◆日本史の年表を見ていると“縄文式時代と弥生時代”にクッキリと線が引かれている。あたかも「縄文人間の人達が様々な智恵を身につけ、技術を進化させて弥生式文化を創り出した・・・」と錯覚してしまいがちですが、実は「鉄をつかう弥生式の人達が、縄文式の中に入り込んて来た!」というのが真相でしょう。
つまりは弥生式文化は“渡来人”とでもいうのでしょうか? 大陸から渡ってきた“鉄を使う”文化の便利さが縄文文化の間に広まったのではないでしょうか?
◆日本の統治が将軍から天皇に変わった時、その翌日から武士が完全に居なくなったのではと思っていたら、そうは簡単にいかなかったことが“映画「ラスト・サムライ」”で描かれていました。そうなると明治政府が落ち着くまでには実は何年もかかったとなると“明治維新”とはいつの頃を指すのでしょう?
◆クラシック音楽の世界で“古典派・ロマン派・近代/現代の作品から一曲づつを選曲して演奏しなさい”などの課題を与えられる事があります。
この場合も深く考えると分からなくなる事があります。
作曲家の生まれた年代だけできっぱりと線引きする訳にはいかず、その音楽的特徴は時代よりも個人的な“音楽スタイル”あるいは“個性”の違いによる部分が大きいのです。
例えば“バッハ”と“ドビューッシー”では音楽のスタイルに明確な線引きができるかもしれないが“ベートーベンとモーツァルト”とでは時代も近いせいか内容の違いよりも“個性の違い”の方が大きく感じられのです。
“ラフマニノフ”には20世紀の音楽家にもかかわらず“ロマン派”の香りがぷんぷんと匂ってきます。
◆“ポピュラー音楽”になると更に細分化され、覚えきれないほどのおびただしい分類表が出来上がります。
すっごく気にいっているの!
クラブ風で・・・
どちらかというと癒し系・・・
それでいて一寸ばかりロックぽいの!
そうそう民族っぽい感じもする!
この会話でどんな音楽なのか想像できますか?
◆先日ホステスのいるクラブへ飲みにいきました。
こういう店に行く習慣のない私は少々戸惑うのですが、まづは“血液型による性格分析”。
「血液は何型ですか?」とさっそく聞かれた。
「AB型です」と応えると「うーん やっぱり!」
何が“やっぱりなのか?”判りませんが、4種類しかない血液型で性格が分類できるほど人間は単純ではないと思っていたのですが、「いや! もしかしたら一種類しか無いのでは?」と急に思い始めたのです。その瞬間に僅かな判断の違いはあるものの、大部分は共通部分が認められるほど本質的に人間同士には大して違いはないのではと思いはじめたのです。
分類したり分析することで恰も何かが分かったような気にさせられるけれど、実際は何一つ言い当てていないし、明確になったわけではない。
特にこれだけ世界中に多くの経済学者が存在するのに、この流れをコントロール出来ず、ただただ“不景気だ!”“不安な未来が予測される”などと語っているだけで何もできないでいる事はとても不思議な現象として映る。
つまりは弥生式文化は“渡来人”とでもいうのでしょうか? 大陸から渡ってきた“鉄を使う”文化の便利さが縄文文化の間に広まったのではないでしょうか?
◆日本の統治が将軍から天皇に変わった時、その翌日から武士が完全に居なくなったのではと思っていたら、そうは簡単にいかなかったことが“映画「ラスト・サムライ」”で描かれていました。そうなると明治政府が落ち着くまでには実は何年もかかったとなると“明治維新”とはいつの頃を指すのでしょう?
◆クラシック音楽の世界で“古典派・ロマン派・近代/現代の作品から一曲づつを選曲して演奏しなさい”などの課題を与えられる事があります。
この場合も深く考えると分からなくなる事があります。
作曲家の生まれた年代だけできっぱりと線引きする訳にはいかず、その音楽的特徴は時代よりも個人的な“音楽スタイル”あるいは“個性”の違いによる部分が大きいのです。
例えば“バッハ”と“ドビューッシー”では音楽のスタイルに明確な線引きができるかもしれないが“ベートーベンとモーツァルト”とでは時代も近いせいか内容の違いよりも“個性の違い”の方が大きく感じられのです。
“ラフマニノフ”には20世紀の音楽家にもかかわらず“ロマン派”の香りがぷんぷんと匂ってきます。
◆“ポピュラー音楽”になると更に細分化され、覚えきれないほどのおびただしい分類表が出来上がります。
すっごく気にいっているの!
クラブ風で・・・
どちらかというと癒し系・・・
それでいて一寸ばかりロックぽいの!
そうそう民族っぽい感じもする!
この会話でどんな音楽なのか想像できますか?
◆先日ホステスのいるクラブへ飲みにいきました。
こういう店に行く習慣のない私は少々戸惑うのですが、まづは“血液型による性格分析”。
「血液は何型ですか?」とさっそく聞かれた。
「AB型です」と応えると「うーん やっぱり!」
何が“やっぱりなのか?”判りませんが、4種類しかない血液型で性格が分類できるほど人間は単純ではないと思っていたのですが、「いや! もしかしたら一種類しか無いのでは?」と急に思い始めたのです。その瞬間に僅かな判断の違いはあるものの、大部分は共通部分が認められるほど本質的に人間同士には大して違いはないのではと思いはじめたのです。
分類したり分析することで恰も何かが分かったような気にさせられるけれど、実際は何一つ言い当てていないし、明確になったわけではない。
特にこれだけ世界中に多くの経済学者が存在するのに、この流れをコントロール出来ず、ただただ“不景気だ!”“不安な未来が予測される”などと語っているだけで何もできないでいる事はとても不思議な現象として映る。