永遠の生命、安心

永遠の生命と永遠の安心を得る方法を紹介します。

時機 (きらく仙女さんの日記の転載)

2025年02月08日 | 日記
皆様お元気でしょうか?

こちらは連日、耐寒訓練のようで、
早く温暖な時季が来てほしい感じです。

さて、今回は、「何事にも時機がある」と
最近あらためて感じています話をいたします。

善い事でも適切な方法でも、行う時機を逸しますと、
あるいは未だ時機が至らないのに無理に実行しますと、
効果が得られず終わったり、逆に問題が生じたりします。

そのタイミングは一日や一週間の余裕があったり、或いは
1年間や2~3年というような期間の場合もあるでしょうが、
厳密に捉えれば、その中の最適な一瞬があるように思います。

私も、機が不適だったらしい時に、熱心に修養の話をしまして、
押しつけや勧誘のように受け取られ、後で驚いた経験があります。
そういう時には、情けない、嫌な世界だとか感じてしまいますが、

それはエネルギー消耗ですね。確かに、仏界や菩薩界等でなくても、
善良な人々が穏やかに平和に暮らす世界では、誠意が自然に伝達され、
誤解も発生せず、良い結果にはなっても問題など起こらないでしょう。

ここの世界は、偏見や私的な欲望、感情が溢れて誠意の伝達を妨げる、
そんな環境であると認識して用心する事が必要かもしれません。ただ、
一々用心するのもストレスになります。エネルギー的にも負担です。

けれど幸い、努力して用心せずとも、真坐を心掛け実行していますと、
自己の誠意がヘンに受け取られるリスクが最小限に抑えられます。また、
誤解や曲解、現実の姑息な妨害が逆に好い結果になる場合もあります。

結局は、自己自身の本心に誠を持って努力すれば、必ず善報が来ます。
そして、この世界に降ろされた道院の坐を、今の機会に極力習得して
日々活用させて頂く事が、最適な誠であろうと私は思っております。

自身の坐の実践を基にせず、後天の学術的な解釈を拠り所にしたり、
それを私利私欲に用いようとしたり、妄信して追随する人など・・・、
彼らは本心を暗ませ、様々な言い訳を考えて自分をかばっていますが、

積極的に悪事を為そうとは思っていません。そこが怖いです。愚です。
それが道魔と呼ばれる所以です。真坐しながら観察すればその異常さが
分るのですが、一見して賢そうな普通そうな人に起こり得る現象です。

道理から見ると明らかに魔事である現象ですけれど、時機が来ないと、
それを正す機会も無く、当人に指摘しても理解できず却って反抗される、
と割り切って、私は最近、彼らに対して恬淡な方針に切り替えました。

その事に由って随分と気持ちが軽快になり、ストレスから解放されました。
何事も、時機が来る、つまり条件要素が揃う事が重要なのですね。必ずしも
全ての条件でなくても、これだけは外せない、という主要条件は必須です。

それが揃って、天地神明からGoサインが出るような仕組みになっています。
もし善行に関してGoサインが出た時には、それを素早く感知して、躊躇せず、
機を逃さない事が賢明でしょう。善は急げ状態です。善い結果は必然でしょう。

そのような微機を感知する能力を養うためにも、普段からの心坐と、それを
エネルギー的に効率化できる形坐を行う機会が我々に与えられています。
他人事と思わず、理論上の真理などと思わず、実践したいものです。

きらくの日記も、なるべく時機をお見逃しなくご覧ください。
できれば日常の心坐中に、ふと思い付いたタイミングで
アクセスされると、ちょうど宜しいかもしれません。
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乙巳農暦元日 (きらく仙女さんの日記の転載)

2025年01月29日 | 日記
令和7年農暦元日、おめでとうございます!
乙巳(きのと・み)は、復活と再生の意味とか、
また、これから新しい事が始まる、とも謂われます。

乙は、語源的には「いっぱい詰まる」「腹中が充実する」義で、
そこから新しい物事が発生してくるイメージに連なってまいります。
乙のルーツは「太乙」の乙で、先天炁胞の充実状態とも言えるでしょう。

経典には「盈虚に於いて止すれば、物々は乃ち始まる」とのお言葉もあります。
具体的な修養では、ふわっと虚を感じて炁が充してくる状態を保つ練習を続けると、
必要な物事、真霊も身体機能の回復も、何事も全てが始まってくる、という道理です。

と私は確信して続けており、また実感を得た上で皆様にもお奨めしているわけです。
そのような道理が具現化する時期にいよいよ入るという実にめでたい日をご一緒に
今、迎えています。ですから、その恩恵を十分に頂けるようにしたいものですね。

それにはどうすれば善いか、もうお解りでしょう。自己の本心、元霊に従い、
全てのルーツの先天炁のシステムを信じて誠を尽くす志で修坐をする事ですね。
簡単と思えば簡単ですが、他者に代ってもらえず、自己自身の実行が必要です。

さて、巳の文字についても観てみましょう。巳の文字は己(キ、コ、おのれ)や
已(イ、すでに)と似ていますがコが閉じています。甲骨文字では子に近い形で、
小さい子ども、胎児とも繋がり、囟門の囟とも関連すると語源辞典にあります。

囟門は解剖学では泉門とも呼ぶそうで、経絡の百会とは位置も概念も別です。
胎児や新生児の頃にそこからエネルギーが導入される重要な門です。そして、
真坐の時も同様の意味で超重要かつ超特殊ですので、妙窔と謂われています。

自己固有の真霊を孕育するのは、囟門の他で妙窔と呼ばれる玄関の奥です。
けれど、修坐の順序として、先に神経を鎮め安定させる事が必要ですから、
後天の性を空するか又は一定に集中するために囟門を用いる事は有益です。

また、太乙北極真経の巳集はサイクルのお話が説かれます。例えば地球では、
水は雨となり、雨が川となり、海となり、また蒸発して空へ帰って雲となり、
再び雨となります。その様な天地の運輪のシステムのお話になっています。

経典は修養者を導く事が主旨ですから、小天地、小宇宙とも呼ばれている
人体の運輪システムをどのように管理すれば善いかというお話になります。
結論を申せば、サイクルに振り回されない意識レベルになれば善い訳です。

その為の一方法として、巳に潜む「胎息」の意味を噛みしめてみましょう。
色々な物事に溢れた人生の時間を巻き戻して、胎児の時の感覚を思い起こす、
それが難しければ、静黙を追求してゆくのも同じ方向になると思われます。

あるいは、自己自身の最もハツラツと輝いていた時期の様子を思い出して、
その新鮮で明るく前向きな気持ちを再感覚してみるのも宜しいでしょう。
それは言い替えますと、感覚的に「原点に戻る」練習かもしれません。

この世界で実行したい事、実現したい事を考えてみる、あるいは既に
天命を自覚されている方達は、志を新たにされるのも有意義でしょう。
令和7年の7は区切りを示す数です。そして、始まりを告げる数です。

巳の原点も全ての原点も、先天一炁と言ってしまえばそれまでですが、
自己自身の原点は、固有の生命の始まる時点でしょう。その一点を想い、
静かに静かに意識の鎮まりを感じるのが胎息への早道かもしれません。

このように、小さな輪や大きな輪が回転しながら、結局は囟門や玄関の
静黙の話に戻ってまいります。なので、どこから始まっても良い訳ですが、
妙窔の静黙から始まりますと、適正な起動が自然にできやすいでしょう。

そのような感じで、今年の始まり、一日の始まり、一瞬一瞬の始まりを
少し意識するだけでも、きっと有意義な日々が続いてゆくでしょう。
今年は特に、次々と起こる始まりを楽しんでまいりましょう!!
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2025年元日(きらく仙女さんの日記の転載)

2025年01月01日 | 日記
明けまして、おめでとうございます!
どなた様も爽やかな元日をお迎えのことでしょう。
今日も亦、日記にお立ち寄り、ありがとうございます。

巳年の元日は、農暦では1月29日になります。その日には
改めまして修養にかかわる話をお伝えする予定ですが、手始めに、
今回は「み」について思い付きました事などをお話しいたします。

干支の巳は動物のヘビに当てられますね。「み」音は「実」に通じ、
実を結ぶ、結果が現れるとも謂われます。西洋ではヘビは一般的に
知恵と関係するようで、古今の色々な伝説や宗教説話にも登場します。

日本家屋の旧家にはヘビが住みついて守っている場合があるようです。
私の住居でも、結構大きいヘビが一度、台所に挨拶に来た事があります。
暮らしぶりや居住場所の詳細は不明ですが、迷惑行為などはありません。

また、別の個体が脱皮した抜け殻を玄関で見つけた時は少し驚きました。
それは長くて状態が良く、財布に入れておくには違和感がありましたが、
周囲に注意しながら脱皮して懸命に生きている印象が伝わってきました。

ヘビは脱皮して一回り成長するのですね。龍の脱皮は、私は存じません。
私の場合、蛇は龍ほど親しくなく、滅多に出会いませんが、昔の住まいで
黒っぽい大蛇が、山地の工事中止を陳情に来た時の様子を思い出します。

当時の家の3階の窓まで、どの様に来たかは今考えても不明です。たぶん
大変な努力であったと思われます。そして、命がけの行動だったでしょう。
その地域のリーダー的な使命感を持って来たような印象が強かったです。

昔、高雄の林雅志氏が木陰で道院の経典を開いていた時、経典の光に
反応したらしい大蛇が傍らに来て、眩しそうに目をつぶっていたとの事。
林氏が御本をパタッと閉じると、慌てて叢の中へ逃げて行ったそうです。

神社で大切にされている美しい白蛇もいますね。そういう立場の個体は、
自分のお役目を感じて努力しているようです。蛇(じゃ)と発音しますと
邪と同音で悪いイメージですが、ヘビは決して邪悪ではないと思います。

ただ、自分のシッポを飲み込んだり、自ら剣に巻きついたりしますと、
結果どうなるかは明らかでしょう。現実の動物のヘビはそような事を
行う筈もありませんが、ここの人間界では珍しくないかもしれません。

極端に愚かな人だけの話ではなく、普通の生活をする常識的な人でも、
様々な事で悩んでエネルギー消耗したり、善い事と思っても準備不足や
エラーやタイミングの不適から自分を害する結果になる事もあります。

私は基本的に、ヘビはニガテです。感覚的に通じ合えない場合が多くて
親しくなり切れません。けれど、手も足も無いらしい身体で器用に動いて
懸命に生きる姿を見ますと、その頑張りを労ってあげたい気がいたします。

人も各自それぞれの条件があり特徴があります。その自覚を深める為にも、
ヘビ達がとぐろを巻いて静かにするように、じっと坐して静黙してみては
如何でしょうか。その呼吸や皮膚感覚を感じてみるのも新鮮でしょう。

彼らは又、動く時は力まず、柔らかく、しなやかに、素早く動きます。
そして一生のうちに何度も、不要なものを脱ぎ捨てて成長してゆきます。
実にヘビ達は、生きるコツを色々と教えてくれている気がいたします。

そのような蛇の動静とリセットを、この年頭に意識されてみるのも
有意義ではないでしょうか。今年も色々な事が始まりそうですが、
何が起ころうと恬淡に、修養を楽しんでまいりましょう!!

どうぞ、今年も宜しくお願いいたします。
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大晦日 (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年12月31日 | 日記
今年も日記にお立ち寄り、有難うございました。

毎年いろいろな事がありますけれど、
今年は特に印象的な事が多かったように感じます。
沢山の話題があり過ぎて言葉が追い付きません。

読者の皆様には、ともかく平静にポジティブに
新しい年を迎えられますよう願っております。

それでは又、来年(明日)!!
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冬至点(きらく仙女さんの日記の転載)

2024年12月21日 | 日記
緊急にご提案いたします。

この地球では古代から、冬至点という、冬至の瞬間(数秒〜数分)に
祈りの儀式を以て運命を好転する方法が、細かい作法等は異なっても、
色々な地域、文明で共通的に行われてきたそうです。その証拠として、

冬至にだけ太陽光が差すように設計された建造物が各地に残っています。
また、その儀式に必要であった冬至点をできるだけ正確に測定する為、
太陽光を観測する高い棒のような遺跡も各地に遺っているとのこと。

という説が友人の日記で紹介されていました。そして、今年の冬至点は
本日12月21日の18時21分だそうで、今なら間に合います。その時刻に、
個人的でも適正な願い事、公の安寧などを祈られるのも宜しいようです。

ただ、その方法は地球地域で後天の物事を、望む方向に好転させるのに
有効としても、道院の冬至の坐とは目的も視点も別です。冬至の坐の目的は、
ご存じのように、陰陽の気の変化を捉えて自己の真霊の基を固める事ですね。

冬至点の時刻は、現在は科学的に測定され一般公開されているそうですので、
権力者が独占する時代ではないようです。私の場合は、その時刻を意識して
活用した事は今までありませんが、今日は試してみようかと思います。

その時刻と、道院に伝わる静坐を組み合わせると、地球在住の皆様には、
より効果的な方法になるかもしれません。と思い、お知らせいたします。
子の刻よりも実行し易いでしょうし、又、ちょうど今日は土曜日です。

試してみられるのも宜しいかと思います。いずれにしましても、
自己の真霊の基を固めて運命をリセットする事は重要でしょう。
読者の皆様のご幸運をお祈りいたします。
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今年の冬至(きらく仙女さんの日記の転載)

2024年11月30日 | 日記
皆様、お元気でしょうか?

今年は地震で驚かされた元日から始まり、
暑い夏、ヘンな台風とか言っているうちに、
もう冬至の時期が近づいてまいりました。

毎年の事と思う方も居られるかもしれませんが、
今年の冬至は、占系やスピ系の方達が口をそろえて
特別に重要な日であると言っておられるようです。

風の時代到来と謂われてから久しくなりますけれど、
いよいよこれから本格的に新しい時代が始まるという、
ワクワクするような過渡期を迎えた状況になりました。

冬至にはリセットしましょう、と毎年お伝えしております。
今年は、そのリセットの意義と将来の結果が例年の比ではなく、
地球人類にとって初めての、未知の時期に入ったという事です。

色々な宗教で、最後の審判とか、世の建て替えとか、大掃除とか
謂われてきました。それが遂に現実に表れてくるとも言えそうです。
単なる言い伝えとか寓話ではありません。それは既に始まっています。

私達が為すべき事、できる事は何でしょうか?――それは、やはり、
自己自身のエネルギー補給ですね。自己の真霊の回復と強化です。
その重要なきっかけとなるのが、冬至の坐で基を固める事です。

その準備対策として、自己にとって本当に必要な物事を再確認し、
過去から現在まで溜まりに溜まってきた不要な物事や有害な物事を、
分別して捨てる物は捨て、すっきりと整理する事が重要でしょう。

自身の心身の健康に適さない習慣や嗜好、対人関係もそうですね。
例えば、気苦労の原因になる趣味や知人との向き合い方を修正したり、
生活の時間配分の見直しも、良いリセットの一つではないでしょうか。

冬至の時期に合わせて今から、思い付く限り色々な事をリセットして、
できるだけの準備をした安堵感と共に、ゆったりとした静かな気持ちで
仕上げの冬至の坐を楽しむ・・・なんと贅沢で優雅な時間でしょうか。

そこまで実行できれば、未だ真霊の完成度が足りない状態であっても、
将来どのような時代が来ようとも、誠意に対する神仏のご加護も頂ける
でしょうから、何も恐れる事は無い、と私は信じてお伝えいたします。

今年は技術的な話や注意事項など申しません。皆様各々工夫されて、
ご自身にとって有意義な冬至の坐の時期を過ごされますように!
そして明るい新時代を迎えられますように願っております。
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経典の翻訳

2024年11月03日 | 日記
私は道院の経典に御縁を頂いておりますが、最近、
真経管窺録という書物の日訳を始めた同修が居られます。
ご自身と後の方達の為に善事だと感じて激励いたしました。

翻訳と言いましても様々な分野がありますが、共通して最初に
目的や伝える相手を意識して方針を決めるのが宜しいと思います。
文学的な美訳とか、面白さ、分かり易さを優先とかありますね。

私の場合は、主に道院の経典を漢文から日本語文にする作業で、
参考解説として英語的な表現やパターンを便宜上加えております。
目的は率直単純に、私自身と同修者の学習の一助とする為です。

修養を志す人全員が必ずしも道院に入らなくても良い、あるいは
入っても必ずしも沢山の経典を一々詳しく学ばなくても良いと私は
考えております。その理由は、現在の道院の学習環境にもあります。

各院の役員方も誠意や責任感を持って努力されているでしょうが、
坐の実践が十分でなくて知識的、学術的な理解で研修を行う状況では
良い学習環境とは言えません。当人の成就も真人養成も遠いでしょう。

道院の経典は今の世界では特殊なので、理論研究を得意とする方達でも、
感覚的に難しい箇所が多く、順調に進んでも相当の時間や労力を要します。
そして、僅かな誤解から後々自身や後進にとって禍となる事もあります。

また、道院の経典は様々な段階や天命の修者の為に多種伝えられていて、
その個人にぴったり合って理解し易い経典に出会える可能性がある一方で、
難し過ぎたり感覚的に合わず、熱心に拝読しても理解不能な場合もあります。

道理を他者にもお伝えしようと意識する場合は、あらゆる経典を拝読しつつ
積極的に実践して、知識と共に実感として日々理解を深めてゆきませんと、
自己自身と所縁の人、後続の人達に多大な迷いや間違いを齎すでしょう。

現実に、一見些細な訳し方の違いから経典の意図と別になる事もあります。
例えば、北極真経という経典の最初の所にあります「私修」という言葉を
個人的に行う修という認識で「ひそかに修める」と訳すと、適訳風ですが、

真経奥義という別の経典には「私修は私を去る修である」と説明されています。
修養の心得として、個人的な修養という認識と、私を去るよう意識するのでは、
方針が異なりますね。後者をモットーとして自己を戒める事は有意義でしょう。

一字一句疎かにされていない筈の経典が、そのような省略表現になった理由は
多分、誦経の際に発声したり傍聴するのに、4文字リズムの流れが軽快な事と、
前後の文から「去る」を略されていると分かる筈なので略されたのでしょう。

訳者は、そういう事も踏まえておく必要がありますので、初心者向けと謂われる
北極真経を訳する場合も最低限、真経奥義と真経管窺録の2書の研鑽は外せません。
そして、基本経典である太乙正経午集を熟読しませんと、真経の意味は解りません。

冒頭に書名が出ました管窺録は、元済南道院の霊泳会長が編纂された参考書です。
老祖様が直接降ろされた経典ではありませんけれど、霊泳会長は私見を加えず、
複数の経典中のお言葉を常に引用し、分かり易く有益な解説をされています。

但し、その中にも、道邃正経真華という高難度の経典からの引用も多いです。
それを解読するには、学術的な研究だけでは足りません。日々の心坐と形坐の
実践が必要で、その状態の上に更に多くの神霊方のサポートが欠かせません。

どの分野でも、自己が納得できないまま無理に訳したり、想像を交えて訳す
などの事は宜しくないでしょう。特に道院の経典は、強烈なパワーを有して
人の運命を左右するものですから、日々の静坐の自修が大事でありましょう。

そのような事を踏まえた上で、私個人の経典日訳のモットーは三つあります。
第一に、うっとりする美文より、理論が明確で具体的に実践し易い実用性です。
修者を導く目的で降ろされた経典の価値が十分発揮される事が望ましい故です。

経典の原本も、それが降ろされた時空間そのままのパワーはもの凄いはずです。
丁度、ブッダが法華経を説かれる時空間が虚空界になると謂われるような現象が
当然起こる訳ですから、日訳もそこから極力遠く離れない事が望ましいでしょう。

そのため、可能な限り経典の意味を深くも浅くも様々な方向から感じるよう心掛け、
少なくとも参経の時間だけは常に心坐に由る集中を以て向き合う様にしております。
心坐している限り、易の乾卦に曰われる「邪を閑ぎ誠を守する」事ができますから。

そして第二に、たとえ適当そうな名訳文を思い付いたとしても、経典原文の文字を
決して別字に変更しないよう注意しております。万が一にもその経典がこの世界から
失われて私の日訳が残ったような場合に、原文を復刻できるよう願っている故です。

そして第三は、格調高いのに親密で、厳しいのに温かい経典の雰囲気をできるだけ
壊さないという事です。それは林雅志氏の日訳姿勢から学びました。ですから少し
古文調で馴染みにくいかもしれませんが、安直になり過ぎない方針に致しました。

また、参考解説の際に私が重視していますのは、他の経典から引用する方法です。
それが最も信頼でき安心でき、修方なら誰も異論を挟めない筈であるからです。
その方針は、経典の参考解説の先駆者ともいうべき霊泳会長から学びました。

これから道院の経典を様々な言語に訳する人が出て来られるかもしれません。
それは善い事でもあり、慈善行動であるでしょうけれど、日訳の場合以上に
文字や文法、文化の問題もあり、責任の重い仕事になるでありましょう。

大道の理論に縁じて修養に入られる方が一人でも増えれば嬉しいですが、
くれぐれも楽しく適正に順調に進んでいって頂きたいと願っております。
それにはやはり「静か」がキーワードになります。できるだけ静かに

天地と自身の和を感じて、先天炁が自然に入ってくる態勢を整えて、
ゆったりと静坐の時間を楽しまれればと思います。そして、もし
その過程で、経典を詳しく知りたいと強く感じられてきた場合、

あるいは経典翻訳をご自身の天命として取り組んでゆきたい、
と実感されましたような時には、この話をちらっと
思い出して頂ければ、と思います。
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さがし物―2 (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年10月10日 | 日記
後天の物をさがす場合は、苦にせず気楽に、
有意義なさがし方を、というような話をいたしました。
今回は先天の、無形のものについて考えてまいりましょう。

おしなべて、さがすという行為は、現在無いと思うので起こります。
自分がその物事を得ていないと思っている、又は嘗て得ていたが失った
と認識している場合。そして得る必要性を感じるから、さがすのですね。

幸せを象徴する青い鳥を捜して諦めて帰ると家に居たという話があります。
悟りを求める善財童子も、すでに文殊菩薩に出会っているのに遠回りをして
出発点に戻ってきたとか。最初から直観的にゴールへ往けば簡単ですのに。

探し物があまりにも身近に普通に存在すると、気付き難いのかもしれません。
先天炁はどこにでも存在しますが、自己の真霊として確保しないと他人事です。
炁を自由に頂き活用する修養方法を実行して、初めて真実の存在になります。

炁を直接のエネルギー源としない限り、後天の生物にとって食物を探すのは、
生涯の重要な仕事になります。探して手に入れようとして、得られない苦悩や
得ているらしい者に対する嫉妬、憎悪、敵意などが発生し波及してゆきます。

有形と言えない無形のもので最も基本的な物、最小単位、ルーツである物が
先天炁という名で呼ばれていますが、先天炁はどこにでも存在しています
と謂われても、手に取れず、目で見えず、鼻で匂うこともできません。

自己自身の中にも存在しているはずです。けれど、一般には、それを
さがして手に入れる必要を感じている人も少なく、その方法を知る人、
実行する人も少なく、まして善い結果を得る人は非常に希な現状です。

先天炁を希望通りに得る事ができる方法を理解し十分に体得するならば、
他のいかなる有形の物も無形の物も、無理なく得る事ができるでしょう。
そして、得ない方が善いものは、意識せずとも自然に避けられるでしょう。

自己固有の真霊は、先天炁と後天気の両方でできています。そして現在の
ほとんどの人の真霊は、長年の後天消耗生活のうちに摩耗して薄くなったり、
特定の消費癖の為にいびつな形になったり、スカスカになったりしています。

道院に伝わる修養は、先天炁を自己の真霊として固定して、光の粒の密集した
円霊の状態に回復するのが主な目標です。後天気の方は、外部への流出倹約と
内部への意識集中に由り供給できるものですから、先後天の材料は揃います。

この場合、捜す努力や技術などは一切必要ありません。材料の先天炁は常に
無限に存在しています。後天気は自己の意識集中と継続、習慣化の問題です。
失った霊の所在を捜す必要はない、という由は経典にも明記されています。

為すべき事は、炁が自動的に自然に入ってくる状態を設定するだけです。
具体的に自分の容器を感じて意識の線を繋ぎ、スイッチONするだけです。
林雅志氏は「捜さずして受ける」という経典の一文が大変お好きでした。

自己の霊エネルギーが何時何処でどういう原因で失われたかを思い出したり
経緯を理解する事も無駄ではないと思います。自分のエネルギー消費の傾向や
特徴が分かれば、気を付けて制御もでき、修養にとって有益かもしれません。

けれども、自己のエネルギー消耗が起こりやすい後天有形の物事に対して、
真剣に自戒して制御するのは結構大変です。それより、大道の真理に親しみ、
誦咒したり、自身の窔を楽しく感じて修養モードになる方が早道でしょう。

そうして修養モードになれば、日常の無駄なエネルギー消費が避けられて、
真霊の消耗が最小に抑えられます。その上で、心坐や形坐に由って先天炁を
自然に頂けるようにしますと、「捜さずして受ける」を実感できるはずです。

有難い事に、適正な修養は、誰でも基本的に実行を制限されていません。そして、
それに由り炁を活用できる状態になれれば、後天の物は何も探し求める必要など
ありません。必要な実物は、即時に得られるか又は既に与えられ備わっています。

もし、広い土地や立派な家屋を所有すると管理が大変で、他者の妬みを受けたり、
資産を狙われたりもします。外見の美を追求するのも大変でしょう。何事も大変。
後天の物は、その時その時に必要な物だけ頂けるのが最適な状況だと思います。

炁も捜さなくて良い道理ですから、先天無形物も亦、探す必要は無いでしょう。
炁は沢山ありますから、誰とも争う必要は無く、他者を羨む理由もありません。
自己に必要な全てのものを頂くための僅かな努力を惜しむべきでしょうか?

皆様、どうぞご一緒に、何も捜す必要の無い修養の世界へ参りましょう。
とりあえずは、日々僅かな時間でも、静かにゆったりと
坐を楽しむ至福の時間に浸りましょう。
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さがし物―1 (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年10月01日 | 日記
皆様お元気でしょうか?
こちらは急に涼しくなってまいりました。

さて私は、最近の片付けと関連して捜し物もしております。
考えてみますと「さがし物」も私達の人生の中で相当の時間や
エネルギーを要する、避けられない作業ではないかと思います。

一般に、欲しいものを「探す」、見失ったものを「捜す」のように、
文字が使い分けられているようですが、どちらも手許に無いと思う、
且つそれを得る、又は取り戻す必要があると思うものをさがしますね。

そして、有形の物から、無形の、例えば生き甲斐や天命、真理・・・
など様々のものが対象になります。分かり易い単純な無くし物から、
有形の物と無形の物とが混在して区別し難い場合もあるでしょう。

愛用している道具が、いつも有るはずの場所に見当たらなくて
慌てたり困った体験は、どなたにも有るのではないでしょうか?
それを捜す作業は実に想定外の精気神エネルギーを消耗します。

非常に大切な程の物でなくても、絶対に必要な物でなくても、
記憶にあるのに目の前に出て来ないと、どうも気持ちが悪く、
もう良いと割り切っても、映像がチラチラ浮かんできたりして、

現実に困る以上に精神的にストレスが溜まります。その意味でも、
できるだけ日々整理整頓を心掛けて、物の管理をしたいものです。
そうすれば、さがす時間や手間やストレスは削減できるでしょう。

けれど、探す事は良い面もあり、反省や熟慮の機会にもなります。
生物にとって何かを探す事は観察や分類の訓練になり、それを次々
クリアするうちに知識や体験を得て進歩する仕組みであるようです。

と考えますと、探す事はこの世界の人生に必ず必要なカリキュラムで、
それをどのように受け止めて思考し実行するかは、各自に与えられた
重要課題なので決して疎んじるべき事ではない、とも言えそうです。

実際に、探索は楽しいミニ冒険、または身体を動かすエクサと思って、
心坐しながら探し物をしますと、有意義な時間になるはずと思います。
そのような場合は却って、簡単に見つかってしまったりするものです。

捜し物の利点の一つは、物を分類する内に頭の中が整ってくる事でしょう。
それから、古い記憶の蘇る物や意外な物を見つけるのも楽しいものです。
野外へ行楽に往って帰る時間や費用、不慮の事故の心配も要りません。

概して、探し物の時間=修養や運動とし、知的ゲームを楽しむのもアリ。
客観的に考えて時間やエネルギーの無駄なら即忘れるのが良さそうです。
また、絶対に必要と思う場合は、出現を祈念するのも一つの方法です。

例えば、その物に「出てきてください」と言うと、居場所が分かったり、
ガチャと音がして目前に現れる場合もあります。頼んでも出て来なければ、
それも良いと割り切りますと、後日出てきたり所在が分かったりします。

気持ち的に割り切ってから集中して真坐をすれば結果は早いでしょう。
小さな物たち、スプーンやボールペンなども皆、自分の天命を持って
懸命に存在しています。その事を忘れずに対応したいものです。

読者の皆様も、今の季節の爽やかな空気の中で、なるべく
静かな時間を感じる、という基本姿勢を保ちながら
有意義なさがし物を楽しまれては如何でしょうか。
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久しぶりの台風 (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年09月02日 | 日記
久しぶりに日本列島に直接影響を及ぼした台風10号は
速度が遅く、進路も予想困難で不可解な印象の台風でした。
実害を受けられた方々には、お見舞いとお労いを申し上げます。

鎮心経などを以て鎮化活動に参加された方々、ご苦労様でございました。
皆様の誠が集まりまして、私も決定的な方策の提案ができました。最終的には、
多賀所縁の霊鳥に出動を要請しました。多賀と言えばイザナギイザナミ様ですね。

この国では今なお、伊勢ファーストの伝統が続いています。辺地の小さなお社でも、
ここも良いですけど伊勢にもお参り下さい、という張り紙が目に付きます。それが
悪いとは申しません。ただ、遡るなら、もっともっと元もアリかと思うだけです。

さて、今回の台風より少し前に地震がありました。その「日向」の地震を合図に、
古代の歴史を彷彿とさせるルートで風雨が続き、強烈な災害場面が展開されました。
古事記、日本書紀、またスメール語の古事記解釈などの伝承も繋がってまいります。

いずれにせよ、日向(ひむか)と言えば禊(みそぎ)。「つくしのひむかの・・・」
という祓言葉が知られていますね。水による禊は基本的で、最も穏やかでしょう。
水でも大雨、長期間なら大変ですが、火や風の浄化は更に強烈でありましょう。

それでは、今回、このタイミングで何を禊ぎ払う必要があったのでしょうか? 
2008年12月に香港で災刧を弭化すべく誦経会が開かれました。その約2ヶ月後、
国連WHOにおいて、いよいよ災刧の具現化を告げる有名な演説がありましたね。

これ以上は、特定の民族や非常に個人的な問題にも振れなくてはなりませんので、
ここでは秘しておくことに致します。けれど、今が大変な時期である事は確かで、
その重大性を明確に認識するか否か――それが、明暗の分岐点となるでしょう。

今、何をすべきかは各人の条件に由り異なるでしょうけれど、共通する事は、
自己の心身を整え保つ、できるだけ先天のエネルギー補給が必要という事です。
その当然で普通の事が今、そしてこれから、いよいよ切実になってまいります。

炁の補給――重大な事はそれだけです。それが出来易いように、過去のカルマを
清算、浄化する事は有益かつ有効です。この秋から拡大予定とされるワクチンや、
ますます悪化する環境に備えるための、今が最後の平穏な時間かもしれません。

ところで、禊ぎと浄化の意味は少し異なります。みそぎは「身をそぐ」という事。
具体的には例えば、身体の健康上有害な内臓脂肪の塊などを取り去るダイエット、
あるいは快適な生活を損なっている不要な物品を減らす片付けのような事です。

それに対して浄化は身体の表面のバイ菌やチリ汚れ等を払ったり消毒するとか、
体内の重金属などの毒物や体質に合わない栄養物を体外に出すデトックス、また、
環境の有害な生物、ウィルスや電磁波などを消去するような事になると思います。

ともかく、先天炁を頂く事、できるだけ頂き易くする事が私達の最大の課題です。
気持ちを穏やかに一つ一つの日常の作業を行い、無駄なエネルギー消耗を避ける、
心坐、形坐、誦咒や誦経などを続けますと、無理なく大道に意識が繋がります。

大道に意識が繋がる、という事は非常に有利な事です。安全性が高まります。
日々そうしていますと、改まって禊ぎや浄化を行わずとも、必要な物だけが
自然に身体と環境に備わり、天地神仏から守護される状態になれる筈です。

久しぶりの台風に因んで、禊ぎと浄化、それを自然に行う坐と慈について
思い付くままお話ししてみました。ご参考になりましたら幸いです。
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形坐の見直し (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年08月08日 | 日記
暑い日が続きますね〜。
如何お過ごしでしょうか?

形坐も実行し難いような蒸し暑さの中で、
思い付きました対策の一つをお伝えしたいと思います。

新しい事ではありません。むしろ、初心に帰ると申しますか、
今一度、基本を見直してみますと、意外に進展するかもしれません。

形坐の方法のうち、特に見直す価値があると思われるのは手の位置です。
手と膝のポイントは厳密でなくても問題無いと言う説もあります。けれど、

わざわざ老祖様が御降臨されて、形坐の手の位置をおろそかにしないようにと、
丁寧にご注意下さっている一文が経典の注釈の所にあります。それほど重要です。

現在の身体や環境の厳しい条件下で、できるだけ坐の効率を高めるには、確実に
ポイントを接続する事が必須です。家電のコンセントをしっかり挿すのと同様です。

そうしませんと、他の条件、例えば塞兌ができている、気が平静になっている等の
条件が満たされていても、電線の接触が悪いのと同じで形坐の意味が薄らぎます。

要は、掌の中央の、労宮とか手心と呼ばれるポイントと、膝のお皿の中央の窪みが、
磁石か吸盤でくっついて移動でき難い如くぴったり密着する位置を探してください。

そうです。ご自身が「ここだ!」「ここ以外に無い」と感じる位置を探してください。
毎回同じ場所とは限らないかもしれません。その都度最適な位置を見つけて下さい。

手を膝の上に置く角度も、肩に力が入らず楽に続けられる角度が宜しいでしょう。
力んで押し付ける必要はありません。最初だけ少し押し付けてみるのはアリです。

両掌がすっぽり膝のお皿を覆って安定すれば、各指先は少々離れても気の漏れなど
問題ありません。また、膝の角度が目安の90度より大きくても小さくても大丈夫。

その状態で形坐しますと、ズキンズキンと脈拍が感じられ、手の指先、足の指先まで
ピリピリと通電している感覚が来て、坐に由って気が働いているのを実感できます。

そうなりますと、気が外へそれるとか、雑念が浮かんでくるとか、眠くなるとか、
飽きてくる、身体のどこかが痛い痒い・・・等々の現象が有り得なくなります。

気温も気にならなくなります。なるべく風は直接当たらない方が宜しいですが、
エアコンが無くて扇風機の弱風だけでも普通に形坐できます、という以上に、

手の位置が安定しますと、形坐に入る前の蒸し暑さが、何?この快適さは!
という程になります。寒さの場合は予め衣類等の対策がベターですけれど。

その状態で心坐をしますと、同じ時間をただ大体の形だけ整えて座る場合より
格段に集中力が上がって、数倍以上の効果があるように私は感じております。

そのまま永遠に続けられる感じにさえなります。けれど、その場合には逆に、
程々に形坐から心坐に切り替え、次回を楽しみにする方が宜しいと思います。

もちろん、十分に修養が進んで、常にそのような感覚で心坐や息坐ができれば、
手の位置など問題外になる筈です。早くそうなる為にも抑えたいポイントです。

そして、一度上手くできても次回できない場合もあるかもしれません。けれど、
一度体感した状態は再現できると信じて、諦めずに確率を上げてゆきましょう。

日により波があっても、地道に真面目に形坐を行っていますと、ある日突然、
積算温度が達成されるように機が熟してビュっと進化が始まる時もあります。

どうしても気持ち良く形坐できない時は無理をせずに、入浴や軽い身体ケア、
そして心坐だけ行い、自己を責めず、ノルマで縛らないように致しましょう。

何度も申しますように、道院の修養、修坐は義務ではありません。われわれ
所縁の者に与えられた権利、チャンスです。誠に得難い権利、チャンスです。

今まで自己流で形坐していた方、形坐から離れていた方、未体験の方も、
この機会に、手の位置を確認して試してみられては如何でしょうか。

ちょっとしたコツさえ分かれば実に何でもない簡単な事です。
是非、形坐の醍醐味を体感されますよう願っております。

天然のサウナで良い汗を流して、効率的な形坐をする、
有益で楽しい夏にいたしましょう!!
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片付け (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年07月17日 | 日記
夏至も過ぎました。皆様お元気でしょうか?
これからが猛暑でしょうけれど、その向こうには、
すでに涼しい秋や厳しい冬が待機しているはずです。

私は身辺の物を片付けたいと思いついてから久しいのですが、
日常の雑用以外に色々と用事ができたり、形坐の時間も必要ですし、
急がなくても腐って悪臭を放ってくるような物でもない・・・などと、

片付けの捗らない状態が続いておりました。けれど、それでは何時までも、
誰かが代行してくれない限り、ほとんど永久に片付きません。私の住居は
相当狭いです。そこに、長年の内に溜まった物たちが同居しておりいます。

その集積の原因は、例えば、価値があるのに処分価格にされている衣類等を
つい救済して連れ帰るような親切心と勿体ない精神が積み重なった事が大きい
と思います。そうして部屋のかなりのスペースを占領される状態になりました。

私が昔住んでいました家は十分な収納場所がありました。そして、余計な物でも
誰かが活用してくれるような環境で、片付けを手伝ってくれる人たちも居ました。
その頃の、収納に関するイイ加減な習慣が残っていた事も原因かもしれません。

ところが、ちょうど私の住まいの近くを訪問する必要のある知人から相談されて、
家の物置に使っている部屋でも良ければ泊まってもらうという状況になりました。
その部屋は空き箱やクッション材等も積んであり、本当に超乱雑な状態でした。

けれど、約束してしまいましたので、来訪予定日までの2週間ほどの間、毎日
少しずつ物品の分類、リサイクルなど努力した結果、必要な場所だけは何とか
間に合いました。やはり「数」が決まる事に由って物事は動き出すのですね。

かのアポロ計画の時なども、月面着陸の年月日が発表され、その達成のため、
各種のプロジェクトの完了年月日が逆算されて、フローチャートが作られ、
それに従って関係者全員が動き出した、という有名な史実がありました。

億劫になっていた片付けですが、始まってみると意外に面白いものです。
こんな物が・・・と新鮮な発見があり、あたかも宝箱を開いている感じも。
これから役立ちそうな物や素敵なギフトになりそうな物まで見つかりました。

けれど、一番の感動は、静かに工夫の時間を過ごす楽しさの発見でしょうか。
少し迷う分類でも苦痛にはなりません。工夫するとか選択するという作業は
面倒と思えば面倒ですが、楽しいと思えば結構楽しいと実感いたしました。

もっと早く始めれば良かったと思った程です。けれど、数が決まらないと、
物事は動き出さない、始まらないようです。ずっと以前、この世界が全て
数で構成されているのを見学したという人と話した事を思い出しました。

現実には、数が決まると自分が即動き出すより、何か誰がが動き出して
影響を及ぼしてきます。動き出さざるを得ない最少限以上の要因が揃って
機が発動されて数が明示され、それに促されて動き出す現象が観察されます。

などと難しく考えずとも、グズグズと動き出すと、そのまま実行モードになり、
だんだん調子が上がってきます。そうなれば、苦行の一種と思っていた片付けも
軌道に乗って面白くなり、広く多くの方にもお奨めしたいと思う程になる訳です。

たぶん何事も、ほとんどの事が分類され整理されると気持ちの良いものでしょう。
見た目も綺麗に整頓され、物事の圧迫感も減少して頭の中もスッキリしてきます。
そのような時間を楽しめるとは、なんと幸運な、優雅で贅沢な境遇でしょうか。

ただ、あまり過去の記憶に浸ったりすると、物理的にエネルギー消耗が過ぎます。
なるべくなら、それぞれの物が将来有益に活用されるのが望ましいとは思いますが、
一物一物に思い出や思い入れや未来の希望など感じていては時間も掛かり過ぎます。

天地は万物に対して、私情を入れず、藁狗のように扱うと謂われますね。あるいは、
釈尊は衆生に対して、空観や仮観を基本にされていたとか。私もその方針を見習って、
適当に楽しみ乍ら淡々と静かに、心坐を基本とする片付けを心掛けたいと思います。

まだ暫くは、その時間が続きそうです。おそらく、全く問題発生を感じなければ、
その問題を片付ける楽しみも味わえないでしょう。そして、それが一段落すれば、
また何か新たな片付けが始まるでしょう。まさに、片付けは人生の楽しみです。

ただ、修養の立場から申しますと、複雑で大量の片付けが必要になる以前に、
普段から小さい物事をこまめに片付ける習慣が宜しいですよね。一日一日、
究めてゆくと一瞬一瞬も同様でしょう。・・・そうなると息々の世界です。

数の決定以前の機を自然に感知し、問題も未然に弭化できる息々の状態。
そこへ向かうためにも、数が知らせる機を早く感じる心坐を心掛けて、
できる事から実行するのが、自身にも環境にも誠ではないでしょうか
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坐と呼吸 (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年06月19日 | 日記
健康に良いとされている呼吸法は沢山ありますね。
ヨガにも瞑想の時や特定の目的で行う呼吸法が色々あります。
座禅の呼吸法も各宗派毎に伝えられ、神統にも呼吸法があります。

道院の坐の時は、後天の呼吸をどうするか、色々説があるようですが、
経典では「自然に」と曰われています。浅く申せば、特に意識し努力して
深呼吸したり止めたり吐ききったりせずに普通に行うという事でしょう。

その奥の「自然に」とは、先天炁が正常に化する状態という意味ですから、
先天炁の働きを妨げないように呼吸するのがベストである道理でしょう。
具体的に、自身の心臓のリズムを軽く感じるのも一法と謂われています。

また、道教で謂われる「胎息」という状態は修養の一つの目標となります。
誰でも胎児の時は肺呼吸をしていませんね。その時期の状態を忘れてしまい、
胎息は難しい、道教の修行等を経て会得する、などと思いこみ易いですが、

冬眠中の動物たち等も胎息と言えるような呼吸をして身体を保っています。
現実に胎息は困難ではありません。困難と思い込むと、修坐を始める前から
プレッシャーがかかり、ブレーキがかかりますから、実現は遠くなります。

修養において、胎息に入るための簡単な方法として、元頂または玄関の窔に
軽く意識を置き、「静かに呼吸する」という事だけを思って心気を鎮めます。
炁の充凝や霊の完成などは考えません。結果は自然に付いてくるものです。

後天呼吸は、吐く息も吸う息も静かにし、その時間をとことん楽しみます。
そうして、吐いているのか吸っているのか分からない呼吸になってくると
胎息に近くなり、胎息と言える様な状態になります。慣れれば簡単です。

色々工夫する事は有意義かもしれませんが、後天呼吸に拘る限り、例えば
腹式呼吸から自動的に胎息に移行するような事はまず望めないでしょう。
天地を意識して鬆拏を続ける場合も、結局は後天気に囚われてしまいます。

私の場合、心身を整えるために腹式呼吸や逆腹式呼吸、胸郭呼吸、或いは
フイゴ呼吸やドローイン等も一時的に行いますが、延々とはいたしません。
それらは、胎息に向かう以前のケアとしては有益であろうと思います。

そもそも、生存に酸素が必要でしょうか?大抵の人は、酸素が吸えないと
死んでしまうと思い込んでいるようで、息苦しくなると恐怖を感じます。
けれど、この地球の生物の中にも、酸素を必要としない者達もいますね。

また、深い禅定に入っている時は呼吸をしていないし、脈も止まっている、
と私の仏典の師匠が友人の医師と共に実験した時の事を話してくれました。
その人の禅定状態を私が見た時は、ご自分の世界に浸っている様子でした。

林雅志氏の場合は、坐の時の呼吸は考えずに普通にしていて良いとか、又、
坐の集中が深まると吐くと吸うを同時に行っているとも言っておられました。
フーチで坐を褒められていた他の先輩で、呼吸は不要と言う方も居られます。

一般に、大好きな趣味の作業などに没頭している時間は、無心と申しますか、
呼吸の事を忘れようと努力しなくても気が付くと忘れています。そして逆に、
集中している物事がある時に呼吸の状態を意識しようとしても難しいです。

私は、自身の坐の時の呼吸がどうなっているかを研究的な目的で客観的に
観察しようと熱心に試みた事がありましたが、上手くゆきませんでした。
概して、「後天の呼吸を忘れているような状態が胎息」とも言えそうです。

経典には「其の正を守し、其の中を堅し、以て無形に於いて定する」状態が
習慣化し「性」として安定する事が胎息の功の基であるとも説かれています。
また別に、肺呼吸に由る循環系に関して、魄魔輪天という表現があります。

後天=邪悪ではありませんが、後天世界のエネルギーシステムには問題もあり、
それに囚われている限り、先天炁を用いる修養が行い難いのは確かでしょう。
「定遊」と呼ばれる霊体修養も、後天呼吸に囚われていては実践できません。

ともかく、できるだけ静かを楽しむ事を習慣にするのが重要です。そうして、
やがて「生白」という状態になりますと、玄関にLSDライトが灯ったように
眩しい真霊の白光が目に見える訳ですから、努力せずとも気がそれません。

そうなりますと、後天呼吸の工夫をするような必要など無くなるでしょう。
後天の呼吸をしなくなるのではなくて、しても良いし、しなくても良い、
先天炁の自然と後天気の天然に任せる感じになれば先ず成功でしょう。

呼吸の工夫も楽しみの一つかもしれませんが、證はやはり必要です。
今日の話を参考にされまして、無理なく後天の呼吸を忘れるような、
「心地好い静かな坐」をゆったりと行って頂ければと思います。
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心坐の時間 (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年05月27日 | 日記
時間の単位とされています「度」は
深さの単位でもあります。坐で言いますと、
坐を行う時間も坐の状態の深まり度合いも「度」です。

林氏の坐のように、玄関を含むSラインを守窔し続ける場合は、
時間の経過とともに同じような変化が現われるのが感じられます。
ですから逆に、この状態なので何分ほど経過していると分かります。

私がお会いした頃の林氏は16度=64分×1回の形坐が日課でした。
ただし、1日24時間、可能な限り心坐守窔をするというスタイルで、
睡眠中に夢を見る事さえ修養にとって良くないと言われていました。

心坐は常に行うべきで、「行住坐臥の間に在りて、心は道を離れず、
神は窔を離れず」と定義されています。心坐を修する習慣に由って、
性が安定します。そして真霊が凝固して、息々が通じる訳ですね。

現代は、人の元霊のエネルギー状態の低下、それに伴う人心の混乱や
環境の悪化が進んでいる等の条件に対応するため、人身を持つ者には
心坐の効率が上がる方法である形坐が奨められているという経緯です。

生物は基本的に、卵の中や胎内に居る時間、冬眠の必要がある時間など、
環境に適応しなくてはならない時間は、修養の心坐と言えるような状態を
自然に行う仕組みになっているのが観察されます。人の胎児もそうですね。

また、生物の最期にも、心坐の極のような至福の安らぎが与えられています。
天地のシステムです。「天地は不仁」と謂われますけれど、実際には結構、
心地好い生存の場を提供して下さっていると思います。心坐ができれば。

医療や物理の面から見て、身体が驚異的な機能回復をするような場合も、
静黙の心坐が密接に関連しています。心坐しながらの仕事は安全性も高く、
効率も良く、恬淡で楽しいです。その意味でも心坐の習慣化は重要です。

と理解できても、心坐は中々習慣化でき難いですね。何故でしょうか?
その最大の要因は、自身の内ではなく外に多く気が散るからでしょう。
今の世界では特に、様々な外界の刺激が目を引き、足を引っ張ります。

「活の一誤」と言って、活発=元気で良いと一般に思われがちですが、
健康で好奇心の強い若年層などは、外にアクティブに行動し易いです。
働き盛りの壮年期にも色々用事があって静黙の時間がとりにくいです。

身体に問題がある場合は、それを先に整えるのにエネルギーが使われ、
真霊の修養にまで届きにくいので、坐の効果が中々感じられてきません。
ところが、外に気が散るのを抑えられるメリットがあると考えられます。

私の場合、心蔵の機能に違和感があった事に由って心坐を強制的に促され、
意識が玄関に向けられる瞬間が昼夜を問わず頻繁に訪れた時機がありました。
その事が修養する上で非常に有利、かつ必要な条件であったと今は思います。

それが善い結果になったのは、異常な事態でも驚かず慌てず、不安や恐怖を
全く感じなかった事が大きいと推測いたします。当時、私は先天炁について
既に学んで理論的に確信していましたので、不整脈が続いても平気でした。

また、心坐状態では、今起こっている現象が身体の改善に向かう過程なのか、
悪化方向なのか、感覚的に判別ができます。自己の心身が守られている事も
実感できます。そして、その静かな時間の価値が自然に感じられてきます。

それ故、不安も恐れも無く、炁が治療に来てくれるのが楽しみな程でした。
そうして、周囲には気付かれない日常生活を続ける内、次第に脈が安定して、
約3ヶ月で違和感は治まりました。数十年後の今も、未だ生きております。

「坐すれば全てを悟る」と経典にあります。易旨、つまり陰陽の変化現象が
何事でも実感として理解でき納得できてくるのですね。それは、炁の力であり、
自己の心君が教えてくれるとも言えるでしょう。坐の面白さ、不思議さです。

私は医療施設へ行きませんでしたので、その当時の詳細なデータはありません。
それ以前に倒れた時の目撃者も既に居ません。けれど、もし入院していましたら、
薬剤投与や外科的処置が為されて、坐の効果が十分発揮できなかったと思います。

胃腸などに問題のある場合も、薬剤は最小限にして、違和感を感じたら即ちに
心坐をして、それが回復してくるポジティブイメージを持って静かにさする、
などのケアを繰り返し実行しますと、不調が好転する可能性は大でしょう。

ただ、身体が回復して良好な健康状態になる事だけが善いとも限りません。
一時期的な身体より、真霊の完成と維持、更なる進化という未来が望ましい
と思う人にとっては、坐で得られる健康はおまけのようなものでしょう。

先の望日、ある青年が帰道されました。彼は心臓に問題があり、もしも
それが炁の修養で克服されれば、素晴らしい善例になり得る状況でした。
そういう結果にはなりませんでしたが、別の明るい善例になりました。

自己決断の刻限まで、十分に心坐真息のような静かな時間を堪能されて、
家族全員が見守る中、特別の救済サポートチーム要員の指示誘導に従って
光輝く通路を飛翔して無事に出発されました。本当に芽出度い事でした。

担当医師らは、その間の脈拍などの安定を不思議がっていたそうです。
見送った方達も皆それぞれ、静かな時間の中で、様々な想いが鎮まり、
様々な事に気付き、1度深く、1まわり大きな人になられたと思います。

実に、この世界は様々な体験の場ですね。それら一つ一つの物理的変化を
支え運営しているのが時間のシステムである、とも言えるかもしれません。
今現在という瞬間を目いっぱい有効に活用し、そして楽しみたいものです。

静かな時間は何よりも大事です。何よりも、と断言できるほど大事です。
その静かな時間を楽しみながら最大の恩恵を頂く方法が坐なのですね。
心坐、真息につながる真坐、心坐を強める形坐、心坐の奥の息坐・・・

心坐の時間を少しでも多く頂きましょう!!
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形坐の時間 (きらく仙女さんの日記の転載)

2024年05月05日 | 日記
新緑の爽やかな季節になりました。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?

私は先月から形坐の時間を増やしております。
坐を行う条件は各人それぞれ異なるでしょうけれど、
ご参考までに、思い付いた事を少々お伝えいたします。

心坐はどれだけ長時間でも善く、できれば常に行うのが理想
と謂われます。それが無理な状況で心身を善い状態にするために、
効率の良い形坐を1日1回以上行うように伝授されている訳ですね。

道院の形坐の時間は、最初は4度=16分を百日とされています。
それは本格的に坐をする準備段階のような期間とも言えるでしょう。
それが順調に過ぎますと、8度に増やして続けるのが通常と謂われます。

初心の人も、道院内で誦経の前などに合坐する場合は皆と一緒に8度座る
と定められているようです。8度=32分など直ぐに経ってしまいますが、
それが長く感じられるなら、未だ心地好い集中に入れていない印でしょう。

林雅志氏の御説では、少しでも納得できない坐ならば4度に戻すそうです。
許雅度宗主の御説では、最初の4度の後は自分の好きなだけ行って良いとか。
笹目秀和氏は毎日4度の形坐だけで心身を維持できると言われていました。

私の場合は、厳密なノルマのように決めますとストレスの要因になるので、
適当に楽しんで座り、違和感が生じたらモード切り替えや心坐だけにする、
又その日によって、多用だったり疲れていたり等で時間を増減いたします。

実は長期間、最低8度で通常16度の形坐を日々の目安にしておりました。
それで一応、心身を保つ事ができていたように感じていました。けれども、
環境条件等が悪化している現状に対応する為16度を標準追加しました。

太乙坐釈法言という経典に由りますと、毎日32度を1回から3回まで
継続して行えば十分な功候が得られるそうです。ところが、実験的に
トライしてみますと、一寸キツ過ぎて毎日の継続は困難と感じました。

ご存じのように、道院の形坐は心身を鍛える目的の苦行ではありません。
あくまで真霊の完成と元充のエネルギー回復が目的ですので、無理せずに
日常の中でできる範囲で坐を継続して習慣化する事が重要と謂われます。

それでも、試してみて厳しいメニューもアリだと体感的に記憶できました。
たぶん、十分なエネルギー補充で真霊を凝固する為には必須なのでしょう。
その経典で言われる十分とは、大真人や大仙人クラスの状態を指します。

けれど、形坐の時間が少し増えるだけでも色々な変化が起こってきます。
例えば、身体の機能が改善されたり、意外なアイデアを思い付いてきたり、
疲れやケガの回復が早くなったり、髪や肌が若々しくなってきたり・・・。

時には、過去世の傷や暗い想念が痛みとなって表われて治まってくるなど、
カルマがリセットされたり、坐しているその場が特殊な空間になり、物事の
原因や意味が分かったりもします。その場合は時間の進み方も異なります。

それらは坐の目標ではありませんが、坐に由り心身が整う過程で起こる現象
ですので、坐の進み方の目安にはなります。日々の発見は楽しい事でもあり、
いつの間にか修坐の継続が無理なくできてしまう結果にも繋がるでしょう。

もし数年形坐を続けて何の進展も感じられないような場合は、手の位置や
窔の執り方など基本的な方法を再チェックしてみるのが宜しいと思います。
また、時間帯を変えてみたり、時間を増やしてみる事もお奨めいたします。

勿論、ただ気持ち良く休息を楽しみたいだけの場合は、特に坐の工夫とか
時間の追加など考えず楽しんでください。ヨガの瞑想やマインドフルネス、
座禅等も楽しめる方法でしょう。座り方は椅子が楽だと思いますけれど。

道院の形坐でも長時間になれば手足はむくみます。ただ、それは単純に
物理的な現象で、形坐を解くと短時間で回復しますから心配ご無用です。
むしろ、腎機能が高まって水の循環は坐の前よりも良くなるようです。

但し、坐に親しむ度合いが深まりますと、物欲や地位、名誉等の関心が
薄らいでゆきます。それは修養として善い状態ですけれど、会社勤めや
事業、家族の生活を支えている方などは支障をきたすかもしれません。

そういう意味もあって、初期の道院では、既に社会的経済的に安定して
時間の都合もつき易い立場の人々だけが入門を許されていたようです。
せっかく坐を習っても、実行が困難では善い結果が訪れませんからね。

私の場合も、形坐の時間を増やして以来、世間話をする気がしなくなり、
こうして道慈のお話などを外に発信する作業も少し億劫になりました。
かつて林氏が「自分の坐に集中したい」と語られたのを思い出します。

けれど、「内外不偏」という道理があり、慈の行動はエネルギー的には
自己の損失にはなりません。外へ奉仕した分以上に神仏のご加護もあり、
坐の効率も増してエネルギー補給を頂けるようなシステムなのですね。

時間の余裕が出来てから、じっくりと形坐をして慈も行おうと考える方も
おられるかもしれませんが、この世界の人生はあっけないほど短いです。
そして、今ほどのチャンスというものは、ちょくちょく到来致しません。

また、心坐だけで真霊を持続できるような状態ならば、形坐の時間も
考える必要はありませんが、今の環境は厳しいです。過度の消耗で
ブッダレベルから緊急医療状態にまでなられた実例さえあります。

もし、形坐の時間を増やそうと思えば増やせる立場ならば、
都合をつけ工夫してトライされてみては如何でしょうか?
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