ちょっと話題になった“頭の良くなる住宅設計”とは、子供の勉強の様子を調査した結果、中学受験で難関校に合格した子供は“リビングやダイニングの雑然とした雰囲気の中で勉強する傾向”がみられたとの事なのですが、“疋田文五郎氏”から“「子供の為に部屋を与えた事」が、家庭崩壊の原因と考えます”とのいただいたコメントと共通点があるかもしれません。
◆私の英語の教科書では“ベティーやジャック”の家は“広い庭と大きな家”、そして、子供は“幼い頃から親とは別な寝室”と聞かされてきました。
全てがアメリカの真似・追随のわが国では“広い家”は無理としても、新築の際には子供に寄せる期待も大きく“子供部屋”だけは当然の如く設けられてきましたが、私の“甥や姪”達の勉強の場は、決して自室ではなくもっぱら“茶の間のちゃぶ台”か“食堂のテーブル”でした。
◆“頭の良くなる家”の結論として“お母さんこれってどうするの?”の様に“家族のコミュニケーション”がとれる家庭環境こそが、子供の成長に良い影響を与え、その事を考慮した設計こそが“頭の良い子”に育つ、という事らしいのですが、親としての役割も考えずに“塾に行かせる”事で安心し、つまりは“金で解決”させてしまうのとは正反対でもあります。
そう言えば、難関の大学や国家試験にパスした“Iくん”や“Tくん”そして“Sくん”(時たまわが家を訪れる青年)達は夫々塾へは行った経験がないと聞いております。
◆そもそも“自室に閉じこもって勉強する小学生”のイメージは描けませんが、私が子供の頃には、茶の間の隣の部屋にある“オヤジの机”が大好きでした。
“ペンやインク瓶”、辞書、そして“回転するイス”に腰かけると“触れてはいけません!”と母親に窘められながらも、そこがもっとも気に入った場所でしたので
一日一回は座っていました。
◆漢字が多く細かい文字の羅列した“オヤジや兄達の本”も中学生になって、ふと手にしてみると“読めるようになった自分”に感動したのは今でもはっきりと記憶に残っています。
「虞美人草」、山本有三の「女の一生」、「老人と海」などを読み漁り、“俺って大人の本が読めるようになった!”。何しろ同級生の皆よりも大人になったような快感がたまりませんでした。
また、兄たちの読む雑誌の中には“明星”や“平凡”の付録として“ヒット・ソング・ブック(歌詞と簡単な譜面付)”がとても楽しみでした。
中学生になってからは意味は別としても、英文は読めた筈なのに何故か“ルビのカタカナ”で友人のマッコ(小林正男くん)達と歌って楽しんでいました。“きちんと英語で読んでいたらなあー”と今では大変勿体ない時間を過ごした気がしています。
“カタカナ英語”でもその頃覚えた歌詞は今でも歌えます。
さらに“ドクトル・チエコの「10代の○○の悩み」・「10代の○○」”は家の中の周囲に気配りをしながら興味深くそこから多くの知識を得ました。
◆仕事上“計算する機会”は少ないのですが、それでも一年ほど前から算盤を使うよになりましたが、子供の頃に練習した“暗算”の能力が僅かながら蘇ってくるような気がして嬉しいです。
算盤は常に“暗算をしながら計算する”必要がありますが、電卓はまったく“頭は使わなくてもできてしまう。この事が便利なのか? それともダメな人間を製造しようとしているのか?
◆最初は理想的な町づくりと話題になった“サン・シティー(アメリカ・カルフォルニア州)”は、つまりは“老人だけの町”ということで、多くの問題点が指摘されはじめている様ですが、やはり“様々な年齢層が混在する”ことの方が自然なのではないかと思います。
子供の出生率は減少の傾向にあるのに、わが家の前の公園には沢山の子供達が集まり甲高い元気な声が部屋に飛び込んでくるとその様なことは忘れてしまいます。
また定年退職をなさった方々も多いので、この辺りは様々な年代層が混在する非常に理想的な分布と思っています。
◆学校や書物から得られる知識を軽視するわけにはいかないが、老若男女、様々なジャンル、様々な職業の方々とのコミュニケーションの中から、また直接的には音楽と関りのないように思える事が、私の演奏に大きなヒントを与えてくれる場合が多々ある。
また、演奏者同士の、それも会話を取り交わす“彼のたった一言”の中に含まれる上質で濃厚な内容がどれほど役にたったかは測り知れない。
このような種種雑多な中の様々な要素が交差してこそ“良いコミューン”がうまれるのだろと信じている次第です。
◆私の英語の教科書では“ベティーやジャック”の家は“広い庭と大きな家”、そして、子供は“幼い頃から親とは別な寝室”と聞かされてきました。
全てがアメリカの真似・追随のわが国では“広い家”は無理としても、新築の際には子供に寄せる期待も大きく“子供部屋”だけは当然の如く設けられてきましたが、私の“甥や姪”達の勉強の場は、決して自室ではなくもっぱら“茶の間のちゃぶ台”か“食堂のテーブル”でした。
◆“頭の良くなる家”の結論として“お母さんこれってどうするの?”の様に“家族のコミュニケーション”がとれる家庭環境こそが、子供の成長に良い影響を与え、その事を考慮した設計こそが“頭の良い子”に育つ、という事らしいのですが、親としての役割も考えずに“塾に行かせる”事で安心し、つまりは“金で解決”させてしまうのとは正反対でもあります。
そう言えば、難関の大学や国家試験にパスした“Iくん”や“Tくん”そして“Sくん”(時たまわが家を訪れる青年)達は夫々塾へは行った経験がないと聞いております。
◆そもそも“自室に閉じこもって勉強する小学生”のイメージは描けませんが、私が子供の頃には、茶の間の隣の部屋にある“オヤジの机”が大好きでした。
“ペンやインク瓶”、辞書、そして“回転するイス”に腰かけると“触れてはいけません!”と母親に窘められながらも、そこがもっとも気に入った場所でしたので
一日一回は座っていました。
◆漢字が多く細かい文字の羅列した“オヤジや兄達の本”も中学生になって、ふと手にしてみると“読めるようになった自分”に感動したのは今でもはっきりと記憶に残っています。
「虞美人草」、山本有三の「女の一生」、「老人と海」などを読み漁り、“俺って大人の本が読めるようになった!”。何しろ同級生の皆よりも大人になったような快感がたまりませんでした。
また、兄たちの読む雑誌の中には“明星”や“平凡”の付録として“ヒット・ソング・ブック(歌詞と簡単な譜面付)”がとても楽しみでした。
中学生になってからは意味は別としても、英文は読めた筈なのに何故か“ルビのカタカナ”で友人のマッコ(小林正男くん)達と歌って楽しんでいました。“きちんと英語で読んでいたらなあー”と今では大変勿体ない時間を過ごした気がしています。
“カタカナ英語”でもその頃覚えた歌詞は今でも歌えます。
さらに“ドクトル・チエコの「10代の○○の悩み」・「10代の○○」”は家の中の周囲に気配りをしながら興味深くそこから多くの知識を得ました。
◆仕事上“計算する機会”は少ないのですが、それでも一年ほど前から算盤を使うよになりましたが、子供の頃に練習した“暗算”の能力が僅かながら蘇ってくるような気がして嬉しいです。
算盤は常に“暗算をしながら計算する”必要がありますが、電卓はまったく“頭は使わなくてもできてしまう。この事が便利なのか? それともダメな人間を製造しようとしているのか?
◆最初は理想的な町づくりと話題になった“サン・シティー(アメリカ・カルフォルニア州)”は、つまりは“老人だけの町”ということで、多くの問題点が指摘されはじめている様ですが、やはり“様々な年齢層が混在する”ことの方が自然なのではないかと思います。
子供の出生率は減少の傾向にあるのに、わが家の前の公園には沢山の子供達が集まり甲高い元気な声が部屋に飛び込んでくるとその様なことは忘れてしまいます。
また定年退職をなさった方々も多いので、この辺りは様々な年代層が混在する非常に理想的な分布と思っています。
◆学校や書物から得られる知識を軽視するわけにはいかないが、老若男女、様々なジャンル、様々な職業の方々とのコミュニケーションの中から、また直接的には音楽と関りのないように思える事が、私の演奏に大きなヒントを与えてくれる場合が多々ある。
また、演奏者同士の、それも会話を取り交わす“彼のたった一言”の中に含まれる上質で濃厚な内容がどれほど役にたったかは測り知れない。
このような種種雑多な中の様々な要素が交差してこそ“良いコミューン”がうまれるのだろと信じている次第です。