今年も満開の桜から新緑へ
律儀に季節が移ってゆきます。
皆様、お元気でお過ごしでしょうか?
ところで先日、ワン切りという記事を見ました。
例えば、頼み事のメールを送って断りの返信が来た場合に、
返信の手間に対する一言の礼も伝えず放置する人が多いとか。
私の所へも、相談や質問のメールが来て、丁寧に返信しても、
無言で去ってゆかれるケースが大方です。ご多忙なのでしょうか、
何か理由があるのでしょうけれど、ちょっと違和感を感じます。
そんな時、一言挨拶されれば、後日必要な時に繋がり易いでしょう。
もしも深刻な悩み事がおありでしたら、率直に事情をお話しされれば、
礼儀以前の正直な心情が伝わり、問題解決に向かうかもしれません。
そうです、本来は、誠意が先に有って礼儀として表現される順序です。
ここで言います誠意とは、他者に対してではなく、自身の元神や心君に
対して誠実である、正直であるという意味です。それが最重要点です。
けれど、誠意があっても、外に発信するには多少学習、練習を要します。
私も今まで数名の若い人達に礼儀の提案をした事があります。その結果は、
態度が改善された人、優柔不断な人、反抗的になる人・・・など様々でした。
若いから非常識なのではなく、学習体験が無い事について自分で問題を発見、
管理できる人は少ないです。又、適正で必要な情報だけを得る事は困難です。
現実に、社会的経済的な成功者でも非常識で礼儀知らずな人を見かけます。
礼儀というのは、ヒトらしさを保つ最後の手段であるとも謂われますね。
徳とか仁、誠、あるいは公とか孝などを求めても無理である状況において、
せめて型だけでも有徳らしく有仁らしくするという様な意味でしょうか。
けれども、型の練習を続けると、そういう態度が身についてまいります。
お茶の作法や古典芸能などの分野で「形から入る」と謂われる方法ですね。
ただ、一朝一夕にはまいりません。継続して習慣化する事が必要でしょう。
「親しき中にも礼儀あり」という格言もあります。親しい関係であっても、
朝夕の挨拶や会釈、笑顔などは、普通に、習慣的に行いたいものです。
それが普通にできて初めて修養の段階に進んで行けるとも言えます。
「衣食足りて礼節を知る」というのは更に前の段階でしょう。日常の
生活の基本的な条件が整った上で初めて礼儀作法を行う余裕が生まれる
という事だとしますと、修養の出発点まで行き着くのも中々大変です。
けれど幸い、人の意識は瞬間的に大宇宙にまで通じる事さえ可能です。
一瞬一瞬、自己自身で意識を切り替える自由を天与されている我々です。
その様な自由を本気で活用しないとすれば、何と勿体無い事でしょうか。
息々の心坐状態になってしまえば、修養の努力も不要と謂われています。
もちろん、礼儀作法など問題無くなります。衣食住の心配も不要になり、
心地好く生きているだけで周囲、天地の役に立つ存在になる道理です。
その方向へ進むカギは、やはり真坐です。日々の坐がカギとなります。
世間の幼稚な言動や悪事の様子に一々エネルギーを消耗されないように、
天地は万物を藁作りの駒の如く感じて御自身の坐をされているそうです。
この頃、私は一日に130分、1回以上の形坐を目標にしております。
1度=4分ですので、32度=128分、+2分は余裕を加えています。
経典では一日に3回まで可とされていますが、実際に3回はキツいです。
その坐を日に一回でも続けていますと、色々な現象が体感されてきて、
今更ながらに道院の真坐の不思議さ、面白さに感心いたします。
次回は、その話を少々お伝えしようかと思っております。
律儀に季節が移ってゆきます。
皆様、お元気でお過ごしでしょうか?
ところで先日、ワン切りという記事を見ました。
例えば、頼み事のメールを送って断りの返信が来た場合に、
返信の手間に対する一言の礼も伝えず放置する人が多いとか。
私の所へも、相談や質問のメールが来て、丁寧に返信しても、
無言で去ってゆかれるケースが大方です。ご多忙なのでしょうか、
何か理由があるのでしょうけれど、ちょっと違和感を感じます。
そんな時、一言挨拶されれば、後日必要な時に繋がり易いでしょう。
もしも深刻な悩み事がおありでしたら、率直に事情をお話しされれば、
礼儀以前の正直な心情が伝わり、問題解決に向かうかもしれません。
そうです、本来は、誠意が先に有って礼儀として表現される順序です。
ここで言います誠意とは、他者に対してではなく、自身の元神や心君に
対して誠実である、正直であるという意味です。それが最重要点です。
けれど、誠意があっても、外に発信するには多少学習、練習を要します。
私も今まで数名の若い人達に礼儀の提案をした事があります。その結果は、
態度が改善された人、優柔不断な人、反抗的になる人・・・など様々でした。
若いから非常識なのではなく、学習体験が無い事について自分で問題を発見、
管理できる人は少ないです。又、適正で必要な情報だけを得る事は困難です。
現実に、社会的経済的な成功者でも非常識で礼儀知らずな人を見かけます。
礼儀というのは、ヒトらしさを保つ最後の手段であるとも謂われますね。
徳とか仁、誠、あるいは公とか孝などを求めても無理である状況において、
せめて型だけでも有徳らしく有仁らしくするという様な意味でしょうか。
けれども、型の練習を続けると、そういう態度が身についてまいります。
お茶の作法や古典芸能などの分野で「形から入る」と謂われる方法ですね。
ただ、一朝一夕にはまいりません。継続して習慣化する事が必要でしょう。
「親しき中にも礼儀あり」という格言もあります。親しい関係であっても、
朝夕の挨拶や会釈、笑顔などは、普通に、習慣的に行いたいものです。
それが普通にできて初めて修養の段階に進んで行けるとも言えます。
「衣食足りて礼節を知る」というのは更に前の段階でしょう。日常の
生活の基本的な条件が整った上で初めて礼儀作法を行う余裕が生まれる
という事だとしますと、修養の出発点まで行き着くのも中々大変です。
けれど幸い、人の意識は瞬間的に大宇宙にまで通じる事さえ可能です。
一瞬一瞬、自己自身で意識を切り替える自由を天与されている我々です。
その様な自由を本気で活用しないとすれば、何と勿体無い事でしょうか。
息々の心坐状態になってしまえば、修養の努力も不要と謂われています。
もちろん、礼儀作法など問題無くなります。衣食住の心配も不要になり、
心地好く生きているだけで周囲、天地の役に立つ存在になる道理です。
その方向へ進むカギは、やはり真坐です。日々の坐がカギとなります。
世間の幼稚な言動や悪事の様子に一々エネルギーを消耗されないように、
天地は万物を藁作りの駒の如く感じて御自身の坐をされているそうです。
この頃、私は一日に130分、1回以上の形坐を目標にしております。
1度=4分ですので、32度=128分、+2分は余裕を加えています。
経典では一日に3回まで可とされていますが、実際に3回はキツいです。
その坐を日に一回でも続けていますと、色々な現象が体感されてきて、
今更ながらに道院の真坐の不思議さ、面白さに感心いたします。
次回は、その話を少々お伝えしようかと思っております。