常識について思うこと

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政治家世襲と民主主義

2009年07月28日 | 政治

小泉純一郎さんのご子息、進次郎さんが、対立候補から握手を求められているにもかかわらず、それを無視している動画が話題になっているというので、ちょっと覗いてみました。小泉進次郎さんご自身、「(対立候補よりも)有権者と触れ合いたかった」と弁解をされているようですが、問題の動画を見る限り、その言い訳は少々苦しいのではないかという印象を受けます。非常に個人的な意見ですが、素直に「無視しました。ごめんなさい」と謝ってしまった方が、良かったようにも思います。ただ、そのように弁解したというのは、ご本人の判断なのでしょう。

いずれにせよ、本来、この問題は、あくまでも小泉進次郎さんという一候補者の問題なので、あまり安易に他のテーマに広げるべきではないのかもしれませんが、小泉さんの家系は、周知の通り、代々国会議員であり、政治家の世襲問題という観点から、これを読み解くという見方もあってよいのではないかと思います。それは、彼が政治家として、ほとんど実績がない中で、衆議院選挙の候補者となれるのには、間違いなく父・純一郎さんの影響があるわけですし、また彼の言動がこれだけ注目されるのにも、超有名な世襲候補者だからということは、否定し得ない事実だと考えられるからです。

そこで、ここでは政治家の世襲問題について、少々、考えてみたいと思います。

昨日、今回の衆議院選挙の候補者の内、少なくとも171人が世襲候補であるとのデータが出てきました。政治家の世襲は、一時、大きな話題にもなっていました。この問題に関して、政党の関係者や政治家の方々が、いわば自主規制のかたちで、何かしらの制限をかけるということについて、私自身、特段、反対する理由がありません。自主規制をすべきと思うのならば、自主規制をすればよいし、そういう政党の方針に異議がある方々は、その政党を飛び出せばいいだけの話ですから、それらは関係者の方々の自由意志にお任せすればよいと思います。

そして、私自身、政治家世襲の是非について、政界の方々がどのように取り組まれるかは、あまり本質的な問題ではないと考えています。それは、単純な話、政治家の世襲を認めるか、認めないかについては、国民の投票行動によって決することになるからです(一部の政治家の方が、世襲制限によって出られなくなることも考えられるため、一概に「国民の投票行動によって決する」と言えない部分もあるかもしれません。しかし、それはあくまでも、特定の政党との関係によってのみ通じる話であり、その程度で出られなくなったと嘆く政治家がいるとするならば、それは本気で政治家になろうとする方ではないと判断されるべきでしょう)。

また、「世襲がけしからん」という論についても、それなりによく分かるような気がします。私も政治家の世襲に対して、あまりいいイメージを持っているわけではありませんし、そうした世襲政治家の多くが、それほど優秀な方々であるとも考えていません。あまり断定的な物言いはしたくありませんが、政治家の資質に乏しい方が、するりと政治家になれてしまうという現実を鑑みると、やはり、「世襲はけしからん」と感じてしまいます。ただし、それはあくまでも、一人の有権者である、私個人の考え方です。

一方で、政治家の世襲をよしとしている有権者、そういうことに全く問題意識を感じていない有権者がいることも事実です。そして、そうした民意が反映されるというのも、民主主義のひとつのかたちであり、それはきちんと認められなければなりません。

政界における「世襲制限」の議論は、世襲を是とする有権者がいる一方で、政治家の中に、「世襲は望ましくない」と考えている人々がいるために、噴出したものなのだろうと考えます。それはそれで、大いに結構なことですし、政治家の方々が、自浄作用を働かせようとしている結果だとしたら、歓迎すべき流れでもあると言えます。しかし、そうした政治家自身の考え方を含めて、世襲が本当に問題かどうかを決めるのは、国民一人一人であるということは、けっして忘れてはならない大前提です。

こんな話をしていたら、ある方から、「世襲が問題であるかどうかかも分からない、バカな国民がいるのだから、そうした人々への対策も必要なのだ」というご意見をいただきました。たしかに、そうした見方もあると思います。しかし、もしそうだとしても、バカはバカなりに等しく参加できるというのが、民主主義の大原則でもあります。実際、本当に「バカな国民」という表現が正しいかは分かりませんが、そうした人々の参加も含めて、民主主義というシステムは機能するものであると考えなければならないことは確かなはずです。

かなり横道に逸れた話になりますが、アニメを含む子供向け番組に出てくるような悪役というは、大衆を愚かな存在と決め付け、それを救う(場合によっては滅ぼす)という名目のもと、凶行に及んだりするものです。したがって、悪役は単なる「悪」の存在ではなく、悪役なりの大義があるということです。だからこそ、「悪」であっても、それなりに強かったりするのでしょう。

それは、現実世界においても同じであり、大衆を愚かな存在と決め付け、それを導こうとする人々には、「それなりの大義」があるものだと考えます。ただ、それが故に独善的となり、結果として、悪行を働いてしまうということが多々あるように思うのです(「お節介な救世主の悪性」参照)。

そういう意味で、重要な意思決定について、大衆に委ねるという民主主義の仕組みは、一定の問題、あるいは限界を抱えてはいるものの、それなりの正しさがあるように思います。

話を元に戻して、こうした民主主義という観点から、冒頭の小泉進次郎さんについては、少々、注目してみてはどうかと思います。握手無視のビデオについては、最初に記した通り、あくまでも小泉進次郎さん個人の問題であるため、それと世襲問題を直結して、考える必要はないかもしれません。ただ、単純に政治家世襲の問題を考えた時に、少なくとも超有名世襲候補者である小泉さんに対して、その選挙区にいらっしゃる有権者の方々が、今日の民主主義制度の下、どのような選択を行うのか、非常に興味深く感じることは確かです。

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2 コメント

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Unknown (レナ)
2009-07-29 02:13:33
無視のビデオだけで有権者が判断すると思うのですか?
進次郎君の演説はすばらしいですよ
言ってる事も理にかなってる
挨拶より内容の方が大切です
そんな所で有権者を単純に判断しないでください
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どちらも大切 (竹内一斉)
2009-07-29 02:21:16
レナさん
コメント、ありがとうございます。
「無視のビデオだけで有権者が判断すると思うか?」というご質問に対しては、けっしてそうは思っておりません。ただし、おっしゃるように「挨拶より内容の方が大切」とも思っておりません。
単純に、両方大切だと思います。
あとは、それらの中から、各有権者の方々が、それぞれ判断をされるということでしょう。私は、そうした各有権者の方々の総意が、どのように表れるかということについて、興味深いと思っています。
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