水面日録

フリーペーパー〈面〉編集人のブログです。
意識の水面(みなも)に浮かんでは消える様々なモノゴトを綴ります。

みんなの宗教定義。

2008-09-19 04:45:32 | 宗教学の周辺

H学園大にて、後期最初の講義。
宗教学(概論的なもの)の第一回は、簡単なガイダンスの後、
あまりこちら側の考えを入れないうちに、
まずは「自分の中の辞書を開く」という作業をしてもらうことにしています。

誰しも持っているはずの、自分の中の辞書。
その中の、「宗教」という項目に、何が書かれているか。
宗教のことは何も知らない、と言う人は多いですが、
良くも悪くも、その項目が全くの白紙ということはないものです。

ならば定義はできるはず、ということで、
各自、「宗教とは・・・である」という文をいくつか作ってもらい、
あてられた人にはその中のベストと思えるものを黒板に出て書いてもらう、
ということをしています。
最初は必ず困惑した表情を見せ、すぐには立ち上がろうとしない学生たちですが、
一度に10人くらいずつ出てもらいますので、
だんだんスムーズに進むようになります。

これは実に楽しい。
よく、宗教の定義は宗教学者の数だけある、
と言いますが、
それを言うなら宗教の定義は宗教という言葉を使ったことのある人間の数だけある、
と言ったっていいじゃないか、と思うのです。

で、学生に書いてもらって出来上がったのが、
写真のような黒板一面の「定義」集です(読めないと思いますが)。

正解、不正解はない。
それぞれが「宗教」をどういう角度から見ているかを示している点で、
どれも面白いのです。

ただ、学問的に使いやすいかどうかはやっぱり、ある。
たとえば「宗教はアヘンである」は、興味深い見方ではありますが、
学問的な定義としては使えません。
その辺りのことを話して、次回から本格的なスタートになります。

これからの講義を通して、
それぞれの中の定義が変わるのか、変わらないのか。
それも、楽しみなところです。

posted by 堀マサヒコ

すべてのものに目的が?

2008-08-17 00:53:13 | 宗教学の周辺
  「すべてのものには目的がある。 堀さん、そう思いませんか?」

数年前、アメリカからやってきたある神学生に、このように問い掛けられたことがあります。
確か、(彼のような)キリスト者と(私のような)非キリスト者との間でどの程度コミュニケーションが可能だろうか、
という話をしていた時だったと思います。

この問いかけが、
彼にとってはその後の話を進めるための一つの布石であることは私にもわかったのですが、
そのとき私は正直に、

  「いえ、今のところそうは思えないです」 と答えました。

  「そうですか…」 

と残念そうに答えた彼の顔には、
どうしてこの人(=私)は、こんなに根本的なことを受け入れないんだろう、
という疑問が浮かんでいました。

他方、私の中には、
どうしてこの人は、そういう考え方を私が難なく受け入れると思ったのだろう、
という疑問が残りました。

二人の会話はその後、あまりはずみませんでした。

また、同じ頃、
日本の哲学(西田哲学)を学んでおられるドイツ人の方と話していて、

  「堀さんは人生の意味を、問うていますよね?」 と言われ、

  「いえ、あまりそういうことは考えてないです」

と答えて、とても驚かれたことがあります。

彼らはどうして、そんなにも物事の「目的」や「意味」にこだわるのか。
私はどうして、そういうこだわりを共有できないのか。
―― これは私の中で、かなり大きな疑問になっています。

目的と意味は違うだろう、とか、
何に関しての目的や意味を問うかによって違うだろう、とか、
まあ、色々あるでしょうが、
私自身は、そうした問題の切り分け方とは別に、
もっと根本的なところでの立場というか、
発想の仕方の違いがここ(上記の「彼ら」と「私」の間)にはあるような気がしています。

以上、前回の記事に、うっすらつながる話でした。

posted by 堀マサヒコ

他界系。

2008-02-19 00:02:33 | 宗教学の周辺
「あちら側」の世界への郷愁を思わせるような空のイメージや、
余命いくばくもない、という設定の小説や映画が(どれが新作なのかわからなくなるほど)多いこと、
そして「千の風になって」の大ヒット、などを見るにつけ、
「他界系」とでも名づけたくなるような方向性をもつ表現への熱が、
静かに広がっているような気がしています。

秋元康の「象の背中」もそうでしょうし(小説、映画とも未読、未見ですが)、
ちょっと古いけど「千と千尋の神隠し」もそうだなあ、と。
(神々の集う湯屋という「異界」のさらに向こう側に、
死に近接するようなもう一つの他界が描きこまれている、と思う。)

これらの表現は、「スピリチュアル」という言葉でくくることもできるかもしれませんが、
個人的には、もうちょっと淡白に「他界系」と呼んでおきたい気分。
(念のため検索をかけるとゲーム用語にもあるようで。。。とりあえず別物と考えてください。)

諍いや喧騒を離れた別世界への思い、というようなことを前回は書いたけど、
それは必ずしも厭世観の現れ、というのではない気がする。
生の放棄、とはなおさら遠いかと。

むしろ、他界への窓を胸に抱きながらこの世を生きていく、
という生き方への関心の現れではないかと、今のところぼんやり考えています。
希望的観測かな。

はっきりしないながらも、さしあたり記しをつけて考えつづけていくうちに、
段々輪郭が見えてくることもあるもので。
とりあえず書いてみました。
 posted by 堀マサヒコ
---ロックバンド「8 otto」の音にはのけぞった。もっと壊れていいと思うけどカッコいいわ。

「宗教の目利き」?

2007-09-01 01:25:10 | 宗教学の周辺
ずいぶん間が空いてしまいましたが、
宗教言説の危険性、という話の続きを少々。

前回の書き込みの後、
遅ればせながら島田裕巳氏の近著、『中沢新一批判』を読みました。
ひととおり読んだ感想として、この本は、
世に言う「リセット願望」と中沢氏の思想との親和性を指摘することには、
ある程度成功していると思います。
しかし、中沢氏自身、以前から自分の内なる「タナトス小僧」について語っていたことからすれば、
これは彼自身にとって驚くべき指摘ではおそらくないでしょうし、
批判として痛くも痒くもないような気がします。
さらに、このことと、
中沢氏がテロを「正当化」したり「アジテーション」している、
という更なる島田氏の主張との間には、かなりの距離があります。
その部分での島田氏の議論は、説得力を欠いていると私は思います。

ただ、私も、中沢氏が今、オウムの事件を改めてどう捉えておられるのか、
聞いてみたい気はします。
その点、片付いてないんじゃないですか、
という気持ちは、島田氏と共有しています。

かつて中沢氏は、自分は宗教学者で、宗教学者というのは「宗教の目利き」である、
と、テレビ番組の中で明言していました。
(この番組の内容はその後、『宗教入門』として書籍化されています。)
その彼がかなり積極的に評価し、応援すらしているように見えた教団が、
あのような大事件を起こしたのです。

その後の彼の発言を詳細に追っているわけではないのですが、
中沢氏が自ら「宗教学者、中沢の死」を宣言したことは、はっきりと覚えています。
その意味ではもう、「目利き」の看板は降ろしたのかもしれません。

しかし、私が当時からずっと気になっていたのは、
彼がその看板にふさわしいかどうか、ではなく、
そもそも宗教の目利きなどという存在が成り立ちうるのか、
ということでした。
目利きであることを名乗る不遜、などということよりも、
そもそもそのような揺るぎない眼力なり、基準なりがこの世のどこかに成り立ちうる、
と信じさせるような語り口自体が実に危うい、いや、
端的に間違っているのではないでしょうか。
(それを言っちゃあ、宗教の全否定になる?―― そうは思いません)

先日亡くなられた河合隼雄氏への追悼文を見ても、
上の点で、基本的に中沢氏の語り口は変わっていないな、と思いました。
(→「賢者」とは?
さらに言えば、同じ文章の中で、
「日本人の魂が危機に陥っていると認識し、救おうとした」
という言葉を河合氏に贈っていることにも、非常にひっかかりました。

これもまた、河合氏がそれにふさわしくない、などということでは全くありません。
そうではなく、賛辞として使われたこの言葉が反面にもつ恐ろしさ、つまり、
それが例えばかつてのオウムの教祖についても当てはまってしまう可能性について、
中沢氏がどう考えておられるかが、気になって仕方がないのです。

魂の救済を目指す者が、そうした理念のもとに人を殺めることもありうるということ
――そんなこと、当たり前でしょ、と氏は言うかもしれませんが、
当たり前でもしつこいくらい言い続けるべきでしょう。
それが「オウム以後」の宗教学者の責任であり、
その責任は自ら「死」を宣言した元・宗教学者の中沢氏とて、
免れないんじゃないかと、私は思うのです。

posted by 堀マサヒコ

千の風になって

2007-06-20 23:55:57 | 宗教学の周辺
秋川雅史氏の歌う「千の風になって」が、ミリオンセラーに達する勢いとのこと。
これに関して、朝日新聞朝刊、18面に興味深い記事が。

  いまや葬儀でも頻繁に流される歌となったが、
  「私は墓にいない、死んでなんかいない」という表現は、
  日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると、
  違和感を表明する仏教関係者もいる。

なるほど。
一方では、この歌の訳詞と作曲を手がけた新井満氏のように、
ここに歌われた「アニミズム」的な宗教観を「どんな人にも最古層にある」ものとして、
積極的に評価する意見もあるようだ。

しかし、そもそも「仏教的な死生観」そのものが、
実際には極めて多様で流動的な性格のものであり、
とりわけ日本ではアニミズムと対立するどころかむしろ、
習合している面も濃厚であることからすれば、
この歌にさほどの「違和感」を覚えない仏教関係者も多いだろう。

「私は墓にいない」、という言い方にしても、
文字どおりそこにはいない、という断言であるよりはむしろ、
「墓に縛りつけられているわけじゃないんだよ」、
というメッセージとして受け入れられている面もあるんじゃないだろうか。

墓にいるときもあるけれど、風や鳥になっているときもある、
時には同時に多数の場所にいることだってできる、
という観念をさほど抵抗なく受け入れられる程度の柔軟さが、
少なからぬ日本人の死生観にそなわっているように思う。
(もちろん、そういう「いい加減さ」に我慢がならない、という人もいるだろうが)

しかしながら、一方で確かに「時代の変化」を感じさせるのは、
同じ記事内の島薗進氏のコメントにあるように、
この歌が「死者との交わりが個的に」なっていることの一つの象徴となっている点だろう。
いつでも、どこでも、あなたが話し掛けたいと思うとき、
そこに死者はいる。
まるで携帯電話みたいだ。
あるいは、「モバイル」とか「ユビキタス」(※)といったコトバすら、
死者との対話のかたちに当てはまるような時代が到来しているような気もする。

 ※ よく言われることですが、
    こちらはもともと神学的な含意(神の「遍在」)を引きずる言葉なんですよね。
   
posted by 堀マサヒコ

いのちの雄たけび

2007-04-20 00:51:03 | 宗教学の周辺
講義を担当している大学で、
終了後、学生からのコメントを読むのが大きな楽しみになっている。

先日の講義の中で、
イスラーム神秘主義(スーフィズム)を背景とするカッワーリーの歌い手として有名な、
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの歌を少し聴いてもらったところ、
こんな感想がかえってきた。

  「歌詞はわからないけど、
  生きていること、生かされていることへの雄たけび、
  みたいな感じがしました」。

けれんみのない、こういう言葉に出会うと、本当にうれしくなる。
言われてみれば私もまた、スーフィズム云々ということとは別に、
まさにそういうものとして、
ヌスラットの歌を好んで聞いている部分が確かにある。

「生かされていることへの雄たけび」、という表現が適切に響くという面では、
ヌスラットもオーティス・レディングもサリフ・ケイタも北島三郎も、
とても近い場所で歌っているような気がする。

posted by 堀マサヒコ

人は他人を浄めることはできない。

2007-04-12 00:55:52 | 宗教学の周辺
「そんなに言うほど、影響力、あるかなあ。」
――江原氏についての、友人の言である。

確かに、私は過大に見積もっているのかもしれない。
一連のテレビ番組はもちろんだが、
月刊誌『新潮45』が、昨年末に江原氏を「編集長」に立てた別冊「ANOYO」を出したこと、
また、そこに聖心会シスターの鈴木秀子氏や脳科学者の茂木健一郎氏との対談が
掲載されたこと (しかも、それぞれの胸のうちはどうあれ、
結果的には異様とも思えるほどの「仲良し対談」になっている)などが、
江原氏個人というよりは、彼を持ち上げるメディアの影響に対して、
「これ、ちょっとマズイよ」という思いを強めるきっかけとなったように思う。

そうは言っても、その種の番組や雑誌を見たり読んだりする人は限られているのだし、
その多くは彼の話を一種の物語として、
あるいは、「かのように」の世界のことがらとして楽しんでいるのだろうから、
過剰に反応する必要はないのかもしれない。

「ボク、大衆誌とかテレビはあまり見ないんで、知らなかったよ」
というふうな態度をとってるほうが、
利口なのかもしれない。
実際、「スピリチュアリティ」や「スピリチュアル」といった言葉は
宗教学の世界ではもう何年もの間、大流行、
というか、少なくとも必須のキーワードとして定着しているのに、
研究者が江原氏のことに触れるのはむしろ稀だ。
そう、皆さん利口なのである。

さて、そんな中、
『文芸春秋』の五月号に、「江原啓之ブームに喝!」
と題する玄侑宗久氏の文章が掲載された。
 (ちなみにこのタイトルは、氏の落ち着いた語り口を少しも反映していない。
 編集部は著者の同意を得てこれをつけたのだろうか。)

私がこれからぼちぼち書いていこうかな、
と思っていたことの多くはもう、
ここに書かれている。
しかも、私には書けない、深い経験に裏打ちされた文章だ。
さすが、というほど玄侑氏のことを良く知っているわけではないけれど、
仏教者にして作家である氏のふところの深さを見せつけられた思いである。

  「現在は江原ブームを支持する側も批判する側も、
  あまりにも「正しさ」にこだわりすぎているように見える。
  これは、現在の日本社会の余裕のなさとも関係することなのかもしれない」。

こういうときに「禿同」っていうのかな。
とりわけこのくだりには深く頷いてしまった。

posted by 堀マサヒコ

※ 今回の記事のタイトルは、
  岩波文庫の『ブッダの真理のことば・感興のことば』から。
  私が折に触れて思い起こすようにしている言葉の一つです。
  生半可な覚悟で世相に物申したくなったときなどに、
   (ここんとこ、そんなのばっかりかも)
  自分自身の頭に冷や水を浴びせるのに役立ちます。

美輪さんにお願いしたい。

2007-03-29 12:57:53 | 宗教学の周辺
「オーラの泉」を見た。

揚げ足取りのために見る、というほどひねくれてはいない。
いや、ひねくれてるけど、そういう方向のひねくれではない。
…そんなことはどうでもいい。

「ヨイトマケの唄」を書いた美輪明宏という人を、
私は尊敬している。
江原氏の話も、共感できる部分はあり、
ときには思わずメモをとりたくなることもある。
ありますとも。

昨夜の放送を見ていると、
やはりゴールデンタイムへの移行に向けて、
色々な批判に対して身構えている部分があるようだ(過去記事)。

「信じなくてもいい」という言葉が
美輪氏、江原氏のそれぞれから出たのは良いことと思うけれど、
両氏にはもう一言、いや二言、お願いしたい。

一つ目。
霊や霊界の存在を信じないということは、
死者(との関係)をないがしろにすることとイコール、
ではない、ということ。

二つ目。
霊や霊界の存在を信じないということは、
死というものを直視しないこととイコール、
ではないということ。

一部世間の風当たりに対しては、
美輪氏よりも江原氏の方がナーバスになっているらしく、
昨夜は江原氏が上の二つ目を否定するようなこと、
つまり、霊の話を毛嫌いする人は死から逃げている、
というようなことを言ってしまった。

もちろん、「毛嫌いする」、というのは、
「信じない」、というのとはまた違う。
でも、あの種の発言はマズイ。

あんなふうに熱くなってしまうところからすれば、
江原氏にはちょっと望めないかもしれないけれど、
美輪氏には、もしも、
上に書いた二つのことの意味を理解し、さらに同意してくれるならば、
 (というのは、してくれそうな気もするのだ)
放送の中で明言してほしい。
もちろん、言葉づかいはどうだっていい。

私がこんなところに書いたところで、
彼に届くはずもないけれど、
会ってお願いしたいくらいだ。
彼の影響力を思えば、
頭を下げたっていい。

そんなこと、美輪さんが言おうが言わまいが、
状況には変化ないよ、と言う人もいるだろう。

でも、大事なことだと思う。
自分たちと信念を共有しない人たちを、
何か邪悪な色でべったりと塗りつぶしてしまうような考え方を、
視聴者にはできるだけ促さないでほしいのだ。
これまでどれほど多くの宗教が、
そのことで失敗してきたことか。

そういうことに注意が必要な程度には、
「エハラさん」ブームはもう、宗教に近づいている、と思う。

posted by 堀マサヒコ

宗教と詩 ― サンタヤナの言葉

2006-09-26 01:34:12 | 宗教学の周辺
  宗教と詩とは、本質的には同じものである。
  ただ、実践的な関心との結びつき方が違うだけだ。
  詩が人生に深々と入り込むとき、それは宗教と呼ばれる。
  また、宗教が人生にとって付随的なものにとどまるとき、
  それは単なる詩と見なされる。 
              ―― ジョージ・サンタヤナ(※)

スペイン生まれのアメリカ人哲学者サンタヤナ(1863-1952)は、
日本ではあまりなじみのない存在だと思いますが、
私にとっては非常に気になる言葉をいくつか残しています。

上の言葉などは、宗教と芸術の入り組んだ関係のある一面を、
うまく言い当てているように思います。
表面的には、詩によって代表させた芸術よりも宗教の方に
より大きな価値を認めているようにも見えますが、
そのような格付けはおそらく、彼の本意ではないでしょう。

むしろ、芸術の究極は宗教(この場合は信仰と言ったほうがいいかもしれません)と
わたりあい、あるいは一致するところにあり、というのが、
彼の言わんとするところでしょう。

たとえば一篇の詩が、信仰に匹敵するような人生の竜骨となることもある――
そういう事態を見据えたものとして、
これはなかなかに含蓄のある言葉だと思います。

posted by 堀マサヒコ

※ George Santayana _Interpretation of Poetry and Religion_
   Harper & Row, Publishers: New York, 1957.