プロコフィエフの日本滞在日記

1918年、ロシアの若き天才作曲家が、大正期のニッポンで過ごした日々

敦賀上陸

1918-05-31 | 日本滞在記
1918年5月31日(旧暦18日)

 朝、甲板に出ると、もう敦賀に近づいており、両側に高く険しい山並みが見えた。残念ながらこの日、日出づる国では、日は雲に隠れていた。緑豊かで険しい山々は、我々にとっては珍しく、山の下にはおもちゃのような小さな村々が見えた。敦賀では警察の取調べに長時間悩まされた。行き先は、目的は、身分は、父親の身分は、知り合いは、所持金は……等など。そのうえ君主制の原則で、まずは一等クラスから始め、次に二等だ(ロシアなら三等クラスから始めるのに)。そのため一等船客の数人だけが、東京行きの特急列車に間に合った。私はといえば、午後一時の郵便車両つき列車で行くはめになった。日本の地を踏んで、私は特別な満足感を抱いている。いつものことだが、外国に出ると新しい多くのことを期待する。今、監獄のようなロシアのあとで、戦争も革命もない、花咲き匂う国にやってきたのは、ヴァカンスのようなものではないだろうか?

 私は敦賀周辺の草木が生い茂る山を散策し、空想をめぐらせた。その後、日本人が引くリキシャという二輪車で駅に向かった。人に運ばれるのは恥ずべきことだが、その男は乗ってくれと懸命に頼み、私が乗ると大喜びしたので、20分走って40銭の稼ぎを得るのも当然に思えた。列車は最初、ロシア人でいっぱいだった。それから一時間後、東京行きの直通列車に乗り換えると、洒落た一等車は広々として乗り心地がよく、しかもこのおもちゃのような列車は、時おり本物のイギリスの特急列車のように猛スピードで走った。私は自分が日本に魅了されるとは思ってもいなかったし、シベリア東部を占領しようとする日本人に少し腹を立ててさえいた。しかし、日本のように素晴らしい国は見たことがないと言わねばなるまい。魅惑的な険しい緑の山々が、ちっぽけな四角に区切られ、かくも愛情こめて丹念に耕された田畑と交互に続いている。まったく、土地問題を抱える我ら同志諸君は、日本をひと巡りしたほうがよかろうに!

鳳山丸

1918-05-30 | 日本滞在記
1918年5月30日(旧暦17日)

 よく眠れなかった。船室が狭いからだ。なにしろ四人部屋にプラス子供二人鳳山丸は2340トン、速度12ノット。海は穏やかで、霧が深い。オホーツク海からの冷たい海流が、黒潮の暖流と交わり、そこから蒸気がたちのぼっているのだ。そのため気温が一日のうちに、冷涼から温暖へと瞬く間に変わった。夕方にかけての変化は素晴らしかった。暖かく、上天気になった。暖かい海に入ったのだ。

 気分がよく、夢見るようだ。夜は物語の結末を考え、星を眺めた。


出航

1918-05-29 | 日本滞在記
1918年5月29日(旧暦16日)

 船のキャビンは事前に割り当てられていたが、コネで二等クラスを手に入れた。三等クラスでもしかたがないと思っていたので、大層嬉しかった。しかし日本円がひどいことになり、乗る直前になって5ルーブル60カペイカ! つまり1ドルが11ルーブル20カペイカ……最悪だ。私が両替したのは2500だけ、残りは帽子の中にある。船上で検査されて逮捕されるのではないかと不安だったが、何事もなし――カバンも開けられなかったし、何ひとつ尋ねられることもなかった。おかげで船が岸を離れても、本当に困難を脱したとはまだ信じられずにいた。船の士官と話をしているうちに、もう3マイルだ。

 そんなわけで、さらば、ボリシェビキよ! さらば、同志諸君よ! これからはネクタイをして堂々と歩けるし、誰にも足を踏まれなくてすむのだ。

日本ビザ入手

1918-05-28 | 日本滞在記
1918年5月28日(旧暦15日)

 ビザが手に入った。新聞社の編集者が私のために明日の船の切符を手配し、円を両替してくれることになったが、円が高騰してなんと5ルーブルになってしまった。こともあろうに私が来たとたんに! そこでお金を半分に分けることにした。半分で円を買い、残りの半分は帽子の裏地の下に隠して、こっそり持ち込むのだ。税関の検査は厳しくないという話だから。
 小説は着々と進んでいる。今日書き終わると思ったが、頭が痛くなりそうな気配なので、最後の章で筆を置いた。

 タガンログの友へ。

「愛するボリス〔ボリス・ヴェーリン〕君、日本のビザも日本の円も、みんな手に入りました。明日の正午、鳳山丸に乗り、二日後に横浜に着きます。さらばロシア、さらば古き夢よ、新しい国よこんにちは! S.P.」

戦艦朝日とオリョール号

1918-05-27 | 日本滞在記
1918年5月27日(旧暦14日)

 今日は日本海海戦十三周年の日。それにしてもウラジオストックの港に戦艦朝日と、その朝日に拿捕された軍艦オリョール号が、今や両船とも日本の警備艇として並んで停泊しているのを見るのは妙なものだ(そのうちにウラジオストックを占領するのではないだろうか?)。

「夢」の話をかなり楽しんで書き、《Какие бывают недоразмения(誤解さまざま)》とタイトルをつけた。だいぶ前から、舞台はノルウェー、主人公は堅物の技術者……という設定で真面目な調子で書こうとしてなかなか書けなかったが、もっと冗談めいた調子をつかんでからは、たちどころに仕事がはかどった。

未来派の夕べ

1918-05-26 | 日本滞在記
1918年5月26日(旧暦13日)

 今日は自作の物語に取りかかった。「夢」をモチーフにした話を威勢よく書きだした。気分もじきにかなりよくなる。
 午後は競馬場に行った。バリモントの友人ヤンコフスキー夫人の馬が出場し、賞をとった。スタートの瞬間は面白かったが、一、二時間もすると、あとは退屈だった。

 地元の未来派の夕べに出席。彼らは本物の未来派のような活躍を目指しているが、その作品はずいぶん無邪気なものだ。私は地球議長、すなわち彼らの直接の指導部として喝を入れようとしたが(というのも本場イタリアの未来派には素晴らしい規律があるから)、はたして効果があったものか。

スペイン語

1918-05-25 | 日本滞在記
1918年5月25日(旧暦12日)

 気持ちが散漫で、あまり楽しくもない。友達もいれば音楽もあるロシアに残ったほうがよかったのかも。だが、こうした思いを抱くのも、ウラジオストックでのあてもなく虚しい滞在で気が弱くなっているせいだ。

 スペイン語を勉強している。600語はすっかり覚えた。

日本領事館

1918-05-24 | 日本滞在記
1918年5月24日(旧暦11日)

 最初の訪問――ビザをとりに日本領事のもとへ。このタチの悪い形式主義者ときたら、ビザの取得に五日もかかるという。日本人はロシアからボリシェビキやドイツのスパイが来るのを懸念しているのだ。領事いわく「おわかりでしょうが、そんなに簡単にビザを出したらビザの意味がないでしょう?」私が書類やら何やらを盾に強く言い張ると、ここで長々と話しているより、ビザに必要な写真を今のうちに撮りにいったほうが早いですよ、と領事はのたまう。この言い草は大いに不満だったが、スピード写真を撮りにバザールに出かけた。というわけで、水曜まで五日間ウラジオストックに足止めだ。キスロヴォーツクを出る時すでに、この旅は一筋縄ではいかないと予期し、トラブルにあっても冷静さを保ち、気を悪くしないと心に決めていたので、怒ってはいない。

 ウラジオストックは実に活気のある町で、カフェーが多く、そこにはペトログラードの人間がすっかり忘れてしまったような品物が溢れていた。ケーキにチョコレートに甘食パン、それに、本物の真っ白な、ダイヤモンドのようにサラサラの砂糖も好きなだけ手に入る。

ウラジオストック

1918-05-23 | 日本滞在記
1918年5月23日(旧暦10日)

 鉄道の旅、十六日目にして最後の日は、のろのろと過ぎていく。午後八時、ウラジオストックに着くとすぐに、賑やかなアメリカ風の数階建ての駅舎に降り立った。町は人で溢れていたが、私と隣席のモスクワ特派員は、なかなかいい部屋をとることができた。私は早速、手持ちの書類の効力を試そうと、電話をかけてみた。ドゥケルスキーは日本にいるが、かわりに地元最大の新聞社の編集者がすこぶる親切そうなので、その晩は彼のもとを訪ねる。

 日本行きの船は明後日になりそうだ。海外渡航の手続きはけっこう簡単なのだが(ロシアでは散々おどかされたのに!)、円が、円が……なんと2ルーブル70だったのが今や4ルーブル。またしても貧乏になった。

ハバロフスク

1918-05-22 | 日本滞在記
1918年5月22日(旧暦9日)

 ハバロフスクに来ようなどとは、考えたこともなかった。それにしてもハバロフスクは心地よい町だ。きれいな家々が並び、アムール川の小高い岸辺には中学生のデートにぴったりのロマンチックな公園がいくつもある。日常生活は古風で、人々の気分は反革命的だ。 

 午後二時、右に折れて南下し、ウラジオストックに向かう。とにもかくにもウラジオストックはキスロヴォーツク〔ロシア南部コーカサス〕と同じ緯度にある。英語の書類のおかげで個室がとれた。