すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1522号 丸石に手を置き陶工を偲ぶ

2017-04-14 14:00:53 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】東方に山が連なる街など、全国にいくつもあるだろう。しかしただ単に「東山」と言えば、それは京都の東側を南北に延びる峰々の総称を指す。それが日本人の共有認識になっているのだから1000年の都はやはり特別である。京都駅から乗ったタクシーに「河井寛次郎記念館へ」と告げると、運転手は「あ、五条坂でしたな」と言った。東山の一角、清水寺から下る緩い坂道が東海道に交わり、五条通りが始まるあたりだ。清水焼の故地である。



私が「久しぶりに京都に行こうか」と言い出したのは、暮れにブダペストを旅していた時だ。私と妻の旅行は、海外でもツアーは避け、単独で行動するのが常だ。自分たちの興味に従って勝手に動ける気侭さを損ないたくないからだ。ただ土地鑑がなく、言葉も通じない街を旅するのは疲れる。だからたまにはそうしたストレスとは無縁な国内旅行で、のんびり温泉にでも浸かりたいと考えたのだ。それがなぜ京都なのか。やはり陶芸である。



タクシーは大通りを左折し路地に侵入した。運転手は「確かこの辺りを」と呟きながら、さらに車幅と同じくらいの狭い小路に乗り込んで停車した。町家というのだろう、格子戸を嵌めた二階屋が小路のカーブに沿って密集している。京都の「内部」を初めて知った驚きを伴って、陶芸家の住居兼工房であった記念館に入る。河井寛次郎(1890-1966)は島根県安来の人で、清水焼の名工から窯を譲られ、終生この地で特異な作品を産んだ。

(記念館の写真パネルから)

その作風に強く惹かれてもいるけれど、私が河井寛次郎という個性に抱く関心は、ストイックと言うべきほどの膨大な釉薬の研究や、民芸運動への取り組み、そして文化勲章や人間国宝などの受章を全て辞退し、ついには作品に銘を入れる事もしなくなったという生き方に向いている。中庭の、故郷から贈られたという丸い石に手を置き、「こんな人が世の中にはいるのだなあ」と偲んでみる。あやかるのは難しくても、学ぶことはできる。



五条坂界隈は、かつて多くの窯元が窯の煙を立ち上らせていたとは信じられない住宅密集地だが、少し歩けば高名な陶匠の工房跡や陶板の案内図があったりして、ここが清水焼の里であったことが知れる。そしてそうした窯元に生まれた若者たちが結成した「走泥社」のことを考える。八木一夫や鈴木治ら、作品集を見るたびに驚嘆刮目させられる前衛陶芸集団だ。私が2歳になった1948年に結成され、そこから日本の現代陶芸が始まった。

(作・河井寛次郎)

伝統的清水焼を私は好まない。焼き締め感が乏しいうえに絵付けが饒舌過ぎる。この印象は、高校の修学旅行で五条坂から清水寺を行き来する際、土産物店を覗いて以来、変わらない。しかし今回、それらの安物を並べる店ではなく、本格的な作家ものを扱う店に立ち寄って、私の京焼・清水焼観は打破された。主に若手作家の作品の、何と自由で伸び伸びとしていることか。そこにあるのは産地としての特色や共通項ではなく、自由だ。

(新清水坂の京焼・清水焼焼きの店で)

鎌倉時代には六波羅探題が置かれ、洛中に向けて武家政権の睨みを利かせていた土地だという五条坂に、窯が築かれ始めたのは江戸時代の中頃かららしい。確かに登り窯を築くに程よい傾斜地である。町内の若宮八幡宮は陶器神社とも呼ばれ、毎年8月に陶器市が開かれるのだとか。京都には今も300軒ほどの窯元があるそうだが、その多くは東山の南端の山科に移転して行った。新しい清水焼の郷は、焼き物団地であるらしい。(2017.3.28)










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