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【振り子 ―pendulum―】〈20〉

2016-10-14 10:32:35 | 【バルセロナの紺碧(azur)】
サグラダ・ファミリアにいた時間は正味2時間ぐらい。並んでいたり、おみやげものを物色したりも含めてだから、堪能まではいかないが、程よい滞在時間だった。棟の上までも行けなかったし、予習不足でガウディの眠っている地下礼拝堂もロザリオの間がどこかもよくわからなかった。そしてガウディコードと呼ばれる、クロスワードパズルのような数字のマジックスクエアーもまだ響いてこなかった。それでもファーストインパクトとしては十二分、いい意味でたくさんの余白を残した。

そして次に進まなくてはいけなかった。

昼はガウディ通りのカフェテラスでサンドイッチとパスタを食べた。陽よけのパラソルの下で、通りすがるバルセロナの人たちや旅行者、カフェで働く人たちを眺めながらのランチタイム。サグラダ・ファミリアを視界に入れながらラテを味わう。こんな贅沢は夢のようでもあった。お会計の時、El compte , si us plau.〈エル コンタ シイ ウス プラウ〉と言ってみた。これは「お勘定をお願いします。」のカタルーニャ語で地元の言葉。この東洋人は何を言ってるのかなと首を傾げていたボーイさんだったが、2回、3回繰り返して言うと、表情が緩み笑顔になった。そして正しい発音のEl compte , si us plau.をゆっくり言ってくれた。ボーイさんは去り際に、グラシアスにつづいて何か言葉をつづけて見送ってくれたが何を言ったかはわからなかった。でもそれはカタルーニャに歩み寄ってくれてありがとうというような感じだったと思う。一瞬のことの中に、異国を超える通い合いがあった。

そして午後は30日の宿探し。
どんなに感動に酔いしれても現状は変わらない。
時計はもう2時を指していた。

自分ではホテルのプラン探しのイメージが3つあった。
一つはネットでホテル探しをしていたとき気になっていたホテルがあった。HOSTAL OLIVA、このホテルは20世紀前半のエレベーターがあり、ヨーロッパというか、バルセロナに来ているという感じが味わえると思えたからだった。一度メールを出して、満室で断られていた経緯はあったが、現地で本当にダメなのかを確認したかった。
二つ目は、地球の歩き方に載っていた日本語観光案内所に相談するというもの。日本語で情報が得られるのは大きい。三つ目は現地の日本の旅行会社を訪ねるというもの。ここまで来た以上はある程度の予算は覚悟してでも決める必要性に迫られていた。もう一つ選択肢があったが、予算を目を瞑れば、そのカードは切らなくて済むだろうと思っていた。今までの経験則上もなんとかなるという思いもあった。
そうはいっても明日のこと、勝負どころは午後の動き、ちょっとしたスリルものだった。彼女もまたどこかで不安を感じていて、時の経過とともにそれは大きくなっていった。新婚旅行から徐々に旅に変わっていった。

ホテル探しも彼女に楽しめるように考えた。そもそもバルセロナは街並みが美しく、歩くだけで新鮮だった。サグラダ・ファミリアから地下鉄の5号線に乗り、二駅でディアゴナルという駅に着く。その駅を出るとグラシア通りにぶつかり、それを南下するとカタルーニャ広場まで行ける。このグラシア通りは有名なショッピングエリアで、道中にはガウディの建築物、「カサミラ」「カサバトリョ」もある。HOSTAL OLIVAはカタルーニャ広場の手前あたりにあるはずだった。

できるだけ時間は有効に使いたいし、せっかくバルセロナにいるのだからその街並みや風を味わいたかった。彼女にも退屈することなくホテルが決まればこれにこしたことはないと思っていた。楽しめる、そう思っていた。

ただ自分はもう気はそぞろで気が気でなかった。タイムリミットはカウントダウンだった。世界遺産、ガウディの名作にして傑作の「カサミラ」も「カサバトリョ」も感動できなくなっていた。そして笑顔も引きつり始めてきた。決まらない宿探しは初めてではなかったが、それは一人の時で、今は相方、パートナーがいる。アウェイの中でも見通しはつけたかった。

そんな中で一つ気づいたことがあった、というか目についたものがあった。それは赤と白の模様が入ったサッカーのユニフォームだった。サグラダ・ファミリアあたりでもいくつか目に入ったが、グラシア通りをカタルーニャ広場に近づく程に目に入る回数が増えていった。感動の後の不安は振り幅が大きく、そのもやもやした焦りはガウディの作品をもってしても払拭されなかった。それでも逐一その赤と白の縦縞は目に飛び込んできた。

第一のプラン、HOSTAL OLIVAに到着。何人かの人に道を聞いて、やっとたどり着く。ご縁と運命を求めて呼び鈴を押すも、“No room.”のメッセージ。あっけなく撃沈。

さらに第二のプラン日本語観光案内所に向かうも、ガイドブックに載っていたその場所にはなくなっていた。空振り。ボクシングで一番スタミナをとられるのがこの空振りらしいが、自分が放った一撃は見事に空振った。

いよいよ持ち札がなくなり最早頼りは日本の旅行会社のみ。またグラシア通りに歩いて戻ると時計は17:00を指していた。幸い5月末から6月はバルセロナの最も日照時間が長くまだ明るかった。旅行会社を見つけると日本人のスタッフの方が出迎えて下さった。日本語が新鮮で懐かしくもあった。彼女もまたそう感じていたようで、表情が少し明るくなった。

スタッフの方に要件と事情を話した。対応された方は、ショートカットの女性で、品があって美しい方だった。それでいて彼女の対応の随所にビジネスの修羅場、海外での難事を収めてきた強さを感じさせた。

「30日のホテルを探しています。全然見つからなくって・・」
するとスタッフの方はその理由を教えてくれた。

「この日はバルサとビルバオの国王杯の決勝があるんです。」

バルサとは世界のフットボールクラブの中でも世界最大級のFCバルセロナのことを言い、ビルバオとはアスレチック・クルブを指し、スペイン北部にあるバスク州のサッカーチームのことだった。国王杯とはコパ・デル・レイといい、1903年より始まったスペイン国王杯という伝統あるカップ戦だった。スペインリーグと言われるリーガ・エスパニョーラよりも歴史があり、リーグ戦ができる前は最も権威あるタイトルだった。優勝チームにはスーペルコパ・デ・エスパニョール(スペイン最強決定戦)の出場権やUEFAヨーロッパリーグの出場権が与えられる。

その時は、国王杯のこともビルバオのこともよくわかっていなかったが、その事情がサッカーであると知ったとき全てが腑に落ちた。ビルバオのサポーターが一挙にバルセロナに集結し、ホームでリーグを制していたバルサは受けて立つというシチュエーション。カタルーニャ県方々からも熱心なファンがカンプ・ノウスタジアムに集まってきていた。

スペインにとってのサッカーとは、健全に民族の優位性を示すことができる一大事といっても過言ではない。特にこの国王杯は名前に象徴されているが、スペイン国王を冠としている。スペイン内戦後のフランコ独裁政権の時もこのカップ戦は行われていた。当時のスペイン王は、イタリアに亡命していたにもかかわらずその名を守り開催されていた。

20世紀のスペイン史とフットボールは、その時のスペインの方たちを知るためには不可欠な要素で、聖域とも言えた。歴史の変遷の中で唯一超越的に民族のアイデンティティを表現できた。先のオリンピックもそうだがスポーツは国家、民族、宗教を超えられる領域で人間性の共通言語であり、フィジカルな魂の発露でもある。その一大イベントが明日ここバルセロナで催される。

なるほどあのサッカーのユニフォームはバルサの対戦相手のものだったのか・・・・。

それはわかったし、腑にも落ちたがそのことでより現実が明らかになった。絶望の二文字がちらつき始めた。スタッフの方々は心当たりに電話をかけて問い合わせてくれたが、それらはこちらでも確認済みのところばかりで、コネクションと直接交渉にあたる一縷の望みを除けば、答えは予想できた。

― ない ―

そんな時にはこう思うようにしている。

人生とはそんなものだと。
そしてこれからが本番なのだと。

振り子は希望と絶望を行ったり来たりするもの。確かに絶望の先には希望がある。
ただここではまだ絶望に振り切れていなかった。

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