鈴木卓の気の向くままに 

「ああ、いっぺん言うてみたかった」、「日常のたわいない出来事」など、皆様へのお便りを発信いたします。

《頭の良くなる家》

2009年03月31日 | Weblog
ちょっと話題になった“頭の良くなる住宅設計”とは、子供の勉強の様子を調査した結果、中学受験で難関校に合格した子供は“リビングやダイニングの雑然とした雰囲気の中で勉強する傾向”がみられたとの事なのですが、“疋田文五郎氏”から“「子供の為に部屋を与えた事」が、家庭崩壊の原因と考えます”とのいただいたコメントと共通点があるかもしれません。

◆私の英語の教科書では“ベティーやジャック”の家は“広い庭と大きな家”、そして、子供は“幼い頃から親とは別な寝室”と聞かされてきました。
全てがアメリカの真似・追随のわが国では“広い家”は無理としても、新築の際には子供に寄せる期待も大きく“子供部屋”だけは当然の如く設けられてきましたが、私の“甥や姪”達の勉強の場は、決して自室ではなくもっぱら“茶の間のちゃぶ台”か“食堂のテーブル”でした。

◆“頭の良くなる家”の結論として“お母さんこれってどうするの?”の様に“家族のコミュニケーション”がとれる家庭環境こそが、子供の成長に良い影響を与え、その事を考慮した設計こそが“頭の良い子”に育つ、という事らしいのですが、親としての役割も考えずに“塾に行かせる”事で安心し、つまりは“金で解決”させてしまうのとは正反対でもあります。
そう言えば、難関の大学や国家試験にパスした“Iくん”や“Tくん”そして“Sくん”(時たまわが家を訪れる青年)達は夫々塾へは行った経験がないと聞いております。

◆そもそも“自室に閉じこもって勉強する小学生”のイメージは描けませんが、私が子供の頃には、茶の間の隣の部屋にある“オヤジの机”が大好きでした。
“ペンやインク瓶”、辞書、そして“回転するイス”に腰かけると“触れてはいけません!”と母親に窘められながらも、そこがもっとも気に入った場所でしたので
一日一回は座っていました。

◆漢字が多く細かい文字の羅列した“オヤジや兄達の本”も中学生になって、ふと手にしてみると“読めるようになった自分”に感動したのは今でもはっきりと記憶に残っています。
「虞美人草」、山本有三の「女の一生」、「老人と海」などを読み漁り、“俺って大人の本が読めるようになった!”。何しろ同級生の皆よりも大人になったような快感がたまりませんでした。

また、兄たちの読む雑誌の中には“明星”や“平凡”の付録として“ヒット・ソング・ブック(歌詞と簡単な譜面付)”がとても楽しみでした。
中学生になってからは意味は別としても、英文は読めた筈なのに何故か“ルビのカタカナ”で友人のマッコ(小林正男くん)達と歌って楽しんでいました。“きちんと英語で読んでいたらなあー”と今では大変勿体ない時間を過ごした気がしています。
“カタカナ英語”でもその頃覚えた歌詞は今でも歌えます。
さらに“ドクトル・チエコの「10代の○○の悩み」・「10代の○○」”は家の中の周囲に気配りをしながら興味深くそこから多くの知識を得ました。

◆仕事上“計算する機会”は少ないのですが、それでも一年ほど前から算盤を使うよになりましたが、子供の頃に練習した“暗算”の能力が僅かながら蘇ってくるような気がして嬉しいです。
算盤は常に“暗算をしながら計算する”必要がありますが、電卓はまったく“頭は使わなくてもできてしまう。この事が便利なのか? それともダメな人間を製造しようとしているのか? 

◆最初は理想的な町づくりと話題になった“サン・シティー(アメリカ・カルフォルニア州)”は、つまりは“老人だけの町”ということで、多くの問題点が指摘されはじめている様ですが、やはり“様々な年齢層が混在する”ことの方が自然なのではないかと思います。
子供の出生率は減少の傾向にあるのに、わが家の前の公園には沢山の子供達が集まり甲高い元気な声が部屋に飛び込んでくるとその様なことは忘れてしまいます。
また定年退職をなさった方々も多いので、この辺りは様々な年代層が混在する非常に理想的な分布と思っています。

◆学校や書物から得られる知識を軽視するわけにはいかないが、老若男女、様々なジャンル、様々な職業の方々とのコミュニケーションの中から、また直接的には音楽と関りのないように思える事が、私の演奏に大きなヒントを与えてくれる場合が多々ある。
また、演奏者同士の、それも会話を取り交わす“彼のたった一言”の中に含まれる上質で濃厚な内容がどれほど役にたったかは測り知れない。

このような種種雑多な中の様々な要素が交差してこそ“良いコミューン”がうまれるのだろと信じている次第です。

《こんな筈ではなかったにー!》

2009年03月28日 | Weblog
『私あがり症なのですが・・・』の相談は多いのですが、人前で自分の力を“100%”出し切る事は私の経験からは“ほとんど不可能”に近いとも思えます。
もちろん長い間には、本番なのに『自分で思っていた以上の能力を発揮してしまった!』の羨ましい現象も『一生の間に2~3度の巡りあわせ?』の確率で起こることもあるらしいのですが、まさに“マグレ”に近い現象だと思っています。

◆スポーツ・オンチの私も“WBC”だけは夢中で観戦してしまいました。
期待を賭けられていた“天才イチロー”も試合の結果を決定するそのタイミングで実力が発揮されて“サムライJapan”を勝利へ導く事ができたものの、「もし、あの一本が出なかったら?」とほっと胸を撫で降ろしています(チームではなくイチロウ個人に対して)

◆気の強うそうな“マルタ・アルゲリッチ”ですら演奏前の強いプレッシャーと戦っていて、時にはそれに堪えられなくなる程の恐怖心に襲われることもあるらしいのです。そのことは本で知りました(ピアニストが書いたピアニストの本)。客席からはそんな素振りは微塵も伺い知る事はできません。

◆相当な昔話になってしまいますが私は“越路吹雪さんのディナーショー”に2度ほど出演させていただきましたが、楽屋からステージまでを、岩谷時子さん(作詞家、翻訳家)に連れ添われ、ステージ横で待機している光景を見て“献身的なマネージャーだな!”と思っていたのですが、実は、越路さんは岩谷さんに“ポーン”と肩を叩かれないとステージには出られないほど極度の緊張に襲われていたのだそうです。この事は最近放映された“越路吹雪物語”で知りましたが、ステージ上での堂堂とした歌いプリっからは想像も出来ないものです。

◆ピアノを学ぶ人ならば必ずお世話になる“ツェルニー教則本”の著者、“ツェルニー”は“ベートーベンの唯一の弟子”としても知られていますが、彼は音楽家としての技巧と才能を持ち合わせてい乍ら極度の“あがり症”のために演奏家を諦め、教育の道に専念したとの事です。
その結果、名著“ツェルニー教則本”が誕生した次第ですが、もし彼が演奏家として成功していたとしたら、あの教則本は産まれなかったのです

◆この“あがる”現象とは“交感神経が優位”になり、その結果“ルアドレナリン”なる物質の血中濃度が高くなった状態なんだそうですが、この“ルアドレナリン”の分泌を抑えるには“不安材料を最小限度にする”工夫が重要らしい。
しかし乍ら、“1メートル幅の線の中”を歩く事は、地面ならば平気でも“地上10メートルとか100メートルだったならば“線の幅が3メートル”いや“5メートル”でもたちまち足が竦んでしまう事でしょう。

◆クラシック音楽の様に“これから出す音(譜面)”が決まっているならば対処はできても、ジャズのような即興演奏では個人的にいくら練習していたとしても限度があります。
その他に“イメージ・トレーニング”、つまり疑似体験も効果的との事ですが、いずれにしても絶対的な保証はなく、前記の名人ですら強いプレッシャーと戦っているのですから(逆に天才と言えども“人間味”を感じホッとする)、ここで気を楽にし居直るしかありません。

◆演奏が終え“こんな筈ではなかったにー!”ではなく、1度でイイから“今日の演奏に満足”をし、美味しいお酒を飲んでみたい。
この一生に2度か3度の“キセキ/マグレ”との襲来を期待し今日もひたすら練習に励むのです。


《朝はどこから》

2009年03月19日 | Weblog
宇宙飛行中の若田さんが、目覚めの曲として選ばれたのは、日本の「ラジオ体操の歌」との事。
夏休みには6時30分になるとわが家の前の公園に子供たちが集まってくる。
私は此処に越してきて20数年になるが一度も加わることもなく「きぼうのあさーだ・・・」を布団の中で聞いている。

◆「ラジオ体操の歌」

藤浦洸作詞・藤山一郎作曲

新しい朝が来た 希望の朝だ
喜びに胸を開け 大空あおげ
ラジオの声に 健(すこ)やかな胸を
この香る風に 開けよ
それ 一 二 三

新しい朝のもと 輝く緑
さわやかに手足伸ばせ 土踏みしめよ
ラジオとともに 健やかな手足
この広い土に伸ばせよ
それ 一 二 三

◆私はこの曲を聞くと、必ず連鎖して思い出される曲があります。

「朝はどこから」

森まさる作詞・橋本国彦作曲/昭21

1)
朝はどこから 来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から 来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは 希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「おはよう」「おはよう」

2)
昼はどこから 来るかしら
あの山越えて 野を越えて
ねんねの里から 来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは 働く家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」

3)
夜はどこから 来るかしら
あの星越えて 月越えて
お伽(とぎ)の国から 来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは 楽しい家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」

“ラヂオ歌謡”と呼ばれるこの曲を知る人は少ないかもしれない。
何てったってこの曲の“歌詞が素晴らしく”大好きなのである。
確かこの詩は一般からの応募作品だと記憶しております。

“朝はどこから?” の問いに対して “光の国からかしら?”
「そうか!“朝は光の国から来るのかもしれない!”」と思いきや
“いえいえ そうではありませぬ”と否定

では一体どこからくるのだろう?

“それは 希望の家庭から”と言い切る

子供:自由じゃん! 
親:子供の人格の尊重などと錯覚した放任主義。 

そんな家庭には朝はやってこないのである。
私がもっとも好きな部分です。

昼は昼でまた凄い!

“それは 働く家庭から”とくる。.
“好きな事がみつからない!”
などとぶらぶらしているような怠け者には昼は来ないらしい。
とりあえず“働け!”

夜は“楽しい家庭から”と続く

家族といっても行動パターンが個々に異なる。
学校から帰るとすぐに塾へ行かなくてはならない。
これは“仕方の無い事”でもあり、揃って食事をする重要さを感じてない。
腹減ったら自分の都合に合わせていつでも喰える時代、これが豊かさなのか?

私の子供の頃は冷蔵庫も無い時代なので、夕方には食料品の買い出しに出かけるのが母親の日課である。
夕飯の支度の間は“煮物の臭い”で食欲を駆り立てられ食事の時間が待ちどおしい。
食卓には夕飯が並べられ準備が整い、どうしようもないくらい腹が減っていても、父ちゃんが帰ってくるまで家族は待たされた。
家族揃っての夕食は嬉しかった。兄弟の多いわが家だったが誰か一人でも欠けると寂しく感じられた。

“家族崩壊”が叫ばれて久しいが、家族揃って食卓を囲む習慣がめっきり少なくなっていると聞いている。
この「朝はどこから」には“家族”にとって大切な事が含まれているような気がする。

《“あいまい”のすすめ》

2009年03月18日 | Weblog
“私、はっきりしないと気がすまないのよ!”
などと息巻いても、物事は“明確にしない”方が“好い結果”を生む場合が多い。

論理的な思考で結論を得ようとしても必ずやどこかで断消えになり、再び“ぼんやり”と化しどこかに消え去ってしまう。
結論を出さない“曖昧模糊”の状態の方がずっと平和で平穏な事はよくある。

◆「毎度、馬鹿 馬鹿しい 話を一席」

父親が子供を寝かせつけるためにお話をしてあげました。

むかし むかし ある所に お爺さんとお婆さんがいました
お爺さんは 山へ芝刈りに お婆さんは 川へ洗濯に行きましたとさ
お婆さんが 川で洗濯をしていると 川の向かうから
どんぶりこ どんぶりこ と大きな桃が流れて来ました

その子は 桃から生まれたので 桃太郎と名づけました
やがて桃太郎は大きくなり・・・・

お馴染みの桃太郎のお話し

子供:「父ちゃん! 昔々って一体いつ頃のことなんだい?」
父 :「そんな事言ったってよー 昔から“昔々なんだよ!”」
子供:「そりゃないよ
そんなに細かくなくたっていいけど
平安時代とか鎌倉時代
安土桃山の時代とか
その位の目安が無くっちゃさ
ただ 昔々では見当もつけられねぇよ。
それに“ある処に”って一体どこだよ。
これだってさ 信濃の国とか、越後の国くらい判ったってイイじゃないのか。
それにお爺さんとお婆さんの名前は?

父:そんものどうだってイイじゃないか?
名前なんぞ オメェが勝手に想像していればいいじゃないか!

子供:そういうわけにはいかネェよ
いくら大昔でも“権兵衛”だの“おきぬ”位の名前は付いていた筈だよ。
それにしても桃太郎はちゃんと出生届けを出したのかな?
出生届は生まれて2週間以内に出すことになっているようだが
桃太郎は一体誰の子だったのかい?
それとも私生児かい?
認知もされないで“非嫡出子”だと後々めんどうだよ。気の毒だよ。

父:息子の話を聞きながらいびきをかいて眠ってしまった
子供:全く世話のやける大人だよな

数十年前に新宿「末広亭」で聞いた落語を“記憶の範囲で再現してみたのですが、かなり遠い記憶なので辻褄を合わせる為に私が脚色しています。

◆やはり
“むかし むかし”
“ある処に・・・”
“おじいさんとおばあさんがいました”
この方がずっと良い。

◆“のだめカンタービーレ”の漫画版はとても楽しくワクワクして読んでいました。
主人公の“野田めぐみ”は舌足らずの話し方、部屋の整理整頓が苦手。
でも憎めない、愛らしい女の子の印象に映っていました。
テレビ・ドラマ化されて、このキャラクターを俳優が演じてしまうと途端に魅力が失せてしまいました。
決して俳優の“演技がどうの?”との問題ではありません。

《6thと13thの違い》

2009年03月15日 | Weblog
掲示板上の疋田文五郎さんからの質問をブログにて回答させていただきます。

<Question>
6thの表記についての質問です。
以前、6thはトニックにでしか表記しない、と先輩から聞いたことがありました。サブドミやドミナントでは13thと表記しないといかん!と・・・。ところが、最近のポピュラーの譜面には、ときおり、区別の無い表記が見受けられます。どちらでも分かればいいのですか?

<Answer>
私にも詳しくは判りませんが、表記する側がその区別の認識が“有る/無い”かの問題でもあり、どんなコードのタイプにも“6thの付加和音”は可能であり得ると考えます。ポピュラーの音楽においては理論的な根拠より“よければイイ”的な傾向も見受けられ(一部の人に)事と、コード・ネームの表記が統一されていない部分もあり明確な使い分けがされない印象があるのではないでしょうか?
その為に様々な表記が存在し余計に惑わせることにもなっている。

◆“6thと13th”は別だと思います。
原則として
G6ではG(GBD)の3和音に対して6th(E音)が付加された場合と言うことになりますが、
G13ではG7(GBDF)、つまり7thが必ず含まれてることを前提にしている。
Sub Dominantも同様ですが(Ⅳ+6)の表記は“Ⅱm7の展開形”の場合だったりもします。

◆確かに鍵盤上では“6thと13th”はオクターブを越えても同じ音になりますが、理屈で考えてみると“13th は7th以上”の上に、“6thは7th以下”に配置され、“13thはOctave 以上の高い位置”なので緊張感が強く“6thではRootに対して長6度”なので協和音程という事になる。

◆例:G→Gaug→G6→G7

この場合の“G6”は3和音(GBD)の5thが“完全5度→増5度→長6度→短7度”であって“G6と13th”とは違う事が理解できると思います。

*結論 私の経験ではどの様なコードのタイプにも“6th”は調和するが“13th”はそうはいかない場合が多々あり、また“6thと13th”では分けて考えています。

.《話す!》

2009年03月15日 | Weblog
“話す”ことに関しては全くの素人の私ですが以前から気になっていることがあります。

◆「・・・・と思います」の引用がうんざりするほど多く、しかも使い方が“ちょっと違うんでないの?”と感じるのです。

・「それでは始めたいと思います」
・「次にいってみたいと思います」
・「この辺で終わりたいと思います」
・「頑張りたいと思います」

◆“等々”を「とうとう」ではなく「などなど」と言って欲しい。
漢文ではなく日本語読みで、あるいは口語体で。

◆もし裁判に参加した場合、普段はよくしゃべる私ですが“ディベート”の訓練を全く積んでいません。裁判がどのように進行するのかは分かりませんが、周囲に呑まれないで自分の意見を的確に語れるかは想像するととても不安になります。その時点で判断するのは慣れていません。その場では考えがまとまらず翌日になってしまったのでは意味がなくなるのでしょうから。

◆世界に恥をさらしてしまった“中川昭一氏”。彼は一月程前の国会の席で原稿読みの中に“26箇所もの読み違い”を指摘され野党議員だけでなく所属する党の議員の中からも、“大臣としての資質”を問われていたのですが、今回の“酔っぱらい記者会見”で辞任したことでこの“誤読事件”は消え去ってしまいました。

*私の故郷の選挙区出身だけに鈴木宗男さんと共に気になるのです。

原稿は自分で書くのではなく役人が作成した文章を読み上げるので余計に誤読が起き易いのでしょう。それにしても、もし役者ならば事前に台本を読み、しっかり練習した上で臨むのが当り前なのに、誤読の上に無機質な朗読では決して人の心に響くような説得力が出てくる筈がない。

議会と言っても何かを討論する場ではなく“質問する側/答弁する側”の両者ともにすでに配布済みの“台本の朗読”らしいが、この事は国会に限らず全国自治体も同様に“形式化してしまった議会”として問題視され始めている。先日はその例として“北海道道議会”が槍玉にあがっていましたが“時間の節約”“スムーズな進行・運営上”との理由かららしいが、事前にしっかりと原稿読み上手に演技をしてみてはと希望するのですが、議員にとっては“忙しくてそんな時間は無い”と言うことになのでしょうか?

◆音楽では台本が楽譜に当たりますが、“何でもアリ”のジャズやポピュラー音楽の世界では“2拍子を3拍子に”でも“遅い曲を速く演奏”しても何のお咎めもありませんがクラシック音楽となるとそうはいきません。

随分以前に“ブーニン”の弾くワルツについて「あんな速いテンポではワルツではない」と酷評された事もありましたが今聞いてみるとそれほど速いとは感じません。
同じ楽譜でも時代によって、演奏者によってさまざまな解釈が為されますが、少なくとも“他人はどうやっているのか?”は最低限は知るべきでしょう。
「時間が無い!」では済まされず楽譜と向かい合い“たっぷりと”、“ゆったりと”時間をかけ熟読の上で“どのように弾こうか”を考えたい。
代議士の“台本の棒読み”の様にはならぬように。

《知的所有権》

2009年03月11日 | Weblog
ネットの世界では違法な楽曲が“垂れ流し”の状態らしい。
今朝のニュースでこれら“著作権を無視したダウンロードに対する規制が厳しくする”とのことが報じられていました。

一般の方々には自分の好きな曲を歌ったり、演奏したり、聞いたりすることに“なぜ課金されるの?”かは理解しにくいかもしれません。
しかし、偽者ブランド、コピーキャラクターの盛んな中国をどう思われますか?

自分の持っている楽譜を他の人にコピーして渡すことは決して“親切”ではなくそれは“犯罪”なのです。

本になった楽譜では1冊の中の全てを気に入っているのではなく、その中の数曲だけが必要なのだけかもしれない。
CDも同様に全曲が気に入っていると言うより、“何曲かだけが気に入っている”のだから他の曲はなくてもいい。そんな考え方からなのか?
或いは“I-POT的”なものの普及からかCDの売り上げは極端に下がっている。

ママさんコーラスなどで使われる楽譜は“1部だけ購入”してメンバーにはコピーして配布するという(つまり30部売れる筈の楽譜が1部の購入で澄んでしまう)。

一般の方には楽譜のコピーの違法性に対する(著作権侵害)意識は全くないのだから、この事は指導する立場の方が同じ音楽を創る側の立場に立ち、しっかりと認識し指導していく義務と責任があるのではないだろうか?
そうしない限り“コピーは違法”の認識は普及していかないでしょう。

私のコンサートでは(2時間位の長さ)では毎回1.5~3万円を支払っています(演奏曲目によって違いがあります)3万円だとしたら3,000円の入場の場合10人分が著作権使用料になります(10%に当る)
これは演奏者ではなく主催者が支払うのですが、100 人位の規模のコンサートでは結構大きな負担になってしまいますが、必要経費としてしっかり認識していただくように主催者に説明しています。

この知的所有権は音楽に限らずパソコンのソフトも同様です。
私が頻繁に使用する“楽譜書き”、“デジタル録音用”のソフトはすでにコピーは簡単には出来ない仕組みや、特定のパソコンでの使用に限られたり厳重な仕組みがとられています。

“形の無いモノに対する対価”については長々しく説明が必要になるが“制作者側”“創作者側”としてはこのコピー文化は堪らない暴挙にすら感じてしまいます。

中国のコピー文化をどう思いますか?
ブランド品から始まり、電気製品から、キャラクター商品、映像音楽などあらゆる分野において物まねをし、完全に無視されてしまうのを我々にはどのように映るのでしょうか?
知的所有権も含む特許など著作権使用料も消費税のようにすんなりと、当然の事として“守る”、“侵してはならない”認識が浸透してこそ“質の高い文化”と言えるのではないでしょうか?

《コード・ネームの限界》

2009年03月11日 | Weblog
ポピュラー音楽では一般的に使われている便利な“コード・ネーム”ではありますがこれにも限界があり万能という訳にはいきません。

◆まず“コード・ネーム”は長音階上の各音に3度の音程を堆積した場合の和音記号ですから、4 度や5度・2度を堆積した和音には通用しません。
この点では、随分以前に4度堆積した和音をコード・ネームとして表記する工夫があったのですが未だ普及はしておりません。

3度音程ですから基準の音(根音)から“3rd-5th-7th”の音程のタイプを表現していることになります。

Root→3rd :短3度/長3度
Root→5th :減5度/完全5度/増5度
Root→7th :短7度/長7度/ 減7度


また構成音のみを表していてどのように転回するかは演奏者に任されていることになりす。

G7では(中央ハ音を中心にして)

・ソシレファ(GBDF)
・シレファソ(BDFG)
・レファソシ(DFGB)
・ファソシレ(FGBD)

いずれも同じコードですが転回の仕方によって響きにかなりの違いを感じるものです。

そこでメロディーやバスの流れの関係から転回形までより細かく指定する場合が多く見受けられる様になりましたが、その書き方は統一はされていないので種種な書き方に出会うことになります。

・C7 on G
・C7/G
・C7 bass G

さらにベース・ラインに加え“C add D”などの様にサウンドの指定や“C/D”のようにポリ・コードまで表現するようになっています。

◆ジャズの世界では“完全4度の堆積”は頻繁に聞かれますが、3度の堆積から生まれた“コード・ネーム”で何とか表現しようとするためなのか“C7 sus ”の書法を多く見受けるのですが“Suspend 4”はC7の3rd を 4th に吊上げる意味を持ちますが、ジャズの世界では“C音上”に3度ではなく機械的に4度を重ねているので、見かけ上は同じ音でも意味が全然違うと思います。

◆2度で堆積した和音、例えば“Cの3和音(C/E/G)と半音上のD Flat(D flat/F/A flat)の3和音を同時に重ねた、いゆるクラスターコード”も5線上には書けるが“コード・ネーム”では表現しにくい。

◆さらに同じ和音でも転回形だけでなく開離和音か密集和音かでは同じ和音とは思えなくらい違って聞こえます。 さらにジャズのスタイルでは7th以上に3度堆積した音(9th/11th/13th)も加わり演奏者によってさらなる個性がでてくる。

◆このようにシンプルに判りやすく表現する方法として、また演奏者に自由度を与える為に工夫された“コード・ネーム”もだんだんと複雑化していますが、5線上に音符として書いたり巧みに使い分けて表記されている。

◆クラシックにおける“通奏低音”も譜面の簡略化の為に考案された様ですが、当時は素人が鍵盤楽器を弾くことは無く、相当に訓練された音楽家のみが演奏していたので、相当和声に通じさらに読譜力がなくては演奏することは出来ない記号でもあります。もし興味ありましたら楽譜屋さんでご覧になってください。

最後に

D  /   DonC# / |Bm Bmon A AonG |G EonG# A AonG |
F#dim F#onE D#dim B7 |Em EmonD AonC# A |D AonC# Bm E7|A Bm E7 A /|

実に美しいベース・ラインですが私にはこの様な“コード・ネーム”は暗号にすら見えてきます。“コード・ネーム”と共にベース・ライン(転回形)は音符で書いてくれると視覚的にも直感的にイメージが描けるのですが?

《四声体の和声楽》

2009年03月07日 | Weblog
疋田文五郎さんから『“四声体の授業”という言葉がわかりません。教えていただけると嬉しいです。』との質問に対してお答えいたします。

◆<Answer>
四声体和声とは、
・ソプラノ
・アルト
・テナー
・バス

の4つの声部による和音の配分と連結に関する技術で和声楽ともいいます。
四声体和声を学ぶことで合理的かつ効率的に編曲・作曲の作業が可能となります。
実際には声部は4声以外に“2声,3声,5声,6声,7声,8声”やオール・ユニゾンなど音の重ね方は様々ですが、すべて四声体を基本に説明することが可能になります。
また、ジャズ・ポピューラの音楽に於てもこの四声体を拡大解釈したり応用したりなので渡辺貞夫さんの「ジャズ・スタディー」も、この和声楽の理論で説明をすることが可能と思います。

ただし、各声部の連結に際して“ジャズでは各声部の横の連結よりも縦”つまりその一瞬一瞬の響きを、対して“四声体和声楽”では各声部の横の流れ(連結)”を重視しているように感じられます。これは私の少ない経験の中での感想と思ってください。

作曲・編曲の場合にはこの知識が無いと非常に効率悪く、またその勉強の大半はこの“和声楽”に充てられことになります。この関連書籍は数多く出版されていますのでその気になれば勉強するには事欠きません。しかし乍ら独習はかなり困難と思えます。

この和声の授業はソルフェージュと並んで、すべての楽器奏者に必修の科目とされていますが、現実には問題点が多いようです。
まづ楽器の中でも“まるで理論を視覚化したかのよう”な鍵盤楽器のピアノはとても有利に(理解が容易)思えるのですが、日本でのピアノ教育は幼少から含めて、弾く経験しかなく、和声学には音楽関係の学校で初めて対面することになる場合が多いらしい。結局その授業を受けてもチンプン・カンプンでこの実情を外国の教師には異様に映るらしいです。
ピアノは弾く技術だけでなく様々な要素を含んだ視野の広い教育が望まれる。





《急がば回れ》

2009年03月05日 | Weblog
最近ではクラシックを専門にしている音楽大学でもコード・ネームの知識を授業に盛り込んでいる場合が多いと聞いています。
この“コード・ネーム”は発祥の地アメリカではなんと“コード・シンボル”が一般的な呼称のようです。もちろん“コード・ネーム”でも通じますが。

この“コード・ネーム”はポピュラーの音楽の世界ではジャンルを問わず、またプロ・アマ問わず広く普及していますが、和音を記号で表す方法としてとても便利に思います。いわばハーモニーを速記の方法で表現するこの方法は遠くはクラシックの世界での“通奏低音”にあったのですが。

ギターならば“コード・ネーム”をフォームに置き換える事で、その和音の構成音を理解、あるいは意識しなくともコードをリズミックに刻むだけで立派に伴奏として成立してしまいます。

ところがピアノ(鍵盤楽器)ではやや勝手が異なり、“音程”の知識が無いと初歩的なスタイルは別としてもコードで演奏することは困難になります。

そこでこの必修となる“音程の覚え方”ですが常に「長音階を基準に」考える習慣を身につける事が便利なのに、そうは教育されていない場合が多く、ここでつまずく方がとても多いのが気になります。

「長音階を基準に」とは“音程は音階で考える”と言うことです。
(短調の場合には“短調は長調の変形”と考えます)

例えば
“F音→H音”の音程を考える場合には
①ヘ長調の音階を思い描く
②“H音”はヘ長調の音階の“4番目の音(完全4度)が半音上がった音”なので“増4度”

“F音→H音”の間に“半音が幾つ?”で“全音が幾つ?”などと指で数えてしまう事がよくないのです。残念乍らそういう方がなんと多いのかと嘆いてしまいますが、“コード・ネーム”の場合に限らずせっかく受けた“四声体の授業”でも本来同様な筈なのです。

・「だれにも分かるコードブック」
・「目で見るコードブック 」

などの類いの本が巷にたくさん出まわっていますが、初心者に分かりやすく解説しようとの意図かもしれませんが、それでは解決はできないと思います。
“原理原則を理解”し“それなりに時間をかけ”じっくりと体に染みつかせることの方が遥かに近道であり、あなたのアイデアを発展させられるようになるものです

“急がば回れ!”の如く“長音階を基準に”音程を考える習慣に切り替える事で容易に解決されるのです。