水面日録

フリーペーパー〈面〉編集人のブログです。
意識の水面(みなも)に浮かんでは消える様々なモノゴトを綴ります。

その場所へ。

2007-09-30 01:05:48 | ある一日の記録
ずっと気になっていた場所に、先日ようやく行ってきました。
昨年この世を去った村岸宏昭さんが、
かつて〈面〉の第二号に寄せた文章で記していた場所。

以下、その文章の冒頭部分を引用します。

   豊平川は雁来の近く、環状北大橋から下流に向かって少し歩くと、
   低水護岸というものがあります。
   ここは、複雑な形の河川敷に植物が覆い茂って出来た場所です。
   防波が施され、小さな湾のようなものが出来ていて、
   静かになった水面の近くまで広くなだらかな傾斜がつけられています。

この文章で彼は、
そこに記された場所に読者各人が赴き、
靴を脱いで耳を澄ますという一連の行為そのものを、
一個の楽曲として提示しています。

まずは指定どおりに靴を脱ぎ、
水の流れを素足で感じてみた私ですが、
9月末の水はさすがに冷たく、やっぱり遅いよね、来るのが、と一人苦笑い。

それから石段をのぼって腰をかけてみると、
まるで無人の劇場でひとり、川の流れる映像を眺めているような、
いささか不思議な感覚に。
車道を行き交う車の音が背後、ないし頭上からかすかに聞こえてくるのが、
かえって水音の清澄さを際立たせるようにも思いました。

どうしてもっと早く来なかったのか、と、つくづく自らの怠惰にあきれつつ、
   また来ます
と無言の挨拶を交わして帰路につきました。

posted by 堀マサヒコ

ジグソーパズルとホルモン焼き。

2007-09-23 01:01:19 | 所感、雑感
ちと、間が空いてしまいました。

今月の15日から17日にかけて、
東京の立正大学(大崎キャンパス)にて日本宗教学会というものがあり、
出かけてきました。

自分も研究発表をしてきたのですが、
本番二日ほど前になって、
「ああこれはまったくナンセンスだぞ」という思いに駆られ、
ちょっと難儀しました。 まあ、よくあることですが(笑)
結果的には面白がってくれた方が複数いたので、
良かったかな、と。

しかし今回、他の方々の発表も聞いていて思ったのですが、
研究者というのはみなそれぞれ、
最終的にどんな形が出来上がるのか自分でもわからないジグソーパズルを黙々と
作り続けているようなものだな、と。

おそらくパズルは完成しないんだけど、
その過程で色んな形は浮かび上がるわけで、
それがときに、他の人の作っているパズルの穴を埋めるピースになることもある。
だから、お互いの研究成果(経過)に触れることは大事だし、
ピースの貸し借りには礼儀も必要なんだと思います。

・・・・・

写真はぼやけてますけど、
ホテル滞在の初日に「一人飯(+飲み)」をしたホルモン焼きのお店。
偶然、この店を含む「人世横丁」に足を踏み入れたのですが、
ちょっとした「異界」でした(笑)。
ああいうの好きだなあ、ということで、後日見つけたサイトも紹介しておきます。
 →「人世横丁」公式サイト
ホルモン焼きの味も最高。
わたくし「通」じゃないけど、あれはたぶん、札幌にはない味では?

sichihuku 個展@石狩市Art Warm

2007-09-11 00:49:28 | アート
sichihukuこと佐藤久美子さんの個展が、下記日程にて開催中です。
私も先日、行ってきましたが、
とても開放感のある会場で、ゆったりとたくさんの作品を楽しむことができます。

今回は広く新旧の作品から様々なモチーフの作品をピックアップした展示内容で、
佐藤さんの表現の幅広さを実感するのには最適かと。

多くの人が指摘するところでしょうが、
若くしてすでに「sichihuku カラー」とでも言うべき独特の色彩を確立しているところが、
何といっても彼女の強みではないかと思います。

それと、ブログなどを見てもわかるように、
彼女自身の表現の宇宙がものすごい勢いで広がっている、という感じがあって、
見ている側が受け身ではなく、
その宇宙の膨張に期待し、参加したくなるような、
不思議なエネルギーをもっているように思います。

こんなこともやってほしい、あんなこともやってほしい、と、
勝手に夢想が広がるんですね。
すでにギターとかノコギリとか、色んなものに絵を書き始めてますが、
そういうはみだしっぷりは見ていて本当に楽しい。
触れるもの皆、sichihukuカラーに染め上げていってほしい、と思います。

… sichihuku 個展@石狩市 Art Warm」
  会期:2007年9月6日(木)~9月18日(火) 
  ※水曜定休日
  時間:11:00~18:00

  会場へのアクセス等はこちら、sichihukuさんのサイトを御覧ください。


ダリ展

2007-09-05 00:46:45 | アート
ダリ展に行ってきました。
やっぱり面白いなあ、この人。

特にウンチク傾けるほどの知識はありませんが、
個人的には、
1.世界の始まりと終わりがゆるやかに重なり合うような神話的風景へと、
  彼の絵筆が繰り返し向かっているように見えること。
2.想像と幻視のとっかかりに、常に具体的なモノへの偏執的なまでの凝視があることに、
改めて興味を覚えました。

二つ目の点は特に今回、実感したところです。
ダリというと、精神分析との関わりの深さということもあり、
「ココロ」の内面(心象風景!)を描いた作家、という言い方がされやすいですが、
むしろ「モノ」の人と言うべきかも、と思いました。
しだいに科学への関心を強めたというのも、よくわかります。

それにしても、平日の午前なら空いてるだろう、と思ったのは甘かった。
週末ほどじゃないでしょうが、好ましい視点を確保するのにそれなりに時間を要する状態でした。
順路に従って並んで進みましょう、という雰囲気でしたが、
それだと、作品を見る前に一定時間、キャプション(解説文)の前で立ち止まらなければならない。
これが、どうも嫌なんですよね。

解説は不要、とは決して思いません。
基本的に鑑賞の楽しみを増してくれるものだと思いますが、
目に入ってくるのは作品が先であってほしいです。

たとえば、最後の作品に見えるチェロの形象が「傷ついた自我」の象徴だ、
という解説は、(たぶん)もっともなものだと思うんですが、
それを最初に言われちゃうと「モノ」としてのチェロのかたちはもう、見えなくなる。
 (→「無題 燕の尾とチェロ」 1983年)
それが嫌で、なんかスンマセン、ってな感じで頭を下げながら、
流れに逆らって何度も行きつ戻りつしてしまいました。

そもそも、すぐれた芸術の鑑賞には、「言葉を失う時間」というのが必要だと思います。
しばし言葉を失って、それから自分なりの言葉を一つ、二つとようやっと見つけていく。
そういう贅沢な時間を与えてほしい。
もちろん、ああいう大規模な展覧会では色々と制約もあるでしょうが、せめて、
タイトル → 作品 → 解説文
という流れにしてもらえれば、と。

まあ、そうすると、もう一回作品を見直しに戻る人が増えて、
流れがさらに悪くなるんでしょうね。うむむ。
やっぱりあの順序が歴史の出した回答、なのかなあ。

… 「ダリ展――創造する多面体」@北海道立近代美術館(9月6日まで)。

posted by 堀マサヒコ

Cassandra Wilson / Traveling Miles

2007-09-04 01:03:07 | 音楽
途中になっている話はありますが、
いったん気分を変えて音楽の話を。

ジャンル的には必ずジャズのコーナーに振り分けられているけれど、
ジャズ・ファンだけのものにしておくのはもったいない!
カサンドラ・ウィルソンはそういうアーティストの一人です。

私が初めて聴いた彼女の作品は、Jumpworld (1990) だったと思います。
その頃は「M-BASE派」と呼ばれるグループの一人として位置づけられていましたが、
私はむしろ、ブラックミュージックの一つの未来形を示す存在として、
すごく面白いと思っていました。

今ではジャズ界を代表する歌い手の一人としてすっかり大御所になりましたが、
個人的には今も、ミシェル・ンデゲオチェロなんかと同様、
最も先鋭的なブラックミュージック、という括りでの印象が強いです。
(まあ、究極的にはそんな括りさえいらないんですけどね)

決して声を張らない歌唱法には好き嫌いが分かれるようですが、
この人が思い切り声を張ったらたぶん、地面が裂けます。
「パワフル」ってのを履き違えちゃあいけません。

このアルバムはマイルス・デイヴィスへのトリビュートですが、
多彩なアレンジにはジャンルを飛び越えた彼女の音楽性の幅が濃厚に出ています。
かつてマイルスがカヴァーした、
シンディー・ローパーの Time After Time も歌ってます。
これがまた、とても良い。
彼女の全作品を聴いているわけではないので、ベストかどうかはわかりませんが、
ともかくオススメです。

posted by 堀マサヒコ

『三位一体モデル』の不思議 (2)

2007-09-03 01:26:03 | 
中沢新一氏の『三位一体モデル』について、書き残していたことがあります。
今更、という感じもしますが、色々なことにつながっている気がするので、やっぱり書きます。

中沢氏は三位一体の「父」を、さしあたり次のように規定しています。

   「父」というのは、
   「ものごとに一貫性や永続性や同一性を与える原理」のことをさします。(19頁)

これは、よくわかります。

ところが、この本の基本をなしているのは、次のような考え方です。

   「三位一体モデル」そのものは、人類に普遍的な構造をもっていますが、
   その中味を満たしていく内容は自由なのです。(103頁)

ということは、「ものごとに一貫性や永続性や同一性を与える原理」も、
中味は何だって良い、ということになるでしょう。
実際、彼は本書の最後の方にきて、「父=社会的な法」と図式化しなおしています(注)。

となると、
中沢氏も触れているように「国家」や「世間」がその位置を占めることもありうるわけですが、
それは多くのキリスト教徒が反対してきた事態でしょう。
国家や世間といった「この世的な」権威、権力が万物の同一性の根拠となることを避けるためにも、
そのような根拠たりうるのはひとり神のみ、と彼らは訴えてきたはずです。
 (もちろん、この世的な権力の正当化に神が利用されたケースもあるでしょうが)

「キリスト教が固めてしまったこのモデル(=三位一体モデル)を揺り動かして、
わたしたちの世界にふさわしい表現のかたちをつくりだしていくこと」が大切、
と中沢氏は言いますが(103-4頁)、
キリスト教がそのモデルの援用、転用に積極的ではなかったこと、
特に「父」の位置につくべきものを極めて限定的に捉えてきたことの積極的な意義を、
一方では理解しておくべきだと思います。

あれもカミサマ、これもカミサマ、という日本人に顕著な考え方は一見すると自由に見えますが、
それがむしろ自由を奪うような「神」の出現をも許すルーズさにつながらないかどうか、
慎重に考えてみるべきだと思います。

えー、この話、まだ続きます。

 ※注 102頁。この等式は、おそらくフロイトやラカン派、
     あるいはその流れにある人類学者ルジャンドルの議論を下敷きにしたものでしょう。
     その辺りに通じる人からすると、私には見えていない含意が、
     中沢さんの本にはあるかもしれません。いや、あるでしょう。
     でもまあ、ルジャンドルはルジャンドル、中沢さんは中沢さん、かな、と。

「宗教の目利き」?

2007-09-01 01:25:10 | 宗教学の周辺
ずいぶん間が空いてしまいましたが、
宗教言説の危険性、という話の続きを少々。

前回の書き込みの後、
遅ればせながら島田裕巳氏の近著、『中沢新一批判』を読みました。
ひととおり読んだ感想として、この本は、
世に言う「リセット願望」と中沢氏の思想との親和性を指摘することには、
ある程度成功していると思います。
しかし、中沢氏自身、以前から自分の内なる「タナトス小僧」について語っていたことからすれば、
これは彼自身にとって驚くべき指摘ではおそらくないでしょうし、
批判として痛くも痒くもないような気がします。
さらに、このことと、
中沢氏がテロを「正当化」したり「アジテーション」している、
という更なる島田氏の主張との間には、かなりの距離があります。
その部分での島田氏の議論は、説得力を欠いていると私は思います。

ただ、私も、中沢氏が今、オウムの事件を改めてどう捉えておられるのか、
聞いてみたい気はします。
その点、片付いてないんじゃないですか、
という気持ちは、島田氏と共有しています。

かつて中沢氏は、自分は宗教学者で、宗教学者というのは「宗教の目利き」である、
と、テレビ番組の中で明言していました。
(この番組の内容はその後、『宗教入門』として書籍化されています。)
その彼がかなり積極的に評価し、応援すらしているように見えた教団が、
あのような大事件を起こしたのです。

その後の彼の発言を詳細に追っているわけではないのですが、
中沢氏が自ら「宗教学者、中沢の死」を宣言したことは、はっきりと覚えています。
その意味ではもう、「目利き」の看板は降ろしたのかもしれません。

しかし、私が当時からずっと気になっていたのは、
彼がその看板にふさわしいかどうか、ではなく、
そもそも宗教の目利きなどという存在が成り立ちうるのか、
ということでした。
目利きであることを名乗る不遜、などということよりも、
そもそもそのような揺るぎない眼力なり、基準なりがこの世のどこかに成り立ちうる、
と信じさせるような語り口自体が実に危うい、いや、
端的に間違っているのではないでしょうか。
(それを言っちゃあ、宗教の全否定になる?―― そうは思いません)

先日亡くなられた河合隼雄氏への追悼文を見ても、
上の点で、基本的に中沢氏の語り口は変わっていないな、と思いました。
(→「賢者」とは?
さらに言えば、同じ文章の中で、
「日本人の魂が危機に陥っていると認識し、救おうとした」
という言葉を河合氏に贈っていることにも、非常にひっかかりました。

これもまた、河合氏がそれにふさわしくない、などということでは全くありません。
そうではなく、賛辞として使われたこの言葉が反面にもつ恐ろしさ、つまり、
それが例えばかつてのオウムの教祖についても当てはまってしまう可能性について、
中沢氏がどう考えておられるかが、気になって仕方がないのです。

魂の救済を目指す者が、そうした理念のもとに人を殺めることもありうるということ
――そんなこと、当たり前でしょ、と氏は言うかもしれませんが、
当たり前でもしつこいくらい言い続けるべきでしょう。
それが「オウム以後」の宗教学者の責任であり、
その責任は自ら「死」を宣言した元・宗教学者の中沢氏とて、
免れないんじゃないかと、私は思うのです。

posted by 堀マサヒコ