私は道院の経典に御縁を頂いておりますが、最近、
真経管窺録という書物の日訳を始めた同修が居られます。
ご自身と後の方達の為に善事だと感じて激励いたしました。
翻訳と言いましても様々な分野がありますが、共通して最初に
目的や伝える相手を意識して方針を決めるのが宜しいと思います。
文学的な美訳とか、面白さ、分かり易さを優先とかありますね。
私の場合は、主に道院の経典を漢文から日本語文にする作業で、
参考解説として英語的な表現やパターンを便宜上加えております。
目的は率直単純に、私自身と同修者の学習の一助とする為です。
修養を志す人全員が必ずしも道院に入らなくても良い、あるいは
入っても必ずしも沢山の経典を一々詳しく学ばなくても良いと私は
考えております。その理由は、現在の道院の学習環境にもあります。
各院の役員方も誠意や責任感を持って努力されているでしょうが、
坐の実践が十分でなくて知識的、学術的な理解で研修を行う状況では
良い学習環境とは言えません。当人の成就も真人養成も遠いでしょう。
道院の経典は今の世界では特殊なので、理論研究を得意とする方達でも、
感覚的に難しい箇所が多く、順調に進んでも相当の時間や労力を要します。
そして、僅かな誤解から後々自身や後進にとって禍となる事もあります。
また、道院の経典は様々な段階や天命の修者の為に多種伝えられていて、
その個人にぴったり合って理解し易い経典に出会える可能性がある一方で、
難し過ぎたり感覚的に合わず、熱心に拝読しても理解不能な場合もあります。
道理を他者にもお伝えしようと意識する場合は、あらゆる経典を拝読しつつ
積極的に実践して、知識と共に実感として日々理解を深めてゆきませんと、
自己自身と所縁の人、後続の人達に多大な迷いや間違いを齎すでしょう。
現実に、一見些細な訳し方の違いから経典の意図と別になる事もあります。
例えば、北極真経という経典の最初の所にあります「私修」という言葉を
個人的に行う修という認識で「ひそかに修める」と訳すと、適訳風ですが、
真経奥義という別の経典には「私修は私を去る修である」と説明されています。
修養の心得として、個人的な修養という認識と、私を去るよう意識するのでは、
方針が異なりますね。後者をモットーとして自己を戒める事は有意義でしょう。
一字一句疎かにされていない筈の経典が、そのような省略表現になった理由は
多分、誦経の際に発声したり傍聴するのに、4文字リズムの流れが軽快な事と、
前後の文から「去る」を略されていると分かる筈なので略されたのでしょう。
訳者は、そういう事も踏まえておく必要がありますので、初心者向けと謂われる
北極真経を訳する場合も最低限、真経奥義と真経管窺録の2書の研鑽は外せません。
そして、基本経典である太乙正経午集を熟読しませんと、真経の意味は解りません。
冒頭に書名が出ました管窺録は、元済南道院の霊泳会長が編纂された参考書です。
老祖様が直接降ろされた経典ではありませんけれど、霊泳会長は私見を加えず、
複数の経典中のお言葉を常に引用し、分かり易く有益な解説をされています。
但し、その中にも、道邃正経真華という高難度の経典からの引用も多いです。
それを解読するには、学術的な研究だけでは足りません。日々の心坐と形坐の
実践が必要で、その状態の上に更に多くの神霊方のサポートが欠かせません。
どの分野でも、自己が納得できないまま無理に訳したり、想像を交えて訳す
などの事は宜しくないでしょう。特に道院の経典は、強烈なパワーを有して
人の運命を左右するものですから、日々の静坐の自修が大事でありましょう。
そのような事を踏まえた上で、私個人の経典日訳のモットーは三つあります。
第一に、うっとりする美文より、理論が明確で具体的に実践し易い実用性です。
修者を導く目的で降ろされた経典の価値が十分発揮される事が望ましい故です。
経典の原本も、それが降ろされた時空間そのままのパワーはもの凄いはずです。
丁度、ブッダが法華経を説かれる時空間が虚空界になると謂われるような現象が
当然起こる訳ですから、日訳もそこから極力遠く離れない事が望ましいでしょう。
そのため、可能な限り経典の意味を深くも浅くも様々な方向から感じるよう心掛け、
少なくとも参経の時間だけは常に心坐に由る集中を以て向き合う様にしております。
心坐している限り、易の乾卦に曰われる「邪を閑ぎ誠を守する」事ができますから。
そして第二に、たとえ適当そうな名訳文を思い付いたとしても、経典原文の文字を
決して別字に変更しないよう注意しております。万が一にもその経典がこの世界から
失われて私の日訳が残ったような場合に、原文を復刻できるよう願っている故です。
そして第三は、格調高いのに親密で、厳しいのに温かい経典の雰囲気をできるだけ
壊さないという事です。それは林雅志氏の日訳姿勢から学びました。ですから少し
古文調で馴染みにくいかもしれませんが、安直になり過ぎない方針に致しました。
また、参考解説の際に私が重視していますのは、他の経典から引用する方法です。
それが最も信頼でき安心でき、修方なら誰も異論を挟めない筈であるからです。
その方針は、経典の参考解説の先駆者ともいうべき霊泳会長から学びました。
これから道院の経典を様々な言語に訳する人が出て来られるかもしれません。
それは善い事でもあり、慈善行動であるでしょうけれど、日訳の場合以上に
文字や文法、文化の問題もあり、責任の重い仕事になるでありましょう。
大道の理論に縁じて修養に入られる方が一人でも増えれば嬉しいですが、
くれぐれも楽しく適正に順調に進んでいって頂きたいと願っております。
それにはやはり「静か」がキーワードになります。できるだけ静かに
天地と自身の和を感じて、先天炁が自然に入ってくる態勢を整えて、
ゆったりと静坐の時間を楽しまれればと思います。そして、もし
その過程で、経典を詳しく知りたいと強く感じられてきた場合、
あるいは経典翻訳をご自身の天命として取り組んでゆきたい、
と実感されましたような時には、この話をちらっと
思い出して頂ければ、と思います。
真経管窺録という書物の日訳を始めた同修が居られます。
ご自身と後の方達の為に善事だと感じて激励いたしました。
翻訳と言いましても様々な分野がありますが、共通して最初に
目的や伝える相手を意識して方針を決めるのが宜しいと思います。
文学的な美訳とか、面白さ、分かり易さを優先とかありますね。
私の場合は、主に道院の経典を漢文から日本語文にする作業で、
参考解説として英語的な表現やパターンを便宜上加えております。
目的は率直単純に、私自身と同修者の学習の一助とする為です。
修養を志す人全員が必ずしも道院に入らなくても良い、あるいは
入っても必ずしも沢山の経典を一々詳しく学ばなくても良いと私は
考えております。その理由は、現在の道院の学習環境にもあります。
各院の役員方も誠意や責任感を持って努力されているでしょうが、
坐の実践が十分でなくて知識的、学術的な理解で研修を行う状況では
良い学習環境とは言えません。当人の成就も真人養成も遠いでしょう。
道院の経典は今の世界では特殊なので、理論研究を得意とする方達でも、
感覚的に難しい箇所が多く、順調に進んでも相当の時間や労力を要します。
そして、僅かな誤解から後々自身や後進にとって禍となる事もあります。
また、道院の経典は様々な段階や天命の修者の為に多種伝えられていて、
その個人にぴったり合って理解し易い経典に出会える可能性がある一方で、
難し過ぎたり感覚的に合わず、熱心に拝読しても理解不能な場合もあります。
道理を他者にもお伝えしようと意識する場合は、あらゆる経典を拝読しつつ
積極的に実践して、知識と共に実感として日々理解を深めてゆきませんと、
自己自身と所縁の人、後続の人達に多大な迷いや間違いを齎すでしょう。
現実に、一見些細な訳し方の違いから経典の意図と別になる事もあります。
例えば、北極真経という経典の最初の所にあります「私修」という言葉を
個人的に行う修という認識で「ひそかに修める」と訳すと、適訳風ですが、
真経奥義という別の経典には「私修は私を去る修である」と説明されています。
修養の心得として、個人的な修養という認識と、私を去るよう意識するのでは、
方針が異なりますね。後者をモットーとして自己を戒める事は有意義でしょう。
一字一句疎かにされていない筈の経典が、そのような省略表現になった理由は
多分、誦経の際に発声したり傍聴するのに、4文字リズムの流れが軽快な事と、
前後の文から「去る」を略されていると分かる筈なので略されたのでしょう。
訳者は、そういう事も踏まえておく必要がありますので、初心者向けと謂われる
北極真経を訳する場合も最低限、真経奥義と真経管窺録の2書の研鑽は外せません。
そして、基本経典である太乙正経午集を熟読しませんと、真経の意味は解りません。
冒頭に書名が出ました管窺録は、元済南道院の霊泳会長が編纂された参考書です。
老祖様が直接降ろされた経典ではありませんけれど、霊泳会長は私見を加えず、
複数の経典中のお言葉を常に引用し、分かり易く有益な解説をされています。
但し、その中にも、道邃正経真華という高難度の経典からの引用も多いです。
それを解読するには、学術的な研究だけでは足りません。日々の心坐と形坐の
実践が必要で、その状態の上に更に多くの神霊方のサポートが欠かせません。
どの分野でも、自己が納得できないまま無理に訳したり、想像を交えて訳す
などの事は宜しくないでしょう。特に道院の経典は、強烈なパワーを有して
人の運命を左右するものですから、日々の静坐の自修が大事でありましょう。
そのような事を踏まえた上で、私個人の経典日訳のモットーは三つあります。
第一に、うっとりする美文より、理論が明確で具体的に実践し易い実用性です。
修者を導く目的で降ろされた経典の価値が十分発揮される事が望ましい故です。
経典の原本も、それが降ろされた時空間そのままのパワーはもの凄いはずです。
丁度、ブッダが法華経を説かれる時空間が虚空界になると謂われるような現象が
当然起こる訳ですから、日訳もそこから極力遠く離れない事が望ましいでしょう。
そのため、可能な限り経典の意味を深くも浅くも様々な方向から感じるよう心掛け、
少なくとも参経の時間だけは常に心坐に由る集中を以て向き合う様にしております。
心坐している限り、易の乾卦に曰われる「邪を閑ぎ誠を守する」事ができますから。
そして第二に、たとえ適当そうな名訳文を思い付いたとしても、経典原文の文字を
決して別字に変更しないよう注意しております。万が一にもその経典がこの世界から
失われて私の日訳が残ったような場合に、原文を復刻できるよう願っている故です。
そして第三は、格調高いのに親密で、厳しいのに温かい経典の雰囲気をできるだけ
壊さないという事です。それは林雅志氏の日訳姿勢から学びました。ですから少し
古文調で馴染みにくいかもしれませんが、安直になり過ぎない方針に致しました。
また、参考解説の際に私が重視していますのは、他の経典から引用する方法です。
それが最も信頼でき安心でき、修方なら誰も異論を挟めない筈であるからです。
その方針は、経典の参考解説の先駆者ともいうべき霊泳会長から学びました。
これから道院の経典を様々な言語に訳する人が出て来られるかもしれません。
それは善い事でもあり、慈善行動であるでしょうけれど、日訳の場合以上に
文字や文法、文化の問題もあり、責任の重い仕事になるでありましょう。
大道の理論に縁じて修養に入られる方が一人でも増えれば嬉しいですが、
くれぐれも楽しく適正に順調に進んでいって頂きたいと願っております。
それにはやはり「静か」がキーワードになります。できるだけ静かに
天地と自身の和を感じて、先天炁が自然に入ってくる態勢を整えて、
ゆったりと静坐の時間を楽しまれればと思います。そして、もし
その過程で、経典を詳しく知りたいと強く感じられてきた場合、
あるいは経典翻訳をご自身の天命として取り組んでゆきたい、
と実感されましたような時には、この話をちらっと
思い出して頂ければ、と思います。