スメラ~想いをカタチに~

スメラは想いをカタチにするコミュニティーです みんなの想いをつなげて大きな輪にしてゆきましょう

【the classic @ 六本木】

2015-02-28 13:36:32 | 【エンターテイメント】
前日の休みが仕事になって、2連休が1日だけになりました。
前の休みのときももクロの映画「幕が上がる」の予告を観て、もうやっているのかと思い、MOVIE WALKERにアクセスしました。するとももクロ映画はまだ幕はあがっておらず、他の作品が目に飛び込んできました。



「the classic」という2003年の韓国映画。
邦題は「ラブストーリー」。

なんでも日本での公開配給期限というのがあって、それがもうすぐ切れるので最終上映をするとのことでした。最終期限はどの映画にもあるだろうし、切れているものも多々ある中で、なんでまたこの映画を流すのか?

その理由はよくわからないけれど、自分のBEST MOVIEの10本指に入るこの作品が、劇場で大きなスクリーンで観られるのは嬉しい衝撃でした。もう劇場では観ることをすっかり諦めていたからです。

実は六本木のシネマ―トは6月で閉館になります。流す映画選びには今まで以上に吟味されいらっしゃることと思います。
そんな中で、「ラブストーリー」は選ばれました。



カウントダウンの一作品としては、佳作のセレクト。何よりセンスが美しい。

キーボードを叩いていても、このタイトルは気恥ずかしくなります。本音を言うとこの邦題が気に入っていない私ですが、内容は、王道中の王道【LOVE STORY】なのです。タイトルに不満はあっても内容に偽りはありません。その奥深さは、母と娘の2つの恋愛物語を同時進行させながら伝えられていきます。
親子(ジへとジュヒ)それぞれの世代の「恋愛」が、時代や歴史を越えて相通じ、切なく、瑞々しく、儚く、美しく語られていきます

原題が「classic」なだけに、確かにこの映画の音楽は秀逸で、クラシックが効果的に意味深く使われています。そういう意味でのクラシックもあるのでしょう。他方で古典、普遍性という点から観ても、「親子との繋がり」、「恋愛」という何百世紀もの間営まれてきた大きなテーマを映像作品として完成させています。

とりわけ現代のジへ(娘)の恋は親世代の犠牲を伴う恋愛から、報われる恋愛に昇華されており、希望が示唆されていました。

ネットのREVIEWやAmazonの感想の中にはベタだとか、落ちがわかるというのがいくつか見られましたが、恋愛の本質は観るものではなく、自身で体験するもの。それと照らし合わせる体験がないと、その切なさも美しさも他人ごとに収束します。エンターテーメントは消費財であるならばそれもまたありでしょう。
でもこの映画は後世に残り、誇れる芸術作品です。なぜかといえば、個人の体験と物語が繋がれる要素が散在しているからです。作品のどこかで繋がりスイッチが入る。過去の記憶や今の想い、未来の憧れが脳裡をよぎり、脳のスクリーンがもう一つできるのです。個人の体験、時代を越えて繋がる魂の連鎖に響く物語が、観てる人を主人公にした物語を発動させるのです。

人がなぜ古典を読み、学び、触れるのか。それはその時代を理解するということもあります。それ以上に今の自分と同様に響くsomething,自身を進化させるsomethingがその中にあるからではないかと思うのです。

古典は難解。ゆえに何回も触れること、ひいては体験することが、作品を自分の中に入れる大切な作業なのではないかと思います。

このクラシックを初めて見たのは、東久留米市の自宅でした。1999年の「シュリ」あたりからブームの足音が大きくなってきた韓国映画でしたが、とりたてて関心はありませんでした。「猟奇的な彼女」を観てからそのイメージが変わりました。監督はクァク・ジェヨン。この作品と同じ監督です。ルームメイトの親友が、まだ日本公開前のクラシックのDVDを入手してきてそれを借りて観たのが最初の体験でした。それは輸入盤で字幕なし、ハングルのみでした。言葉の意味はさっぱりわからない、でも、嗚咽していました。意味がよくわからない、もっと意味がわからないのは自分が号泣していること。

フォークダンス、蛍、夏休み、演奏会、演劇、マンフレッドマンの曲、手紙、雨、図書館、それぞれのアイテムが今までの恋愛と繋がってくるのです。あの人、あの時、あの思い出、あの気持ち、あの廊下、あの風景・・

そして思う、どうしてつらい思いするのに、恋をするのか?
10代、20代前半は恐いもの知らず。もう落ちるのみ、燃えるのみ。
20代後半、30代前半は、経験が生きてくる。恋を生涯のパートナーに発展させる。
それ以降になると、自分がなくなるリスクを恐れ恋に臆病になる。状況によってはあえて封印するということもある。

ジへやジュヒの恋愛は、もうfall in love。
深く、引き返しも取り返しもつかない。
視野は狭いかもしれないけれど、集中度・純度・温度は高く大きく、熱い。それが痛々しくもあり美しくもある。そのエナジーが観ている人の記憶の扉を開け、感情の堰を切る。

その瞬間の美しさや素晴らしさは痛みや傷を凌駕するのです。
光り、輝いているのです。

それがスクリーンを通して見える。
恋がこれからの若物たちは、恋は素敵だと思う。恋に疲れ破れた人たちは、また恋をしようと思う勇気が湧く。恋愛時代を過ぎた人たちは、自らの体験と繋がり懐しみ、原点に立ち返れる。

時代に翻弄されて、深く愛し合っていた二人が引き離され、各々が違う人と結ばれる。愛が止まったわけでも、想いが切れたわけでもない。でもそうならざるを得なかった時代・状況。自分が号泣したのは、時代も世界もが不安定だった時の恋が、次世代で結ばれ、意味を持ち報われたからだと思うのです。その切なさが深ければ深いほど、放つ光は強く大きい。

藍は藍より出でて藍よりも青し。
愛は愛より出でて愛よりも深し。

平和であること、豊かであることがどれだけ恵まれているかを感じることができます。
そして自分の父母の恋に想いを馳せます。

自分があるのは、両親の愛の賜物、結晶。
二人は離縁してしまったけれど、それでもその時の愛ゆえの「自分」。

この物語ほど美しくはないかもしれないけれど、その時よりも恵まれた時代を生きているからこそ父母ができなかった愛を全うさせたい。

命の連鎖がある中で、自分自身がまずは幸せでいなければと思うのです。

作品と自分が通じる映画、それがいい映画の一つの基準です。
好き嫌い、合う合わないはあるかと思いますが、このラブストーリーは通じやすいポイントが散りばめられているので、何か一つでも感じることができるなら、それはきっと深いものだと思います。
そしてそれはこれからの生きる糧になっていくと思います。

願わくば、映画レベルでもいいので、日韓の溝が少しでも埋まってくるのを祈念しています。

これだけ素敵な映画なので、わかりあえるところはある。その1点の希望だけでも心の隔たりは縮んでくると思うのです。関根麻里さんの結婚も密かに幸せを祈っています。

                      (2015/2/26 記)

ラブストーリーは3/1まで13:25~1日1回のみ上映です。
※明日までなのでレンタルでもどうぞ

https://www.youtube.com/watch?v=m52MiAtI7p8

【フレッシュネス】

2015-02-22 10:45:18 | 【三茶物語】
土曜日の午前中、お日様の誘いにのっかって、カフェを求めて歩き出す。

いつものモスグリーンのジャケットに、いつもの黒のハンチングを被り、先週買ったばかりのダークブラウンの靴をおろして、世田谷通りを三軒茶屋に向かう。

カフェに入る前、入口で一枚の告知の貼り紙をじっと眺めてから店内に入る。

チャック・ベリーのR&Rが流れている。

ごきげんになる。

カフェ・ラテをオーダーし、一番奥の、隅っこに席をとる。

目の前のカップルが、お互いのハンバーガーを味見しあっている。

その奥では、ポニーテールのOLさんが、お茶をしながら携帯をいじっている。

絶妙の空き具合だ。

曲がBeatlesの【ノルウェイの森】に。

最高の選曲と気持ちのいいつなぎ。

文字もすべる。滑らかに走る。

このカフェで何人、いや何千人の人たちが時を過ごしたのだろうか?

時間つぶしというていで、幾人の人たちが、ここで自分をリセットさせたのだろう?

思い出は数知れず、どれだけたくさんの出会いと別れを演出したのだろう?

12/8で、このカフェは店じまいする。

また三軒茶屋から思い出の地がなくなる。

ここはフレッシュネスバーガー。ご存知、ハンバーガーショップ。珍しくも、新しさもとりたててない。



引っ越しするのか、業績不振で辞めてしまうのか、それはよくわからい。

ただあきらかなのは、いつもあったものがなくなるということ。

もうここに来ても、この空間もこの60'sの曲たちも、一手間が感じられるハンバーガーたちも、レジの前の小さいドーナツもなくなるということ。

ある一時期、用もないのに、この店を何度も通った。

彼女がこの店をよく使っていた。

付き合う前、仕事の残業をやったり、資格の勉強、テスト対策、暇つぶしなど、週に2,3度は来ていた。

彼女のもう一つの居場所がここだった。

BABY BABY BABYでそのことを小耳に挟んで以来、用もないのに店の前を通り、あの緑の扉をのぞきこんでは溜め息をついていた。

彼女のことを好きかどうかまだよくわかっていなかった。

でもこの場所は、偶然を装える、数少ないスポットだった。

10も年下、まだ20代、彼はいないが、気になってる人の話は、BABY BABY BABYで聞いていた。

10も年上、40前、しかも当時はチベット、中国に行く前で、資金のかき集めで仕事が大変、夜はwombに行っていた。

彼女どころではない。

人を好きになる時ではない。

会いたいから会うのではなく、偶然の力を利用して会うというのが、当時の自分の最大限のエクスキューズだった。

彼女が、このフレッシュネスを聖地に変えた。

儀式のように、巡礼のように、緑の扉の窓から店内を覗きこんだ。

付き合う前に、ここで会うというシンクロニシティは起こらなかった。むしろ、付き合い始めたあとの、ぎこちない時期に会ったことはよくあった。

そう、付き合う前後の思い出の地。

ここもまたなくなる。

BABY
Bel Chanto
Morinoko
サンカフェ
フレッシュネス

行く川の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず

時は流れる。

だから刻む、今を、ここに。

※この内容は2013年の12月に作成したものですσ(^_^;)
こういうのがたくさんあるのでぼちぼち更新していきますo(^▽^)o





【悼む人】

2015-02-19 09:46:00 | 【エンターテイメント】


きっかけは石田ゆり子でした。NHKの「あさいち」にゲスト出演をしたゆり子さんはこういいました。

「私が作者の天童さんに、もし映像化することがあったら是非私にやらせて下さいと頼んだんです」

強く自己主張するタイプではない彼女がそこまで思わせる作品とはどんな作品か。

それこそ役者生命をかけて臨んだのが、愛するあまり自分の夫を殺めてしまう女、奈義倖世でした。

人生でそれこそ「これをしたい!」と思える衝動がどれだけあるでしょうか?

そのエネルギー、源泉に触れたくて劇場に足を運びました。

渋谷の劇場は小雨の底冷えの中30人ほどのお客様が来場していました。映画を見るには丁度いいぐらいの人数。でも自分の横には3人つづきで人が並んでいて、どうして受付の人はもっとバランスよく配席しないのかなと首をかしげ、3度周りを見回しました。

そんな不満を持ちながら見始めた久々に観た映画。その「悼む人」は見ていて痛く、そして重たい映画でした。死を題材にしているだけに、個々の死に対する様々な背景に真に迫っています。その死には「寿命」より「事情」が大きく関わっています。

人を殺すということ、殺されるということ。病気で死と向き合うということ。いじめで殺されること。不条理、不合理、理不尽、やむにやまれぬ理由。

それだけにこの作品は決して気持ちいいものでもないし快くもありません。不快でつらい。でもというか、だからこそ「悼む人/静人」の存在がとてつもなく尊く感じられました。

彼は死の背景を越えて、どんな死に対しても、「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されたか」を中心にして自らの方法で、独特の型で悼みます。

すごくいいのがそこに既存の宗教的背景がないことでした。キリスト教、イスラム教、仏教、神道はここには介在しません。

ではどこから?

それは静人の祖父との関わりであったり、友人とのつながりであったり、自分の中にある薄情さが悼まずにはいられない衝動に繋がっていました。

個人の性(さが)や運命と、自分ができること、したいこと、やらねばならないことが、分かち難く結ばれている。自身と向き合い、とことん掘り下げて、魂削っていく中で、弔いの旅、悼む旅へと歩み出すのは、静人にとって必然の行為だったのでしょう。

悼む旅は、静人の使命。

傍から見れば、それは宗教的にみえるのかもしれないし、頭がおかしいと思われるかもしれません。非常識と片付けられるのも積の山。世の中はそんなものです。

静人は「自分は病気なんです。」といいました。

世間との接点、一般社会との交点で、向こう側の言語で応える不自然でぎこちない「病気」というワード。その時の気持ちを想像すると、その虚しさは察するに余りあります。

それでも静人は旅を続けるし歩みを止めません。なぜならば、悼んだ人たちはもう静人の中に刻まれているからです。

そこには教祖も経典もありません。個人の魂のみが悼みを支えます。

作者の天童氏は、堤監督との対話の中で、「宗教・民族の争いが絶えない中で、今この【命】というものを静人を通して、見つめる視座を伝えたい」とおっしゃっていました。

そう、世の中の方が病んでいるのです。病みという闇を抱えていることに気づいていません。

それはもちろん自分も含めて。

スクリーンを見ながら快くなかったり、つらく感じてしまうのは、自分の麻痺した神経に命が触れたからなのかもしれません。

静人の尊さは、故人のみだけでなく、読者や観る者の闇に熱を通わせるところにあります。

高良健吾、石田ゆり子、ARATA、大竹しのぶ、平田満をはじめとする俳優陣も、とりつかれたように役を生きていました。

作り手側が、この静人の使命を果たす行為を、全身全霊で支援しているように感じられました。

性的描写、暴力シーンもあり、R-15指定になっているけれど、これは本質を伝える上で削除できません。目を覆いたくなるシーンもある。キレイごとでは済まされない。そもそも生死や、人の性や、運命という壮大で極めて日常的なテーマを浮き彫りにするにはそのような場面は避けては通れないのです。普遍性がありながら、どこかグローバルで国境を越えても通用するテーマでもありました。

むしろ静人の個人的な世界観こそが、今の世界に求められているのではないかと思わせます。

石田ゆり子の迫真の奈義倖世役も、「悼む人」の世界観が導き、引き出したのではないかと思いました。
自らの意志でチャレンジし、役者生命をかけ、奈義を生き抜くことで、また役者として再生していく。

命の循環、通い合いが感じられた作品でした。不満が全くなかったわけではないけれど、すごく今のイスラム国の問題だったり、安易に見える殺人事件に提示したい映画でした。

「誰に愛され、愛したか、どんなことをして人に感謝されたか」

この目線で世界は変わる。本当のchangeはここにあります。

「悼む人」で自分の中に痛みや闇を感じられたら、それはそれで一つの希望の兆しかもしれません。

この映画は、誰にでも気軽には勧められないけど、深い傷を負った記憶がある方には必要な映画のような気がします。

「悼む人」は現在、東映系の劇場で公開中です。