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《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
さて、前回私は 賢治が花巻農学校を突如辞めた大きな理由かつ目的の一つとして、「高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作」にさらに邁進しようとしたからだといつの間にか思い込んでいたのだが
と述べたが、先ほどの宗左近の紹介に続いて、理崎氏は 大乗仏教は社会に開くもので、日蓮の思想はさらに徹底して、社会での仕事がそのまま法華経の修業と説いている。地人協会はあくまでの農民のために開かれたもので、賢治の方が日蓮に近い。
〈136p〉と論じていたので、前掲の私の思い込みも当たらずとも遠からずかなと勝手に自分で納得した。それは、「日蓮の思想はさらに徹底して、社会での仕事がそのまま法華経の修業」と説くことは尤もなことだと思ったからである。そしてそれは、これまた理崎氏の『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(哲山堂)によって、
どんな悲惨な状況でも易々と乗り越えていける偉大な生命を人間は持っている。それを表したのが法華経であて、現世で闘っていくのが法華経精神だ、諦めてはいけないのだ、と日蓮は考えたのである。
〈『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(哲山堂)37p〉ということを私は学んでいたせいでもある。
ただし、「地人協会はあくまで農民のために開かれたもの」となると、はたしてそう言い切れるのだろうかと私は少し悩んでしまう。それは、「あくまで」の一言がひっかかるからである。言い換えれば、それが「農民のために開かれたもの」であることは否定しないが、少なくとも賢治自身のためでもあったのではなかろうかと私は考えているからだ。
それは、ここ10年間ほどの賢治に関する検証作業を通じて私は、
「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したということの客観的な裏付け等があまり見つからない。
のは何故なのだろうか、どうも不思議だと思っていたのだが、先頃佐々木多喜雄氏の一連の論考に接して多くのことを学んだことによって、私は〈仮説〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
が定立できることに気付き、それを検証できた。それゆえに、「農民のために開かれたもの」であることは否定しないが、実はかなりの部分賢治自身のためでもあったのではなかろうかということを私は考え始めているのである。つまり、羅須地人協会は、法華精神によって貧しい農民を救うためのものというよりは、まずはなにより、賢治自身の法華経の修業のためのものだったのではなかろうかと。
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
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