とか言いたくなる事を、ちょっと思い出した。
『いじめってさー、いじめられる奴にも原因あったりするよねー』
とか言う、アレだ。
……は?
いや、まあさ、その言葉が本当のことかどうかはともかくとして、だ。
だから、何?
いじめられる奴にもいじめの原因があるとしてだ、だからなんだ?
だから別にいじめはほっといてもいいとか、いじめられる奴のほうが悪いとか、そういう事を言いたいわけじゃないだろう。
もしもそうならそれはただのバカだからだ。
もしも、『いじめられる奴にも原因があるから、いじめた奴を責めるのは間違い。』なんていう奴がいたら、そいつは世の犯罪を取り締まるなといっているに等しい。
犯罪の被害者になるには、当然そこには侵害される法益がなきゃいけない。
法益を有しないものは法益侵害行為の客体になんかならないからな。
つまり、あらゆる犯罪において、その原因は被害者に も あるわけだ。
当たり前の話だ。
だからって、生きてる奴が殺されたなら、生きてる奴にも(生きているという)原因があるんだから、『人殺しを取り締まるのは変だ』とか言う奴がいたら、もうそれこそお前は頭がおかしいのかと疑うべき……というよりも頭がおかしいことは確定しているレベルだろう。
だからまあ、こういう言葉は、いじめにも、いじめる奴にも、いじめられる奴にも、別に言及していないと考えるべきだ。
じゃあなんだ。
こういうわけのわからんことを言い出すバカは何を考えてこんな事をいっとるんだ。
いじめという行為について、行為の主体にも、行為の客体にも、行為自体にも言及しない発言は、何のためになされるのだ。
わからん。
で終わっては意味がない。
行為についての発言が、行為の主体にも客体にも行為自体にも関係のないものであるならば、それはつまりまったく意味のない発言であるといえるだろう。
発言されること自体が場違いである言葉。
行為からもたらされる問題に対して、まったく無価値な言葉。
しかし、そこには否定できない要素がある。
何か。
『も』だ。
いじめは、いじめられる奴にだけ原因がある、なんてことは誰も言わない。
いじめは、いじめられる奴にも原因がある場合がある。
言葉の意味や、それがさすケースをものすごくあいまいにすることで、その発言自体を無意味化する、つまり反論する事をも無意味化する言葉。
それは同時に、問題の無意味化をも同時に指向するのではないだろうか。
いじめとは、こんな無意味な言葉で表されるような事柄でしかない。と。
対策する意味がない、ひいてはそれについて認識する意味もない。
つまり、いじめとはどうでもいいことであるのだ、といいたいのではなかろうか。
つまり、こういう事を言うやつは、『しらねーよそんなもん』といいたいだけであって、それを直接言うと『だったらどっか行けこのどアホウ』と言われかねないから、こういう回りくどい方法を用いるのではなかろうか。
ある問題に対して『そんなことはしらねぇ。』というのは、つまるところ『自分にはその問題に対して責任がない』と言っていることなわけだが、それを考えると、『いじめはいじめられる奴にも問題がある場合がある』という発言をする者は、『自分はいじめという問題についてまったく責任がない』と言っているのだとも言えるわけだな。
教師とかがこういうこと言ったらアウトだな。
『私はこの教室で生じた犯罪行為に対して責任がありません!』と言っているわけだ。
すげぇ。
ある意味勇者だ。
いじめじゃなくてもいろいろあるけどね。
『こういうのって、どっちもどっちだよね』とか。
それとも、まじめに議論しているところへもってきて誰も否定しようとしない(それはつまり相手にされてないだけだけど)事を言うことで何かすごい事をしているような気分になりたいのか?
そっちのほうが可能性高いかもしれないな。
そのつもりで言ってるなら、そのほうがバカだけど。
あー、教師には職務に応じた管理責任があると言うのが私の考えです。
管理責任があるなら管理権限もあるはずだから、たとえば集音マイクを教室に備え付けるとか、そういった物的証拠を集める行動は認められてしかるべきだと考えるわけだよね。
そしてその証拠に基づいて親御さんとの話し合いを行うべきであるとも考えるわけだよね。
ちなみに教師に管理責任がないなら、親には現在よりも強力な監督責任が生じるはずだと言うことも言っておこう。
ちゃんと子供育てろよ。
権利教育も親の責任の一環だよ。
なんで、人の嫌がる事をしちゃーいけないのか、ちゃんと理解させろ。
これは情緒論じゃなくて、きっちり理屈が通ってることなんだ。
行為主体である子供が責任の主体となりえない以上、誰かが責任を取らなきゃいけない。
そしてそれは、被害者ではない。
被害者に何らかの責任があったとしても、それによって加害行為の責任が軽減されるわけではないからだ。
いじめは間違いなく故意の行為なんだから。
『いじめってさー、いじめられる奴にも原因あったりするよねー』
とか言う、アレだ。
……は?
いや、まあさ、その言葉が本当のことかどうかはともかくとして、だ。
だから、何?
いじめられる奴にもいじめの原因があるとしてだ、だからなんだ?
だから別にいじめはほっといてもいいとか、いじめられる奴のほうが悪いとか、そういう事を言いたいわけじゃないだろう。
もしもそうならそれはただのバカだからだ。
もしも、『いじめられる奴にも原因があるから、いじめた奴を責めるのは間違い。』なんていう奴がいたら、そいつは世の犯罪を取り締まるなといっているに等しい。
犯罪の被害者になるには、当然そこには侵害される法益がなきゃいけない。
法益を有しないものは法益侵害行為の客体になんかならないからな。
つまり、あらゆる犯罪において、その原因は被害者に も あるわけだ。
当たり前の話だ。
だからって、生きてる奴が殺されたなら、生きてる奴にも(生きているという)原因があるんだから、『人殺しを取り締まるのは変だ』とか言う奴がいたら、もうそれこそお前は頭がおかしいのかと疑うべき……というよりも頭がおかしいことは確定しているレベルだろう。
だからまあ、こういう言葉は、いじめにも、いじめる奴にも、いじめられる奴にも、別に言及していないと考えるべきだ。
じゃあなんだ。
こういうわけのわからんことを言い出すバカは何を考えてこんな事をいっとるんだ。
いじめという行為について、行為の主体にも、行為の客体にも、行為自体にも言及しない発言は、何のためになされるのだ。
わからん。
で終わっては意味がない。
行為についての発言が、行為の主体にも客体にも行為自体にも関係のないものであるならば、それはつまりまったく意味のない発言であるといえるだろう。
発言されること自体が場違いである言葉。
行為からもたらされる問題に対して、まったく無価値な言葉。
しかし、そこには否定できない要素がある。
何か。
『も』だ。
いじめは、いじめられる奴にだけ原因がある、なんてことは誰も言わない。
いじめは、いじめられる奴にも原因がある場合がある。
言葉の意味や、それがさすケースをものすごくあいまいにすることで、その発言自体を無意味化する、つまり反論する事をも無意味化する言葉。
それは同時に、問題の無意味化をも同時に指向するのではないだろうか。
いじめとは、こんな無意味な言葉で表されるような事柄でしかない。と。
対策する意味がない、ひいてはそれについて認識する意味もない。
つまり、いじめとはどうでもいいことであるのだ、といいたいのではなかろうか。
つまり、こういう事を言うやつは、『しらねーよそんなもん』といいたいだけであって、それを直接言うと『だったらどっか行けこのどアホウ』と言われかねないから、こういう回りくどい方法を用いるのではなかろうか。
ある問題に対して『そんなことはしらねぇ。』というのは、つまるところ『自分にはその問題に対して責任がない』と言っていることなわけだが、それを考えると、『いじめはいじめられる奴にも問題がある場合がある』という発言をする者は、『自分はいじめという問題についてまったく責任がない』と言っているのだとも言えるわけだな。
教師とかがこういうこと言ったらアウトだな。
『私はこの教室で生じた犯罪行為に対して責任がありません!』と言っているわけだ。
すげぇ。
ある意味勇者だ。
いじめじゃなくてもいろいろあるけどね。
『こういうのって、どっちもどっちだよね』とか。
それとも、まじめに議論しているところへもってきて誰も否定しようとしない(それはつまり相手にされてないだけだけど)事を言うことで何かすごい事をしているような気分になりたいのか?
そっちのほうが可能性高いかもしれないな。
そのつもりで言ってるなら、そのほうがバカだけど。
あー、教師には職務に応じた管理責任があると言うのが私の考えです。
管理責任があるなら管理権限もあるはずだから、たとえば集音マイクを教室に備え付けるとか、そういった物的証拠を集める行動は認められてしかるべきだと考えるわけだよね。
そしてその証拠に基づいて親御さんとの話し合いを行うべきであるとも考えるわけだよね。
ちなみに教師に管理責任がないなら、親には現在よりも強力な監督責任が生じるはずだと言うことも言っておこう。
ちゃんと子供育てろよ。
権利教育も親の責任の一環だよ。
なんで、人の嫌がる事をしちゃーいけないのか、ちゃんと理解させろ。
これは情緒論じゃなくて、きっちり理屈が通ってることなんだ。
行為主体である子供が責任の主体となりえない以上、誰かが責任を取らなきゃいけない。
そしてそれは、被害者ではない。
被害者に何らかの責任があったとしても、それによって加害行為の責任が軽減されるわけではないからだ。
いじめは間違いなく故意の行為なんだから。