる。
何処絵言っても責められるのであれば、我が子を家に閉じ込め、何処にも行かなくなるだろう。
そして、親以外の顔を知らず、いろいろな世界が有るということもわからなくなっていくのだろう。

手をしっかりとつないでおけばいいというかもしれないが、それがどれだけ子供に苦痛を与えることになるだろう。
騒がぬようにしつけなければいけないというかもしれないが、それがどれだけ子供から感情を奪うことになるだろう。

泣くな、わめくな、騒ぎ立てるな、走るな、まだまだほかにもあるだろう、「あなた方」の要望が、今の子供たちの、「怒り方を知らない」「感情をあらわせない」「力の使い方を知らない」などにそのままつながっているのではないのか?

「元気な子に育てたい」「やさしい子に育てたい」という保護者の思いや、一生懸命に考えた子供との接し方を、否定し、握りつぶすことになっているのではないのか?

今の世の中は、そんなことも、想像できないのか?

それに、たとえそれらのことがわかっていたとしても、何もしなければ、創造できない人と同じだ。
この自分も含め。
これを読む貴方も含め。

勝ち負けのある人生など無いにもかかわらず、「勝ち組」などという言葉がはやり、何をすればいいのか解らないにもかかわらず、「勝ち方」を求め、それを子供に押し付ける。

努力したものが勝ち、怠けたものが負ける。
だから、日々怠けずに努力しなければいけない。
それはそうだ。

しかし、なんにために努力をするのか。
何を犠牲にしてもよいのか。
それがわからない状態で盲目に突き進むだけでは、後に見える結果に愕然とすることになりはしないのか。

どうすれば、子供たちを幸せに出来るのかなど、誰も知らない。
一人一人状況が違い、環境が違い、かけられる時間が違い、お金が違い。
誰一人として同じ状況にある子供はいない。
こうすればよいなどという統一的な手法があるならば、それはそれで幸せになれるのかもしれないが、そのようなものを求めてみたところで、手に入ることは無い。
しなければいけないことは、今目の前にある状況の中で、どうすればよいのかを、周りの大人が一緒になって考えてあげるということだろう。


そんなこと、考えなくっても解るぐらい簡単なこと。
でも、多くの人はそれが出来ないでいる。
それをするだけの、余裕が無い。
時間的にも、心にも。


答えは、見えている。
そういうことだ。
解ってるなら、余裕を作れ。
子供のことを考えろ?
子供は、親が笑っていれば笑ってくれる。
ずっと笑っていられたら、幸せだろうに?
金を稼ぐことがそんなに大切か?
金がなきゃ幸せじゃないのか?
金がありゃ幸せなら銀行でも襲え。
金の中で死ねるかもしれないぞ。

いい加減に、気づくべきだ。


文明、権力、効率。
それらのことから手を引くのは、決して、今上げている手を降ろすということじゃない。
それらを使って得ようとする「幸せ」を追い求める、ということに手を挙げる、ことだと思う。


あまりにもいい加減な世の中に強く怒りたい。

今の大人たちは、子供たちのことよりも先に「自分たちの幸せ」を、つかまなければいけないのではないだろうか。

それが出来ぬのであれば。

自分たちのことさえも出来ていないのに、子供たちのことを考えられると思っているならば、それは、とんでもない思い上がり、ではないだろうか。