水面日録

フリーペーパー〈面〉編集人のブログです。
意識の水面(みなも)に浮かんでは消える様々なモノゴトを綴ります。

イメージが消える

2008-08-27 22:52:44 | アート
先回の記事のコメント欄でのやり取りから、
サルバドール・ダリの絵のことを思い出しました。
昨年開催された展覧会()で見た、
「イメージが消える」と題された作品()です。

ダブル・イメージと呼ばれる技法で、
フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」と、
ベラスケスの肖像画とが、
一枚の絵の中に巧みに重ね合わされています。

この種の技法自体は、
心理学の教科書などに載っている「ルビンの壺」や「婦人と老婆」、
あるいはウィトゲンシュタインの「アスペクト盲」論の解説などに用いられるアヒルウサギなど
(いずれもネット上で容易に見つけられると思います)、
トリックとしては目新しいものではないでしょう。

私がこりゃまいったなあ、と思ったのは
「イメージが消える」という、そのタイトル。
視点を変えることによって別なものが見えてくる、
というその事態を、
(それまでは見えなかった)イメージが「現れる」、というふうにではなく、
(それまでは見えていた)イメージが「消える」、というふうに表現しているところが、
本人言うとおり(?)天才的だなあ、と思ったのです。

フェルメール的イメージがそこに見えているときには、
ベラスケスは決して見えません。
逆もまた真なり、です。

「ダブル・イメージ」と言っても、
私たちは二つのイメージを同時に見ることはできず、
一方を見るためには他方が「消え」なければならないのです。

ここには、私たちが何かを見る、ということに伴う本質的な逆説が
照らし出されているように思います。

目の前にあるものが消える=見えなくなる
―― ダリの絵は、そういう事態をまるでマジックのように生み出していると同時に、
実はそれと似た事態が私たちが何かを見るときには常に生じているのだということを、
彼一流の洒脱なやり方で教えてくれているように思えてなりません。

・・・このことを思い出させてくれたpockleyさん、ありがとうございました。

posted by 堀マサヒコ

すべてのものに目的が?

2008-08-17 00:53:13 | 宗教学の周辺
  「すべてのものには目的がある。 堀さん、そう思いませんか?」

数年前、アメリカからやってきたある神学生に、このように問い掛けられたことがあります。
確か、(彼のような)キリスト者と(私のような)非キリスト者との間でどの程度コミュニケーションが可能だろうか、
という話をしていた時だったと思います。

この問いかけが、
彼にとってはその後の話を進めるための一つの布石であることは私にもわかったのですが、
そのとき私は正直に、

  「いえ、今のところそうは思えないです」 と答えました。

  「そうですか…」 

と残念そうに答えた彼の顔には、
どうしてこの人(=私)は、こんなに根本的なことを受け入れないんだろう、
という疑問が浮かんでいました。

他方、私の中には、
どうしてこの人は、そういう考え方を私が難なく受け入れると思ったのだろう、
という疑問が残りました。

二人の会話はその後、あまりはずみませんでした。

また、同じ頃、
日本の哲学(西田哲学)を学んでおられるドイツ人の方と話していて、

  「堀さんは人生の意味を、問うていますよね?」 と言われ、

  「いえ、あまりそういうことは考えてないです」

と答えて、とても驚かれたことがあります。

彼らはどうして、そんなにも物事の「目的」や「意味」にこだわるのか。
私はどうして、そういうこだわりを共有できないのか。
―― これは私の中で、かなり大きな疑問になっています。

目的と意味は違うだろう、とか、
何に関しての目的や意味を問うかによって違うだろう、とか、
まあ、色々あるでしょうが、
私自身は、そうした問題の切り分け方とは別に、
もっと根本的なところでの立場というか、
発想の仕方の違いがここ(上記の「彼ら」と「私」の間)にはあるような気がしています。

以上、前回の記事に、うっすらつながる話でした。

posted by 堀マサヒコ

必要なくてもいいじゃない。

2008-08-15 00:37:23 | 日々の泡
先日、あるお店で料理がテーブルに並ぶのを待っていたところ、
私の向かい側に座っていた三歳の娘が急に立ち上がり、
手を振り回しながら声をあげました。

  「もう、あっち行って! 必要ない!」

そう言われたのは目の前の私、ではなく、
娘の顔のまわりを飛び回る、小さな虫でした。

田舎育ちのくせに妙に神経質に育った私。
娘にはあまり似てほしくないものだと思い、
海も山も近い場所なんだから虫くらいいるさ、わっはっは、と、
たくましい父を演じるつもりが、
とっさに出てきた言葉は、微妙にニュアンスの異なるものでした。

  「いいじゃんよー。必要なくても、いたって」。

むしろ田舎者が東京人を気取るかのような「じゃん」付きで出てきたこの言葉が、
何だか虫ではなく自分のことを弁護しているようでもあり、
あるいは、
自分の中のかなり根っこにある考え方を案外に率直に表現しているようでもあり、
しばし考え込んでしまいました。

追記:
  次の記事に、うっすらつながっています。  

posted by 堀マサヒコ

背中を押されて語るだけ。

2008-08-13 22:09:33 | 今日のアンダーライン
「誰も、死者に代わって語ることはできない。
できるのはただ、死者に背中を押されて語ることだけだと思うのです」。

今日のアンダーラインは本からではなく、
数年前の宗教学会でお聴きした、ある方の印象深い口頭発表から。
細部の表現は違っているかもしれないので、お名前はふせさせていただく。

今日、8月13日は、村岸宏昭さんの三回忌にあたる。
彼もまた、私の背中を押してくれている人の一人だといえば、
少し勝手な言い方になるだろうか。

むしろ彼によって背中を押されているように感じている人たちが数多くいて、
私もそうした人たちの一人なのだ、と言うべきだろう。

彼の美意識や問題意識には遠く及ばないものだとしても、
彼が応援してくれた「面」の試みを、これからも続けていこうと思う。

追記:
  この一文をひとまず書き終えてから、
  生前、村岸さんと深い親交のあった中森さんのブログを覗かせていただきました。
  するとその中に、「ぽんと背中押されて…」と題する一文が。
  私のように無粋な者に、同志を気取る資格なぞないけれど、
  やはりそういうことなのだなあ、と、深く頷きつつ読ませていただきました。 

posted by 堀マサヒコ

「わかりやすく」は難しい。

2008-08-12 00:32:48 | 今日のアンダーライン
「デザイナーは、大衆からすぐに理解されるように気を配らねばならない。
〔ただし〕大衆から理解されるということは、
大衆の最も平凡な好みを追従するということではない」。

―― ブルーノ・ムナーリ『芸術家とデザイナー』みすず書房、2008年、104頁。

何かと「わかりやすさ」の求められる昨今。
大事なのは、「本当に伝えたいこと」や「本当に伝えるべきこと」を
わかりやすく伝えるということだろう。
このとてつもなく難しい作業が、ともすると、
単に「伝わりやすいこと」を伝えるだけの安易な作業へと、置き換えられてしまう。
これはちょっと恐いことだと思う。

ムナーリの言葉に警句としての意義を見出すのはたぶん、
デザインという仕事についている人たちだけではないだろう(もちろん、私もその一人)。

posted by 堀マサヒコ

ネットカフェに泊まった。

2008-08-08 12:31:03 | 日々の泡
8月2日、深夜のこと。
翌朝出発の、あるススキノ・バンドの地方営業(そういうものがあるのです)に参加するために、
最終の地下鉄に乗り、そのまま24時間営業のインターネットカフェへ。

集合時間は早朝4時45分。
ワゴン車にのりあわせて、一路興部町の夏祭り会場へと向かう予定だ。
集合場所までタクシーを使っていたのではギャラがもったいないし、
誰かに送ってもらうのは申し訳ない、ということで、
苦肉の策のネットカフェ泊である。

ネットカフェで一晩を過ごすのは初めての体験。
そもそもネットカフェ自体、
数年前に自宅のパソコントラブルのため1時間ほど利用したことを除けば、
ほとんど初体験だ。

結論。
思ったよりも快適!

店にもよるだろうけど、トイレなども含めてかなり清潔。使い捨ての歯ブラシもある。
パソコンは自宅のものよりも数倍使いやすく、
漫画も揃っている(おいおい、目的が・・・)。

深夜1時を過ぎたころ、となりの方から若者二人の小さな声。
「明日何時起き?」
「5時。」
「俺は5時半。おやすみー」
「うん、おやすみー」

事情はわからないが、
こういうおかしな時間におかしな場所にいる人たちの間に交わされる
日常的で温かいやりとりが、なんかすごく好き。

漫画の書棚をチェックしていて、
手塚治全集がそろっていることに歓喜。

ちょうど先日、エリアーデの『シャーマニズム』を読んでいて、
(→ 読んだきっかけについてはこちら。)
死と再生の象徴を通して語られる呪医の誕生、というくだりに触れ、
ブラックジャックのことを思い出していたところ。

そこで、彼の来歴を語るエピソードを探索。
こういう場所だとネットも駆使できるので、すぐにエピソードの収録場所を確認できた。
これは便利だ。

その後、以前から気になっていた一色まことの「ピアノの森」にも手を伸ばしてしまい、
結局ほとんど睡眠をとらないうちに四時を迎える。
予想された結果、でもある。

諸々片づけて集合場所へ、と思ったとき、
パソコンのトップ画面に赤塚不二夫の訃報が。

数年前、ある方(某大学の先生)に「手塚を読まないで宗教学が語れるか!」
というようなことを言われたときに、
「ボク、手塚より赤塚不二夫の方が好きなもんで」と答えたことがある。
○○を読まずして云々、という言い方が嫌いなので、
ちょっと茶化す意図もあったのだが、
手塚より赤塚、というのは本音でもある(どっちもすごいけどね)。

あらゆるカタチの人生と生命に対する、全面的な肯定。
カネモチもビンボーも、インテリもおバカも、人間も動物も関係ない。
みーんなそれでいいのだ、の世界。

「ニーチェの超人はバカボンのパパなのだ」
これも昔、私がふざけて言っていたことだが、あながちウソでもないような気もする。

ご冥福をお祈りいたします。

結局、行き帰りのワゴン車の中で爆睡。
運転手さん、すみませんでした。

posted by 堀マサヒコ